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雨脚が昼前から強まり、鍛冶場の屋根を叩く音が鎚のように重く響いた。
「濡れがひどい。今日は炉を絞るぞ」
親方ユルゲンが火口を半ば閉じ、炭を抑える。湿気で煤が舞わず、逆に空気が沈んだ。
リリエルは前掛けを握りしめた。朝から胸の奥が重く、銀の匙も真鍮板も輝きを曇らせている。
「書状の返事、まだ届かぬか」
テオが手を止めて訊くが、リリエルは首を振るだけ。王都からの影は雨とともに膨らみ、彼女の気概を湿らせていた。
「焦る必要はない。あっちは山脈越えで足が遅い」
「足が遅くても追いつかれることはありますの」
その言葉が鉄より冷え、テオは返す言葉を探すより鎚を取った。
午後、炉の火は細く保たれたまま。クラリスが暖を取るための湯を運び、蒸気が井戸水の匂いを広げた。
「お嬢様、少し休まれては」
「いえ、帳簿の誤差が気になりますの」
リリエルは羽ペンを動かすが、インクだまりが広がるばかり。雨の音が脳裏で反響し、過去の嘲笑を呼び戻す。
――悪役令嬢。――毒薔薇。――打たれて散るだけの花。
ペン先が止まり、帳面に涙の跡が滲んだ。自覚した瞬間、肩が震える。
「帳簿に水染みが……ごめんなさい」
クラリスが慌てて手巾を差し出す。だがリリエルは笑えず、雨と涙の境目を失ったまま机に突っ伏した。
夕刻、親方ユルゲンが鎚を置き、テオを呼んだ。
「嬢ちゃんの心が錆び付いた。今夜は火を強めるぞ。贈り物を打て」
「贈り物?」
「心を鍛え直す鎚打ちは、鉄じゃなく言葉より硬いものだ」
ユルゲンの指差した鋼塊は、祭りで仕入れた最高質の炭素鋼だった。
「徹夜になるぞ」
「構いません」
テオの声が雨音とぶつかる。リリエルが背を向けた机で嗚咽を殺す頃、炉が再び咆哮を上げた。
夜半。鍛冶場の窓には水滴が延び、空気はあくまで鉄の匂いが勝った。リリエルは泣き疲れて身を縮め、火花の光だけをぼんやり見つめる。
テオの肩は汗と雨で濡れ、鎚は百回を優に超えて振るわれた。親方は無言で炭を差し、クラリスは湯を差し出した。
「あと十打で形が見える」
「なら九で仕上げる」
テオは歯を食いしばり、最後の一打を振り下ろした瞬間、炉の赤が白に変わるほど火花が散った。
黎明、雨は止まぬが雲は薄く、空がかすかに明るむ。テオは真紅に焼けた鋼を油に沈め、じゅっと音を立てた後、布に包んでリリエルの前に差し出した。
「起きてくれ」
リリエルは腫れた目を上げ、包みを開く。そこには細身の鎚――いや、小柄なハンマーがあった。握りやすい短い柄、面取りの丁寧な平面。柄尻には小さく炎と羽根の紋様が刻まれている。
「これは……?」
「嬢ちゃん専用の鎚だ。名を『燈(あかり)』と付けた。どんな夜でも火種を呼ぶ鎚だ」
リリエルは震える掌で柄を撫で、指が刻印に触れた途端、胸の重みがほどける感覚に息を呑んだ。
「私のために徹夜で?」
「鍛冶屋は火が呼べば眠らない。それだけさ」
「嘘つき。あなたの目は眠気より私を見ていた」
テオは照れ隠しに笑い、煤だらけの頬を拭く。
「涙で錆びる前にこれで叩け。噂も後悔も、全部火花に変えればいい」
リリエルは鎚を握りしめ立ち上がった。雨だまりに映る顔は、夜通しの涙跡さえ消え、炉の色を映している。
「叩くわ。私は鍛冶屋の見習いですもの」
「嘘つき。もう立派な鍛冶屋だ」
親方が笑い、クラリスが手を打つ。
屋根を打つ雨音はまだ続いていたが、鍛冶場の中では火花の音が勝っていた。リリエルは鎚『燈』を胸に当て、雨より熱い決意を吸い込んだ。
王都からの影ごと、赤鉄のように真白く鍛え上げてやる――そう誓いながら。
「濡れがひどい。今日は炉を絞るぞ」
親方ユルゲンが火口を半ば閉じ、炭を抑える。湿気で煤が舞わず、逆に空気が沈んだ。
リリエルは前掛けを握りしめた。朝から胸の奥が重く、銀の匙も真鍮板も輝きを曇らせている。
「書状の返事、まだ届かぬか」
テオが手を止めて訊くが、リリエルは首を振るだけ。王都からの影は雨とともに膨らみ、彼女の気概を湿らせていた。
「焦る必要はない。あっちは山脈越えで足が遅い」
「足が遅くても追いつかれることはありますの」
その言葉が鉄より冷え、テオは返す言葉を探すより鎚を取った。
午後、炉の火は細く保たれたまま。クラリスが暖を取るための湯を運び、蒸気が井戸水の匂いを広げた。
「お嬢様、少し休まれては」
「いえ、帳簿の誤差が気になりますの」
リリエルは羽ペンを動かすが、インクだまりが広がるばかり。雨の音が脳裏で反響し、過去の嘲笑を呼び戻す。
――悪役令嬢。――毒薔薇。――打たれて散るだけの花。
ペン先が止まり、帳面に涙の跡が滲んだ。自覚した瞬間、肩が震える。
「帳簿に水染みが……ごめんなさい」
クラリスが慌てて手巾を差し出す。だがリリエルは笑えず、雨と涙の境目を失ったまま机に突っ伏した。
夕刻、親方ユルゲンが鎚を置き、テオを呼んだ。
「嬢ちゃんの心が錆び付いた。今夜は火を強めるぞ。贈り物を打て」
「贈り物?」
「心を鍛え直す鎚打ちは、鉄じゃなく言葉より硬いものだ」
ユルゲンの指差した鋼塊は、祭りで仕入れた最高質の炭素鋼だった。
「徹夜になるぞ」
「構いません」
テオの声が雨音とぶつかる。リリエルが背を向けた机で嗚咽を殺す頃、炉が再び咆哮を上げた。
夜半。鍛冶場の窓には水滴が延び、空気はあくまで鉄の匂いが勝った。リリエルは泣き疲れて身を縮め、火花の光だけをぼんやり見つめる。
テオの肩は汗と雨で濡れ、鎚は百回を優に超えて振るわれた。親方は無言で炭を差し、クラリスは湯を差し出した。
「あと十打で形が見える」
「なら九で仕上げる」
テオは歯を食いしばり、最後の一打を振り下ろした瞬間、炉の赤が白に変わるほど火花が散った。
黎明、雨は止まぬが雲は薄く、空がかすかに明るむ。テオは真紅に焼けた鋼を油に沈め、じゅっと音を立てた後、布に包んでリリエルの前に差し出した。
「起きてくれ」
リリエルは腫れた目を上げ、包みを開く。そこには細身の鎚――いや、小柄なハンマーがあった。握りやすい短い柄、面取りの丁寧な平面。柄尻には小さく炎と羽根の紋様が刻まれている。
「これは……?」
「嬢ちゃん専用の鎚だ。名を『燈(あかり)』と付けた。どんな夜でも火種を呼ぶ鎚だ」
リリエルは震える掌で柄を撫で、指が刻印に触れた途端、胸の重みがほどける感覚に息を呑んだ。
「私のために徹夜で?」
「鍛冶屋は火が呼べば眠らない。それだけさ」
「嘘つき。あなたの目は眠気より私を見ていた」
テオは照れ隠しに笑い、煤だらけの頬を拭く。
「涙で錆びる前にこれで叩け。噂も後悔も、全部火花に変えればいい」
リリエルは鎚を握りしめ立ち上がった。雨だまりに映る顔は、夜通しの涙跡さえ消え、炉の色を映している。
「叩くわ。私は鍛冶屋の見習いですもの」
「嘘つき。もう立派な鍛冶屋だ」
親方が笑い、クラリスが手を打つ。
屋根を打つ雨音はまだ続いていたが、鍛冶場の中では火花の音が勝っていた。リリエルは鎚『燈』を胸に当て、雨より熱い決意を吸い込んだ。
王都からの影ごと、赤鉄のように真白く鍛え上げてやる――そう誓いながら。
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