王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

文字の大きさ
9 / 20

9

しおりを挟む
雨脚が昼前から強まり、鍛冶場の屋根を叩く音が鎚のように重く響いた。

 

「濡れがひどい。今日は炉を絞るぞ」

 

親方ユルゲンが火口を半ば閉じ、炭を抑える。湿気で煤が舞わず、逆に空気が沈んだ。

 

リリエルは前掛けを握りしめた。朝から胸の奥が重く、銀の匙も真鍮板も輝きを曇らせている。

 

「書状の返事、まだ届かぬか」

 

テオが手を止めて訊くが、リリエルは首を振るだけ。王都からの影は雨とともに膨らみ、彼女の気概を湿らせていた。

 

「焦る必要はない。あっちは山脈越えで足が遅い」

 

「足が遅くても追いつかれることはありますの」

 

その言葉が鉄より冷え、テオは返す言葉を探すより鎚を取った。

 

 

午後、炉の火は細く保たれたまま。クラリスが暖を取るための湯を運び、蒸気が井戸水の匂いを広げた。

 

「お嬢様、少し休まれては」

 

「いえ、帳簿の誤差が気になりますの」

 

リリエルは羽ペンを動かすが、インクだまりが広がるばかり。雨の音が脳裏で反響し、過去の嘲笑を呼び戻す。

 

――悪役令嬢。――毒薔薇。――打たれて散るだけの花。

 

ペン先が止まり、帳面に涙の跡が滲んだ。自覚した瞬間、肩が震える。

 

「帳簿に水染みが……ごめんなさい」

 

クラリスが慌てて手巾を差し出す。だがリリエルは笑えず、雨と涙の境目を失ったまま机に突っ伏した。

 

 

夕刻、親方ユルゲンが鎚を置き、テオを呼んだ。

 

「嬢ちゃんの心が錆び付いた。今夜は火を強めるぞ。贈り物を打て」

 

「贈り物?」

 

「心を鍛え直す鎚打ちは、鉄じゃなく言葉より硬いものだ」

 

ユルゲンの指差した鋼塊は、祭りで仕入れた最高質の炭素鋼だった。

 

「徹夜になるぞ」

 

「構いません」

 

テオの声が雨音とぶつかる。リリエルが背を向けた机で嗚咽を殺す頃、炉が再び咆哮を上げた。

 

 

夜半。鍛冶場の窓には水滴が延び、空気はあくまで鉄の匂いが勝った。リリエルは泣き疲れて身を縮め、火花の光だけをぼんやり見つめる。

 

テオの肩は汗と雨で濡れ、鎚は百回を優に超えて振るわれた。親方は無言で炭を差し、クラリスは湯を差し出した。

 

「あと十打で形が見える」

 

「なら九で仕上げる」

 

テオは歯を食いしばり、最後の一打を振り下ろした瞬間、炉の赤が白に変わるほど火花が散った。

 

 

黎明、雨は止まぬが雲は薄く、空がかすかに明るむ。テオは真紅に焼けた鋼を油に沈め、じゅっと音を立てた後、布に包んでリリエルの前に差し出した。

 

「起きてくれ」

 

リリエルは腫れた目を上げ、包みを開く。そこには細身の鎚――いや、小柄なハンマーがあった。握りやすい短い柄、面取りの丁寧な平面。柄尻には小さく炎と羽根の紋様が刻まれている。

 

「これは……?」

 

「嬢ちゃん専用の鎚だ。名を『燈(あかり)』と付けた。どんな夜でも火種を呼ぶ鎚だ」

 

リリエルは震える掌で柄を撫で、指が刻印に触れた途端、胸の重みがほどける感覚に息を呑んだ。

 

「私のために徹夜で?」

 

「鍛冶屋は火が呼べば眠らない。それだけさ」

 

「嘘つき。あなたの目は眠気より私を見ていた」

 

テオは照れ隠しに笑い、煤だらけの頬を拭く。

 

「涙で錆びる前にこれで叩け。噂も後悔も、全部火花に変えればいい」

 

リリエルは鎚を握りしめ立ち上がった。雨だまりに映る顔は、夜通しの涙跡さえ消え、炉の色を映している。

 

「叩くわ。私は鍛冶屋の見習いですもの」

 

「嘘つき。もう立派な鍛冶屋だ」

 

親方が笑い、クラリスが手を打つ。

 

屋根を打つ雨音はまだ続いていたが、鍛冶場の中では火花の音が勝っていた。リリエルは鎚『燈』を胸に当て、雨より熱い決意を吸い込んだ。

 

王都からの影ごと、赤鉄のように真白く鍛え上げてやる――そう誓いながら。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

いなくなれと言った本当に私がいなくなって今どんなお気持ちですか、元旦那様?

睡蓮
恋愛
「お前を捨てたところで、お前よりも上の女性と僕はいつでも婚約できる」そう豪語するカサルはその自信のままにセレスティンとの婚約関係を破棄し、彼女に対する当てつけのように位の高い貴族令嬢との婚約を狙いにかかる。…しかし、その行動はかえってカサルの存在価値を大きく落とし、セレスティンから鼻で笑われる結末に向かっていくこととなるのだった…。

あなたは婚約者よりも幼馴染を愛するのですね?

睡蓮
恋愛
ノラン侯爵はエリステルとの婚約を築いておきながら、自信が溺愛する幼馴染であるユリアとの時間を優先していた。ある日、ノランはユリアと共謀する形でエリステルに対して嫌がらせを行い、婚約破棄をさせる流れを作り上げる。しかしその思惑は外れ、エリステルはそのまま侯爵の前から姿を消してしまう。…婚約者を失踪させたということで、侯爵を見る周りの目は非常に厳しいものになっていき、最後には自分の行動の全てを後悔することになるのだった…。

なにをおっしゃいますやら

基本二度寝
恋愛
本日、五年通った学び舎を卒業する。 エリクシア侯爵令嬢は、己をエスコートする男を見上げた。 微笑んで見せれば、男は目線を逸らす。 エブリシアは苦笑した。 今日までなのだから。 今日、エブリシアは婚約解消する事が決まっているのだから。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...