6 / 20
第6話 抗えぬもの
しおりを挟む
春の祝祭を前に、教会は普段の静けさを忘れたみたいに慌ただしさを増していた。
朝の鐘が鳴り終わるより早く、回廊には足音が満ちる。司祭が短く指示を飛ばし、書記官は羊皮紙を抱えて駆け抜け、シスターたちは祭服の紐の緩みまで確かめて回る。香草の束が紐で括られ、礼拝堂の両端へ運ばれていくたび、甘い匂いが段々濃くなっていった。
私は祭壇の飾り付けを手伝いながら、今日の段取りを頭の中で何度も並べ替えた。
花の高さ、布の皺、聖具の位置。どれか一つでもずれると、祈りの線が波打つ。
司祭が近づき、手元を一瞥してから言う。
「ウィンダーミア嬢は聖水の補佐をお願いします。儀式中は祭壇の左側に」
左側――そこは、護衛騎士の立ち位置と近い。
胸がわずかにざわついた。
息を整えて頷くと、司祭はもう次の指示へ向かっていった。
私は聖水の鉢の縁を布で磨き直す。擦れた陶器の感触が、落ち着きを装った私の掌を現実へ引き止めた。
昼過ぎ、王都の中心から礼拝堂へ向かって、装飾車の列がゆっくり移動する音がした。高い窓の下を通る車輪の音は鈍く、石の床にまで響く。
政務室の廊下では、朝からずっと同じ言葉が往復している。
「北境の前哨から火急の伝令」
「雪代で渡河点、再計測」
「第七条、文言は“将来にわたり”で堅持」
「ルヴェリエ家の後見署名は夕刻までに」
断片的な声は礼拝堂の厚い扉で遮られ、祈りの準備の音に紛れた。
それでも、言葉の硬さだけは石を通って伝わってくる。
私たちの整える花や布は、あの硬さの上に敷かれるやわらかな層なのだと、ふと思った。
夕刻、飾花を終えて回廊に出ると、ニナが駆けてきた。三つ編みが肩で揺れる。
「アナベル、聖水の鉢、重いから二人で運ぼう。今日のは特大版だって」
「ありがとう。滑らせないように、布を一枚かませましょう」
私たちは鉢の底に麻布を敷き、両側を持って所定の台へ上げた。水面がわずかに揺れ、天井の星の模様を細かく刻んだ。
それを見ていると、不意に胸の奥が熱を帯び、昨日までの夜の回廊が脳裏を過った。
鎧越しの冷たさ、その奥の熱。
私は小さく首を振って、目の前の作業に意識を戻した。
夜が深まると、礼拝堂は再び静かになり、燭台の火だけが息をしていた。
明日の段取りを最終確認してから寮に戻ると、ベッドの白いリネンが思っていたより冷たい。
眠りは浅く、目を閉じれば色ガラスの破片のような光景がちらちらと浮かぶ。
番――その二文字を、心の中で何度かそっと撫でて、結局言葉にしないまま朝を待った。
翌日、儀式の朝。
鐘の音が昇るたび、空気が一段階ずつ澄んでいく。
大扉が開くと、参列者が入ってくる足音が重層的に礼拝堂を満たした。
色ガラスを透った光が、鮮やかな破片のまま床に降りる。
王族の席には、淡い紺の衣が並び、胸元の紋章が鈍くひかる。
香の匂いが濃くなり、喉の奥に甘みが残った。
私は聖水の鉢を抱え、決められた位置に立つ。
台にそっと据え直し、布の位置を整える。
正面には祭壇、その少し後ろ、視界の端に銀の鎧。
ルシアン。
目は合わない。
それでも、彼がそこにいることが肌でわかる。
鎧の金具がごく小さく鳴るたび、皮膚の下のどこかが呼応するみたいに疼いた。
聖歌が高く広がる。
音は天井をめぐり、やがて降りてきて私の肩に薄い布のようにかかった。
司祭の所作に合わせて、私は聖具を渡し、受け取り、台に戻す。
動きは覚えた通りに。早すぎず、遅すぎず。
自分の呼吸を歌の拍に合わせる。
それでも時折、拍の裏で別の鼓動が強く打つ。
儀式が進み、聖水を司祭に渡すため、一歩前へ出る。
台から鉢を持ち上げる。水面が月のように丸く震えた。
足先で布の端を踏み、滑らないように確かめて――
その瞬間、かかとが石目の浅い溝に引っかかった。
「――っ」
前のめりになる体。
聖水の鉢が、ゆっくりと傾いていく。
冷たい水面が縁を乗り越え、私の指先をかすめる――
こぼれる前に、手首を掴まれる。
強くも優しい力。
皮膚の上に載った掌の重さが、心臓の重さと同じ場所に落ちた。
触れた途端、金色の光が皮膚の下からあふれ出す。
それは本当に一瞬で、光は私たちの内側にだけ花のように開き、すぐに沈んだ。
周囲の誰にも見えない。
けれど、見えないものほど鮮やかに、身体の中では起こる。
視界の端が白く滲む。
聖歌の音が遠のき、鼓動の音だけが耳を満たした。
肌の奥から熱が押し寄せ、息が詰まる。
鉢を持つ指が震える。
こんな場所で――だめなのに。
彼の掌の下で、私の脈が勢いを増すのがわかる。
離れなければ。
理性が「離れろ」と叫ぶのに、身体は微かに指を強くしてしまう。
支えを求める反射。
それが衝動かどうかを考える余裕はなかった。
考える前に、熱が意味を決めてしまう。
「……!」
彼の指が、ほんの一瞬だけ震えた。
その震えは、私の震えと同じ速さだった。
次の瞬間、掴まれていた手が離される。
ほんの、刹那の遅れを伴って。
光は沈み、熱だけが残った。
私は何事もなかったように鉢を司祭に渡し、所作の流れに戻る。
腕の内側に残った温度だけが、儀式とは別の時間を刻み始めた。
司祭が祝詞を唱える。
言葉は古いが、意味は今のためにある。
王族の席の前で、香の煙が細く立ち上って消える。
私は決められた位置に戻り、次の所作を待つ。
足先の位置、肩の角度。
一つ一つを、忘れないように、忘れるように繰り返す。
目の端に銀の縁。
視線を動かさないようにするのは、思っていたより難しかった。
しばらくのあいだ、私は自分の呼吸の数え方を変えた。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
間に、半拍の空白。
空白に、熱が入り込む前に、次の拍を進める。
祈りは、音楽に似ている。
間を間のまま、通り過ぎることができれば、形は崩れない。
やがて、聖歌が静かにおさまって、最後の鐘が鳴った。
音は高いところで一度空気を揺らし、礼拝堂全体に薄く広がって消える。
参列者が退出を始める。
衣擦れ、靴音、誰かの浅い咳。
礼拝堂に人の音が戻ってくると、さっきまで私の身体の中にあった音は、少しだけ小さくなった。
儀式が終わり、人々が退出していく中、ルシアンは一度も私を見なかった。
私も、見なかった。
見てしまえば、何かが壊れるとわかっていたから。
でも――壊れない保証は、もうどこにもなかった。
保証という言葉は、紙の上の条文に似合う。
私たちの間にあるのは、紙ではない。
肌の下で一度光っただけの、名前のない紐。
それは、結び方も解き方も知らないまま、静かに存在している。
片付けのため、私は台の水滴を布で拭った。
聖水が一滴、石の床に落ちて、小さな円を作る。
円の輪郭が、じわりと広がって消えた。
それは誓いの輪のようにも、断ち切られた輪のようにも見えた。
目をそらすと、ニナが合図を送ってくる。
台の下の棚から新しい布を取り、彼女に渡した。
「さっきの、大丈夫だった?」
「何が?」
「足、溝に引っかけたでしょ。音がしたから」
私は一瞬遅れて笑った。
こんな時、笑うのは難しい。
でも、笑い方は身体が覚えている。
「大丈夫。ただの私の不注意」
「よかった。今日のは人が多かったから、気疲れもするよね……ほら、終わったら甘いものもらえるって。奥の部屋に焼き菓子の皿、見た!」
ニナの声はいつも通りで、救いだった。
私は頷き、布の角を揃えて畳む。
指の先に、まだ熱がわずかに残っている。
それは火傷のあとのように、触れれば確かにそこにあるのに、もう痛いとは言い切れない種類の熱だった。
参列者が完全に引き上げ、礼拝堂の扉が閉まると、内部は再び大きな静けさで満たされた。
光は斜めに傾き、色ガラスの影が床を長く横切る。
私は花台の水受けを空にし、布を絞る。
絞った水が桶に落ちる音は、さっきの鐘の最後の余韻と同じ高さだった。
聖具室に鉢を戻すと、司祭が短く労いの言葉をくれた。
「よくやった。落ち着いていた」
私は礼をし、部屋を出る。
回廊は人の気配が少なく、外の光だけが流れていた。
歩きながら、袖の上から手首を押さえる。
何も見えない。
ただ、脈がいつもより、少しだけ近い場所で打っている。
寮に戻る途中、政務室側の回廊を横切った。
まだ足音は途切れていない。
小走りの使者たちが、声を落としてやり取りをする。
「前哨の橋脚、補修予定を前倒し」
「条約はこのまま。婚姻条項で抑止を可視化――」
「ルヴェリエ家の……」
名前が、短く切れて遠ざかった。
紙の上の約束は、人の身体で支えられている。
さっきの私の掌や、彼の掌のように。
そう思うと、足がほんの少しだけ重くなった。
寮室に着くと、窓を開けた。
春の風は、朝よりも柔らかい。
遠くで荷車が軋む音と、露台で誰かが笑う声が混じる。
私は水差しの水で手を洗い、手首に冷たさを重ねた。
冷たさは、表面から順に沈んでいく。
沈みきる前に、皮膚の下から別の熱が戻ってくる。
まるで二つの季節が、同じ場所で入れ替わり続けているみたいだった。
ベッドに腰を下ろすと、リネンの皺が音を立てた。
目を閉じると、さっきの白い滲みがすぐに現れる。
彼の指の震え。私の指の震え。
同じ速さ。
同じ瞬間。
私はゆっくりと息を吐いた。
抗えない衝動と、それを押し殺す痛み。
どちらも儀式だった。
祈りの言葉に従って身体を動かす儀式と同じように、
私たちは自分で決めた形に、心を並べる儀式をしていた。
窓辺のカーテンが風に膨らみ、すぐにしぼむ。
膨らむ時に生まれる影は、手を伸ばせば触れられそうで、触れる前に形を変える。
読むことのできない祈り。
セレナ様の言葉が、ふいに胸をよぎった。
儀式の間、彼は一度も私を見なかった。
私も、見ないことを選んだ。
選んだことが正しかったかどうかは、まだわからない。
でも、選び続けなければ、形はすぐに崩れる。
祈りも、約束も、距離も。
夜が近づいて、光の色が少し冷たくなる。
私は立ち上がり、机に置いてあった小さな布包みを開いた。
母の形見の髪飾り。
金具の冷たさが指に移る。
髪に差すと、鏡の中の自分の輪郭が一段くっきりした。
掌を合わせる。
言葉にならない祈りを、言葉にしようとは思わなかった。
ただ、呼吸の数を数える。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
間に、半拍の空白。
その空白を、熱より先に通り過ぎる。
今は、それでいい。
今は、それしかできない。
明日も、祭壇の布は皺のないように。
鉢は滑らないように。
そして、私の心は、礼拝堂の光の下で崩れないように。
窓の外で、遠くの塔に風が当たる音がした。
春の祝祭は、まだ始まったばかりだ。
でも、私の春は、今朝とは違う形をしている。
抗えないものがある、という事実と、
それでも抗おうとする自分がいる、という事実。
その二つが、同じ胸に並んで座っていた。
朝の鐘が鳴り終わるより早く、回廊には足音が満ちる。司祭が短く指示を飛ばし、書記官は羊皮紙を抱えて駆け抜け、シスターたちは祭服の紐の緩みまで確かめて回る。香草の束が紐で括られ、礼拝堂の両端へ運ばれていくたび、甘い匂いが段々濃くなっていった。
私は祭壇の飾り付けを手伝いながら、今日の段取りを頭の中で何度も並べ替えた。
花の高さ、布の皺、聖具の位置。どれか一つでもずれると、祈りの線が波打つ。
司祭が近づき、手元を一瞥してから言う。
「ウィンダーミア嬢は聖水の補佐をお願いします。儀式中は祭壇の左側に」
左側――そこは、護衛騎士の立ち位置と近い。
胸がわずかにざわついた。
息を整えて頷くと、司祭はもう次の指示へ向かっていった。
私は聖水の鉢の縁を布で磨き直す。擦れた陶器の感触が、落ち着きを装った私の掌を現実へ引き止めた。
昼過ぎ、王都の中心から礼拝堂へ向かって、装飾車の列がゆっくり移動する音がした。高い窓の下を通る車輪の音は鈍く、石の床にまで響く。
政務室の廊下では、朝からずっと同じ言葉が往復している。
「北境の前哨から火急の伝令」
「雪代で渡河点、再計測」
「第七条、文言は“将来にわたり”で堅持」
「ルヴェリエ家の後見署名は夕刻までに」
断片的な声は礼拝堂の厚い扉で遮られ、祈りの準備の音に紛れた。
それでも、言葉の硬さだけは石を通って伝わってくる。
私たちの整える花や布は、あの硬さの上に敷かれるやわらかな層なのだと、ふと思った。
夕刻、飾花を終えて回廊に出ると、ニナが駆けてきた。三つ編みが肩で揺れる。
「アナベル、聖水の鉢、重いから二人で運ぼう。今日のは特大版だって」
「ありがとう。滑らせないように、布を一枚かませましょう」
私たちは鉢の底に麻布を敷き、両側を持って所定の台へ上げた。水面がわずかに揺れ、天井の星の模様を細かく刻んだ。
それを見ていると、不意に胸の奥が熱を帯び、昨日までの夜の回廊が脳裏を過った。
鎧越しの冷たさ、その奥の熱。
私は小さく首を振って、目の前の作業に意識を戻した。
夜が深まると、礼拝堂は再び静かになり、燭台の火だけが息をしていた。
明日の段取りを最終確認してから寮に戻ると、ベッドの白いリネンが思っていたより冷たい。
眠りは浅く、目を閉じれば色ガラスの破片のような光景がちらちらと浮かぶ。
番――その二文字を、心の中で何度かそっと撫でて、結局言葉にしないまま朝を待った。
翌日、儀式の朝。
鐘の音が昇るたび、空気が一段階ずつ澄んでいく。
大扉が開くと、参列者が入ってくる足音が重層的に礼拝堂を満たした。
色ガラスを透った光が、鮮やかな破片のまま床に降りる。
王族の席には、淡い紺の衣が並び、胸元の紋章が鈍くひかる。
香の匂いが濃くなり、喉の奥に甘みが残った。
私は聖水の鉢を抱え、決められた位置に立つ。
台にそっと据え直し、布の位置を整える。
正面には祭壇、その少し後ろ、視界の端に銀の鎧。
ルシアン。
目は合わない。
それでも、彼がそこにいることが肌でわかる。
鎧の金具がごく小さく鳴るたび、皮膚の下のどこかが呼応するみたいに疼いた。
聖歌が高く広がる。
音は天井をめぐり、やがて降りてきて私の肩に薄い布のようにかかった。
司祭の所作に合わせて、私は聖具を渡し、受け取り、台に戻す。
動きは覚えた通りに。早すぎず、遅すぎず。
自分の呼吸を歌の拍に合わせる。
それでも時折、拍の裏で別の鼓動が強く打つ。
儀式が進み、聖水を司祭に渡すため、一歩前へ出る。
台から鉢を持ち上げる。水面が月のように丸く震えた。
足先で布の端を踏み、滑らないように確かめて――
その瞬間、かかとが石目の浅い溝に引っかかった。
「――っ」
前のめりになる体。
聖水の鉢が、ゆっくりと傾いていく。
冷たい水面が縁を乗り越え、私の指先をかすめる――
こぼれる前に、手首を掴まれる。
強くも優しい力。
皮膚の上に載った掌の重さが、心臓の重さと同じ場所に落ちた。
触れた途端、金色の光が皮膚の下からあふれ出す。
それは本当に一瞬で、光は私たちの内側にだけ花のように開き、すぐに沈んだ。
周囲の誰にも見えない。
けれど、見えないものほど鮮やかに、身体の中では起こる。
視界の端が白く滲む。
聖歌の音が遠のき、鼓動の音だけが耳を満たした。
肌の奥から熱が押し寄せ、息が詰まる。
鉢を持つ指が震える。
こんな場所で――だめなのに。
彼の掌の下で、私の脈が勢いを増すのがわかる。
離れなければ。
理性が「離れろ」と叫ぶのに、身体は微かに指を強くしてしまう。
支えを求める反射。
それが衝動かどうかを考える余裕はなかった。
考える前に、熱が意味を決めてしまう。
「……!」
彼の指が、ほんの一瞬だけ震えた。
その震えは、私の震えと同じ速さだった。
次の瞬間、掴まれていた手が離される。
ほんの、刹那の遅れを伴って。
光は沈み、熱だけが残った。
私は何事もなかったように鉢を司祭に渡し、所作の流れに戻る。
腕の内側に残った温度だけが、儀式とは別の時間を刻み始めた。
司祭が祝詞を唱える。
言葉は古いが、意味は今のためにある。
王族の席の前で、香の煙が細く立ち上って消える。
私は決められた位置に戻り、次の所作を待つ。
足先の位置、肩の角度。
一つ一つを、忘れないように、忘れるように繰り返す。
目の端に銀の縁。
視線を動かさないようにするのは、思っていたより難しかった。
しばらくのあいだ、私は自分の呼吸の数え方を変えた。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
間に、半拍の空白。
空白に、熱が入り込む前に、次の拍を進める。
祈りは、音楽に似ている。
間を間のまま、通り過ぎることができれば、形は崩れない。
やがて、聖歌が静かにおさまって、最後の鐘が鳴った。
音は高いところで一度空気を揺らし、礼拝堂全体に薄く広がって消える。
参列者が退出を始める。
衣擦れ、靴音、誰かの浅い咳。
礼拝堂に人の音が戻ってくると、さっきまで私の身体の中にあった音は、少しだけ小さくなった。
儀式が終わり、人々が退出していく中、ルシアンは一度も私を見なかった。
私も、見なかった。
見てしまえば、何かが壊れるとわかっていたから。
でも――壊れない保証は、もうどこにもなかった。
保証という言葉は、紙の上の条文に似合う。
私たちの間にあるのは、紙ではない。
肌の下で一度光っただけの、名前のない紐。
それは、結び方も解き方も知らないまま、静かに存在している。
片付けのため、私は台の水滴を布で拭った。
聖水が一滴、石の床に落ちて、小さな円を作る。
円の輪郭が、じわりと広がって消えた。
それは誓いの輪のようにも、断ち切られた輪のようにも見えた。
目をそらすと、ニナが合図を送ってくる。
台の下の棚から新しい布を取り、彼女に渡した。
「さっきの、大丈夫だった?」
「何が?」
「足、溝に引っかけたでしょ。音がしたから」
私は一瞬遅れて笑った。
こんな時、笑うのは難しい。
でも、笑い方は身体が覚えている。
「大丈夫。ただの私の不注意」
「よかった。今日のは人が多かったから、気疲れもするよね……ほら、終わったら甘いものもらえるって。奥の部屋に焼き菓子の皿、見た!」
ニナの声はいつも通りで、救いだった。
私は頷き、布の角を揃えて畳む。
指の先に、まだ熱がわずかに残っている。
それは火傷のあとのように、触れれば確かにそこにあるのに、もう痛いとは言い切れない種類の熱だった。
参列者が完全に引き上げ、礼拝堂の扉が閉まると、内部は再び大きな静けさで満たされた。
光は斜めに傾き、色ガラスの影が床を長く横切る。
私は花台の水受けを空にし、布を絞る。
絞った水が桶に落ちる音は、さっきの鐘の最後の余韻と同じ高さだった。
聖具室に鉢を戻すと、司祭が短く労いの言葉をくれた。
「よくやった。落ち着いていた」
私は礼をし、部屋を出る。
回廊は人の気配が少なく、外の光だけが流れていた。
歩きながら、袖の上から手首を押さえる。
何も見えない。
ただ、脈がいつもより、少しだけ近い場所で打っている。
寮に戻る途中、政務室側の回廊を横切った。
まだ足音は途切れていない。
小走りの使者たちが、声を落としてやり取りをする。
「前哨の橋脚、補修予定を前倒し」
「条約はこのまま。婚姻条項で抑止を可視化――」
「ルヴェリエ家の……」
名前が、短く切れて遠ざかった。
紙の上の約束は、人の身体で支えられている。
さっきの私の掌や、彼の掌のように。
そう思うと、足がほんの少しだけ重くなった。
寮室に着くと、窓を開けた。
春の風は、朝よりも柔らかい。
遠くで荷車が軋む音と、露台で誰かが笑う声が混じる。
私は水差しの水で手を洗い、手首に冷たさを重ねた。
冷たさは、表面から順に沈んでいく。
沈みきる前に、皮膚の下から別の熱が戻ってくる。
まるで二つの季節が、同じ場所で入れ替わり続けているみたいだった。
ベッドに腰を下ろすと、リネンの皺が音を立てた。
目を閉じると、さっきの白い滲みがすぐに現れる。
彼の指の震え。私の指の震え。
同じ速さ。
同じ瞬間。
私はゆっくりと息を吐いた。
抗えない衝動と、それを押し殺す痛み。
どちらも儀式だった。
祈りの言葉に従って身体を動かす儀式と同じように、
私たちは自分で決めた形に、心を並べる儀式をしていた。
窓辺のカーテンが風に膨らみ、すぐにしぼむ。
膨らむ時に生まれる影は、手を伸ばせば触れられそうで、触れる前に形を変える。
読むことのできない祈り。
セレナ様の言葉が、ふいに胸をよぎった。
儀式の間、彼は一度も私を見なかった。
私も、見ないことを選んだ。
選んだことが正しかったかどうかは、まだわからない。
でも、選び続けなければ、形はすぐに崩れる。
祈りも、約束も、距離も。
夜が近づいて、光の色が少し冷たくなる。
私は立ち上がり、机に置いてあった小さな布包みを開いた。
母の形見の髪飾り。
金具の冷たさが指に移る。
髪に差すと、鏡の中の自分の輪郭が一段くっきりした。
掌を合わせる。
言葉にならない祈りを、言葉にしようとは思わなかった。
ただ、呼吸の数を数える。
吸って、二拍。吐いて、二拍。
間に、半拍の空白。
その空白を、熱より先に通り過ぎる。
今は、それでいい。
今は、それしかできない。
明日も、祭壇の布は皺のないように。
鉢は滑らないように。
そして、私の心は、礼拝堂の光の下で崩れないように。
窓の外で、遠くの塔に風が当たる音がした。
春の祝祭は、まだ始まったばかりだ。
でも、私の春は、今朝とは違う形をしている。
抗えないものがある、という事実と、
それでも抗おうとする自分がいる、という事実。
その二つが、同じ胸に並んで座っていた。
1
あなたにおすすめの小説
学園では婚約者に冷遇されていますが、有能なので全く気になりません。〜学園でお山の大将されてても、王宮では私の方が有能ですから〜
織り子
恋愛
王都カラディナにある国立魔術学園では、満十六歳の生徒たちの社交界デビューを兼ねた盛大なパーティーが開かれていた。
侯爵令嬢タレイア・オルトランは、婚約者である第二王子アスラン・オグセリアの迎えを待つも、結局ひとりで会場へ向かうことになる。
学園では身分の差がないとはいえ、アスランが公然とタレイアを侮辱し続けてきたことで、彼女は生徒たちから冷笑と蔑視の的となっていた。しかしタレイアは、王城で政務を担ってきた聡明さと矜持を失わず、毅然と振る舞う。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私達、婚約破棄しましょう
アリス
恋愛
余命宣告を受けたエニシダは最後は自由に生きようと婚約破棄をすることを決意する。
婚約者には愛する人がいる。
彼女との幸せを願い、エニシダは残りの人生は旅をしようと家を出る。
婚約者からも家族からも愛されない彼女は最後くらい好きに生きたかった。
だが、なぜか婚約者は彼女を追いかけ……
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
厄介払いされてしまいました
たくわん
恋愛
侯爵家の次女エリアーナは、美人の姉ロザリンドと比べられ続け、十八年間冷遇されてきた。
十八歳の誕生日、父から告げられたのは「辺境の老伯爵に嫁げ」という厄介払いの命令。
しかし、絶望しながらも辺境へ向かったエリアーナを待っていたのは――。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
10回目の婚約破棄。もう飽きたので、今回は断罪される前に自分で自分を追放します。二度と探さないでください(フリではありません)
放浪人
恋愛
「もう、疲れました。貴方の顔も見たくありません」
公爵令嬢リーゼロッテは、婚約者である王太子アレクセイに処刑される人生を9回繰り返してきた。 迎えた10回目の人生。もう努力も愛想笑いも無駄だと悟った彼女は、断罪イベントの一ヶ月前に自ら姿を消すことを決意する。 王城の宝物庫から慰謝料(国宝)を頂き、書き置きを残して国外逃亡! 目指せ、安眠と自由のスローライフ!
――のはずだったのだが。
「『顔も見たくない』だと? つまり、直視できないほど私が好きだという照れ隠しか!」 「『探さないで』? 地の果てまで追いかけて抱きしめてほしいというフリだな!」
実は1周目からリーゼロッテを溺愛していた(が、コミュ障すぎて伝わっていなかった)アレクセイ王子は、彼女の拒絶を「愛の試練(かくれんぼ)」と超ポジティブに誤解! 国家権力と軍隊、そしてS級ダンジョンすら踏破するチート能力を総動員して、全力で追いかけてきた!?
物理で逃げる最強令嬢VS愛が重すぎる勘違い王子。 聖女もドラゴンも帝国も巻き込んだ、史上最大規模の「国境なき痴話喧嘩」が今、始まる!
※表紙はNano Bananaで作成しています
誰も愛してくれないと言ったのは、あなたでしょう?〜冷徹家臣と偽りの妻契約〜
山田空
恋愛
王国有数の名家に生まれたエルナは、
幼い頃から“家の役目”を果たすためだけに生きてきた。
父に褒められたことは一度もなく、
婚約者には「君に愛情などない」と言われ、
社交界では「冷たい令嬢」と噂され続けた。
——ある夜。
唯一の味方だった侍女が「あなたのせいで」と呟いて去っていく。
心が折れかけていたその時、
父の側近であり冷徹で有名な青年・レオンが
淡々と告げた。
「エルナ様、家を出ましょう。
あなたはもう、これ以上傷つく必要がない」
突然の“駆け落ち”に見える提案。
だがその実態は——
『他家からの縁談に対抗するための“偽装夫婦契約”。
期間は一年、互いに干渉しないこと』
はずだった。
しかし共に暮らし始めてすぐ、
レオンの態度は“契約の冷たさ”とは程遠くなる。
「……触れていいですか」
「無理をしないで。泣きたいなら泣きなさい」
「あなたを愛さないなど、できるはずがない」
彼の優しさは偽りか、それとも——。
一年後、契約の終わりが迫る頃、
エルナの前に姿を見せたのは
かつて彼女を切り捨てた婚約者だった。
「戻ってきてくれ。
本当に愛していたのは……君だ」
愛を知らずに生きてきた令嬢が人生で初めて“選ぶ”物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる