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しおりを挟む「もう、ここ三日ほど毎日なんですよ。」
「伯爵様とは話がついてる。の一点張りで…」
三日ぶりに工房に顔を出すと、休憩中の織り師や事務員がセシリアを取り囲んだ。
ニールスを庇って戦場で片腕をなくした元革職人の男の妻が三日間、毎日工房に現れ「織り師にしろ」と迫っているという。
病院の大部屋で、ニールスと男の家族は何やらやり取りをしていた。
『約束だよ、伯爵様。』男の子の声がセシリアにも聞こえていた。
『伯爵様はどんな人との約束も、忘れたりなさらない。』兵士の声の意味が分かった。
「困ったわね───」セシリアは本心からつぶやいた。
そう、困るのだ。
織り師は現在、十八人が在籍していて不足はない。
事務も手伝いも、染色工も今は足りている。
採用に関しては、目の前にいる赤毛の寡婦フリータに一任していて、セシリアが口を出すことはしない。
フリータも、決して私情で人事に関わったりはしない。
なのに、そこへ『伯爵』の名前を出されては、公平も何もあったものではない。
「あの人、二年前の工房立ち上げの時にも、織り師に応募して来てたんです。」
フリータが古い書類の山から一冊取り出すと、パラパラと捲ってお目当ての書類を開いた。
「ほら、ここにあります。」
フリータの指差したところに、アグネタ(革職人の妻、夫は出征中)と記録されていて、その隣に(不採用)と書いてあった。
「どうして不採用かは、覚えてる?」
「不器用だからですよ。」
「フリータ、その時のこと覚えてるの?」
「覚えてませんけど、あの時はヨーリア婆さんが採用を見ていたでしょう?三十人ほどいっぺんに試験採用して、その後、織り師として残ったのが十八人。」
あの日、農家の軒先にいたヨーリアという老婆は、工房立ち上げの時、織り師としてやっていけそうな者を選び、指導し、一人前の織り師にするまで協力してくれた。
「ヨーリア婆さんの、採用の基準は、“器用か不器用か“それだけでしたから。私も、不器用だって言われて即不採用だったんです。」
「そうだったわね、フリータは字が読めたし、計算も出来たから、事務に回ってもらったんだったものね。」
あの頃、不採用になった人達はたくさんいた。
セシリアは当然、一人一人を覚えていない。が、何人かは記憶に残っている人もいた。
「何人かはどうしても職が欲しいって言うから、あの頃ちょうど始めたばかりの“教会学校“に通って字を覚えることを勧めたのよね。」
フリータのように、読み書きに加え、算術まで出来る人はほとんどいない。
エルムンドの平民の中に字が読める女性は非常に少ない。
「力仕事は、無理でしょうし。他のお仕事を紹介するしかないわね…」
皆が、うんうんと頷いた。
十台の織り機がそれぞれに規則的に音を立てている。
セシリアは工房を見渡して、音に聞き入った。
十台いっぺんにそれぞれバラバラに動くから、音は工房中に騒音となって響く。
セシリアは工房の騒音が好きだ。
織り機の間を、補充の糸を走って届ける手伝いの子供の声や、織り機の手を休めずにおしゃべりに花を咲かせる陽気な声も。
ざわざわとした、工房にいるととても心が落ち着いた。
ニールスの無理押しを受け入れれば、「我も、我も」と採用希望者が出てくるかもしれない。
必要のない人員を雇うことなどあり得ない。
今働いている人たちの意欲を削いでしまうだろう。
「本当に困ったわね。」セシリアは盛大なため息をついた。
アグネタはエルムンド邸内にある、軍本部の前に立ち、無機質な石作りの建物を見上げた。
ニールスから『仕事のことは心配するな』と言われ、てっきりすぐに工房に雇い入れてもらえると思っていたのに、何度出向いても、事務員の赤毛の女に『そんな話は聞いてない』『雇えない』とけんもほろろに追い返された。
工房の仕事は、エルムンドで女性が、清潔な環境で安定して収入が得られる唯一の場所、憧れの職場。アグネタはどうしても工房で働きたかった。
(伯爵様にもう一度お願いするしかない。)
決心を固めて、屋敷までやって来た。
幸い門兵が夫の知り合いで「夫の慰労金のことで」といえば、すんなり屋敷の門はくぐれた。
屋敷の裏手を、使用人達が忙しなく行き来するのに従ってどうにか軍の本部までは来た。
軍本部まで来たのは良かったが、そこからどうしたら良いのか見当がつかない。
兵士達が、出たり入ったりする入り口を、少し離れたトチの木に隠れるようにしながら見る。
やはり、帰ろうか…アグネタが考え始めた時
「何してる!」兵士だろうか、背後から低い声がした。
アグネタはびくりと肩を大きく揺らしてから、そっと振り返った。
「クノのかみさんじゃないか。こんなところで何してる?」
声をかけてきたのが知り合いだと分かり、アグネタは大きく息をついた。
「アダムだったわよね?鍛冶屋のとこの。」
アグネタは伯爵に仕事の世話を約束された経緯を話し、取り次いでもらえるように頼んだ。
「俺じゃ、伯爵様に取り次ぎなんて出来ないよ。」
困り顔のアダムに、アグネタが諦めかけた時、赤みのある茶色の髪の男が近づいてきた。
「どうした、アダム。」
「副官!」
アダムは慌てて姿勢を正した。
「副官様。どうか、伯爵様にお取り次ぎを。」
アグネタはカールに縋るような目を向けた。
この機を逃すわけにはいかない。
「伯爵様に?それは───」
断られそうになったのがわかり、アグネタは必死になって食い下がった。
「伯爵様に、セシリア様の織物工房での仕事をお約束いただいたんです。でも、どうも奥方様が反対なさっているようで、雇えない、と言われてしまって。困ってるんです!」
「奥方が?───それは本当か?」
アグネタはやっぱり食いついたと思った。
アグネタは数年前、居酒屋の厨房で手伝いをしていたことがあって、カールが酔いにまかせてセシリアを「軍資金についてきたお荷物」などと言いたい放題だったことを覚えていた。
セシリアのことを持ち出せばもしや、と思った。
「伯爵様の言うことは、絶対だと言うのに、全く───まあ、奥方様はまだ子供でいらっしゃる、世間と言うものをわかっていないんだ。この事は、任せろ。」
カールは目の前のアグネタなど忘れたように、遠くを見つめてニタリと、いやらしく笑った。
「伯爵様のお言葉を遂行するのが副官たる私の勤めだ。」
アグネタはカールを恐ろしく感じたが、それ以上に安堵した。
これで工房で働けると。
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