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結ノ章(前)
李義府、許敬宗と雙陸す(貞観二十二(六四九)年、七月)
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新帝即位の礼は厳かに行われ、直ちに朝廷の体制が刷新された。
長孫無忌は太尉(※一)に位を進め、同時に門下省と尚書省を領知することが定められた。朝廷の大権全てが彼の手に帰したわけである。中書令だった褚遂良は尚書右僕射に遷り、また、尚書左僕射には畳州都督に左遷されていた李勣が呼び戻されて座った。李勣としては、初めての宰相職である。さらに、于志寧と張行成が侍中に任命され、宰相として名を連ねたことによって、新帝、李治を支える顔触れは、ここに出揃った。
「どうです、『晋書』に絡んだ四方山話、もうそろそろ話してくれてもいい頃合いなんじゃありませんか?」
雙六の盤を挟み、許敬宗と相対していた李義府はそう水を向けてみたが、相手はただ、掌中の骰子を弄ぶだけで、なんの反応も示そうとしない。けれど、間違いなくその瞳は何かを語ろうとしたがっている。李義府の緊張は自然と高まっていた。
許敬宗と顔を合わせ、ゆっくり話をする機会が持てたのは、『晋書』全巻百三十巻が完成し、先帝の御高覧を仰いだ昨年の八月以来のことだ。その後、短い書状のやり取りなどはあったが、李義府は本来の職務である中書舎人に戻って務めを果たしていたのに対して、許敬宗は官品こそそのままだが、正式に中書侍郎の役職を解かれ、中書省を後にしたからである。
完成した『晋書』は秘書省に引き渡され、直ちに写しが二部作成されると、一部は東宮に、そしてもう一部は、新羅に下賜されることが決まった。皇帝御製の史書が周辺国に下賜されるというのは大変な恩典であり、これが対高句麗を睨んでの特別な配慮だろうということは、衆目の一致するところだったが、その後、高句麗戦線には特段の動きがないまま、小康状態が保たれている。先帝の崩御という状況の変化をうまく利用して、どうやら新政権では、持久戦に持ち込む腹積もりのようだ。
『晋書』の完成後、編纂作業に当たっていた者たちには、先帝から直々にお褒めのお言葉と報奨金が下され、約束どおり、翔娘を請け出すための資金を李義府は許敬宗から受け取っている。その金で自由の身となった翔娘はいま洛陽に戻り、孟拓と一緒になって慎ましくも幸せに暮らしているという便りをもらったばかりだ。
(お蔭で、美眉からも感謝されたし、……)
李義府としては、なんら文句のない結末となってはいるのだが、しかし、どうしても李義府には、あの時から納得できない思いが残っていたのだ。
(この爺さん、今度の件で、本当は何を狙っていたんだ?)
『晋書』完成を目前にして薨じた房玄齢には太尉・并州都督の位が追贈され、遺体も昭陵に陪葬されるという栄誉を得ることができた。また、『晋書』編纂の功も加味され、ほどなくして褚遂良は中書令に昇進し、そして令狐徳棻は秘書少監(※二)に返り咲いている。
(なのに、だ……)
実際の総責任者である許敬宗だけは、なんの昇進・昇格の沙汰も無いどころか、政治の第一線から事実上身を引かされている。とんだ貧乏籤を引かされたわけだが、それを怨む素振りをみせることもなく、代わりに許敬宗は、劉陽を太子中舎人に昇進させることと、無位無官の孟拓を強引に官職に押し込むことに、随分と骨を折ってくれた。こうした裏技は許敬宗が昔から最も得意とするところで、これだけをみると、いかにも彼が聖人君子のように思えてくる。しかし、
(この親爺に限って、そんなお人好しなわけがあってたまるか!)
良い意味で、李義府は許敬宗の人間的な灰汁の強さを知っている。だからこそ、彼の思惑がもう一つ掴み切れず、もやもやした思いをずっと抱いていたところに、あちらの方から、
「酒でも酌み交わしながら、雙陸でも興じないか」
と、突然のお招きである。遅くなったが、『晋書』編纂の慰労がしたいからと、尤もらしい理由まで書き添えられている。
だが、この書状を目にしたとき、内密になにか自分と話したいことがあるのだろうと、すぐに李義府には察しがついた。なので、さきほどの台詞が、自然と口を突いて出てきたわけで、
「そうだな。その件に関してお主とは、いつか話がしたいと思っておったのよ」
どうやら許敬宗も、ようやくそれに応えてくれる気になったようだ。
そのまま給仕のために傍らに控えていた二人の家妓を顎で去らせると、酒の入った瓶子を許敬宗はそっと差し出す。それを杯に受けながら、李義府はまず最初の疑問から切り出してみる。
「『晋書』の編纂はまさに寸刻を争う有様で、まるで先帝の残された命の時間と競い合っているかのようでした。どうして先帝は、あれほどまでに急がれていたんですかねえ?」
「さあな、なぜだと思う?」
まるで李義府を挑発するかのように、許敬宗は同じ問いを返してくる。
「そうですねえ、……」
ずっと気にかかっていたことだ。それなりの答えは、当然用意している。間合いを計りながら、李義府は自分の考えを素直にぶつけてみることにした。
「太尉の、そう、長孫卿を牽制するため、……ですかね!?」
「ほう、それはどういう意味かな?」
許敬宗の顔には含み笑いが浮かんでいる。それを見て、李義府は自分の出した回答が九割方正鵠を得ているなと、そう確信した。
「最大の狙いは、『唐』の皇室が漢族の名門の系譜であることを正史のなかに正式な記録として残し、その正統性を確たるものにすることだったんでしょう」
そうすれば、鮮卑族のなかなら最上の貴種とされている長孫氏よりも、本朝における家門の貴顕性を主張することができる。当然、漢族の貴族・士大夫層からの支持を得ることが目的だ。このあたりの心理の機微は、かつて『(前)秦』の支配下にあった華北・中原の漢族の民草が、心のうちでは江南にある『(東)晋』王朝に対する強い思慕の念を抱いていたのと同じである。
「そして、今回の編纂作業で、それを具体化する役割を担っていたのが、令狐卿だったんじゃありませんか?」
だからこそ、『晋書』の完成により、改めての抜擢というお零れにありつくことができたのだ。基本方針を固めるなかでの色々な揉め事も、最終的に自分が李玄盛公の事蹟を記述することができるよう、敬播と組んでの三文芝居だったと考えれば納得がいく。
「さらに先帝は、太尉にもう一本釘を差しておくことも考えておられた。巻一の宣帝紀の論讚がそれです」
『まだ命数が尽きていない王朝の天下を奪おうとしても、天命はいまだ至らず、天子の位はなお侵しがたい。そのため、宣帝は、子孫が天子の血脈となったといえども、その身はついに南面することなく終わった』
素直に読めば、『(曹)魏』代の司馬懿に関する記述としておかしくはないが、
「当時といまの政治状況を重ね合わせてみれば、これが太尉に対する辛辣な警告としても受け取れることは、読む者が読めば判ります」
そこまで踏み込んでみたところで、李義府は許敬宗の顔を見つめる。しかし、その表情にはまったく変化はなく、どうぞその先をと云わんばかりだ。仕方なく、李義府はそのまま話を続けることを選んだ。
「さて、そう穿って考えてみると、我々臣下からの提案を受けて、初めて先帝が論讚をお書きになる気になられた、というのがどうも怪しくなってきます」
そもそも、最初からおかしいとは思っていたのだ。『主上に論贊をお願いする』、そんな案が初めて御前で披露された際、先帝がそれをお認めになったところまではいいとしても、その場で論讚を記す箇所までいきなり指定されたというのは、あまりにもできすぎだろう。事前に先帝は、そのことを知っていたと考える方が自然だ。
「そして、先帝の命を受け、鄭賀にこの案を持ち出させたのは、許大人、あなたですね」
それに対して、許敬宗は否定も肯定もしない。だが、その表情にまったく揺らぎのないことが、逆にそれを認める証左となっている。
(この爺さんといい、集賢といい、まったく喰えない奴らばかりだ!?)
李義府はいまさらながらにそう思う。その掌の上で踊らされていたかと思うと、癪に障らなくもないが、相手の方が一枚上手だったのだから仕方がないと諦める。だが、李義府も、このまま終わらせるつもりはない。報いるべく一矢も用意していた。
「ですが、許大人、先帝とあなたが組んでいたのはそこまでだ。あなたにはその先にもう一手、打つべき手駒を隠し持っていた」
そう李義府が言葉を接いだ瞬間、許敬宗の表情が初めてかすかに歪む。やっとこの狸親父の感情を揺らすことができたようだ。
「さて、なんのことかな?」
許敬宗は惚けにかかるが、李義府はそれを許さなかった。
「武媚娘ですよ‼」
そう云って、片頬で皮肉に嗤ってみせる。
あの頃、主上の体調がすぐれないことは公然の秘密だった。そこを押して作業が行われるとしたら、その場所は内朝、あるいは後宮ということになるのは自明の理だ。当然、主上の身近でその作業を補佐する者が、表の役人とは別に必要となる。そこで許敬宗が白羽の矢を立て、先帝に推薦したのが武媚娘だったわけだが、これもあらかじめ二人が気脈を通じていなければ、あれほど素早く準備が進むはずもない。
李義府はこの推測に自信をもっていた。それに対して、許敬宗は一瞬天を仰ぎ、微かに嘆息してみせる。
「そこまで読まれていたとはな。やはり、儂の眼に狂いはなかったと云うことか」
自分の杯に酒を注ぎ、それを一気に呷ると、許敬宗は盤の上に左手のなかに入れていた二つの賽をいきなり転がした。
(ほう、一天地六か⁉)
賽の目まで、いまの空気を察しているようだ。どうやら今日のこの話は、中途半端な形では終われそうにはないなと、李義府は予感した。それが証拠に、先ほどまでの柔和な笑みはいつのまにか消え去り、許敬宗の表情はいつになく厳しさを増している。
「なら、聴いておいてもらおうか。お主のこれからの役人人生のなかで、なにか役に立つかもしれぬからの」
なんとも御大層なことを許敬宗は云う。なんだか嫌な感じがしたが、その一方で、これで己の運命が大きく変わっていくような妙な期待もある。そんな微妙な思いのなかで、
「いいですね、喜んで拝聴しましょう」
そう李義府は思わず云ってしまう。その答えに納得したのか、杯を雙陸の盤の上に置くと、許敬宗は改めて正面から李義府と向かいあった。
「元々は才人として入宮した武媚娘が、どのような経緯で先帝の侍女として仕えるようになったかは、存じておるかな?」
「ええ、俺もまだ朝廷に務め始めたばかりの若い頃でしたが、ちょっとした騒ぎになった話ですからね」
と、李義府は頷いた。彼の認識では、武媚娘は、奇妙な讖緯騒動のせいで折角の先帝からの寵を失ってしまった可哀想な娘、そういう位置づけになっている。
「だが、実際にはそんな単純な話ではない」
政治的に複雑な裏があったのだと、許敬宗は訥々と語りだす。
「最初に媚娘を後宮へと送り込む絵を描いたのは、先年亡くなった楊師道じゃが、儂もそこに一枚咬んでおった」
いきなりの生臭い話だが、正直、李義府には驚きだった。彼のなかで楊師道という政治家は、常に保身に慎重で、そんな陰謀めいた動きなど極力避ける人間だと思っていたからだ。そんな常識が一気に引っくり返されてしまったことで、李義府は軽い興奮を覚え、許敬宗の話に耳を欹てる。
「媚娘はその美貌もさることながら、利発で肝のすわった娘じゃ。さらに、その母親が楊師道と近い血縁関係にあるという、後宮に送り込むには、まさに最適の条件を兼ね備えておった。儂らの思いとしては、主上の寵を得られればさらに理想的だが、まず後宮内にいわゆる『楊氏閥』を形成するための要になってほしい。それが一番の狙いじゃった」
この話には、実は前段階がある。武照が後宮に入るちょっと前、文徳皇后を失った侘しさに耐えかね、先帝が巣王妃を新たな皇后に据えようとする動きがあったのだ。
「それに危機感を抱いた長孫無忌が魏徴を抱き込み、表の世界でこの話は潰されたわけだが、実のところ、後宮内でこの動きに反対する勢力があったことの方が問題だったのじゃ」
それは当然だろうと、李義府も思う。もしも巣王妃がいきなり皇后になれば、相対的にその他のすべての側室は後宮内での地位が低下するのだから。
「だが、先帝にはまだ巣王妃に対する未練が充分にあった」
許敬宗の語気が強まる。もし、後宮内でも巣王妃を推そうとする声がまとまるようなら、先帝の決断一つで、再度、巣王妃を皇后にという逆転の目はあり得たのだと、彼は強調する。
「そこで、楊師道は考えたわけさ。巣王妃には自分と同じ『隋』の宗室の血脈が流れている。そして、後宮内には他にも、楊淑妃や燕徳妃といった同類が存在している。普段は角突き合わせているこうした者たちの利害をうまく調整し、取りまとめてくれる者さえいれば、後宮全体の意見として巣王妃立后の話を再び俎上に載せ、それを実現することができれば、表の権力の勢力図にも変化が生まれるはずだ。うまくすれば、魏徴や長孫無忌を失脚させることも可能かもしれない。そうなれば、政治の大権は自然と自分の掌中に落ちる。つまるところ、そんな目論見があったわけさ」
当時の朝廷は侍中であった魏徴の権勢が盛んで、彼はその勢いを恃み、他の功臣や旧勢力を世襲刺史として地方に出そうという画策が進んでいた。しかし、当然、それに反発する動きもあって、廟堂は揺らいでおり、その間隙を突くことを楊師道は狙っていたわけだ。
「そこに、武照にも先帝のお手が付き、さあこれからと勢い込んだ矢先に、あの讖緯騒動が起こったわけじゃ」
間違いなくこちらの思惑が敵方に読まれ、武媚娘の動きを封じるために、誰か知恵者が策を講じたのに違いない。
「もう少し時間さえあれば、……」
許敬宗の口吻には、無念さが滲んでいる。それだけ、その計画には相当に実現性があったということなのだろう。許敬宗と武媚娘の間に繋がりがあることまでは察していたが、その始まりがそれほど古く、しかも、楊師道のような権勢欲のないことで知られた人間が絡んでいたとは、意外としか表現のしようがない。
「お蔭で、先帝からの寵も絶え、媚娘には可哀そうなことをしてしまったが、代わりに後宮から追放されることもなく、侍女として残ることができたのは幸いじゃった。後宮内の『楊氏閥』人脈を維持することはできたわけじゃからの。それだけでも儲けものと、我々は素直に引き下がることに決めたわけよ」
だが、そこから既に十年もの歳月が過ぎている。その後のことを許敬宗は語ろうとしないが、後宮に残った媚娘が、ただ漫然と先帝の侍女を務めていただけなのだろうか。
(もしかすると、廃太子事件にもなんらかの形で関わっていたのでは?)
そんな気がしてならない。だが、それを訊ねてみたとしても、さすがにそこまでは許敬宗も語りはしないだろう。そこで李義府は、話を直近の場面に戻すことにした。
「そんなところに、先帝が『晋書』の編纂を云い出された。そこで許大人、あなたはこの機に乗じて媚娘を陛下の側近くに置き、俗に云う焼け木杭に火がつくことを期待したというわけですね」
「いやいや、それはないさ」
大仰に許敬宗は手を振ってみせた。
「媚娘に対する寵はこの間ずっと絶えておったのじゃぞ。しかも、心身ともに先帝は調子を崩しておられた。そんな先帝がいまさら媚娘に手を付けることを期待するというのは、あまりにも虫が良すぎると云うものだ」
楊師道と儂が狙っていたのは、常に先帝の傍らに媚娘が控えている状況をつくりだすことで、先帝との接触が格段に増え始めていた当時の皇太子、つまり新帝に媚娘のことを意識してもらう機会を作り出すことだったのさと、許敬宗は嗤った。
「あっ、……!?」
そのあまりに予想を超えた戦略に、李義府はつい声に出してしまう。
(それは俺の考えにはなかった……)
あの当時、まだ皇太子だった今上陛下は、長孫公の自家薬籠中のもの。そんな先入観に勝手に囚われていたからだ。皇太子を握っているからこそ、長孫公の政治基盤は盤石だったわけで、
(逆にその玉をこちら側に取り込むことができれば、状況は簡単に逆転する)
李義府は許敬宗の発想の妙に、感心してしまった。
「いまの主上には、父帝に反感を抱きながら、それでいて父君の真似をしたい、父帝と同じものが欲しい、ついそんなことをお考えになってしまう癖がおありじゃ」
元々は道教の信仰に篤かったのにも関わらず、先帝に倣って、母后の供養のために寺を建立しようとしたのもその一例だが、女性に対しても同じ傾向があると許敬宗は云う。
(そう指摘されてみると、……)
確かに李義府も違和感は覚えない。
「だから、媚娘が皇太子殿下の御心を掴むことに賭けてみる値打ちは、十分にあると思っておったし、そして、その賭けに我々は勝った」
楊師道がもしもう少し長生きしていれば喜んだことじゃろうにと、許敬宗は黄ばんだ歯をみせながら不気味に嗤う。その表情が心底怖いと、李義府は感じた。なんだか膝が震えているような気もする。
「では、すでに媚娘は今上陛下と、……」
それ以上は口にするなというように、許敬宗は無言で頷いてみせた。
「先帝から寵を受けながら子をなしていない側室は、仏道に帰依して尼になるか、女道士として道観に入り、俗世とは完全に縁を絶つ決まりになっておる」
媚娘もそれに従い、女道士となって道観入りをしているが、
「なに、形だけのことさ。いま陛下の意識のなかには、既に媚娘が住みついている。こちらが上手くお膳立てすれば、陛下は必ず媚娘を掌中に収めようとされるじゃろう。その後のことは、どうとでもなる」
この先、陛下の皇后位には皇太子妃である王氏が座る予定となっているが、実際の寵愛は蕭淑妃が一身に集めており、この二人の間の確執が深いことは朝臣間でもすでに噂となっている。ここにもう一人、武照が絡んでくるとなると、後宮の情勢が一変することは必至だ。勿論、先帝の手の付いた女性をその息子が己の後宮に入れるなど、眉を顰める朝臣も多いだろうが、反対されればされるほど、より気持ちが昂ってしまうのも人の情だ。
「さてさて、これからの御代はどのようになっていくことやら、……」
そう云って許敬宗は、己の膨らんだ下腹をぽんと叩いてみせた。さらに、思わせぶりに李義府に語りかけてくる。
「太尉の天下も、果たしていつまで続くかは判らぬぞ」
「覆る可能性がある、……と?」
「うむ、媚娘という札の使い方次第では、面白いことになるやもしれぬ」
そこまで語ってから許敬宗は、元の穏やかな表情に戻った。
「しかし、先のことなど儂にも判らん。じゃが、媚娘の天命が波に乗るようであれば、どうじゃ、李舎人、儂と組んで長孫公と対抗してみる気はないかな?」
先帝の命を受けた『晋書』編纂事業には、こうした非常時に働いてくれる人材を探すという、裏の目的もあったのだ。お主なら、間違いなくそれに応えてくれると踏んで、儂はお主にも加わってもらったのだと、真剣な声音で許敬宗は云った。やはり李義府は、その最初から許敬宗の手駒の一枚として数えられていたようだ。
「あまり分のいい喧嘩ではないがな」
そうも許敬宗は付け加える。
(勝ち目があるとしても、せいぜい二分か……)
だが、博打は先が見えないからこそ面白い。これからも退屈極まりない役人生活を送らねばならないかと、秘かにうんざりしかけていたところだ。
(己の運命を変えてみたいのなら、いまがその賭け時か?)
そう肚を据えてにやりと嗤うと、許敬宗が置いていた杯に再び酒を注ぎ、それを呑み干してみせることで、李義府は答えに代えた。それを確認した許敬宗もまた、満足そうな表情を浮かべている。どうやら二人の肚は、一つに固まったようである。
【注】
※一 「太尉」
古代中国にあった官職で、三公の一つ。
現代風に云えば、軍事担当の宰相であり、防衛大臣や国防長官、国防
大臣などに相当する。主に文官が任命されたが、『唐』代では既に名誉
職となっていた
※二 「秘書少監」
宮中図書館の副長官。官品は「従四品上」
長孫無忌は太尉(※一)に位を進め、同時に門下省と尚書省を領知することが定められた。朝廷の大権全てが彼の手に帰したわけである。中書令だった褚遂良は尚書右僕射に遷り、また、尚書左僕射には畳州都督に左遷されていた李勣が呼び戻されて座った。李勣としては、初めての宰相職である。さらに、于志寧と張行成が侍中に任命され、宰相として名を連ねたことによって、新帝、李治を支える顔触れは、ここに出揃った。
「どうです、『晋書』に絡んだ四方山話、もうそろそろ話してくれてもいい頃合いなんじゃありませんか?」
雙六の盤を挟み、許敬宗と相対していた李義府はそう水を向けてみたが、相手はただ、掌中の骰子を弄ぶだけで、なんの反応も示そうとしない。けれど、間違いなくその瞳は何かを語ろうとしたがっている。李義府の緊張は自然と高まっていた。
許敬宗と顔を合わせ、ゆっくり話をする機会が持てたのは、『晋書』全巻百三十巻が完成し、先帝の御高覧を仰いだ昨年の八月以来のことだ。その後、短い書状のやり取りなどはあったが、李義府は本来の職務である中書舎人に戻って務めを果たしていたのに対して、許敬宗は官品こそそのままだが、正式に中書侍郎の役職を解かれ、中書省を後にしたからである。
完成した『晋書』は秘書省に引き渡され、直ちに写しが二部作成されると、一部は東宮に、そしてもう一部は、新羅に下賜されることが決まった。皇帝御製の史書が周辺国に下賜されるというのは大変な恩典であり、これが対高句麗を睨んでの特別な配慮だろうということは、衆目の一致するところだったが、その後、高句麗戦線には特段の動きがないまま、小康状態が保たれている。先帝の崩御という状況の変化をうまく利用して、どうやら新政権では、持久戦に持ち込む腹積もりのようだ。
『晋書』の完成後、編纂作業に当たっていた者たちには、先帝から直々にお褒めのお言葉と報奨金が下され、約束どおり、翔娘を請け出すための資金を李義府は許敬宗から受け取っている。その金で自由の身となった翔娘はいま洛陽に戻り、孟拓と一緒になって慎ましくも幸せに暮らしているという便りをもらったばかりだ。
(お蔭で、美眉からも感謝されたし、……)
李義府としては、なんら文句のない結末となってはいるのだが、しかし、どうしても李義府には、あの時から納得できない思いが残っていたのだ。
(この爺さん、今度の件で、本当は何を狙っていたんだ?)
『晋書』完成を目前にして薨じた房玄齢には太尉・并州都督の位が追贈され、遺体も昭陵に陪葬されるという栄誉を得ることができた。また、『晋書』編纂の功も加味され、ほどなくして褚遂良は中書令に昇進し、そして令狐徳棻は秘書少監(※二)に返り咲いている。
(なのに、だ……)
実際の総責任者である許敬宗だけは、なんの昇進・昇格の沙汰も無いどころか、政治の第一線から事実上身を引かされている。とんだ貧乏籤を引かされたわけだが、それを怨む素振りをみせることもなく、代わりに許敬宗は、劉陽を太子中舎人に昇進させることと、無位無官の孟拓を強引に官職に押し込むことに、随分と骨を折ってくれた。こうした裏技は許敬宗が昔から最も得意とするところで、これだけをみると、いかにも彼が聖人君子のように思えてくる。しかし、
(この親爺に限って、そんなお人好しなわけがあってたまるか!)
良い意味で、李義府は許敬宗の人間的な灰汁の強さを知っている。だからこそ、彼の思惑がもう一つ掴み切れず、もやもやした思いをずっと抱いていたところに、あちらの方から、
「酒でも酌み交わしながら、雙陸でも興じないか」
と、突然のお招きである。遅くなったが、『晋書』編纂の慰労がしたいからと、尤もらしい理由まで書き添えられている。
だが、この書状を目にしたとき、内密になにか自分と話したいことがあるのだろうと、すぐに李義府には察しがついた。なので、さきほどの台詞が、自然と口を突いて出てきたわけで、
「そうだな。その件に関してお主とは、いつか話がしたいと思っておったのよ」
どうやら許敬宗も、ようやくそれに応えてくれる気になったようだ。
そのまま給仕のために傍らに控えていた二人の家妓を顎で去らせると、酒の入った瓶子を許敬宗はそっと差し出す。それを杯に受けながら、李義府はまず最初の疑問から切り出してみる。
「『晋書』の編纂はまさに寸刻を争う有様で、まるで先帝の残された命の時間と競い合っているかのようでした。どうして先帝は、あれほどまでに急がれていたんですかねえ?」
「さあな、なぜだと思う?」
まるで李義府を挑発するかのように、許敬宗は同じ問いを返してくる。
「そうですねえ、……」
ずっと気にかかっていたことだ。それなりの答えは、当然用意している。間合いを計りながら、李義府は自分の考えを素直にぶつけてみることにした。
「太尉の、そう、長孫卿を牽制するため、……ですかね!?」
「ほう、それはどういう意味かな?」
許敬宗の顔には含み笑いが浮かんでいる。それを見て、李義府は自分の出した回答が九割方正鵠を得ているなと、そう確信した。
「最大の狙いは、『唐』の皇室が漢族の名門の系譜であることを正史のなかに正式な記録として残し、その正統性を確たるものにすることだったんでしょう」
そうすれば、鮮卑族のなかなら最上の貴種とされている長孫氏よりも、本朝における家門の貴顕性を主張することができる。当然、漢族の貴族・士大夫層からの支持を得ることが目的だ。このあたりの心理の機微は、かつて『(前)秦』の支配下にあった華北・中原の漢族の民草が、心のうちでは江南にある『(東)晋』王朝に対する強い思慕の念を抱いていたのと同じである。
「そして、今回の編纂作業で、それを具体化する役割を担っていたのが、令狐卿だったんじゃありませんか?」
だからこそ、『晋書』の完成により、改めての抜擢というお零れにありつくことができたのだ。基本方針を固めるなかでの色々な揉め事も、最終的に自分が李玄盛公の事蹟を記述することができるよう、敬播と組んでの三文芝居だったと考えれば納得がいく。
「さらに先帝は、太尉にもう一本釘を差しておくことも考えておられた。巻一の宣帝紀の論讚がそれです」
『まだ命数が尽きていない王朝の天下を奪おうとしても、天命はいまだ至らず、天子の位はなお侵しがたい。そのため、宣帝は、子孫が天子の血脈となったといえども、その身はついに南面することなく終わった』
素直に読めば、『(曹)魏』代の司馬懿に関する記述としておかしくはないが、
「当時といまの政治状況を重ね合わせてみれば、これが太尉に対する辛辣な警告としても受け取れることは、読む者が読めば判ります」
そこまで踏み込んでみたところで、李義府は許敬宗の顔を見つめる。しかし、その表情にはまったく変化はなく、どうぞその先をと云わんばかりだ。仕方なく、李義府はそのまま話を続けることを選んだ。
「さて、そう穿って考えてみると、我々臣下からの提案を受けて、初めて先帝が論讚をお書きになる気になられた、というのがどうも怪しくなってきます」
そもそも、最初からおかしいとは思っていたのだ。『主上に論贊をお願いする』、そんな案が初めて御前で披露された際、先帝がそれをお認めになったところまではいいとしても、その場で論讚を記す箇所までいきなり指定されたというのは、あまりにもできすぎだろう。事前に先帝は、そのことを知っていたと考える方が自然だ。
「そして、先帝の命を受け、鄭賀にこの案を持ち出させたのは、許大人、あなたですね」
それに対して、許敬宗は否定も肯定もしない。だが、その表情にまったく揺らぎのないことが、逆にそれを認める証左となっている。
(この爺さんといい、集賢といい、まったく喰えない奴らばかりだ!?)
李義府はいまさらながらにそう思う。その掌の上で踊らされていたかと思うと、癪に障らなくもないが、相手の方が一枚上手だったのだから仕方がないと諦める。だが、李義府も、このまま終わらせるつもりはない。報いるべく一矢も用意していた。
「ですが、許大人、先帝とあなたが組んでいたのはそこまでだ。あなたにはその先にもう一手、打つべき手駒を隠し持っていた」
そう李義府が言葉を接いだ瞬間、許敬宗の表情が初めてかすかに歪む。やっとこの狸親父の感情を揺らすことができたようだ。
「さて、なんのことかな?」
許敬宗は惚けにかかるが、李義府はそれを許さなかった。
「武媚娘ですよ‼」
そう云って、片頬で皮肉に嗤ってみせる。
あの頃、主上の体調がすぐれないことは公然の秘密だった。そこを押して作業が行われるとしたら、その場所は内朝、あるいは後宮ということになるのは自明の理だ。当然、主上の身近でその作業を補佐する者が、表の役人とは別に必要となる。そこで許敬宗が白羽の矢を立て、先帝に推薦したのが武媚娘だったわけだが、これもあらかじめ二人が気脈を通じていなければ、あれほど素早く準備が進むはずもない。
李義府はこの推測に自信をもっていた。それに対して、許敬宗は一瞬天を仰ぎ、微かに嘆息してみせる。
「そこまで読まれていたとはな。やはり、儂の眼に狂いはなかったと云うことか」
自分の杯に酒を注ぎ、それを一気に呷ると、許敬宗は盤の上に左手のなかに入れていた二つの賽をいきなり転がした。
(ほう、一天地六か⁉)
賽の目まで、いまの空気を察しているようだ。どうやら今日のこの話は、中途半端な形では終われそうにはないなと、李義府は予感した。それが証拠に、先ほどまでの柔和な笑みはいつのまにか消え去り、許敬宗の表情はいつになく厳しさを増している。
「なら、聴いておいてもらおうか。お主のこれからの役人人生のなかで、なにか役に立つかもしれぬからの」
なんとも御大層なことを許敬宗は云う。なんだか嫌な感じがしたが、その一方で、これで己の運命が大きく変わっていくような妙な期待もある。そんな微妙な思いのなかで、
「いいですね、喜んで拝聴しましょう」
そう李義府は思わず云ってしまう。その答えに納得したのか、杯を雙陸の盤の上に置くと、許敬宗は改めて正面から李義府と向かいあった。
「元々は才人として入宮した武媚娘が、どのような経緯で先帝の侍女として仕えるようになったかは、存じておるかな?」
「ええ、俺もまだ朝廷に務め始めたばかりの若い頃でしたが、ちょっとした騒ぎになった話ですからね」
と、李義府は頷いた。彼の認識では、武媚娘は、奇妙な讖緯騒動のせいで折角の先帝からの寵を失ってしまった可哀想な娘、そういう位置づけになっている。
「だが、実際にはそんな単純な話ではない」
政治的に複雑な裏があったのだと、許敬宗は訥々と語りだす。
「最初に媚娘を後宮へと送り込む絵を描いたのは、先年亡くなった楊師道じゃが、儂もそこに一枚咬んでおった」
いきなりの生臭い話だが、正直、李義府には驚きだった。彼のなかで楊師道という政治家は、常に保身に慎重で、そんな陰謀めいた動きなど極力避ける人間だと思っていたからだ。そんな常識が一気に引っくり返されてしまったことで、李義府は軽い興奮を覚え、許敬宗の話に耳を欹てる。
「媚娘はその美貌もさることながら、利発で肝のすわった娘じゃ。さらに、その母親が楊師道と近い血縁関係にあるという、後宮に送り込むには、まさに最適の条件を兼ね備えておった。儂らの思いとしては、主上の寵を得られればさらに理想的だが、まず後宮内にいわゆる『楊氏閥』を形成するための要になってほしい。それが一番の狙いじゃった」
この話には、実は前段階がある。武照が後宮に入るちょっと前、文徳皇后を失った侘しさに耐えかね、先帝が巣王妃を新たな皇后に据えようとする動きがあったのだ。
「それに危機感を抱いた長孫無忌が魏徴を抱き込み、表の世界でこの話は潰されたわけだが、実のところ、後宮内でこの動きに反対する勢力があったことの方が問題だったのじゃ」
それは当然だろうと、李義府も思う。もしも巣王妃がいきなり皇后になれば、相対的にその他のすべての側室は後宮内での地位が低下するのだから。
「だが、先帝にはまだ巣王妃に対する未練が充分にあった」
許敬宗の語気が強まる。もし、後宮内でも巣王妃を推そうとする声がまとまるようなら、先帝の決断一つで、再度、巣王妃を皇后にという逆転の目はあり得たのだと、彼は強調する。
「そこで、楊師道は考えたわけさ。巣王妃には自分と同じ『隋』の宗室の血脈が流れている。そして、後宮内には他にも、楊淑妃や燕徳妃といった同類が存在している。普段は角突き合わせているこうした者たちの利害をうまく調整し、取りまとめてくれる者さえいれば、後宮全体の意見として巣王妃立后の話を再び俎上に載せ、それを実現することができれば、表の権力の勢力図にも変化が生まれるはずだ。うまくすれば、魏徴や長孫無忌を失脚させることも可能かもしれない。そうなれば、政治の大権は自然と自分の掌中に落ちる。つまるところ、そんな目論見があったわけさ」
当時の朝廷は侍中であった魏徴の権勢が盛んで、彼はその勢いを恃み、他の功臣や旧勢力を世襲刺史として地方に出そうという画策が進んでいた。しかし、当然、それに反発する動きもあって、廟堂は揺らいでおり、その間隙を突くことを楊師道は狙っていたわけだ。
「そこに、武照にも先帝のお手が付き、さあこれからと勢い込んだ矢先に、あの讖緯騒動が起こったわけじゃ」
間違いなくこちらの思惑が敵方に読まれ、武媚娘の動きを封じるために、誰か知恵者が策を講じたのに違いない。
「もう少し時間さえあれば、……」
許敬宗の口吻には、無念さが滲んでいる。それだけ、その計画には相当に実現性があったということなのだろう。許敬宗と武媚娘の間に繋がりがあることまでは察していたが、その始まりがそれほど古く、しかも、楊師道のような権勢欲のないことで知られた人間が絡んでいたとは、意外としか表現のしようがない。
「お蔭で、先帝からの寵も絶え、媚娘には可哀そうなことをしてしまったが、代わりに後宮から追放されることもなく、侍女として残ることができたのは幸いじゃった。後宮内の『楊氏閥』人脈を維持することはできたわけじゃからの。それだけでも儲けものと、我々は素直に引き下がることに決めたわけよ」
だが、そこから既に十年もの歳月が過ぎている。その後のことを許敬宗は語ろうとしないが、後宮に残った媚娘が、ただ漫然と先帝の侍女を務めていただけなのだろうか。
(もしかすると、廃太子事件にもなんらかの形で関わっていたのでは?)
そんな気がしてならない。だが、それを訊ねてみたとしても、さすがにそこまでは許敬宗も語りはしないだろう。そこで李義府は、話を直近の場面に戻すことにした。
「そんなところに、先帝が『晋書』の編纂を云い出された。そこで許大人、あなたはこの機に乗じて媚娘を陛下の側近くに置き、俗に云う焼け木杭に火がつくことを期待したというわけですね」
「いやいや、それはないさ」
大仰に許敬宗は手を振ってみせた。
「媚娘に対する寵はこの間ずっと絶えておったのじゃぞ。しかも、心身ともに先帝は調子を崩しておられた。そんな先帝がいまさら媚娘に手を付けることを期待するというのは、あまりにも虫が良すぎると云うものだ」
楊師道と儂が狙っていたのは、常に先帝の傍らに媚娘が控えている状況をつくりだすことで、先帝との接触が格段に増え始めていた当時の皇太子、つまり新帝に媚娘のことを意識してもらう機会を作り出すことだったのさと、許敬宗は嗤った。
「あっ、……!?」
そのあまりに予想を超えた戦略に、李義府はつい声に出してしまう。
(それは俺の考えにはなかった……)
あの当時、まだ皇太子だった今上陛下は、長孫公の自家薬籠中のもの。そんな先入観に勝手に囚われていたからだ。皇太子を握っているからこそ、長孫公の政治基盤は盤石だったわけで、
(逆にその玉をこちら側に取り込むことができれば、状況は簡単に逆転する)
李義府は許敬宗の発想の妙に、感心してしまった。
「いまの主上には、父帝に反感を抱きながら、それでいて父君の真似をしたい、父帝と同じものが欲しい、ついそんなことをお考えになってしまう癖がおありじゃ」
元々は道教の信仰に篤かったのにも関わらず、先帝に倣って、母后の供養のために寺を建立しようとしたのもその一例だが、女性に対しても同じ傾向があると許敬宗は云う。
(そう指摘されてみると、……)
確かに李義府も違和感は覚えない。
「だから、媚娘が皇太子殿下の御心を掴むことに賭けてみる値打ちは、十分にあると思っておったし、そして、その賭けに我々は勝った」
楊師道がもしもう少し長生きしていれば喜んだことじゃろうにと、許敬宗は黄ばんだ歯をみせながら不気味に嗤う。その表情が心底怖いと、李義府は感じた。なんだか膝が震えているような気もする。
「では、すでに媚娘は今上陛下と、……」
それ以上は口にするなというように、許敬宗は無言で頷いてみせた。
「先帝から寵を受けながら子をなしていない側室は、仏道に帰依して尼になるか、女道士として道観に入り、俗世とは完全に縁を絶つ決まりになっておる」
媚娘もそれに従い、女道士となって道観入りをしているが、
「なに、形だけのことさ。いま陛下の意識のなかには、既に媚娘が住みついている。こちらが上手くお膳立てすれば、陛下は必ず媚娘を掌中に収めようとされるじゃろう。その後のことは、どうとでもなる」
この先、陛下の皇后位には皇太子妃である王氏が座る予定となっているが、実際の寵愛は蕭淑妃が一身に集めており、この二人の間の確執が深いことは朝臣間でもすでに噂となっている。ここにもう一人、武照が絡んでくるとなると、後宮の情勢が一変することは必至だ。勿論、先帝の手の付いた女性をその息子が己の後宮に入れるなど、眉を顰める朝臣も多いだろうが、反対されればされるほど、より気持ちが昂ってしまうのも人の情だ。
「さてさて、これからの御代はどのようになっていくことやら、……」
そう云って許敬宗は、己の膨らんだ下腹をぽんと叩いてみせた。さらに、思わせぶりに李義府に語りかけてくる。
「太尉の天下も、果たしていつまで続くかは判らぬぞ」
「覆る可能性がある、……と?」
「うむ、媚娘という札の使い方次第では、面白いことになるやもしれぬ」
そこまで語ってから許敬宗は、元の穏やかな表情に戻った。
「しかし、先のことなど儂にも判らん。じゃが、媚娘の天命が波に乗るようであれば、どうじゃ、李舎人、儂と組んで長孫公と対抗してみる気はないかな?」
先帝の命を受けた『晋書』編纂事業には、こうした非常時に働いてくれる人材を探すという、裏の目的もあったのだ。お主なら、間違いなくそれに応えてくれると踏んで、儂はお主にも加わってもらったのだと、真剣な声音で許敬宗は云った。やはり李義府は、その最初から許敬宗の手駒の一枚として数えられていたようだ。
「あまり分のいい喧嘩ではないがな」
そうも許敬宗は付け加える。
(勝ち目があるとしても、せいぜい二分か……)
だが、博打は先が見えないからこそ面白い。これからも退屈極まりない役人生活を送らねばならないかと、秘かにうんざりしかけていたところだ。
(己の運命を変えてみたいのなら、いまがその賭け時か?)
そう肚を据えてにやりと嗤うと、許敬宗が置いていた杯に再び酒を注ぎ、それを呑み干してみせることで、李義府は答えに代えた。それを確認した許敬宗もまた、満足そうな表情を浮かべている。どうやら二人の肚は、一つに固まったようである。
【注】
※一 「太尉」
古代中国にあった官職で、三公の一つ。
現代風に云えば、軍事担当の宰相であり、防衛大臣や国防長官、国防
大臣などに相当する。主に文官が任命されたが、『唐』代では既に名誉
職となっていた
※二 「秘書少監」
宮中図書館の副長官。官品は「従四品上」
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