『晋書』編纂異聞 ~英主の妄執と陰謀~

織田正弥

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零ノ章(破)

高昌国、滅亡す(王女の困惑)〈貞観十四(六四〇)年、八月〉

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「メイファ、顔色が悪いわよ、大丈夫?」
 自分が着替えた裙襦を片付けてくれている侍女に、王女はそう声をかけた。いつもなら明るく笑顔を返してくれるメイファなのに、昨日の晩から妙に表情が暗く、話しかけても反応の返ってくるのが遅い。親しい人間がいつもと様子が違うというのは、どうにも人を不安にさせるものだと、このとき王女は初めて知った。
(伯父様のところで何かあったのかしら?)
 このところ宮城内が騒がしく、前線からの出入りも頻繁で、国王の周りでは人手が足りなくなっている。そのためにメイファも狩りだされ、ここ三日ほどは国王と交河王(麴智盛)の世話で走り回らされている。昨夜もこちらに戻ってきたのは、自分が床に就いた後だから、相当に遅かったはずで、その疲れがあるのかもしれないが、ともかくメイファの様子はあまりにもおかしかった。
「いいえ、なんでもないわ、レイラ様。ご心配なく」
 メイファはそう答えて、笑ってみせるが、その笑顔がどうにもぎこちなくて、それになにより、声の調子がよそよそしいことが、王女には気にかかった。幼い頃からともに暮らし、身分の差はあっても、実の姉妹以上の関係であると自分では思っている。そのメイファに、何か隠し事をされているような感覚が、王女にはたまらなく嫌だった。
「そう、ならいいんだけど、……。あっ、ところでメイファ、玄奘和上からいただいた仏像なんだけど、どこかで見かけなかった?」
 昨夜、就寝する前に、たしかに枕元に置いておいたはずなんだけれど、朝起きたら、無くなっていたの。どこかに落ちていなかったかしらと、王女は続ける。
「仏像、……ですか?」
 侍女の表情は、一層沈痛なものに変わっている。さあ、私は気がつかなかったけれどと、メイファは畳んだ裙襦を傍らの家具に仕舞いながら答えた。
「そう、それならいいわ。きっと、部屋のどこかに落ちていると思うから、見つけたら教えて」
 そう云って、王女は微笑んだ。そして、
(あの仏像は、あなたにあげるつもりなのだから)
 心のなかで、そっとそう呟く。
 この戦いがどのような結末を迎えるかなど、王女にはまったく予測がつかない。けれど、九分九厘、『高昌』国の敗北で終わるだろうということぐらいなら判る。もしも徹底抗戦ということになれば、王族として名誉ある死を選ぶことになるのかもしれない。
(でも、そんなことにはきっとならないわ)
 そう王女は感じている。少なくとも王族一同の雰囲気は、国王を除けば、降伏已む無しという雰囲気に包まれている。そこには国民を守ろうという意識など一欠けらもなく、いかにすれば自分たちの生活が守れるかという、保身だけである。王女はそれを浅ましいと感じながら、自分ではどうにもならないことだと、達観してもいた。王族の一員とはいえ、疎まれながらひっそりと生きていた王女には、そういう感覚が昔から習い性となっている。
(もし、降伏ということになったら、……)
 少なくとも、いまと同じような生活など望むべくもない。それどころか、
「人質として『唐』の皇帝の後宮に送るのなら、レイラがいいんじゃないか」
 そう囁かれていることも知っている。無論、そんな災厄など味わいたくはないが、その一方で、それも王族として生まれついた自分の運命だと諦めている自分がいた。
(けれど、メイファのことだけは心配だわ……)
 いつも二人一緒だったのに、自分から切り離されて、メイファは本当に一人で生き抜いていけるのだろうか。
 常識的に考えて、敗戦国の王宮に仕えていた者なら、『唐』の後宮で官奴とされる運命が待っていると考えるべきで、自分にも増して過酷な人生が待っていることは確実だ。メイファには自分と同様、幼い頃から父親がいない。だから、メイファが父親と重ね合わせて、玄奘和上に強い思いを寄せていることを王女は知っていた。だからメイファのために、玄奘からもらった仏像をせめて餞として贈ろうと、王女は心に決めていたのである。だが、そんな王女の秘かな思いを、まだメイファは知らない。

「敵軍は既に莫賀延磧も半ばを越え、その意気は軒高で、まさに破竹の勢いです。軍の総数は兵のみで五万を数え、これを支える輜重部隊は優に数倍しております。また、見たこともない攻城用の兵器を持参し、準備は万端と見受けました」
 最前線からの伝令は跪き、拱手したままの姿勢で報告を続けるが、それを聴く麴文泰の唇は紫色に変色し、全身が微かに震えている。己の楽観的な観測が無残にも打ち砕かれたことで、感情の持って行き場を完全に見失っているようだ。そして、智盛が予測した通り、かなり以前から救援を求める使者を幾度となく遣わしている西突厥の王庭からは、なんの反応もない。
「対する我が軍は、全軍を合わせましても五千余り。これを各城に分散させてしまいますと、一城あたりの守備兵は数百にすぎず、しかし、これを都城に集中させては、各城を守備することがかないません。防御の体制をどのようにしたものか、まずはご指示いただきたく、……」
 国境の最前線となる砦には五百の兵が配されていたが、『唐』の軍勢の全貌が明らかになったことで、既にその守備隊は直近の城に撤収していた。次の防衛線をどこに敷くのか、伝令は国王からの指示を待っている。だが、国王の口から発せられた言葉は、この場にいる誰もが予想していないものだった。
「もうよい、退がれ‼」
「はっ?」
「ええい、退がれと申しておるのが判らぬのか!?」
 怒りに我を忘れ、麴文泰は右の拳を思い切り机に叩きつけた。凄まじい音が鳴り響き、伝令の兵士は恐懼したままの表情で凍りついている。しかし、国王からの指示のないまま前線に戻るわけにもいかず、ただ困惑している姿はなんとも滑稽だ。
「父上、あまり昂奮なさいますな」
 荒い息を吐き、顔を真っ赤に染めている国王に対し、脇に控えていた智盛は、波斯製の硝子の高坏に注いだ葡萄酒を差し出す。それを不貞腐れたように一瞥していた文泰だったが、ひったくるように手に取ると、一気にそれを呷った。するとどこか気管にでも入ったのか、おかしな咳をしながら咽かえる。じきに咳はなんとか収まったが、どこか焦点の合っていない瞳をこちらに向けながら、国王はしゃがれ声でこう呟いた。
「儂はもう休む。交河王(智盛)、後のことは任せた」
 椅子から立ち上がり、ふらつく足元も危なげに、麴文泰はそのまま広間から姿を消していく。
「どうぞ、ゆっくりお休みください、父上。後のことはご心配なく」
(あなたがなにかを考える必要など、もうないのですから‼)
 王座に手をかけたまま、智盛は声にならない言葉をその背中に投げつけていた。

 寝所で眠っている間に人事不省に陥り、意識の戻らぬまま国王、麴文泰が死を迎えたことが公表されたのは、それから二日後のことである。戦時状態であり、健康面ではなんの問題もなかったはずの国王の突然の死に、国内の諸城は大いに動揺した。もちろん、王女レイラもその一人である。特に、日頃から一族に距離を置いていることもあり、情報を得るのが一番遅れたことで、レイラの受けた衝撃は一層激しかった。それに、いつもなら頼りになる侍女のメイファが自分以上に憔悴しきっており、不安は増幅するばかりで、王女は絶望的な感覚に囚われていた。しかも、心の拠り所である玄奘の仏像は、まだ見つかっていない。
 けれど、そんな王女の困惑をよそに、事態は既に動き出していた。
「案ずるな、私が父上の後を継ぎ、『唐』との交渉を始める」
 交河王である長子の智盛がそう宣言し、直ちに王に即位したのである。そして、同時に、新王は敵軍の侵攻に備えて、前線の城に最低限の防御態勢を敷きはしたが、実際に注力したのは、『唐』に対する謝罪と和睦の交渉を進めることだった。
 智盛は『唐』軍の総司令官である侯君集に書状を送り、
「罪があるのは先王であり、自分は『唐』に背くつもりはない」
 そう縷々弁明に努めたのである。いまは亡き父親を悪者に仕立てるのは、子として孝に背く行為ではあったが、いまの情勢にあってそんな綺麗事にこだわっている暇はない。
(効果があったか?)
 智盛がそんな淡い期待を抱いたのは、先王の葬儀のため、国内の主だった者が都城に集まっている間、侯君集は全軍を柳谷の地に留め、諸城への攻撃を休止してくれたからだった。『唐』軍のなかでは、この間に攻撃を仕掛ければ、どの城も容易く落とせますと、配下の諸将らは皆、口を揃えて侯君集に進言したのだが、彼はそれをすべて一蹴し、
「そんなことなどできるものか。陛下は『高昌』国が傲慢不遜であるために儂をこうして遣わし、天罰を代行させようとしているのだ。いま先王の墓前にある者たちを攻撃しては、問罪のための戦さという大義が立たぬではないか」
 そう大見得を切ってみせたらしい。
 このままもう暫くの間、戦闘を停止してくれば、阿史那矩の人脈を通じて『唐』の朝廷に遣わした密使が機能する時間が生まれるはずだ。その働き次第では、和睦の使者が改めて遣わされてくる可能性はある。新王は、そんな算盤を勝手に弾いていた。
 しかし、それは、やはり甘すぎる期待というものだった。
 十日の間進軍を止めていた侯君集は、全軍に命を下し、準備していた衝車や抛車といった攻城用の兵器を繰り出し、大規模な攻撃を再開したのである。その攻勢に『高昌』国内二十二城のうち十八の城がひとたまりもなく陥落し、そのなかには、副都城である田地城も含まれていた。
 そして貞観十四(六四〇)年の秋八月、ついに『唐』軍は、国王を始めとする王族らが籠る交河城にその姿を見せたのである。
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