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33、むき出しの感情
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ラファエルは一瞬躊躇する素振りを見せたけれど、立場的には公爵夫人の方が上である。逆らうことはできなかった。
「こちらはシェファール家のイリス嬢です」
まぁ、とそこで夫人は声を上げた。
「シェファール侯爵の娘ってことは、貴方の婚約者ってことじゃない」
どうやら夫人はラファエルの婚約者についても事前に知っていたようだ。ふうんと先ほどより熱心に観察してくる。
「貴方に婚約者がいると聞いた時は信じられなかったけれど、どうやら本当のようね」
ラファエルは何も答えない。余計なことを話せば根掘り葉掘り聞かれると判断したのだろう。
「それでそちらのお嬢さんは?」
「彼女は……ドラージュ家のアナベル嬢です」
夫人が大きく目を見開いた。
「ドラージュですって? 貴賤結婚した男爵家の娘ということ? そんな娘がサミュエル殿下と一緒に歌劇を観たというの?」
なぜか急に怒った口調で夫人は捲し立て、興奮した様子でアナベルに詰め寄ろうとする。しかしラファエルがそれを許さぬよう立ち塞がったので、夫人は美しい顔に苛立ちを滲ませた。
「どきなさい!」
「コルディエ公爵夫人。どうか落ち着いて下さい」
「私は十分落ち着いているわ!」
いいからどきなさいと夫人は扇子の親骨部分でラファエルの頬を叩いた。
「っ」
「ラファエル!」
彼は顔をしかめて痛みを訴えたけれど、夫人はそんなことどうでもいいとばかりアナベルを睨みつけた。その迫力にさすがのアナベルも顔を強張らせた。
「貴女、一体サミュエル様とどんな関係なの?」
「……どのような関係もございません。殿下とは今日たまたまお会いしたまでです」
「嘘おっしゃい。たまたまお会いできるものですか」
「そんなことは――」
「いいこと。貴女みたいな男爵の娘が殿下の隣を望むなんて許されないことなんですからね」
こちらの言い分を一切聞こうとしない夫人の態度にアナベルもさすがにカチンときたようだ。「お言葉ですが」と気丈にも口を開いた。
「わざわざ忠告されずとも、わたくしもそれくらいは理解しております。自分の立場も弁えず、不相応な夢ばかり見る浮かれた娘だとは思わないで下さい」
それに、とアナベルは夫人を上から下までサッと眺めた。先ほどのお返しと言わんばかりに。
「貴女の今の振る舞いこそ、王太子殿下の隣を渇望しているように見えますわ」
「なっ……」
夫人の頬がカッと赤みを帯びる。唇を震わせ、何かを発しようとしてできず、代わりにサッと扇子を振り上げた。ラファエルの時のように叩くつもりだ。今度は思いきり。イリスは息を呑み、アナベルが反射的に目を瞑った。
――しかし夫人がアナベルを傷つけることはなかった。ラファエルがその前に夫人の腕を掴んだからだ。
「公爵夫人。これ以上は騒ぎになります」
「っ。汚い手で私に触れないで!」
ラファエルはあっさり手を放す。彼は冷たく夫人を見下ろしていた。彼女の振る舞いに軽蔑した色を乗せて。
「以前のような騒ぎになれば、貴女も困るはずだ」
「お前如きが私に意見しないで!」
もはやラファエルが何を言っても夫人は激昂するばかりだ。アナベルの代わりにもう一度引っ叩こうとした彼女の手を、「もうやめて下さい、叔母さま」と小柄な少女が止めた。
それまでずっと夫人の後ろで、怯えたように見つめていた少女だった。
「これ以上騒いではお互いによくありません。どうかもう帰りましょう」
「コリンヌ! おまえがそんな調子ではとても妃の座は望めないわよ!」
「わたしはそんなもの、望んでおりません」
「何ですって? おまえまでそんなことを……!」
怒りの矛先を夫人はコリンヌへと向けた。華奢な肩を容赦なく掴み、目を覚ませというように強く揺さぶった。
これはとても名誉なことだ、サミュエルの妻になれば必ず幸せになれる、諦めることなど絶対に許さないと語る姿はまるで脅迫しているようにも見えてきて、イリスは胸を押さえた。
「イリスさん? 大丈夫? 顔が真っ青よ」
異変に気づいたアナベル声をかけてきたけれど、イリスは聞こえなかった。
夫人が恐ろしかった。ラファエルやアナベルに対して容赦なく傷つく言葉を投げかけ、暴力を振るおうとした姿、そして自分の姪でもある娘に対して叱りつける姿。
「イリス?」
今まで叱られる経験はあっても、あくまでも静かに、声を荒げずに諭すようなものであった。
自分の感情を激しく相手にぶつけて鬱憤を晴らす真似はイリスには考えられないことであったし、そんなことをする人間などいないと思っていた。
――だから夫人の振る舞いは、目の前で人が殺されたくらいイリスの心と身体に衝撃を与えた。
「ちょっ、イリスさん!」
「イリス!」
目の前が暗くなって、身体から力が抜けていく。イリスは気を失ったのだった。
「こちらはシェファール家のイリス嬢です」
まぁ、とそこで夫人は声を上げた。
「シェファール侯爵の娘ってことは、貴方の婚約者ってことじゃない」
どうやら夫人はラファエルの婚約者についても事前に知っていたようだ。ふうんと先ほどより熱心に観察してくる。
「貴方に婚約者がいると聞いた時は信じられなかったけれど、どうやら本当のようね」
ラファエルは何も答えない。余計なことを話せば根掘り葉掘り聞かれると判断したのだろう。
「それでそちらのお嬢さんは?」
「彼女は……ドラージュ家のアナベル嬢です」
夫人が大きく目を見開いた。
「ドラージュですって? 貴賤結婚した男爵家の娘ということ? そんな娘がサミュエル殿下と一緒に歌劇を観たというの?」
なぜか急に怒った口調で夫人は捲し立て、興奮した様子でアナベルに詰め寄ろうとする。しかしラファエルがそれを許さぬよう立ち塞がったので、夫人は美しい顔に苛立ちを滲ませた。
「どきなさい!」
「コルディエ公爵夫人。どうか落ち着いて下さい」
「私は十分落ち着いているわ!」
いいからどきなさいと夫人は扇子の親骨部分でラファエルの頬を叩いた。
「っ」
「ラファエル!」
彼は顔をしかめて痛みを訴えたけれど、夫人はそんなことどうでもいいとばかりアナベルを睨みつけた。その迫力にさすがのアナベルも顔を強張らせた。
「貴女、一体サミュエル様とどんな関係なの?」
「……どのような関係もございません。殿下とは今日たまたまお会いしたまでです」
「嘘おっしゃい。たまたまお会いできるものですか」
「そんなことは――」
「いいこと。貴女みたいな男爵の娘が殿下の隣を望むなんて許されないことなんですからね」
こちらの言い分を一切聞こうとしない夫人の態度にアナベルもさすがにカチンときたようだ。「お言葉ですが」と気丈にも口を開いた。
「わざわざ忠告されずとも、わたくしもそれくらいは理解しております。自分の立場も弁えず、不相応な夢ばかり見る浮かれた娘だとは思わないで下さい」
それに、とアナベルは夫人を上から下までサッと眺めた。先ほどのお返しと言わんばかりに。
「貴女の今の振る舞いこそ、王太子殿下の隣を渇望しているように見えますわ」
「なっ……」
夫人の頬がカッと赤みを帯びる。唇を震わせ、何かを発しようとしてできず、代わりにサッと扇子を振り上げた。ラファエルの時のように叩くつもりだ。今度は思いきり。イリスは息を呑み、アナベルが反射的に目を瞑った。
――しかし夫人がアナベルを傷つけることはなかった。ラファエルがその前に夫人の腕を掴んだからだ。
「公爵夫人。これ以上は騒ぎになります」
「っ。汚い手で私に触れないで!」
ラファエルはあっさり手を放す。彼は冷たく夫人を見下ろしていた。彼女の振る舞いに軽蔑した色を乗せて。
「以前のような騒ぎになれば、貴女も困るはずだ」
「お前如きが私に意見しないで!」
もはやラファエルが何を言っても夫人は激昂するばかりだ。アナベルの代わりにもう一度引っ叩こうとした彼女の手を、「もうやめて下さい、叔母さま」と小柄な少女が止めた。
それまでずっと夫人の後ろで、怯えたように見つめていた少女だった。
「これ以上騒いではお互いによくありません。どうかもう帰りましょう」
「コリンヌ! おまえがそんな調子ではとても妃の座は望めないわよ!」
「わたしはそんなもの、望んでおりません」
「何ですって? おまえまでそんなことを……!」
怒りの矛先を夫人はコリンヌへと向けた。華奢な肩を容赦なく掴み、目を覚ませというように強く揺さぶった。
これはとても名誉なことだ、サミュエルの妻になれば必ず幸せになれる、諦めることなど絶対に許さないと語る姿はまるで脅迫しているようにも見えてきて、イリスは胸を押さえた。
「イリスさん? 大丈夫? 顔が真っ青よ」
異変に気づいたアナベル声をかけてきたけれど、イリスは聞こえなかった。
夫人が恐ろしかった。ラファエルやアナベルに対して容赦なく傷つく言葉を投げかけ、暴力を振るおうとした姿、そして自分の姪でもある娘に対して叱りつける姿。
「イリス?」
今まで叱られる経験はあっても、あくまでも静かに、声を荒げずに諭すようなものであった。
自分の感情を激しく相手にぶつけて鬱憤を晴らす真似はイリスには考えられないことであったし、そんなことをする人間などいないと思っていた。
――だから夫人の振る舞いは、目の前で人が殺されたくらいイリスの心と身体に衝撃を与えた。
「ちょっ、イリスさん!」
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