2 / 49
紅茶の香りと沈黙
2話 迎えのない屋敷
しおりを挟む
馬車がぎい、と重たくきしんで止まる音に、ルシアンは静かに目を開けた。
窓の外には、かつての実家とは比べものにならないほど壮麗な屋敷がそびえている。
だが、その威容に見とれることなく、彼の視線は玄関前の一人の男へと向けられた。
やや背を丸めた、品のある初老の男性が恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました、ルシアン様。
私はこちらで執事を務めておりますセバスと申します。
主人は少々私用で出ておりまして……本日は私がご案内を務めさせていただきます」
静かな声でそう告げられた瞬間、ルシアンの胸の奥に、ぽつりと小さな寂しさが広がった。
——ああ、やはり。
嫁いできたというのに、最初に顔すら見せてくれないのか。
「そうですか……本日からお世話になります」
ルシアンは小さく返事をし、セバスの後について屋敷の中へと足を踏み入れた。
廊下には金と手間を惜しまず作られた装飾が並び、絨毯は深紅で重厚、壁には由緒ある一族の肖像画が静かに掛かっている。
だが、それらはどこか無機質で、ルシアンにはただ豪奢なだけの、冷たい通路に思えた。
誰ともすれ違うことなく、案内されたのは広く整えられた一室。
扉の前でセバスが再び頭を下げる。
「こちらで旦那様がお越しになるまでお待ちくださいませ。
温かいお飲み物も後ほどお持ちいたします」
そう告げると、セバスは静かに一礼し、音もなくその場を去っていった。
部屋に一人残されたルシアンは、椅子に腰を下ろすと、小さく息を吐いた。
——誰にも会わなかった。
これが「嫁入り」だというのなら、なんとも滑稽だ。
思わず、乾いた笑いが喉の奥で滲みそうになる。
豪華な部屋に通されたものの、どうにも落ち着かない。
ルシアンはそわそわと周囲に目をやりながら、恐る恐るソファに腰を下ろした。
肘掛けに触れる手にも、わずかに緊張がにじんでいる。
——コン、コン。
扉をノックする音に、ルシアンはわずかに背筋を伸ばした。
「どうぞ……」
おずおずと声をかけると、扉が静かに開き、メイドが一人入ってくる。
「失礼いたします。紅茶をお持ちしました」
そう言って、白い湯気を立てるカップを、ルシアンの前のテーブルにそっと置いた。
染み出すように揺れる湯気を、ルシアンはぼんやりと見つめていたが、はっとして慌てて声を出す。
「あっ……ありがとうございます」
メイドは応えることなく、無言で一礼すると、そのまま静かに扉の向こうへと姿を消した。
扉が閉まったあとも、部屋には紅茶の香りだけが、取り残されたように漂っていた。
部屋に一人きりにされ、どれほどの時間が過ぎただろうか。
カチリ、カチリと時を刻む時計の音だけが、やけに大きく耳に残る。
窓の外は、いつの間にか灰色の空がさらに濃くなり、あたりはじわじわと闇に沈んでいた。
雲に覆われた空は、太陽の位置すら分からず、ただ時間だけが静かに過ぎていく。
——歓迎されていない。
ルシアンは、はっきりとそう悟っていた。
元々、分かっていたはずのことだ。
売られるように嫁いできたこの身に、温かい言葉や微笑みなど、最初から期待するべきではなかったのだ。
けれど……
心のどこかで、この縁談が、ほんの少しでも好意的なものなのではないかと、思っていた自分がいた。
あのとき名前を聞いたときに、胸の奥がわずかに高鳴ってしまった自分が、今はひどく恥ずかしい。
自嘲のように目を伏せた、そのときだった。
——コン、コン。
再び、部屋の扉が小さく叩かれた。
「失礼する」
応える暇もないまま、扉が静かに開く。
現れたのは、長身で凛とした雰囲気を纏う、一人の男だった。
薄明かりの中でも、その姿ははっきりと分かる。
ルシアンが、ずっと心の奥で憧れていた相手——
レオニス・カレドールその人だった。
窓の外には、かつての実家とは比べものにならないほど壮麗な屋敷がそびえている。
だが、その威容に見とれることなく、彼の視線は玄関前の一人の男へと向けられた。
やや背を丸めた、品のある初老の男性が恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました、ルシアン様。
私はこちらで執事を務めておりますセバスと申します。
主人は少々私用で出ておりまして……本日は私がご案内を務めさせていただきます」
静かな声でそう告げられた瞬間、ルシアンの胸の奥に、ぽつりと小さな寂しさが広がった。
——ああ、やはり。
嫁いできたというのに、最初に顔すら見せてくれないのか。
「そうですか……本日からお世話になります」
ルシアンは小さく返事をし、セバスの後について屋敷の中へと足を踏み入れた。
廊下には金と手間を惜しまず作られた装飾が並び、絨毯は深紅で重厚、壁には由緒ある一族の肖像画が静かに掛かっている。
だが、それらはどこか無機質で、ルシアンにはただ豪奢なだけの、冷たい通路に思えた。
誰ともすれ違うことなく、案内されたのは広く整えられた一室。
扉の前でセバスが再び頭を下げる。
「こちらで旦那様がお越しになるまでお待ちくださいませ。
温かいお飲み物も後ほどお持ちいたします」
そう告げると、セバスは静かに一礼し、音もなくその場を去っていった。
部屋に一人残されたルシアンは、椅子に腰を下ろすと、小さく息を吐いた。
——誰にも会わなかった。
これが「嫁入り」だというのなら、なんとも滑稽だ。
思わず、乾いた笑いが喉の奥で滲みそうになる。
豪華な部屋に通されたものの、どうにも落ち着かない。
ルシアンはそわそわと周囲に目をやりながら、恐る恐るソファに腰を下ろした。
肘掛けに触れる手にも、わずかに緊張がにじんでいる。
——コン、コン。
扉をノックする音に、ルシアンはわずかに背筋を伸ばした。
「どうぞ……」
おずおずと声をかけると、扉が静かに開き、メイドが一人入ってくる。
「失礼いたします。紅茶をお持ちしました」
そう言って、白い湯気を立てるカップを、ルシアンの前のテーブルにそっと置いた。
染み出すように揺れる湯気を、ルシアンはぼんやりと見つめていたが、はっとして慌てて声を出す。
「あっ……ありがとうございます」
メイドは応えることなく、無言で一礼すると、そのまま静かに扉の向こうへと姿を消した。
扉が閉まったあとも、部屋には紅茶の香りだけが、取り残されたように漂っていた。
部屋に一人きりにされ、どれほどの時間が過ぎただろうか。
カチリ、カチリと時を刻む時計の音だけが、やけに大きく耳に残る。
窓の外は、いつの間にか灰色の空がさらに濃くなり、あたりはじわじわと闇に沈んでいた。
雲に覆われた空は、太陽の位置すら分からず、ただ時間だけが静かに過ぎていく。
——歓迎されていない。
ルシアンは、はっきりとそう悟っていた。
元々、分かっていたはずのことだ。
売られるように嫁いできたこの身に、温かい言葉や微笑みなど、最初から期待するべきではなかったのだ。
けれど……
心のどこかで、この縁談が、ほんの少しでも好意的なものなのではないかと、思っていた自分がいた。
あのとき名前を聞いたときに、胸の奥がわずかに高鳴ってしまった自分が、今はひどく恥ずかしい。
自嘲のように目を伏せた、そのときだった。
——コン、コン。
再び、部屋の扉が小さく叩かれた。
「失礼する」
応える暇もないまま、扉が静かに開く。
現れたのは、長身で凛とした雰囲気を纏う、一人の男だった。
薄明かりの中でも、その姿ははっきりと分かる。
ルシアンが、ずっと心の奥で憧れていた相手——
レオニス・カレドールその人だった。
24
あなたにおすすめの小説
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
黒獅子の愛でる花
なこ
BL
レノアール伯爵家次男のサフィアは、伯爵家の中でもとりわけ浮いた存在だ。
中性的で神秘的なその美しさには、誰しもが息を呑んだ。
深い碧眼はどこか憂いを帯びており、見る者を惑わすと言う。
サフィアは密かに、幼馴染の侯爵家三男リヒトと将来を誓い合っていた。
しかし、その誓いを信じて疑うこともなかったサフィアとは裏腹に、リヒトは公爵家へ婿入りしてしまう。
毎日のように愛を囁き続けてきたリヒトの裏切り行為に、サフィアは困惑する。
そんなある日、複雑な想いを抱えて過ごすサフィアの元に、幼い王太子の世話係を打診する知らせが届く。
王太子は、黒獅子と呼ばれ、前国王を王座から引きずり降ろした現王と、その幼馴染である王妃との一人息子だ。
王妃は現在、病で療養中だという。
幼い王太子と、黒獅子の王、王妃の住まう王城で、サフィアはこれまで知ることのなかった様々な感情と直面する。
サフィアと黒獅子の王ライは、二人を取り巻く愛憎の渦に巻き込まれながらも、密かにゆっくりと心を通わせていくが…
無自覚オメガとオメガ嫌いの上司
蒼井梨音
BL
ベータとして生きてきた無自覚オメガの小国直樹は、オメガ嫌いの白鷹課長のいる部署に異動になった。
ビクビクしながら、なるべく関わらないように仕事をしてたのに、
ペアを組んでいた先輩が倒れてしまい、課長がサポートすることに。
そして、なぜか課長にキスされてしまい…??
無自覚オメガ→小国直樹(24)
オメガ嫌いの上司→白鷹迅(28)アルファ
第一部・完
お読みいただき、ありがとうございました。
第二部
白鷹課長と一緒に住むことになった直樹。
プロジェクトのこととか、新しくできた友だちの啓さんのこととか。
相変わらず、直樹は無自覚に迅さんに甘えています。
第三部
入籍した直樹は、今度は結婚式がしたくなりました。
第四部
入籍したものの、まだ番になってない直樹と迅さん。
直樹が取引先のアルファに目をつけられて……
※続きもいずれ更新します。お待ちください。
直樹のイラスト、描いてもらいました。
奇跡に祝福を
善奈美
BL
家族に爪弾きにされていた僕。高等部三学年に進級してすぐ、四神の一つ、西條家の後継者である彼が記憶喪失になった。運命であると僕は知っていたけど、ずっと避けていた。でも、記憶がなくなったことで僕は彼と過ごすことになった。でも、記憶が戻ったら終わり、そんな関係だった。
※不定期更新になります。
幼馴染がいじめるのは俺だ!
むすめっすめ
BL
幼馴染が俺の事いじめてたのは、好きな子いじめちゃうやつだと思ってたのに...
「好きな奴に言われたんだ...幼馴染いじめるのとかガキみてーだって...」
「はっ...ぁ??」
好きな奴って俺じゃないの___!?
ただのいじめっ子×勘違いいじめられっ子
ーーーーーー
主人公 いじめられっ子
小鳥遊洸人
タカナシ ヒロト
小学生の頃から幼馴染の神宮寺 千透星にいじめられている。
姉の助言(?)から千透星が自分のこといじめるのは小学生特有の“好きな子いじめちゃうヤツ“だと思い込むようになり、そんな千透星を、可愛いじゃん...?と思っていた。
高校で初めて千透星に好きな人が出来たことを知ったことから、
脳破壊。
千透星への恋心を自覚する。
幼馴染 いじめっ子
神宮寺 千透星
ジングウジ チトセ
小学生の頃から幼馴染の小鳥遊 洸人をいじめている。
美形であり、陰キャの洸人とは違い周りに人が集まりやすい。(洸人は千透星がわざと自分の周りに集まらないように牽制していると勘違いしている)
転校生の須藤千尋が初恋である
異世界からきた青年医師に恋する剣士の こじらせ片想い〜紫になるまで〜
素麺えす
BL
「俺以外の誰かに恋なんてしないで⋯⋯」
「この世界で、ずっと貴方を守るから⋯俺だけをその青で癒して」
《犬系甘々剣士×猫系クーデレ医師》
気ままに旅する赤髪の剣士ロティルカレアは、異世界からやってきたという医師の青年カヤミと治療院で出会う。
あまり愛想のないカヤミだが、治療等をしてもらい関わっていく中で、たまに見せてくれる表情や優しさに惹かれ、ロティルは恋におちてしまった⋯⋯!
好き過ぎて片想いを拗らせ 一喜一憂する日々。それでも2人の距離は少しづつ縮まり⋯⋯
赤髪×青髪=紫 その過程を描くボーイズラブコメです。
○じっくり恋愛中心(後々 絡みアリ)
○旅や剣や薬草、異種族等は出てきますが、日常メインで冒険ファンタジーではないです。
魔王もいません⋯(敵対人間は有り)
春風の香
梅川 ノン
BL
名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。
母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。
そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。
雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。
自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。
雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。
3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。
オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。
番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる