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紅茶の香りと沈黙
5話 笑わない背中を見ていた
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ティータイムの招待を受けてからというもの、ルシアンはずっと悩んでいた。
なにを着て行けばいいのか。まともな服などほとんど持っていない。
仕立ての良いものは婚礼用として持たされた数着だけ。あとは実用的な部屋着ばかりだ。
メイドたちに相談するのも気が引けた。
メイド長のハンナに頼れればよかったが、ここ数日は忙しく、別館まで足を運ぶ余裕もなさそうだった。
——仕方ない、この服にしよう。
鮮やかさはないが、皺ひとつなく丁寧に畳まれていた淡い銀鼠色の一着を手に取る。
鏡に映る自分を見ながら、ルシアンは胸の奥の不安を飲み込んだ。
なにを言われるのだろう。
どうか、笑顔で終われる場であってほしい……。
そして迎えた当日。
呼びに来たのは、ハンナだった。
「ルシアン様、お時間でございます。ご案内いたしますわ」
その声を聞いた瞬間、胸の緊張が少し和らぐ。
知った顔がそこにあるだけで、こんなにも救われるものなのかとさえ思う。
ハンナのあとに続き、石畳の小道を進む。
屋敷の奥には、見事な庭園が広がっていた。
季節の花々が整然と咲き誇り、風に揺れる香りがやわらかく鼻をくすぐる。
庭の中央には白を基調としたテーブルセット。
その上には銀のポットと、焼きたての菓子が美しく並べられている。
その席に先に腰かけていたのは——
薄桃色のドレスに繊細な刺繍をあしらった、美しく可憐な女性だった。
彼女はルシアンに気づくと、ふわりと柔らかく微笑み、声をかけてきた。
「こんにちは。……ルシアン様、ですね?」
「こんにちは。今日はお招きいただきありがとうございます」
ルシアンは小さく頭を下げて礼を述べる。
レティーナは変わらぬ穏やかな笑顔で言った。
「どうぞ、座って。お話ししましょう」
ごく自然に差し出されたその言葉に、ルシアンは戸惑った。
なぜこんなにも笑顔でいられるのだろう。
心の中では怒っているのではないか。
それとも、あとで何か言われるのではないか——。
疑念が浮かんでは消えるたび、こんな素敵な方を疑う自分がひどく惨めに思えた。
レティーナはルシアンの緊張に気づいているのかいないのか、
「何か召し上がれないものはありませんか?」と気を配り、
季節の話や庭の花のことを穏やかに語っていく。
少しずつ、ルシアンの肩の力が抜けていった。
気づけば会話は落ち着いた調子で続き、久しぶりに心から「楽しい」と感じられる時間が流れていた。
だが、そのひとときのあと——
レティーナは少し表情を引き締め、口を開いた。
「……このたびは、レオニスが、本当に申し訳ございませんでした」
突然の謝罪に、ルシアンは戸惑う。
なぜレティーナが謝るのか。むしろ、自分の方が謝りたいのに——。
——これほど素敵な奥様がいて、
——あの笑い声が聞こえる子どもも、きっと明るく優しい子なのだろう。
そんな幸せな家族のもとに、何の役割も持たずに来た自分。
邪魔なのは、明らかに自分の方だ。
ルシアンは小さく首を振り、俯いたまま呟いた。
「……いえ、むしろ謝らなければならないのは、私の方です。
こんな温かな家族の中に、私のような者が入り込んでしまって……必要のない存在なのです。憎まれて当然だと、そう感じております」
そのときだった。
「——あなたが謝る必要は、何ひとつありません」
驚くほど真っ直ぐな声。
顔を上げると、レティーナが真摯な眼差しでまっすぐに見つめていた。
「私は、あなたを憎んでなどおりません。
それに——あなたは、望んでここへ来たわけではないのでしょう?」
ルシアンの喉がつかえ、言葉が出ない。
「それなのに、あの人——レオニスは、あなたが来たその日に別館に行かせてしまった。
私、それがずっと気がかりだったのです。
本当はもっと早く、お話をしたかった。遅くなってしまってごめんなさい」
レティーナの声には、怒りも嫉妬も軽蔑もなかった。
ただ真剣で、どこまでも穏やかだった。
「私は、あなたと仲良くしたいと思っています。
レオニスの妻とか、レオニスの側室という肩書きではなく……あなたという“人”と、ちゃんと向き合いたいのです」
——どうして、そんなことを言ってくれるのだろう。
胸の奥に何かがこみ上げ、ルシアンは唇を噛んだ。
「……なぜ、そこまで……気にかけてくださるのですか。
私は……側室としてここに来ました。あなたのご家族の居場所を脅かす存在で……」
レティーナは少し視線を落とし、言葉を探すように静かに口を開いた。
「……なぜ、と言われると、少し難しいですね。
でも……あなたが笑わずに過ごしている姿を、何度か見かけたことがあるのです。
遠くからでしたが、その背中があまりに寂しそうで——」
「見て見ぬふりなど、私にはできませんでした」
その一言が、柔らかな風のようにルシアンの胸を撫でていった。
長く笑わずにいた自分の背中を、確かに誰かが見ていた。
そして今、初めて心から——笑いたいと、そう思った。
なにを着て行けばいいのか。まともな服などほとんど持っていない。
仕立ての良いものは婚礼用として持たされた数着だけ。あとは実用的な部屋着ばかりだ。
メイドたちに相談するのも気が引けた。
メイド長のハンナに頼れればよかったが、ここ数日は忙しく、別館まで足を運ぶ余裕もなさそうだった。
——仕方ない、この服にしよう。
鮮やかさはないが、皺ひとつなく丁寧に畳まれていた淡い銀鼠色の一着を手に取る。
鏡に映る自分を見ながら、ルシアンは胸の奥の不安を飲み込んだ。
なにを言われるのだろう。
どうか、笑顔で終われる場であってほしい……。
そして迎えた当日。
呼びに来たのは、ハンナだった。
「ルシアン様、お時間でございます。ご案内いたしますわ」
その声を聞いた瞬間、胸の緊張が少し和らぐ。
知った顔がそこにあるだけで、こんなにも救われるものなのかとさえ思う。
ハンナのあとに続き、石畳の小道を進む。
屋敷の奥には、見事な庭園が広がっていた。
季節の花々が整然と咲き誇り、風に揺れる香りがやわらかく鼻をくすぐる。
庭の中央には白を基調としたテーブルセット。
その上には銀のポットと、焼きたての菓子が美しく並べられている。
その席に先に腰かけていたのは——
薄桃色のドレスに繊細な刺繍をあしらった、美しく可憐な女性だった。
彼女はルシアンに気づくと、ふわりと柔らかく微笑み、声をかけてきた。
「こんにちは。……ルシアン様、ですね?」
「こんにちは。今日はお招きいただきありがとうございます」
ルシアンは小さく頭を下げて礼を述べる。
レティーナは変わらぬ穏やかな笑顔で言った。
「どうぞ、座って。お話ししましょう」
ごく自然に差し出されたその言葉に、ルシアンは戸惑った。
なぜこんなにも笑顔でいられるのだろう。
心の中では怒っているのではないか。
それとも、あとで何か言われるのではないか——。
疑念が浮かんでは消えるたび、こんな素敵な方を疑う自分がひどく惨めに思えた。
レティーナはルシアンの緊張に気づいているのかいないのか、
「何か召し上がれないものはありませんか?」と気を配り、
季節の話や庭の花のことを穏やかに語っていく。
少しずつ、ルシアンの肩の力が抜けていった。
気づけば会話は落ち着いた調子で続き、久しぶりに心から「楽しい」と感じられる時間が流れていた。
だが、そのひとときのあと——
レティーナは少し表情を引き締め、口を開いた。
「……このたびは、レオニスが、本当に申し訳ございませんでした」
突然の謝罪に、ルシアンは戸惑う。
なぜレティーナが謝るのか。むしろ、自分の方が謝りたいのに——。
——これほど素敵な奥様がいて、
——あの笑い声が聞こえる子どもも、きっと明るく優しい子なのだろう。
そんな幸せな家族のもとに、何の役割も持たずに来た自分。
邪魔なのは、明らかに自分の方だ。
ルシアンは小さく首を振り、俯いたまま呟いた。
「……いえ、むしろ謝らなければならないのは、私の方です。
こんな温かな家族の中に、私のような者が入り込んでしまって……必要のない存在なのです。憎まれて当然だと、そう感じております」
そのときだった。
「——あなたが謝る必要は、何ひとつありません」
驚くほど真っ直ぐな声。
顔を上げると、レティーナが真摯な眼差しでまっすぐに見つめていた。
「私は、あなたを憎んでなどおりません。
それに——あなたは、望んでここへ来たわけではないのでしょう?」
ルシアンの喉がつかえ、言葉が出ない。
「それなのに、あの人——レオニスは、あなたが来たその日に別館に行かせてしまった。
私、それがずっと気がかりだったのです。
本当はもっと早く、お話をしたかった。遅くなってしまってごめんなさい」
レティーナの声には、怒りも嫉妬も軽蔑もなかった。
ただ真剣で、どこまでも穏やかだった。
「私は、あなたと仲良くしたいと思っています。
レオニスの妻とか、レオニスの側室という肩書きではなく……あなたという“人”と、ちゃんと向き合いたいのです」
——どうして、そんなことを言ってくれるのだろう。
胸の奥に何かがこみ上げ、ルシアンは唇を噛んだ。
「……なぜ、そこまで……気にかけてくださるのですか。
私は……側室としてここに来ました。あなたのご家族の居場所を脅かす存在で……」
レティーナは少し視線を落とし、言葉を探すように静かに口を開いた。
「……なぜ、と言われると、少し難しいですね。
でも……あなたが笑わずに過ごしている姿を、何度か見かけたことがあるのです。
遠くからでしたが、その背中があまりに寂しそうで——」
「見て見ぬふりなど、私にはできませんでした」
その一言が、柔らかな風のようにルシアンの胸を撫でていった。
長く笑わずにいた自分の背中を、確かに誰かが見ていた。
そして今、初めて心から——笑いたいと、そう思った。
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