この手に抱くぬくもりは

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紅茶の香りと沈黙

24話 君に触れた夜、全てを失った sideレオニス

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レティーナが息を引き取った夜の記憶は、霞がかったように曖昧だった。

人は、こんなにも静かに消えるのか——
あの優しかった手が冷たくなっていく感触を、忘れようとしても、忘れられない。

葬儀の準備、弔問客の応対、ユリウスのこと。
やらねばならないことは山ほどあったはずなのに、何一つ思い出せない。

ただ、空っぽだった。

まるで世界が、音のないガラスで隔てられてしまったかのようだった。

屋敷に戻っても、食事は喉を通らない。
ユリウスの前では懸命に父を演じるが、彼の小さな目の奥にも、言葉にならない悲しみがあった。

——レティーナが、いない。

その現実が胸に突き刺さるたびに、心が千切れそうになる。

誰かに、助けてほしかった。
誰でもいい。いや——

あの人の顔が、ふと浮かんだ。

静かに涙を堪えていたオメガ。
自分の前で、泣き崩れたルシアン。

なぜだろう。あのとき、確かに少しだけ——救われたような気がした。

気づけば、身体が勝手に別館へ向かっていた。

雨が降っていることにも気づかぬまま、扉の前に立つ。
迷いはなかった。ただ、会いたかった。ルシアンに。

トントン、と形ばかりのノック。返事があったかどうかも覚えていない。
ドアノブを捻り、中に入った。

ルシアンは少し顔色が悪かった。

けれど——

その香りに、心が揺らいだ。

優しく包み込むような香り。だが、どこか熱を帯び、甘く滲んでいた。
(発情期か……?)

理性が警鐘を鳴らす。それでも、すぐに吹き飛んだ。

「……なぜ君は、そんな目で私を見る……なぜ、何も言わない……!」

声が震える。
怒っていたのではない。悲しかったのだ。
何に? ルシアンに? 自分に? それすらわからない。

どうしようもなく、誰かにすがりたかった。
自分の感情を、誰かに——この痛みを、静かに受け止めてくれる存在に。

気づけば、ルシアンの身体を抱き寄せていた。

「……お願いだ、何か言ってくれ」

その声は懇願だった。
熱に浮かされたような肌の感触に、理性はすでに遠のいていた。

(違う……こんなことを、望んでいたわけじゃない……)

そう思いながらも、身体は止まらなかった。
彼の香りが、失ってしまったものの代わりのように思えて——

ルシアンが流した涙に気づいたとき、レオニスの胸は締めつけられた。

(……ごめん)

心の中で何度も繰り返した言葉は、結局、声にはならなかった。

——レティーナ、君がいない。

——そして今、私は……

とても、寂しいんだ。



朝の光が、静かに部屋へ差し込んでいた。
空は淡く晴れ、昨夜の雨の気配だけが残っている。

レオニスは目を開け、隣を見た。

——ルシアンが、静かに眠っていた。
かすかな寝息。長い睫毛。
腕の中にあった体温はシーツに残っているが、今は少し距離がある。

(……やってしまった)

胸が軋む。
彼を無理やき抱きたかったわけじゃない。
ただ、この痛みと孤独をどうにもできなかっただけだ。

レティーナを失った恐怖に喉を締めつけられ、誰かにすがりたかった。
そして、その「誰か」がルシアンだった。

優しい香りに包まれ、本能のままに——

(最低だ)

眠る横顔を見つめ、レオニスは奥歯を噛みしめる。
こんな自分が、彼のそばにいていいはずがない。

目を覚ました時、どんな顔をすればいい。
言い訳か、謝罪か、それとも何もなかったふりを——
どれも許されはしない。

そっとベッドを抜け出し、静かに衣服を整える。
外套の裾が床を擦る音だけが、部屋に響いた。

扉の前で、一度だけ振り返る。
ルシアンはまだ眠っていた。わずかに眉を寄せ、苦しげな寝顔のまま。

(……すまない)

声にはならず、心の中でそう呟く。
レオニスは扉に手をかけた。

ガチャリ——小さな音。
振り返ることは、もうなかった。

その背中には、言葉にできない罪と、逃げるような弱さが宿っていた。
誰にも知られぬように、静かに別館を去る。




レティーナを失ったあの日から、心の時計は止まったままだった。

政務、軍務、山のような文書。
仕事に没頭していれば、何も感じずにいられた。

だが夜になると、胸の奥の空洞が息づくように疼いた。

ユリウスの顔を見るのもつらい。
あの瞳がレティーナを思い出させる。
声をかけられるたび、優しい笑顔が脳裏をよぎり、返す言葉を失った。

そして、ルシアンのこと——

(私は、あの夜……最低なことをした)

一度も、顔を見に行けなかった。
どんな言葉を選んでも許される気がしない。
謝罪も、弁明も、意味を持たない。

——そんなある日。

「旦那様、申し上げにくいことですが……ルシアン様が、倒れられました」

その一言で、血の気が引いた。

「……何?」

立ち上がったことさえ自覚できないまま、震える声が漏れる。

「どこで、いつだ」

倒れた——その言葉だけで、あの華奢な背中が脳裏に浮かぶ。
自分のせいで、どれほどの負荷を背負わせてしまったのか。

続くセバスの言葉が、さらに胸を抉った。

「……妊娠しているそうです」

息が詰まる。
世界から音が消え、視界が揺れた。肺が動かない。

(……ルシアンが、妊娠……?)

頭では理解できても、心が追いつかない。
あの夜を思い出すたび、胸が灼けるように痛んだ。

(まさか……)

望んでいなかったはずだ。
拒もうとしていたはずだ。
それを押し切ったのは、他でもない自分——

(私は、なんてことを……)

椅子に崩れ落ち、額に手を当てる。
指先が、わずかに震えていた。

「医師には万全の対応を。……セバス、君もついていてくれ」

「かしこまりました」

命じ終えると、再びひとりになった。

——胸が、痛い。

レティーナを失った痛み。
ルシアンを傷つけた罪。
二つの痛みがせめぎ合い、頭が割れそうだった。

(……あの子が……)

新しい命が、ルシアンの中にある。
守らなければならない。だが、会わせる顔がない。
今さら、どんな言葉で、どんな態度で——

(ルシアン……)

名前は声に出せなかった。
ただ心の中で、何度も呼ぶ。

罪と後悔と、情けなさが、胸を焼き尽くしていく。

——そして、ようやく気づいた。

あの夜だけでなく、ずっと。
自分はルシアンを置き去りにしていたのだ、と。

(……ルシアン。会いに行くよ)

その想いが、心の奥でかすかに灯る。
けれど、それが届くには——まだ、少し時間が必要だった。
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