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私、いじめなんてしてません!
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きゃああああ!
甲高い悲鳴と、ガシャーン、と耳障りな破砕音が、大広間の空気を一瞬で凍らせた。
煌びやかなシャンデリアの灯りの下、私の目の前で、ひとりの令嬢が絵画のように美しい弧を描いて――そして、机の上の食器を巻き込んで盛大に転んだのだ。
白磁の皿が砕け、赤いワインが床に散り、宝石のようなオードブルが無残に潰れる。
さっきまで優雅な音楽と笑い声が満ちていたアルメリア王国の夜会会場は、一瞬でざわめきに塗り替えられた。
床に倒れ込んだ令嬢――ヴァレンティア王国第四王女、ミリアナ・ヴァレンティア。
私の、腹違いの妹。
「ミリアナ様!?」
「大丈夫ですか!?」
周囲の貴族たちが慌てて近づく中、妹は床に手をつき、潤んだ瞳をこちらへ向けた。
その瞳は涙で滲み、頬にはうっすらと紅潮が差し――そして、私の名を、震える声で呼ぶ。
「ひどいです……っ、アリアお姉様……!」
よく通る、よく作られた泣き声だった。
見た目だけならまさに絵に描いたような“か弱く美しい王女様”である。
ただし、私の知る彼女の中身を知っていれば、多少の演技は当然だろうと思える程度には、あざとい。
ああ、また始まったわけだ。
喉元まで出かかったため息を、私はなんとか手元の赤ワインと一緒に飲み込んだ。
「わ、私、ただ……ただ歩いていただけなのに……っ」
妹は濡れた睫毛を震わせながら、床に散らばった皿の破片を見て、肩をすくめた。
「お姉様が、後ろから押したんです……! わたくしに嫉妬して……! 本国ではわたくしに逆らえないからって、留学先でまでいじめてくるなんて、ひどすぎます……!」
夜会にふさわしくないほどの大声で、はっきりと、周囲に聞こえるように。
はぁ。
今度こそ、心の中だけで、深く息を吐いた。
もちろん、私は妹に指一本触れていない。
この場にいる全員を前にして、そんな愚かな真似をするほど、私は短慮ではないつもりだ。
けれど――この場にいる全員が理性的とは限らないし、何より、妹の「見た目」は強い。
金糸のような髪、宝石のような瞳。ふわふわのドレスを身にまとった、いかにも守ってあげたくなるお姫様。
対して、私は黒髪に黒い瞳。ヴァレンティア国内では『妾の子』と陰で囁かれ、地味で、無表情で、近寄りがたい女と評されてきた。
今いるここは、アルメリア王国の王城大広間。
華やかな音楽と香水の香りが漂うその中央で、妹はまるで舞台の上の主役のように、震える指で私を指さした。
「お姉様は昔からわたくしのことが嫌いでした……! 妾の子だからって、いつも卑屈で、そのくせ、勉強だけはできるからって偉そうで……! わたくしがリオネル王子に気に入られたのが、そんなに妬ましいんでしょう!?」
周囲から、どよ、と低いざわめきが上がる。
私は静かにグラスをテーブルに置き、妹のそばに歩み寄る。
「ミリアナ、立てる?」
なるべく事務的に。
余計な感情を滲ませれば、それだけで「図星を突かれて焦っている」と解釈されるだけだ。
私が手を差し出すと、妹はびくりと肩を震わせ、怯えたふりをして後ずさった。
その拍子に、また皿の破片が砕け、ワインがドレスに飛ぶ。
「近づかないでください……っ! また、わざと転ばされるかと思いました……!」
誰がどう見ても、今転んだのはあなたの足さばきの問題よ、と心の中でだけ呟く。
「床が滑りやすくなっていたようね」
私は淡々と言葉をつづける。
「どなたか、ここの床を片づけてくださる?」
「はい、すぐに」
すっと返事をしたのは、エマだった。
ヴァレンティア王国から一緒にやって来た世話係のひとり。
いいえ、正確には、もともとは私付きの侍女でありながら、今は“形式上”ミリアナ付きになっている女だ。
エマは慣れた手つきで床の破片を片づけ始める。
その姿を、妹は涙で揺れる瞳で睨みつけるように見下ろしていた。
「……ひどい」
わなわなと唇を震わせながら、妹は再び、私を見た。
「お姉様、わたくしのことがそこまでお嫌いなんですね……! 平民の娘のくせに、妾の子のくせに、わたくしより目立とうとするなんて……!」
――平民の娘。
その言葉に、胸の奥で古い傷が、ちくり、と疼いた。
*****
私たち姉妹は、同じ王女でも扱いが違う。
私は妾腹の娘で、ミリアナは正妃の娘。
父王には他にも側妃がいて、王宮の中はいつだって複雑な思惑でいっぱいだった。
ヴァレンティアとアルメリアの間に和平が結ばれたとき、
「王女を留学名目で送り込み、頃合いを見て先方の貴族に嫁がせる」という案が出た。
外交ではよくある話だ。要するに、聞こえのいい人質である。
ただ、私たちの年齢やアルメリア側の習慣もあって、すぐに結婚というわけではなかった。
まずは“留学”として数年間、学園で過ごし、そのあいだに縁談を探す──そんな形になったのだ。
アルメリア王国では、婚約は学園内の交友関係から決まることが多い。
幼い頃からの婚約もないわけではないが、少し前に自由恋愛が流行し、婚約破棄騒ぎが相次いだ結果、今では幼少期から婚約者を決める貴族は少数派になっている。
つまり、王女とはいえ人質として嫁がされる立場でありながら、ある程度は自由恋愛も許され、普通の留学生のように学園生活も送れる。
人質にしては、かなり恵まれている方だろう。
本来なら、人質はミリアナひとりで足りる。
それなのに、厄介払いのように、妾腹である私も一緒に留学させられることになった。
一年前に母を失った私は、その時点で後ろ盾をなくしていた。
“王女”という肩書きだけはあっても、中身は空っぽ。
王宮では誰からも歓迎されず、居場所もない。
そんな私を“ついで”のようにアルメリアへ送り出す――
それは、いかにも父王らしい判断だった。
留学にあたり、私たちはそれぞれ侍女をつけられたが……人数差は歴然だった。
ミリアナには五人。
私にはひとり。
エマ。幼い頃から私を案じてくれた唯一の侍女。
だが、彼女の仕事ぶりの優秀さを見た妹が「どうしてエマは私につかないの!」と喚き、最終的に“形式上”エマは妹付きになった。
もっとも私は、自分で身の回りの世話をしてきたので不自由はない。
むしろ、異国で多少の自立は必要だろうと、私は淡々と受け入れた。
問題は――妹が、“留学=人質”の意味を理解していなかったこと。
「ついに、わたくしに見合う殿方と結婚できるのね!」
夢見る姫としてアルメリアに来た彼女は、同年代の第三王子――リオネル殿下に出会うや否や“恋の標的”に定め、積極的にアプローチを始めた。
そして彼女の中で私は、いつの間にか
“意地悪で嫉妬深い姉”
に仕立て上げられていたらしい。
「お姉様、ひどい! 殿下と愛し合う私に嫉妬しているのでしょう!」
「近づかないで。わたくし達の仲を裂こうとするだなんて!」
「またそうやって私をいじめるのね...!」
……言いたい放題である。
だが、そんな言葉で私が王子から距離を置けるはずもない。
殿下とは生徒会で毎日顔を合わせるのだ。
妹が常に殿下に付きまとっているせいで、避けようとしてもどこかで鉢合わせる。
リオネル殿下は優しく、誰に対しても微笑みを絶やさない方だが、ミリアナに手を引っぱられ、困ったように眉尻を下げている姿を何度見ただろう。
そのたびに私がうまく妹を遠ざけたり、「妹がすみません」と殿下に謝罪したりする羽目になる。
妹の行動パターンは何種類あるのか、どこなら人目に触れずに移動できるのか――そういう細かいことを把握しておくのも、いつの間にか日課になっていた。
私は昔から“記憶力が良かった”。
一度見たものは全て覚える。
単なる能力というよりは、王宮で生きるための生存本能に近い。
図書館にこもり、母に教えられた内容を必死に暗記し、ミスをすれば命取りになる日々。
その積み重ねが、今の私の地頭の良さにつながっている。
そしてアルメリアに来てからも、それは変わらなかった。
成績は常に上位。
ついには首席の座をリオネル殿下と争うほどになり、「首席と次席は必ず生徒会に入る」という学園の決まりで、私は自動的に生徒会入りが決まった。
本来なら次席が副会長になるのだが――「隣国の留学生が副会長など前例がない」という理由で、私は“書記”。
実質なんでも係である。
しかし、それすら妹には気に入らなかったらしい。
「どうせ学園長を脅して入ったのでしょう! お姉様ならやりそうだわ!」
二人きりになると、妹は決まってそう糾弾した。
妹は私と違い、頭が悪いというより、努力をしなかった。
ヴァレンティアでは王妃の娘として甘やかされ、
必要なときに必要な努力をしないまま育った。
その癖はアルメリアに来ても変わらず、
学業は疎か、国の文化や言語の勉強も二の次。
私が注意しても、
「わたくしは、お姉様と違って愛嬌がありますもの」
と、根拠のない自信で片づけてしまう。
そして最近はその注意についても、
「お姉様にひどいことを言われた」
「またいじめられた」
と、周囲に吹聴してまわっているようだった。
まるで、悪役令嬢と気の弱い妹の構図を演じるかのように。
……実際のところ、
どちらが“本物の悪役”なのかは、誰も知らないままだったけれど。
*****
「何の騒ぎかな?」
落ち着いた低い声が、大広間に響いた。
人垣が左右に割れ、その隙間を縫うようにして、ひとりの青年が姿を現す。
栗色の髪に、穏やかそうな金の瞳。
派手すぎないが質の良い礼服に身を包み、誰に対しても微笑を絶やさない――
アルメリア王国第三王子、リオネル・アルメリア殿下。
私と、常に首席の座を争う男。
「リオネル様!」
ミリアナは、さっきまで転んでいたとは思えない俊敏さで立ち上がると、王子に向かって駆け寄った。
ドレスの裾を引きずり、涙で潤んだ瞳を上目遣いに向けて。
「お、落ち着いて、ミリアナ王女。怪我は?」
「リオネル様……っ、聞いてくださいませ……!」
妹はまるで、この場にいる誰よりも王子を頼りにしているかのような顔で、腕に縋りつく。
「わたくし、ずっと……ずっとお姉様にいじめられていたんです……」
私はグラスを手に取り直し、一口、喉を潤した。
薄めのワインが、やけに甘く感じる。
「いじめ、だって?」
リオネル殿下は眉をひそめるでもなく、ただ穏やかに問う。
その金の瞳が、妹から私へと、一瞬だけ揺れた。
「はい……! お姉様は、いつもわたくしを馬鹿にして――」
妹は、わっと涙をこぼしながら、言葉を並べた。
「ヴァレンティアでは、わたくしに逆らえないからって……ここでは、さりげなくドレスやアクセサリーを貶したり、難しい本を渡してきて、わざとわたくしに恥をかかせようとするんです……! それだけじゃなくて、今日は、リオネル様からいただいたドレスを破られて、倉庫に閉じ込められて……!」
その言葉に、周囲が一斉にどよめく。
確かに、妹の着ているドレスは数日前に“見せびらかし”に来たものと違っていた。
『リオネル様からいただいたのよ!』
と、あのとき得意げに持ってきたドレス。
アルメリア王国が留学生に正装を用意するのは当然で、建前上は同年代の第三王子――リオネル殿下からの贈り物という形式になっている。
実際、私が今着ているドレスも、名目上はリオネル殿下から贈られたものだ。
その“王家名義のドレス”を破ったとなれば、
ただの姉妹喧嘩では済まない。
国同士の関係に響く可能性すらある。
大広間に、ざわっ、とひときわ大きなざわめきが広がった。
「ドレスを、破られた……?」
「倉庫に閉じ込められた? そんな話、聞いていないぞ」
「犯人は、誰だと言うのだね」
ささやき合う貴族たちの視線が、一斉に私に集まる。
まるで、舞台上に吊るされたスポットライトのように、熱を帯びて。
妹は震える指で、まっすぐ私を指差した。
「犯人は……お姉様です」
織物のように繊細な沈黙が、場を覆った。
少し遅れて、その布を破るように、誰かが息を呑む音がする。
私は、静かにまばたきをひとつ落とした。
否定しようと思えば、できた。証拠などない。妹の言葉だけだ。
けれど――私は、あえて口を開かなかった。
「……そうか」
代わりに口を開いたのは、リオネル殿下だった。
どこまでも穏やかで、誰を責めるでもない声音。
その目が、今度ははっきりと、私を射抜く。
「その話は、いつのことだい?」
「きょ、今日の午前です……! パーティの前に準備しようと、わたくしの部屋に戻ったら、ドレスが破られていて……その後、倉庫に呼び出されて、閉じ込められて……!ドレスは予備のものを着れたから良いのですが....私、怖くて....」
妹は震える声で訴えながら、殿下の袖に顔を埋めた。
その仕草ひとつひとつが、「守られるべきヒロイン」を完璧に演じている。
殿下は、優しくその背を撫で――そして、ふと、口元だけで笑った。
「そうか。今日の午前、ね」
「……?」
「それなら、犯人は彼女ではないよ」
静かな言葉が、唐突に落とされた。
今度こそ、大広間がはっきりとどよめく。
「ど、どういうことですの……?」
妹が顔を上げる。
涙で潤んだ瞳が、信じられないものでも見るように揺れた。
「今日の午前中、君の“お姉様”は学園長室にいた。僕と一緒にね」
リオネル殿下は、あくまで穏やかに説明を続ける。
「今後の留学制度についての見直しがあってね。そのための議論や、既に起きた問題の解決方針について話し合っていたんだ」
リオネル殿下の言葉に、私は静かに頷く。
会合の証人は多い。学園長も、パーティの協力者である貴族も、他の生徒会メンバーも参加していた。
「学園長。今朝の会合のことを、ここで一度、皆の前で確認してもらえるかな」
話を振られた学園長は、話し始める。
「ええ、もちろん。今朝の十時から正午まで、第三王子殿下と、ヴァレンティア国王女殿下――ええと……」
「アリアで結構ですわ」
私は、静かに一歩前に出る。
「アリア王女殿下は、会合の最初から最後まで、学園長室にいらっしゃいました。途中退席もございません」
学園長は、はっきりと言い切る。
「そういうわけだよ、ミリアナ王女」
リオネル殿下は、ゆるやかに微笑んだ。
「君のドレスを破ったのが誰かは知らないけれど――少なくとも、その時間、姉君は犯行不可能だ」
「そ、そんな……!」
妹の顔から、さっと血の気が引いた。
周囲の視線が、一斉に妹へと向かう。
さっきまで「かわいそうな第四王女」に同情していた者たちの目が、今度は疑念と興味を帯びて揺れ始める。
「自作自演ではないか?」
「いや、さすがに……」
「けれど、時間の辻褄は合わぬぞ」
ささやき声が、幾つも重なる。
リオネル殿下は、そんな彼らを一瞥しただけで、続けた。
「本当は、この話は裏でひっそりと決着をつけるつもりだった。君の名誉もあるしね。けれど――この場でこうして話を持ち出したのは、君の方だ。ならば、こちらもここで伝えさせてもらおう」
「な、何を、ですの……?」
「君の“留学”についての話だよ」
殿下の声は、やはり穏やかだった。
私は、グラスの中の赤い液体を見つめる。
まるで、何年も前に嗅いだ、別の赤い液体の匂いを思い出しそうになって、そっとまぶたを伏せた。
――あの日のことを、思い出す。
薄暗い階段。
石の床の上に、広がっていた赤。
あの日から、私の時間は、ずっと止まったままだった。
それが――今日、ようやく動き出す。
「ミリアナ王女殿下――あなたの帰国が、正式に決まった」
大広間の空気が、一度止まる。
「……き、帰国?」
ミリアナの声が、かすれた囁きになった。
「そ、そんなはずありませんわ。だって、わたくしはヴァレンティア王国第四王女ですのよ? 和平の証としてアルメリアに留学しているのに……!」
リオネル殿下は、あくまで穏やかな笑みを崩さない。
「そう。だからこそ、だよ。和平を壊さないためにも、これ以上、アルメリアの慣習を無視して振る舞い続けるわけにはいかない。君がこの一年間にしてきたことは、すでに限度を超えている。いじめのような汚い真似をする令嬢は、例え隣国の留学生であっても、見過ごせない」
「わ、私、いじめなんてしていません!」
「本当に?」
殿下の声が一段、低くなった。
その変化に、ミリアナがびくりと肩を震わせる。
「いじめているのはお姉様よ!私は被害者ですわ!私、怖くて――」
「使用人への暴言、度を越えた折檻。授業中の妨害。他人のドレスを踏む、舞踏会でパートナーを横取りする……全て君がしてきたことだ。どれも、“軽い悪戯”で済ませられる範囲を超えている」
「あ、あの方たちは平民ですもの!平民は人ではないわ――!!」
そこまで言って、ようやくミリアナは自分の口から零れた言葉に気づいたらしい。
しかし、遅い。
大広間の空気が、はっきりと変わった。
――ああ。やっぱり、言うと思った。
私は内心でだけ、乾いた笑いを洩らす。
「だから、あれほど“文化を学べ”と言ったのに」
思わず、ぼそりと本音が漏れた。
周囲の貴族たちが、私とミリアナとを見比べる。
ヴァレンティアは特権階級意識が強い国で、平民の人権は認められていない。だが、アルメリアをはじめとする国々では、数十年前から身分制度の緩和を進めている。
平民も人権が与えられ、功績があれば官職に就き、武功を立てれば騎士爵を与えられることもある。
“平民は人ではない”などという感覚は、少なくとも公の場で言っていいものではない。
ミリアナは焦りながら言い訳を口にする。
「でも、それでも強制帰国させるほどですか?アルメリアは特権階級意識が薄れている文化とはいえ、相手は使用人、私は王女なのよ。相手が貴族令嬢ならまだしも」
「貴族令嬢なのですよ」
「え?」
「ミリアナ王女。あなたが侮辱した“使用人”の中には、アルメリア貴族の娘が多く含まれている」
リオネル殿下がはっきりと言った。
「うそ……」
「この国では、子爵家や男爵家の三女、四女が、行儀見習いや家同士の繋がりのために、王城や高位貴族の屋敷で侍女として働く慣習がある。彼女たちは立場こそ侍女だが、れっきとした貴族令嬢だ。彼女たちへの賠償金については、後日、直接ヴァレンティア王国へ請求させていただく」
ミリアナの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そ、そんな……だって、皆、地味な服を着ていましたわ……!」
「服装で人の価値を決めるのは、ヴァレンティアのやり方かい?」
殿下の声は静かだが、その奥に冷えたものがあった。
「君が侍女だと思って侮辱した人の中に、子爵家のご令嬢がいてね。彼女の家は、アルメリアとヴァレンティアとの交易を担う重要な一族だ。……さすがに、このまま見過ごすわけにはいかない」
ささやきが、また広がる。
「だから、強制帰国……」
「王女とはいえ、あれでは……」
「妾腹の方の王女のほうが、よほど礼儀をわきまえているな」
聞こえないふりをする。
別に彼らの評価が欲しくてやっているわけではない。
「ですが……!」
ミリアナは、殿下の袖を必死に掴んだ。
「リオネル様は、わたくしがいなくなったらお困りでしょう!? 和平はどうなるのですか? わたくしと殿下の婚姻は? 殿下は、わたくしのことがお好きなのでしょう?」
ああ、この子は最後まで、そういうところが変わらない。
リオネル殿下は少しだけ目を細め――おもむろに、彼女の手を外した。
「君は何か、勘違いをしているようだね」
殿下の視線が、ゆっくりと私に向く。
心臓が、ひとつだけ強く打った。
「今日、この場にはもうひとつ――大事な報せがある」
殿下の声がよく通るように、大広間の楽団が演奏を止める。
人々の視線が一点に集まり、空気が張り詰めた。
「ヴァレンティア第四王女ミリアナ殿下の留学打ち切りと、帰国、賠償金の件。そして――」
リオネル殿下は、私のそばに一歩近づき、迷いなく手を取った。
「アルメリア王国第三王子リオネル・アルメリアと、ヴァレンティア王国王女アリア・ヴァレンティアとの婚約、だ」
大広間がざわめきに揺れた。
「妾腹の……?」
「だが、教養は申し分ないと聞く」
「アルメリアの価値観なら、身分より実力か」
そんな声の隙間から、ひときわ鋭い悲鳴がつき抜けてきた。
「なんでよぉおおおお!」
ミリアナだ。
「妾の子ですのよ!? 王妃の娘はわたくしですのに! どうしてお姉様が……!」
「アルメリアにとって重要なのは、“正妻の子かどうか”ではない」
殿下は淡々と言った。
「彼女がヴァレンティア国王の実子であり、王女であることは変わらない。そして――アルメリアの文化や慣習を理解しようと努め、学業にも励み、留学生として恥ずかしくない振る舞いをしてきた」
にこり、と私の手を握る力が少しだけ強まる。
「何より、」
そこで殿下は、わざと聞こえよがしに言葉を継いだ。
「私は、この女性以外と結婚したいと思えないからね」
どこからか、息を呑む音や、黄色い悲鳴にも似たどよめきが上がる。
ミリアナは最後まで、「そんなの認めませんわ!」「わたくしのほうが可愛いのに!」と喚き続けていたが――夜会はそれ以上荒れることなく、形式的な乾杯と挨拶を済ませ、早めにお開きとなった。
そして翌朝、ミリアナ・ヴァレンティアは予定を前倒しして帰国の途についた。
護衛騎士と侍女の一行に囲まれながら、泣き腫らした顔で私とリオネル殿下を睨みつけていたが――最後まで謝罪の言葉はなかった。
それでいい。
彼女が変わることを期待したことなど、一度もない。
欲しい結果は、既に手に入れた。
*****
すべてが終わった夜、私は自室のソファに沈み込んでいた。
窓の外にはアルメリアの夜景。まばらな灯りと遠くの街の喧騒が、かすかに耳に届く。
「お疲れさまでした、アリア様」
テーブルにワインを注いでくれるエマの声は、いつも通り落ち着いていた。
「うまくいったわね」
私はグラスを受け取る。
「ええ。ほぼ計画通りだったと思います」
「……“ほぼ”、ね」
軽く肩を竦めると、エマは申し訳なさそうでも誇らしげでもなく、ただ事実として言葉を重ねる。
「ミリアナ様があそこまで露骨に“平民は人ではない”と口にされるとは、少しだけ予想外でしたが……結果としては、むしろ良い方向に働いたのでは?」
「そうね。あっさり方がついたわ」
グラスを唇に運べば、深い渋みが舌の上に落ちてきた。
重たくもなく、軽すぎもせず、今日の私にはちょうどいい味だった。
「……誰も、彼女の言葉を信じなかったわね」
「この一年、アリア様が積み上げてきたものの重さです。日々の働きと態度を見てきた者にとって、どちらが正しいか判断するのは簡単でした」
エマは変わらず淡々としている。それが、昔から私は好きだった。
同情も慰めもせず、ただ事実と評価だけを静かに告げるその姿勢が――今夜のような夜には、特にありがたかった。
パーティ会場の光景が、ふいに脳裏に浮かぶ。
『いじめているのはお姉様よ! わたくしは被害者ですわ!』
床に座り込み、涙で頬を濡らしながら絶叫するミリアナ。
そして――信じようともしない群衆。
「滑稽だわ」
私はゆっくりと瞬きをし、ワインをもう一度ひと口飲んでから、ぽつりと呟いた。
「だって、私は本当に――妹をいじめていたもの」
*****
ミリアナは、勉強が嫌いだ。
嫌い、というよりも――「自分が努力しなければならない」という発想そのものを侮辱と感じるタイプだ。
だから私は、あの子に文化や慣習を教えるとき、わざと一番分厚くて、難しい本を選んだ。
アルメリアの歴史、貴族制度、平民の権利、近代化の経緯。
彼女が一番興味を持たなそうな分野で、なおかつ「学ばないと恥をかく」内容ばかりを、丁寧に揃えて。
『留学生として来ている以上、最低限の文化は学ばないといけないわ』
『王女としての自尊心がおありなら、なおさら』
わざと、“自尊心”に触れる言い方をする。
私に何か言われることを、ミリアナが何より嫌がるのを、よく知っていたからだ。
妾腹の娘である私からの忠告など、彼女にとっては耳を塞ぎたくなるほど不愉快だろう。
だからこそ、あえて私から言った。
『派手に遊び回ってないで、私みたいに少しは勉強したら?』
あのとき、ミリアナの顔に走った真っ赤な怒りは、今でも鮮明に覚えている。
『なによ、“私みたいに”って! 平民の娘のくせに、妾の子のくせに、調子に乗らないで!』
自分が特別な存在であり続けられるように、彼女の周囲は甘く整えられていた。
だから、本来なら「おかしい」と気づいて改めるべき瞬間も、私はわざと、彼女が気づかないように立ち回った。
甘い真綿のような、遅効性の毒で――妹を、少しずつ蝕んでいった。
わかっていて、やっていた。
あの子が私を見下すたびに、その背中をそっと押してやったのだ。
深い崖の方へ、まっすぐ歩いていけるように。
「これがいじめじゃなければ、なんだと言うのかしらね」
自嘲混じりに呟くと、エマがちらりとこちらを見る。
「アリア様」
「別に、自分を責めてるわけじゃないのよ。エマ」
エマには、別の形で協力してもらった。
アルメリアの流行に詳しい彼女に、ミリアナのドレス選びを任せたのだ。
……正確には、「任せたふり」をして、私の意図を伝えただけだけれど。
王女の衣装に「少し前の流行」を持ち込むことが、どういう意味を持つか。
エマは、察しのいい女だ。すぐに理解してくれた。
そして夜会のたびに、私は人前で、さも「姉として注意しているだけ」の体裁を取りながら、こう告げた。
『ミリアナ、そのドレス。裾のラインが古いわ。アルメリアでは今季、もう少し直線的なシルエットが好まれているの』
『知らなかったの?...留学生として来ている以上、流行くらい押さえておいた方がいいと思うけれど...』
周囲から見れば、ただマナーを咎めているだけに見える。
けれど、身分意識の高いミリアナにとっては、それは耐えがたい屈辱だったはずだ。
――自分より“下”だと思っている姉に、流行知らずだと指摘されるのだから。
人目に触れない角度で、私はほんの少しだけ、唇の端を上げる。
その小さな嘲笑は、ミリアナの位置からしか見えない。
誰にも気づかれないように、妹だけをじっくりと追い詰めるための、小さな工夫。
案の定、妹は癇癪を起こし、周囲の人間を困らせたのだった。
あの日のパーティの前、妹を倉庫に閉じ込めたのも、私の指示だ。
1時間ほど閉じ込めただけだったのだが、倉庫から出してやったとき、ミリアナのドレスは惨憺たる有り様だった。
裾は裂け、レースは引きちぎられ、装飾はほとんど原型を留めていない。
おそらく彼女は、どうせなら「誰が見てもいじめと分かる」ような状態を作ろうとしたのだろう。
私に被せる罪を、少しでも重くするために。
結局、自作自演を見抜かれてしまったわけだけど。
ただ、侍女いじめ――あれは紛れもなく、ミリアナ自身の罪だ。
彼女は本気で、侍女を「物」か、それ以下の存在だと思っていた。
だから、平民出身のエマを含め、給仕や掃除の女たちに暴言を吐き、些細な失敗で頬を叩き、時には足で蹴ることすらあった。
私は、その現場を何度も見ている。その事実をそっと、生徒会メンバーに「相談」するだけでよかった。
胸の奥に、罪悪感がないわけではない。
もしあのとき、もっと別の教え方をしていたら、ミリアナはどこかで気づいて、少しは改められたのかもしれない。
私が、真綿の代わりに、鋭い針で一度だけ突き刺していれば――彼女はその痛みで目を覚ました可能性も、ゼロではなかった。
けれど。
「……私には、あの子を“改める”義務なんてないもの」
小さく吐き出した言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。
「……アリア様」
エマが少しだけ目を細める。
その視線には、非難も軽蔑もない。ただ、長い時間を共に過ごしてきた者だけが知る、静かな理解だけ。
「後悔は、していらっしゃいますか?」
「さあ。まだ、結論を出すには早いわ」
私は立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
ガラス越しに広がるアルメリアの夜景は、相変わらず美しかった。
無数の灯りが線となり、街の輪郭を描いている。
「少なくとも一つだけは、はっきりしているわ」
「と、申しますと?」
「私は妹をいじめた。徹頭徹尾、自覚的に。それでも――」
窓ガラスに映る自分の顔が、ふっと笑う。
「でも私は、ちゃんと自分が"悪役"であることを、理解しているわ」
私は手元にあるワインを見つめた。
この赤い液体を見るたびに、あの日のことを思い出す。
ヴァレンティア王宮の裏階段。
人気のない石造りの踊り場。
床一面に広がった赤。
足首から下が、不自然な角度に曲がった母の脚。
瞳を見開いたままの母の顔。
失血死だった。誰かが発見し、ちゃんと知らせていれば、もしかしたら助かったかもしれなかった。
そして、その場に居合わせながらも、何もしなかったミリアナ。『何故母様を見捨てたの?!』と泣きながら訴える私に対して、冷たく言い放った。
『なんで助ける必要があるのかしら? 平民でしょう?』
母が平民出身であることは、王宮中の誰もが知っていた。使用人なのに賢く、賢いゆえに、父王に気に入られ、手篭めにされた。
母は優しかった。私が苦労しないように勉強を毎日教えてくれた。夜は王宮の離れで一緒に眠った。私は母が大好きだった。母が王を好きだったかどうかわからない。だが、平民という身分ゆえに、王宮内で大変苦労をした。
事故自体は、たしかに不可抗力だったのかもしれない。
けれど――助けられた可能性が、ほんの少しでもあったのなら。
私は、あの無邪気な一言を、一生忘れない。
母を失ってから、王宮での暮らしは地獄のようだった。
マナーを知らない使用人の娘だと笑われ、食事にはしょっちゅう異物が混入し、時に毒を疑うような匂いがした。
身の安全のために、私は庭の草や、虫や、蛇の肉で飢えを凌いだ。
そんな時に舞い込んだ、“留学”の話。
厄介払いか、父王なりの情けか。
理由なんてどうでもいい。ただ私は、そこに生き延びるための道を見た。
アルメリアの文化を調べれば調べるほど、私の中で何かが熱を帯びていった。
特権階級意識が薄く、優秀な人はちゃんと評価する。
身分より実力が重んじられ、恋愛もある程度尊重される国。
アルメリアの属国である一つの公国では、平民出身の少女が王子と結ばれた例もあるという。
――ここなら、使用人の娘の私にもやりようがある。
そう思った瞬間から、私はようやく「生き延びる」以外の計画を練り始めた。
留学に行く王女は二人。表向きの人質はミリアナで、私はただの“予備”。
妹がどこかの高位貴族か王族と結婚すれば、私はその付きの侍女か、せいぜい側仕えとして生きていくのだろう。
――だが、それでは駄目だ。
妹への恨みがあるのはもちろんだが、それ以上に、私は常に「換えの利く駒」として扱われ続ける。
何か政治的な都合が変われば、すぐにでも本国へ呼び戻される立場のまま。
そんなのはごめんだ。
私は、ヴァレンティアではなくアルメリアにとっての――「換えの利かない存在」にならなければならない。
幸い、第三王子リオネル殿下には婚約者がいなかった。彼に近づくために、私は一層勉学に力を入れた。
学園の生徒会は、成績優秀者が役職に就くのが慣例。首席と次席は必ず生徒会入り、という建前がある。
けれど、隣国からの留学生がその枠に入るなど前例がなく、当然反対も多かった。
『規則は規則だが、今回は例外として……』
学園長がそう濁そうとしたとき。
私は、机の引き出しにしまわれた“ある書類”の存在を、さりげなく示した。
学園長の、不倫の証拠だ。
王城の外れに借りた小さな家。そこへ通う馬車。相手の既婚貴族夫人。
偶然見つけたわけではない。必要になったとき使えるよう、探して手に入れた手札を切っただけ。
『隣国の留学生を生徒会から外す、という前例の方が、よほど問題になると思いますけれど』
穏やかに微笑みながら、そう告げる私に、学園長は汗を浮かべていた。
結局、私は書記として生徒会入りすることで手打ちになった。
本来なら次席として副会長になるはずのところを、役職を一段下げられた形だが――
王子の傍にいるという目的は果たせる。譲歩する価値はあった。
以前、ミリアナがわめいていた。
『どうせお姉様のことだから、学園長を脅して入ったのでしょう!』
――その通りよ、と心の中でだけ、拍手を送ったものだ。
たまには、正しい推理もできるのだな、と。
リオネル殿下は、勉強は出来るが、どこかほんわかとした、柔らかい男だった。
誰とでも分け隔てなく話し、身分の高低にかかわらず同じ目線で接する。
悪くいえば、優男。よくいえば、甘さを許せる王族。
そんな男に取り入るのは、難しくなかった。
真っ向から媚びるのではなく、「偶然」を装って距離を詰めればいい。
生徒会室に、わざと一人で残る。
書類整理を理由に、殿下と二人きりになる時間を作る。
外から鍵をかけさせれば、「偶然の密室」の完成だ。
『ごめんね、帰りが遅くなってしまった。怖かっただろう?』
困ったように微笑む殿下に、私は俯いて頬を染める。
『いえ.... その、殿下が一緒でしたから』
生徒会での書類整理の時も、わざと書類を落とした。慌ててかがんだ私の手と、殿下の手が触れ合う。
そんな茶番めいた“偶然”を、いくつも、いくつも積み重ねた。
それらすべてが功を奏して、私は今の地位を手に入れたのだ。
生徒会書記として、第三王子の最も近い机に座る権利。
留学生でありながら、王子の婚約者として名を挙げられる立場。
――満足か、と問われれば。
ええ、とても満足しているわ、と私は静かに答えるだろう。
なにしろ、私はもう「予備」ではない。
この国にとっても、この男にとっても、簡単には切り捨てられない駒になったのだから。
*****
「そろそろ殿下がお見えになる頃かと。……お二人でお話しになりたいでしょう?」
「別に、そんな――」
言いかけたところで、控えめなノックが響いた。
エマが音もなく扉へ向かう。
開かれた隙間から漏れたのは、聞き慣れた穏やかな声だった。
「今、入ってもいいかな?」
「殿下、どうぞ」
エマが部屋の外へ下がり、リオネル殿下が部屋に入ってくる。
彼は穏やかな笑みを浮かべ、テーブルのワインボトルへと歩み寄った。
「飲みすぎてはいない?」
「まだ大丈夫ですわ」
「よかった。僕も少し付き合わせてくれ」
グラスに赤い液体が満ちる。
軽く重ねたグラスの音が、静かな部屋に透き通るように響いた。
「改めて。婚約、おめでとう、アリア」
「……殿下自身のことでもあるのに、“おめでとう”と言われるのは、なんだか変な感じですわね」
「ふふ。僕は嬉しいんだよ。本当にね」
殿下は一口飲んだ後、ふとこちらに視線を向ける。
「アリア。君は……僕のどんなところが好き?」
「え?」
不意を突かれ、言葉が喉で止まった。
「だって、婚約したんだ。そういう話をしてもいいだろう?」
「……殿下が誰に対しても分け隔てなく接するところを、尊敬していますわ。そこが――好きです」
殿下は静かに微笑んだ。
柔らかい、優しい笑顔。
……そのはずだった。
殿下は一度だけ視線を落とし、そして顔を上げた時――
その目の奥が、まるで別人だった。
「じゃあ僕が言う番だね。……アリア」
「はい?」
「僕はね、君の強さに惹かれたんだよ。目的のために、適切な戦略を立てて実行し、時には好きでもない相手に、まるで恋しているかのように完璧な演技を重ねる――そんな強さに」
ぞくり、と背中に冷たい汗が伝うのが分かった。
「で、殿下……何を……?」
かすれた声しか出ない私に、殿下はゆっくり歩み寄ってくる。
突然、目の前で膝を折り、ソファの背に片手をついた。
――逃げられない距離。
「最初から、気になっていたんだ」
至近距離で見つめられ、思わず息が詰まる。
「アルメリアに来て間もない頃。君は誰とも話さず、ひたすら分厚い本を積み上げていた。“自分を守るための知識”を頭に詰め込む、あの必死な顔。忘れられなかった」
必死な顔――
そんなもの、誰にも見られたくなかったのに。
「それから生徒会。君が書記に決まった時点で、だいたい察したよ。前例のない留学生の任命。あの堅物の学園長が渋々承認する……裏があるに決まっている」
「……っ」
「そして君が僕と二人だけになる“偶然”が増え始めた頃には、完全に確信した」
殿下の声は、やけに優しい。
その優しさがむしろ、刃物のように鋭く感じられた。
「君が僕を好きだから近づいてきたんじゃないことくらい、全部分かっていた。アルメリアに残るための手段として、“王子との婚約”を選んだだけだってことも」
胸が痛む。
どうしてだろう。図星を刺されたはずなのに、感情の正体が掴めない。
「それでもね」
殿下はそっと私の頬に触れ、顎を持ち上げた。
ただの無害な優男に見えていた男の、顔に触れる指が、なぜか冷たい。
「それでも、君を側に置きたいと思った」
「……どう、して……?」
「さあ。理由なんて、僕にも分からないよ」
ふわりと笑う。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
「ただ――つまらない日常の中で、歯を食いしばるみたいに必死に生きていた君が、美しくて、目を離せなかった。それだけで十分じゃない?」
「殿下……」
「君が僕を利用しているだけでも、好きじゃなくてもいい。……たとえ、そのうち僕を“邪魔だ”と思って切り捨てようとしても」
金色の瞳が、深い井戸の底のように揺れる。
「僕は、君を手放してあげられないよ」
ぞくり、と背骨が震えた。
恐怖に似ていて――
でもどこか、奇妙な安堵を孕んだ感覚。
「……困りますわ、殿下。わたくし、殿下を愛しているわけではありませんのに」
「知ってる」
即答だった。
「でもね、アリア。君は僕を“選んだ”。
この国に残るための、一番効率的な道として」
そして彼は、微笑んだまま告げる。
「だったら、その選択の代償は――僕の執着だ」
「……随分、理不尽ですこと」
「君も、相当理不尽だと思うよ?」
互いに小さく笑い合う。
たぶん、私たちは似ているのだ。
――自分の欲しい未来のためなら、多少の倫理を踏み越えてでも手を伸ばすところ。
――その相手が自分を利用していても、なお、その手を離そうとしないところ。
「いいわ。なら、せいぜい有効活用させていただきますわね、殿下」
殿下の口元がわずかに上がった。
「……うん。惚れさせるよ、アリア。
ちゃんと、逃げたいなんて一瞬たりとも思わせないくらいに」
夜景の灯りが揺れる。
その光の中で、殿下の金の瞳は、どこまでも静かで――どこまでも狂おしく優しかった。
殿下はそのまま私の顎を引き寄せ、唇を重ねる。
許したのか、と問われれば、まだ分からない。
好きかと聞かれれば、まだ答えは曖昧。
でも――少なくとも今は。
彼の温度を、拒む気にはなれなかった。
夜景の灯りが揺れる部屋で、
私たちは、静かに、そっと寄り添った。
まるで、これから始まる未来が――
思っていたより悪くないものになると、どこかで確信しているみたいに。
甲高い悲鳴と、ガシャーン、と耳障りな破砕音が、大広間の空気を一瞬で凍らせた。
煌びやかなシャンデリアの灯りの下、私の目の前で、ひとりの令嬢が絵画のように美しい弧を描いて――そして、机の上の食器を巻き込んで盛大に転んだのだ。
白磁の皿が砕け、赤いワインが床に散り、宝石のようなオードブルが無残に潰れる。
さっきまで優雅な音楽と笑い声が満ちていたアルメリア王国の夜会会場は、一瞬でざわめきに塗り替えられた。
床に倒れ込んだ令嬢――ヴァレンティア王国第四王女、ミリアナ・ヴァレンティア。
私の、腹違いの妹。
「ミリアナ様!?」
「大丈夫ですか!?」
周囲の貴族たちが慌てて近づく中、妹は床に手をつき、潤んだ瞳をこちらへ向けた。
その瞳は涙で滲み、頬にはうっすらと紅潮が差し――そして、私の名を、震える声で呼ぶ。
「ひどいです……っ、アリアお姉様……!」
よく通る、よく作られた泣き声だった。
見た目だけならまさに絵に描いたような“か弱く美しい王女様”である。
ただし、私の知る彼女の中身を知っていれば、多少の演技は当然だろうと思える程度には、あざとい。
ああ、また始まったわけだ。
喉元まで出かかったため息を、私はなんとか手元の赤ワインと一緒に飲み込んだ。
「わ、私、ただ……ただ歩いていただけなのに……っ」
妹は濡れた睫毛を震わせながら、床に散らばった皿の破片を見て、肩をすくめた。
「お姉様が、後ろから押したんです……! わたくしに嫉妬して……! 本国ではわたくしに逆らえないからって、留学先でまでいじめてくるなんて、ひどすぎます……!」
夜会にふさわしくないほどの大声で、はっきりと、周囲に聞こえるように。
はぁ。
今度こそ、心の中だけで、深く息を吐いた。
もちろん、私は妹に指一本触れていない。
この場にいる全員を前にして、そんな愚かな真似をするほど、私は短慮ではないつもりだ。
けれど――この場にいる全員が理性的とは限らないし、何より、妹の「見た目」は強い。
金糸のような髪、宝石のような瞳。ふわふわのドレスを身にまとった、いかにも守ってあげたくなるお姫様。
対して、私は黒髪に黒い瞳。ヴァレンティア国内では『妾の子』と陰で囁かれ、地味で、無表情で、近寄りがたい女と評されてきた。
今いるここは、アルメリア王国の王城大広間。
華やかな音楽と香水の香りが漂うその中央で、妹はまるで舞台の上の主役のように、震える指で私を指さした。
「お姉様は昔からわたくしのことが嫌いでした……! 妾の子だからって、いつも卑屈で、そのくせ、勉強だけはできるからって偉そうで……! わたくしがリオネル王子に気に入られたのが、そんなに妬ましいんでしょう!?」
周囲から、どよ、と低いざわめきが上がる。
私は静かにグラスをテーブルに置き、妹のそばに歩み寄る。
「ミリアナ、立てる?」
なるべく事務的に。
余計な感情を滲ませれば、それだけで「図星を突かれて焦っている」と解釈されるだけだ。
私が手を差し出すと、妹はびくりと肩を震わせ、怯えたふりをして後ずさった。
その拍子に、また皿の破片が砕け、ワインがドレスに飛ぶ。
「近づかないでください……っ! また、わざと転ばされるかと思いました……!」
誰がどう見ても、今転んだのはあなたの足さばきの問題よ、と心の中でだけ呟く。
「床が滑りやすくなっていたようね」
私は淡々と言葉をつづける。
「どなたか、ここの床を片づけてくださる?」
「はい、すぐに」
すっと返事をしたのは、エマだった。
ヴァレンティア王国から一緒にやって来た世話係のひとり。
いいえ、正確には、もともとは私付きの侍女でありながら、今は“形式上”ミリアナ付きになっている女だ。
エマは慣れた手つきで床の破片を片づけ始める。
その姿を、妹は涙で揺れる瞳で睨みつけるように見下ろしていた。
「……ひどい」
わなわなと唇を震わせながら、妹は再び、私を見た。
「お姉様、わたくしのことがそこまでお嫌いなんですね……! 平民の娘のくせに、妾の子のくせに、わたくしより目立とうとするなんて……!」
――平民の娘。
その言葉に、胸の奥で古い傷が、ちくり、と疼いた。
*****
私たち姉妹は、同じ王女でも扱いが違う。
私は妾腹の娘で、ミリアナは正妃の娘。
父王には他にも側妃がいて、王宮の中はいつだって複雑な思惑でいっぱいだった。
ヴァレンティアとアルメリアの間に和平が結ばれたとき、
「王女を留学名目で送り込み、頃合いを見て先方の貴族に嫁がせる」という案が出た。
外交ではよくある話だ。要するに、聞こえのいい人質である。
ただ、私たちの年齢やアルメリア側の習慣もあって、すぐに結婚というわけではなかった。
まずは“留学”として数年間、学園で過ごし、そのあいだに縁談を探す──そんな形になったのだ。
アルメリア王国では、婚約は学園内の交友関係から決まることが多い。
幼い頃からの婚約もないわけではないが、少し前に自由恋愛が流行し、婚約破棄騒ぎが相次いだ結果、今では幼少期から婚約者を決める貴族は少数派になっている。
つまり、王女とはいえ人質として嫁がされる立場でありながら、ある程度は自由恋愛も許され、普通の留学生のように学園生活も送れる。
人質にしては、かなり恵まれている方だろう。
本来なら、人質はミリアナひとりで足りる。
それなのに、厄介払いのように、妾腹である私も一緒に留学させられることになった。
一年前に母を失った私は、その時点で後ろ盾をなくしていた。
“王女”という肩書きだけはあっても、中身は空っぽ。
王宮では誰からも歓迎されず、居場所もない。
そんな私を“ついで”のようにアルメリアへ送り出す――
それは、いかにも父王らしい判断だった。
留学にあたり、私たちはそれぞれ侍女をつけられたが……人数差は歴然だった。
ミリアナには五人。
私にはひとり。
エマ。幼い頃から私を案じてくれた唯一の侍女。
だが、彼女の仕事ぶりの優秀さを見た妹が「どうしてエマは私につかないの!」と喚き、最終的に“形式上”エマは妹付きになった。
もっとも私は、自分で身の回りの世話をしてきたので不自由はない。
むしろ、異国で多少の自立は必要だろうと、私は淡々と受け入れた。
問題は――妹が、“留学=人質”の意味を理解していなかったこと。
「ついに、わたくしに見合う殿方と結婚できるのね!」
夢見る姫としてアルメリアに来た彼女は、同年代の第三王子――リオネル殿下に出会うや否や“恋の標的”に定め、積極的にアプローチを始めた。
そして彼女の中で私は、いつの間にか
“意地悪で嫉妬深い姉”
に仕立て上げられていたらしい。
「お姉様、ひどい! 殿下と愛し合う私に嫉妬しているのでしょう!」
「近づかないで。わたくし達の仲を裂こうとするだなんて!」
「またそうやって私をいじめるのね...!」
……言いたい放題である。
だが、そんな言葉で私が王子から距離を置けるはずもない。
殿下とは生徒会で毎日顔を合わせるのだ。
妹が常に殿下に付きまとっているせいで、避けようとしてもどこかで鉢合わせる。
リオネル殿下は優しく、誰に対しても微笑みを絶やさない方だが、ミリアナに手を引っぱられ、困ったように眉尻を下げている姿を何度見ただろう。
そのたびに私がうまく妹を遠ざけたり、「妹がすみません」と殿下に謝罪したりする羽目になる。
妹の行動パターンは何種類あるのか、どこなら人目に触れずに移動できるのか――そういう細かいことを把握しておくのも、いつの間にか日課になっていた。
私は昔から“記憶力が良かった”。
一度見たものは全て覚える。
単なる能力というよりは、王宮で生きるための生存本能に近い。
図書館にこもり、母に教えられた内容を必死に暗記し、ミスをすれば命取りになる日々。
その積み重ねが、今の私の地頭の良さにつながっている。
そしてアルメリアに来てからも、それは変わらなかった。
成績は常に上位。
ついには首席の座をリオネル殿下と争うほどになり、「首席と次席は必ず生徒会に入る」という学園の決まりで、私は自動的に生徒会入りが決まった。
本来なら次席が副会長になるのだが――「隣国の留学生が副会長など前例がない」という理由で、私は“書記”。
実質なんでも係である。
しかし、それすら妹には気に入らなかったらしい。
「どうせ学園長を脅して入ったのでしょう! お姉様ならやりそうだわ!」
二人きりになると、妹は決まってそう糾弾した。
妹は私と違い、頭が悪いというより、努力をしなかった。
ヴァレンティアでは王妃の娘として甘やかされ、
必要なときに必要な努力をしないまま育った。
その癖はアルメリアに来ても変わらず、
学業は疎か、国の文化や言語の勉強も二の次。
私が注意しても、
「わたくしは、お姉様と違って愛嬌がありますもの」
と、根拠のない自信で片づけてしまう。
そして最近はその注意についても、
「お姉様にひどいことを言われた」
「またいじめられた」
と、周囲に吹聴してまわっているようだった。
まるで、悪役令嬢と気の弱い妹の構図を演じるかのように。
……実際のところ、
どちらが“本物の悪役”なのかは、誰も知らないままだったけれど。
*****
「何の騒ぎかな?」
落ち着いた低い声が、大広間に響いた。
人垣が左右に割れ、その隙間を縫うようにして、ひとりの青年が姿を現す。
栗色の髪に、穏やかそうな金の瞳。
派手すぎないが質の良い礼服に身を包み、誰に対しても微笑を絶やさない――
アルメリア王国第三王子、リオネル・アルメリア殿下。
私と、常に首席の座を争う男。
「リオネル様!」
ミリアナは、さっきまで転んでいたとは思えない俊敏さで立ち上がると、王子に向かって駆け寄った。
ドレスの裾を引きずり、涙で潤んだ瞳を上目遣いに向けて。
「お、落ち着いて、ミリアナ王女。怪我は?」
「リオネル様……っ、聞いてくださいませ……!」
妹はまるで、この場にいる誰よりも王子を頼りにしているかのような顔で、腕に縋りつく。
「わたくし、ずっと……ずっとお姉様にいじめられていたんです……」
私はグラスを手に取り直し、一口、喉を潤した。
薄めのワインが、やけに甘く感じる。
「いじめ、だって?」
リオネル殿下は眉をひそめるでもなく、ただ穏やかに問う。
その金の瞳が、妹から私へと、一瞬だけ揺れた。
「はい……! お姉様は、いつもわたくしを馬鹿にして――」
妹は、わっと涙をこぼしながら、言葉を並べた。
「ヴァレンティアでは、わたくしに逆らえないからって……ここでは、さりげなくドレスやアクセサリーを貶したり、難しい本を渡してきて、わざとわたくしに恥をかかせようとするんです……! それだけじゃなくて、今日は、リオネル様からいただいたドレスを破られて、倉庫に閉じ込められて……!」
その言葉に、周囲が一斉にどよめく。
確かに、妹の着ているドレスは数日前に“見せびらかし”に来たものと違っていた。
『リオネル様からいただいたのよ!』
と、あのとき得意げに持ってきたドレス。
アルメリア王国が留学生に正装を用意するのは当然で、建前上は同年代の第三王子――リオネル殿下からの贈り物という形式になっている。
実際、私が今着ているドレスも、名目上はリオネル殿下から贈られたものだ。
その“王家名義のドレス”を破ったとなれば、
ただの姉妹喧嘩では済まない。
国同士の関係に響く可能性すらある。
大広間に、ざわっ、とひときわ大きなざわめきが広がった。
「ドレスを、破られた……?」
「倉庫に閉じ込められた? そんな話、聞いていないぞ」
「犯人は、誰だと言うのだね」
ささやき合う貴族たちの視線が、一斉に私に集まる。
まるで、舞台上に吊るされたスポットライトのように、熱を帯びて。
妹は震える指で、まっすぐ私を指差した。
「犯人は……お姉様です」
織物のように繊細な沈黙が、場を覆った。
少し遅れて、その布を破るように、誰かが息を呑む音がする。
私は、静かにまばたきをひとつ落とした。
否定しようと思えば、できた。証拠などない。妹の言葉だけだ。
けれど――私は、あえて口を開かなかった。
「……そうか」
代わりに口を開いたのは、リオネル殿下だった。
どこまでも穏やかで、誰を責めるでもない声音。
その目が、今度ははっきりと、私を射抜く。
「その話は、いつのことだい?」
「きょ、今日の午前です……! パーティの前に準備しようと、わたくしの部屋に戻ったら、ドレスが破られていて……その後、倉庫に呼び出されて、閉じ込められて……!ドレスは予備のものを着れたから良いのですが....私、怖くて....」
妹は震える声で訴えながら、殿下の袖に顔を埋めた。
その仕草ひとつひとつが、「守られるべきヒロイン」を完璧に演じている。
殿下は、優しくその背を撫で――そして、ふと、口元だけで笑った。
「そうか。今日の午前、ね」
「……?」
「それなら、犯人は彼女ではないよ」
静かな言葉が、唐突に落とされた。
今度こそ、大広間がはっきりとどよめく。
「ど、どういうことですの……?」
妹が顔を上げる。
涙で潤んだ瞳が、信じられないものでも見るように揺れた。
「今日の午前中、君の“お姉様”は学園長室にいた。僕と一緒にね」
リオネル殿下は、あくまで穏やかに説明を続ける。
「今後の留学制度についての見直しがあってね。そのための議論や、既に起きた問題の解決方針について話し合っていたんだ」
リオネル殿下の言葉に、私は静かに頷く。
会合の証人は多い。学園長も、パーティの協力者である貴族も、他の生徒会メンバーも参加していた。
「学園長。今朝の会合のことを、ここで一度、皆の前で確認してもらえるかな」
話を振られた学園長は、話し始める。
「ええ、もちろん。今朝の十時から正午まで、第三王子殿下と、ヴァレンティア国王女殿下――ええと……」
「アリアで結構ですわ」
私は、静かに一歩前に出る。
「アリア王女殿下は、会合の最初から最後まで、学園長室にいらっしゃいました。途中退席もございません」
学園長は、はっきりと言い切る。
「そういうわけだよ、ミリアナ王女」
リオネル殿下は、ゆるやかに微笑んだ。
「君のドレスを破ったのが誰かは知らないけれど――少なくとも、その時間、姉君は犯行不可能だ」
「そ、そんな……!」
妹の顔から、さっと血の気が引いた。
周囲の視線が、一斉に妹へと向かう。
さっきまで「かわいそうな第四王女」に同情していた者たちの目が、今度は疑念と興味を帯びて揺れ始める。
「自作自演ではないか?」
「いや、さすがに……」
「けれど、時間の辻褄は合わぬぞ」
ささやき声が、幾つも重なる。
リオネル殿下は、そんな彼らを一瞥しただけで、続けた。
「本当は、この話は裏でひっそりと決着をつけるつもりだった。君の名誉もあるしね。けれど――この場でこうして話を持ち出したのは、君の方だ。ならば、こちらもここで伝えさせてもらおう」
「な、何を、ですの……?」
「君の“留学”についての話だよ」
殿下の声は、やはり穏やかだった。
私は、グラスの中の赤い液体を見つめる。
まるで、何年も前に嗅いだ、別の赤い液体の匂いを思い出しそうになって、そっとまぶたを伏せた。
――あの日のことを、思い出す。
薄暗い階段。
石の床の上に、広がっていた赤。
あの日から、私の時間は、ずっと止まったままだった。
それが――今日、ようやく動き出す。
「ミリアナ王女殿下――あなたの帰国が、正式に決まった」
大広間の空気が、一度止まる。
「……き、帰国?」
ミリアナの声が、かすれた囁きになった。
「そ、そんなはずありませんわ。だって、わたくしはヴァレンティア王国第四王女ですのよ? 和平の証としてアルメリアに留学しているのに……!」
リオネル殿下は、あくまで穏やかな笑みを崩さない。
「そう。だからこそ、だよ。和平を壊さないためにも、これ以上、アルメリアの慣習を無視して振る舞い続けるわけにはいかない。君がこの一年間にしてきたことは、すでに限度を超えている。いじめのような汚い真似をする令嬢は、例え隣国の留学生であっても、見過ごせない」
「わ、私、いじめなんてしていません!」
「本当に?」
殿下の声が一段、低くなった。
その変化に、ミリアナがびくりと肩を震わせる。
「いじめているのはお姉様よ!私は被害者ですわ!私、怖くて――」
「使用人への暴言、度を越えた折檻。授業中の妨害。他人のドレスを踏む、舞踏会でパートナーを横取りする……全て君がしてきたことだ。どれも、“軽い悪戯”で済ませられる範囲を超えている」
「あ、あの方たちは平民ですもの!平民は人ではないわ――!!」
そこまで言って、ようやくミリアナは自分の口から零れた言葉に気づいたらしい。
しかし、遅い。
大広間の空気が、はっきりと変わった。
――ああ。やっぱり、言うと思った。
私は内心でだけ、乾いた笑いを洩らす。
「だから、あれほど“文化を学べ”と言ったのに」
思わず、ぼそりと本音が漏れた。
周囲の貴族たちが、私とミリアナとを見比べる。
ヴァレンティアは特権階級意識が強い国で、平民の人権は認められていない。だが、アルメリアをはじめとする国々では、数十年前から身分制度の緩和を進めている。
平民も人権が与えられ、功績があれば官職に就き、武功を立てれば騎士爵を与えられることもある。
“平民は人ではない”などという感覚は、少なくとも公の場で言っていいものではない。
ミリアナは焦りながら言い訳を口にする。
「でも、それでも強制帰国させるほどですか?アルメリアは特権階級意識が薄れている文化とはいえ、相手は使用人、私は王女なのよ。相手が貴族令嬢ならまだしも」
「貴族令嬢なのですよ」
「え?」
「ミリアナ王女。あなたが侮辱した“使用人”の中には、アルメリア貴族の娘が多く含まれている」
リオネル殿下がはっきりと言った。
「うそ……」
「この国では、子爵家や男爵家の三女、四女が、行儀見習いや家同士の繋がりのために、王城や高位貴族の屋敷で侍女として働く慣習がある。彼女たちは立場こそ侍女だが、れっきとした貴族令嬢だ。彼女たちへの賠償金については、後日、直接ヴァレンティア王国へ請求させていただく」
ミリアナの顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そ、そんな……だって、皆、地味な服を着ていましたわ……!」
「服装で人の価値を決めるのは、ヴァレンティアのやり方かい?」
殿下の声は静かだが、その奥に冷えたものがあった。
「君が侍女だと思って侮辱した人の中に、子爵家のご令嬢がいてね。彼女の家は、アルメリアとヴァレンティアとの交易を担う重要な一族だ。……さすがに、このまま見過ごすわけにはいかない」
ささやきが、また広がる。
「だから、強制帰国……」
「王女とはいえ、あれでは……」
「妾腹の方の王女のほうが、よほど礼儀をわきまえているな」
聞こえないふりをする。
別に彼らの評価が欲しくてやっているわけではない。
「ですが……!」
ミリアナは、殿下の袖を必死に掴んだ。
「リオネル様は、わたくしがいなくなったらお困りでしょう!? 和平はどうなるのですか? わたくしと殿下の婚姻は? 殿下は、わたくしのことがお好きなのでしょう?」
ああ、この子は最後まで、そういうところが変わらない。
リオネル殿下は少しだけ目を細め――おもむろに、彼女の手を外した。
「君は何か、勘違いをしているようだね」
殿下の視線が、ゆっくりと私に向く。
心臓が、ひとつだけ強く打った。
「今日、この場にはもうひとつ――大事な報せがある」
殿下の声がよく通るように、大広間の楽団が演奏を止める。
人々の視線が一点に集まり、空気が張り詰めた。
「ヴァレンティア第四王女ミリアナ殿下の留学打ち切りと、帰国、賠償金の件。そして――」
リオネル殿下は、私のそばに一歩近づき、迷いなく手を取った。
「アルメリア王国第三王子リオネル・アルメリアと、ヴァレンティア王国王女アリア・ヴァレンティアとの婚約、だ」
大広間がざわめきに揺れた。
「妾腹の……?」
「だが、教養は申し分ないと聞く」
「アルメリアの価値観なら、身分より実力か」
そんな声の隙間から、ひときわ鋭い悲鳴がつき抜けてきた。
「なんでよぉおおおお!」
ミリアナだ。
「妾の子ですのよ!? 王妃の娘はわたくしですのに! どうしてお姉様が……!」
「アルメリアにとって重要なのは、“正妻の子かどうか”ではない」
殿下は淡々と言った。
「彼女がヴァレンティア国王の実子であり、王女であることは変わらない。そして――アルメリアの文化や慣習を理解しようと努め、学業にも励み、留学生として恥ずかしくない振る舞いをしてきた」
にこり、と私の手を握る力が少しだけ強まる。
「何より、」
そこで殿下は、わざと聞こえよがしに言葉を継いだ。
「私は、この女性以外と結婚したいと思えないからね」
どこからか、息を呑む音や、黄色い悲鳴にも似たどよめきが上がる。
ミリアナは最後まで、「そんなの認めませんわ!」「わたくしのほうが可愛いのに!」と喚き続けていたが――夜会はそれ以上荒れることなく、形式的な乾杯と挨拶を済ませ、早めにお開きとなった。
そして翌朝、ミリアナ・ヴァレンティアは予定を前倒しして帰国の途についた。
護衛騎士と侍女の一行に囲まれながら、泣き腫らした顔で私とリオネル殿下を睨みつけていたが――最後まで謝罪の言葉はなかった。
それでいい。
彼女が変わることを期待したことなど、一度もない。
欲しい結果は、既に手に入れた。
*****
すべてが終わった夜、私は自室のソファに沈み込んでいた。
窓の外にはアルメリアの夜景。まばらな灯りと遠くの街の喧騒が、かすかに耳に届く。
「お疲れさまでした、アリア様」
テーブルにワインを注いでくれるエマの声は、いつも通り落ち着いていた。
「うまくいったわね」
私はグラスを受け取る。
「ええ。ほぼ計画通りだったと思います」
「……“ほぼ”、ね」
軽く肩を竦めると、エマは申し訳なさそうでも誇らしげでもなく、ただ事実として言葉を重ねる。
「ミリアナ様があそこまで露骨に“平民は人ではない”と口にされるとは、少しだけ予想外でしたが……結果としては、むしろ良い方向に働いたのでは?」
「そうね。あっさり方がついたわ」
グラスを唇に運べば、深い渋みが舌の上に落ちてきた。
重たくもなく、軽すぎもせず、今日の私にはちょうどいい味だった。
「……誰も、彼女の言葉を信じなかったわね」
「この一年、アリア様が積み上げてきたものの重さです。日々の働きと態度を見てきた者にとって、どちらが正しいか判断するのは簡単でした」
エマは変わらず淡々としている。それが、昔から私は好きだった。
同情も慰めもせず、ただ事実と評価だけを静かに告げるその姿勢が――今夜のような夜には、特にありがたかった。
パーティ会場の光景が、ふいに脳裏に浮かぶ。
『いじめているのはお姉様よ! わたくしは被害者ですわ!』
床に座り込み、涙で頬を濡らしながら絶叫するミリアナ。
そして――信じようともしない群衆。
「滑稽だわ」
私はゆっくりと瞬きをし、ワインをもう一度ひと口飲んでから、ぽつりと呟いた。
「だって、私は本当に――妹をいじめていたもの」
*****
ミリアナは、勉強が嫌いだ。
嫌い、というよりも――「自分が努力しなければならない」という発想そのものを侮辱と感じるタイプだ。
だから私は、あの子に文化や慣習を教えるとき、わざと一番分厚くて、難しい本を選んだ。
アルメリアの歴史、貴族制度、平民の権利、近代化の経緯。
彼女が一番興味を持たなそうな分野で、なおかつ「学ばないと恥をかく」内容ばかりを、丁寧に揃えて。
『留学生として来ている以上、最低限の文化は学ばないといけないわ』
『王女としての自尊心がおありなら、なおさら』
わざと、“自尊心”に触れる言い方をする。
私に何か言われることを、ミリアナが何より嫌がるのを、よく知っていたからだ。
妾腹の娘である私からの忠告など、彼女にとっては耳を塞ぎたくなるほど不愉快だろう。
だからこそ、あえて私から言った。
『派手に遊び回ってないで、私みたいに少しは勉強したら?』
あのとき、ミリアナの顔に走った真っ赤な怒りは、今でも鮮明に覚えている。
『なによ、“私みたいに”って! 平民の娘のくせに、妾の子のくせに、調子に乗らないで!』
自分が特別な存在であり続けられるように、彼女の周囲は甘く整えられていた。
だから、本来なら「おかしい」と気づいて改めるべき瞬間も、私はわざと、彼女が気づかないように立ち回った。
甘い真綿のような、遅効性の毒で――妹を、少しずつ蝕んでいった。
わかっていて、やっていた。
あの子が私を見下すたびに、その背中をそっと押してやったのだ。
深い崖の方へ、まっすぐ歩いていけるように。
「これがいじめじゃなければ、なんだと言うのかしらね」
自嘲混じりに呟くと、エマがちらりとこちらを見る。
「アリア様」
「別に、自分を責めてるわけじゃないのよ。エマ」
エマには、別の形で協力してもらった。
アルメリアの流行に詳しい彼女に、ミリアナのドレス選びを任せたのだ。
……正確には、「任せたふり」をして、私の意図を伝えただけだけれど。
王女の衣装に「少し前の流行」を持ち込むことが、どういう意味を持つか。
エマは、察しのいい女だ。すぐに理解してくれた。
そして夜会のたびに、私は人前で、さも「姉として注意しているだけ」の体裁を取りながら、こう告げた。
『ミリアナ、そのドレス。裾のラインが古いわ。アルメリアでは今季、もう少し直線的なシルエットが好まれているの』
『知らなかったの?...留学生として来ている以上、流行くらい押さえておいた方がいいと思うけれど...』
周囲から見れば、ただマナーを咎めているだけに見える。
けれど、身分意識の高いミリアナにとっては、それは耐えがたい屈辱だったはずだ。
――自分より“下”だと思っている姉に、流行知らずだと指摘されるのだから。
人目に触れない角度で、私はほんの少しだけ、唇の端を上げる。
その小さな嘲笑は、ミリアナの位置からしか見えない。
誰にも気づかれないように、妹だけをじっくりと追い詰めるための、小さな工夫。
案の定、妹は癇癪を起こし、周囲の人間を困らせたのだった。
あの日のパーティの前、妹を倉庫に閉じ込めたのも、私の指示だ。
1時間ほど閉じ込めただけだったのだが、倉庫から出してやったとき、ミリアナのドレスは惨憺たる有り様だった。
裾は裂け、レースは引きちぎられ、装飾はほとんど原型を留めていない。
おそらく彼女は、どうせなら「誰が見てもいじめと分かる」ような状態を作ろうとしたのだろう。
私に被せる罪を、少しでも重くするために。
結局、自作自演を見抜かれてしまったわけだけど。
ただ、侍女いじめ――あれは紛れもなく、ミリアナ自身の罪だ。
彼女は本気で、侍女を「物」か、それ以下の存在だと思っていた。
だから、平民出身のエマを含め、給仕や掃除の女たちに暴言を吐き、些細な失敗で頬を叩き、時には足で蹴ることすらあった。
私は、その現場を何度も見ている。その事実をそっと、生徒会メンバーに「相談」するだけでよかった。
胸の奥に、罪悪感がないわけではない。
もしあのとき、もっと別の教え方をしていたら、ミリアナはどこかで気づいて、少しは改められたのかもしれない。
私が、真綿の代わりに、鋭い針で一度だけ突き刺していれば――彼女はその痛みで目を覚ました可能性も、ゼロではなかった。
けれど。
「……私には、あの子を“改める”義務なんてないもの」
小さく吐き出した言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。
「……アリア様」
エマが少しだけ目を細める。
その視線には、非難も軽蔑もない。ただ、長い時間を共に過ごしてきた者だけが知る、静かな理解だけ。
「後悔は、していらっしゃいますか?」
「さあ。まだ、結論を出すには早いわ」
私は立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
ガラス越しに広がるアルメリアの夜景は、相変わらず美しかった。
無数の灯りが線となり、街の輪郭を描いている。
「少なくとも一つだけは、はっきりしているわ」
「と、申しますと?」
「私は妹をいじめた。徹頭徹尾、自覚的に。それでも――」
窓ガラスに映る自分の顔が、ふっと笑う。
「でも私は、ちゃんと自分が"悪役"であることを、理解しているわ」
私は手元にあるワインを見つめた。
この赤い液体を見るたびに、あの日のことを思い出す。
ヴァレンティア王宮の裏階段。
人気のない石造りの踊り場。
床一面に広がった赤。
足首から下が、不自然な角度に曲がった母の脚。
瞳を見開いたままの母の顔。
失血死だった。誰かが発見し、ちゃんと知らせていれば、もしかしたら助かったかもしれなかった。
そして、その場に居合わせながらも、何もしなかったミリアナ。『何故母様を見捨てたの?!』と泣きながら訴える私に対して、冷たく言い放った。
『なんで助ける必要があるのかしら? 平民でしょう?』
母が平民出身であることは、王宮中の誰もが知っていた。使用人なのに賢く、賢いゆえに、父王に気に入られ、手篭めにされた。
母は優しかった。私が苦労しないように勉強を毎日教えてくれた。夜は王宮の離れで一緒に眠った。私は母が大好きだった。母が王を好きだったかどうかわからない。だが、平民という身分ゆえに、王宮内で大変苦労をした。
事故自体は、たしかに不可抗力だったのかもしれない。
けれど――助けられた可能性が、ほんの少しでもあったのなら。
私は、あの無邪気な一言を、一生忘れない。
母を失ってから、王宮での暮らしは地獄のようだった。
マナーを知らない使用人の娘だと笑われ、食事にはしょっちゅう異物が混入し、時に毒を疑うような匂いがした。
身の安全のために、私は庭の草や、虫や、蛇の肉で飢えを凌いだ。
そんな時に舞い込んだ、“留学”の話。
厄介払いか、父王なりの情けか。
理由なんてどうでもいい。ただ私は、そこに生き延びるための道を見た。
アルメリアの文化を調べれば調べるほど、私の中で何かが熱を帯びていった。
特権階級意識が薄く、優秀な人はちゃんと評価する。
身分より実力が重んじられ、恋愛もある程度尊重される国。
アルメリアの属国である一つの公国では、平民出身の少女が王子と結ばれた例もあるという。
――ここなら、使用人の娘の私にもやりようがある。
そう思った瞬間から、私はようやく「生き延びる」以外の計画を練り始めた。
留学に行く王女は二人。表向きの人質はミリアナで、私はただの“予備”。
妹がどこかの高位貴族か王族と結婚すれば、私はその付きの侍女か、せいぜい側仕えとして生きていくのだろう。
――だが、それでは駄目だ。
妹への恨みがあるのはもちろんだが、それ以上に、私は常に「換えの利く駒」として扱われ続ける。
何か政治的な都合が変われば、すぐにでも本国へ呼び戻される立場のまま。
そんなのはごめんだ。
私は、ヴァレンティアではなくアルメリアにとっての――「換えの利かない存在」にならなければならない。
幸い、第三王子リオネル殿下には婚約者がいなかった。彼に近づくために、私は一層勉学に力を入れた。
学園の生徒会は、成績優秀者が役職に就くのが慣例。首席と次席は必ず生徒会入り、という建前がある。
けれど、隣国からの留学生がその枠に入るなど前例がなく、当然反対も多かった。
『規則は規則だが、今回は例外として……』
学園長がそう濁そうとしたとき。
私は、机の引き出しにしまわれた“ある書類”の存在を、さりげなく示した。
学園長の、不倫の証拠だ。
王城の外れに借りた小さな家。そこへ通う馬車。相手の既婚貴族夫人。
偶然見つけたわけではない。必要になったとき使えるよう、探して手に入れた手札を切っただけ。
『隣国の留学生を生徒会から外す、という前例の方が、よほど問題になると思いますけれど』
穏やかに微笑みながら、そう告げる私に、学園長は汗を浮かべていた。
結局、私は書記として生徒会入りすることで手打ちになった。
本来なら次席として副会長になるはずのところを、役職を一段下げられた形だが――
王子の傍にいるという目的は果たせる。譲歩する価値はあった。
以前、ミリアナがわめいていた。
『どうせお姉様のことだから、学園長を脅して入ったのでしょう!』
――その通りよ、と心の中でだけ、拍手を送ったものだ。
たまには、正しい推理もできるのだな、と。
リオネル殿下は、勉強は出来るが、どこかほんわかとした、柔らかい男だった。
誰とでも分け隔てなく話し、身分の高低にかかわらず同じ目線で接する。
悪くいえば、優男。よくいえば、甘さを許せる王族。
そんな男に取り入るのは、難しくなかった。
真っ向から媚びるのではなく、「偶然」を装って距離を詰めればいい。
生徒会室に、わざと一人で残る。
書類整理を理由に、殿下と二人きりになる時間を作る。
外から鍵をかけさせれば、「偶然の密室」の完成だ。
『ごめんね、帰りが遅くなってしまった。怖かっただろう?』
困ったように微笑む殿下に、私は俯いて頬を染める。
『いえ.... その、殿下が一緒でしたから』
生徒会での書類整理の時も、わざと書類を落とした。慌ててかがんだ私の手と、殿下の手が触れ合う。
そんな茶番めいた“偶然”を、いくつも、いくつも積み重ねた。
それらすべてが功を奏して、私は今の地位を手に入れたのだ。
生徒会書記として、第三王子の最も近い机に座る権利。
留学生でありながら、王子の婚約者として名を挙げられる立場。
――満足か、と問われれば。
ええ、とても満足しているわ、と私は静かに答えるだろう。
なにしろ、私はもう「予備」ではない。
この国にとっても、この男にとっても、簡単には切り捨てられない駒になったのだから。
*****
「そろそろ殿下がお見えになる頃かと。……お二人でお話しになりたいでしょう?」
「別に、そんな――」
言いかけたところで、控えめなノックが響いた。
エマが音もなく扉へ向かう。
開かれた隙間から漏れたのは、聞き慣れた穏やかな声だった。
「今、入ってもいいかな?」
「殿下、どうぞ」
エマが部屋の外へ下がり、リオネル殿下が部屋に入ってくる。
彼は穏やかな笑みを浮かべ、テーブルのワインボトルへと歩み寄った。
「飲みすぎてはいない?」
「まだ大丈夫ですわ」
「よかった。僕も少し付き合わせてくれ」
グラスに赤い液体が満ちる。
軽く重ねたグラスの音が、静かな部屋に透き通るように響いた。
「改めて。婚約、おめでとう、アリア」
「……殿下自身のことでもあるのに、“おめでとう”と言われるのは、なんだか変な感じですわね」
「ふふ。僕は嬉しいんだよ。本当にね」
殿下は一口飲んだ後、ふとこちらに視線を向ける。
「アリア。君は……僕のどんなところが好き?」
「え?」
不意を突かれ、言葉が喉で止まった。
「だって、婚約したんだ。そういう話をしてもいいだろう?」
「……殿下が誰に対しても分け隔てなく接するところを、尊敬していますわ。そこが――好きです」
殿下は静かに微笑んだ。
柔らかい、優しい笑顔。
……そのはずだった。
殿下は一度だけ視線を落とし、そして顔を上げた時――
その目の奥が、まるで別人だった。
「じゃあ僕が言う番だね。……アリア」
「はい?」
「僕はね、君の強さに惹かれたんだよ。目的のために、適切な戦略を立てて実行し、時には好きでもない相手に、まるで恋しているかのように完璧な演技を重ねる――そんな強さに」
ぞくり、と背中に冷たい汗が伝うのが分かった。
「で、殿下……何を……?」
かすれた声しか出ない私に、殿下はゆっくり歩み寄ってくる。
突然、目の前で膝を折り、ソファの背に片手をついた。
――逃げられない距離。
「最初から、気になっていたんだ」
至近距離で見つめられ、思わず息が詰まる。
「アルメリアに来て間もない頃。君は誰とも話さず、ひたすら分厚い本を積み上げていた。“自分を守るための知識”を頭に詰め込む、あの必死な顔。忘れられなかった」
必死な顔――
そんなもの、誰にも見られたくなかったのに。
「それから生徒会。君が書記に決まった時点で、だいたい察したよ。前例のない留学生の任命。あの堅物の学園長が渋々承認する……裏があるに決まっている」
「……っ」
「そして君が僕と二人だけになる“偶然”が増え始めた頃には、完全に確信した」
殿下の声は、やけに優しい。
その優しさがむしろ、刃物のように鋭く感じられた。
「君が僕を好きだから近づいてきたんじゃないことくらい、全部分かっていた。アルメリアに残るための手段として、“王子との婚約”を選んだだけだってことも」
胸が痛む。
どうしてだろう。図星を刺されたはずなのに、感情の正体が掴めない。
「それでもね」
殿下はそっと私の頬に触れ、顎を持ち上げた。
ただの無害な優男に見えていた男の、顔に触れる指が、なぜか冷たい。
「それでも、君を側に置きたいと思った」
「……どう、して……?」
「さあ。理由なんて、僕にも分からないよ」
ふわりと笑う。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
「ただ――つまらない日常の中で、歯を食いしばるみたいに必死に生きていた君が、美しくて、目を離せなかった。それだけで十分じゃない?」
「殿下……」
「君が僕を利用しているだけでも、好きじゃなくてもいい。……たとえ、そのうち僕を“邪魔だ”と思って切り捨てようとしても」
金色の瞳が、深い井戸の底のように揺れる。
「僕は、君を手放してあげられないよ」
ぞくり、と背骨が震えた。
恐怖に似ていて――
でもどこか、奇妙な安堵を孕んだ感覚。
「……困りますわ、殿下。わたくし、殿下を愛しているわけではありませんのに」
「知ってる」
即答だった。
「でもね、アリア。君は僕を“選んだ”。
この国に残るための、一番効率的な道として」
そして彼は、微笑んだまま告げる。
「だったら、その選択の代償は――僕の執着だ」
「……随分、理不尽ですこと」
「君も、相当理不尽だと思うよ?」
互いに小さく笑い合う。
たぶん、私たちは似ているのだ。
――自分の欲しい未来のためなら、多少の倫理を踏み越えてでも手を伸ばすところ。
――その相手が自分を利用していても、なお、その手を離そうとしないところ。
「いいわ。なら、せいぜい有効活用させていただきますわね、殿下」
殿下の口元がわずかに上がった。
「……うん。惚れさせるよ、アリア。
ちゃんと、逃げたいなんて一瞬たりとも思わせないくらいに」
夜景の灯りが揺れる。
その光の中で、殿下の金の瞳は、どこまでも静かで――どこまでも狂おしく優しかった。
殿下はそのまま私の顎を引き寄せ、唇を重ねる。
許したのか、と問われれば、まだ分からない。
好きかと聞かれれば、まだ答えは曖昧。
でも――少なくとも今は。
彼の温度を、拒む気にはなれなかった。
夜景の灯りが揺れる部屋で、
私たちは、静かに、そっと寄り添った。
まるで、これから始まる未来が――
思っていたより悪くないものになると、どこかで確信しているみたいに。
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