シュガーポットに食べかけの子守唄

Life up+α

文字の大きさ
24 / 33
7章

1 小さくなる鼓動

しおりを挟む
1.
バクバクと鳴る心臓と自分の荒い呼吸がうるさいくらいに耳に入り込んでくる。呼吸のしすぎで視界がグラグラする。震えて言うことを聞きたがらない手を必死に動かし、僕はコートの布ベルトを取り去った。膝の上にイディオットの頭を乗せ、彼の血液がこれ以上、彼の身体から出て行かないようにぐるぐると巻いた。
「嫌だ、嫌だ、頼むからそんな…出て行かないでくれ…」
彼の頭に巻いたベルトがどんどんと濃い色に染まっていき、染み出した体液が僕のズボンまで染み込んでくる。生温かくて、ぬるぬるとするその体液が血液だけのものではないような気がした。気付きたくなくて、脳がその正体を突き止めることをやめる。
このまま僕が抱えていても、どうにもならない。彼の出血を止める術と道具を僕はもっていないのだ。僕は優しくイディオットの身体を地面へと降ろした。
「彼は本当に優秀な三月兎だったね。何年も何年もこの世界を繰り返していく中で、争いごとも、誰かを救うことも、立ち向かうことも、時にはモラルに反することも一通りしてくれた。見ていて本当に楽しかったよ」
少女が掴んでいたジャッジの腕から手を離す。ゴトリと力なく、ジャッジが地面に倒れ伏すのに目もくれず、彼女はただ楽しそうに拍手を送っていた。
恐怖と焦燥、悲しみで視界が歪むが、次第に湧き上がる感情に別の意味で身体が大きく震えだす。
どうにもならないような怒り。こんなに激しい怒りを今までに僕は経験したことがあるだろうか。肌の泡立つ感覚は寒気にも似ていて、全身の毛が逆立つ。拳を握りしめると、爪が手の平に食い込んで血が出そうだった。
「…オットーが…ジャッジが…何をしたって言うんだ…」
人は怒りが頂点まで達した時、むしろ声が掠れてしまことがあるのだと知る。風でかき消されてしまいそうなほどに低くて擦れた声で尋ねた僕に、少女は考えるように遠くへ視線を投げた。
「いや、私は何もされてはいない。この二人が必要な犠牲だと思ってるんだ」
「何をバカな!」
立ち上がり、少女を睨みつけると、彼女はギザギザの歯が見える口元を指先で押さえて笑った。
「まあまあ、そんなに怒らずにいてくれ。まずは自己紹介から…」
そこまで言ってから、彼女は空いた手で自分の髪を触り、その髪を見て言葉を止めた。
オレンジがかった茶髪、ふわふわとウェーブの効いた髪の毛を束ねたお下げと、薄いそばかすのある顔。いかにも西洋人らしい見た目をした彼女の姿は、アリスに似た雰囲気でありながら、限りなく似ていないように思える。
この容姿はどこか既視感がある。誰もが耳にするような名作の童話で、彼女に似合う舞台を挙げるとすれば、それは不思議の国ではない。どちらかと言えば…オズの魔法使いだ。
「ああ、ここしばらくこっちの世界は動きがなくて暇で、留守にしていたんだ。この姿のまま闊歩してしまっては、世界観が台無しになるね。こっちの姿の方がいいかな」
そう言って彼女はドレスの端と端を摘み、銀色のローファーで踵を鳴らした。それに合わせて彼女の姿が金色の粉となって散り、別の姿へと変容する。
黒に近い濃い茶色の髪を上へと上げたショートウェーブの髪型。かっちりとした西洋のスーツを着こなした、紳士的な男性の姿となって現れる。長い足で彼はつま先で地面とトントンと叩いた。
「こっちの世界ではこの姿の方がいいだろうね。仮にも、ルイスの名を借りているのだから」
帽子屋を追いかけ始めてから、たびたび聞くようになっていた名前。ルイス・キャロル、不思議の国のアリスの原作者の名前だ。
しかし、名前を借りているというあたり、本当の名前ではないのだろう。作者という配役があるならばと考えていたが、実在するとなるといよいよ疑問が確認に変わる。
「お前も何かの配役なのか。作者とでも名乗る気か」
「おお、凄い推察力だね。いや、そうでもないのか」
僕の質問にルイスはギザギザの歯を見せて笑う。その表情がどうにも腹立たしくて、僕は歯を食いしばる。
「何がおかしい。こんなことして…ジャッジにも何をしたんだ!殺す気か!」
「いや、まさか殺さないよ。動けないように両足を折っただけさ。白兎が死んだら、この時間は動き出す。そうとなれば、そこにいる恐ろしい子供が動き出してしまうじゃないか。邪魔は少ない方がいい」
彼の指す恐ろしい子供というのは、後ろで止まっているアマネのことだろうか。何にせよ、アマネが脅威になるような相手であれば、僕だって一人で戦えるはずだ。傘を握りしめ、ルイスへと銃口を向けると、彼はおどけたように両手を上げた。
「おっと、私を殺すのも推奨はしないよ。この世界を創ったのは私だ。私を殺してしまえば、この世界ごと消えてしまう。君はこの世界を愛する人々を同意なく追い出せるかい?」
作り出したトリガーにかけていた指が固まる。
トリガーが引けない。そんなのは大勢を人質に取られているのと同義だ。僕が彼を殺せば、この世界を何よりも愛しているシュラーフロージィたちが居場所を失うことになる。彼女と彼女を慕う人々が向ける不思議の国への愛を見てなお、そんな無慈悲なことは出来るわけがない。
「アスカ…私を殺せ…」
地面に倒れたまま、ジャッジが首だけで僕を見上げて弱々しい声を発した。
「私を殺せば…時間が動く…」
「そんな!出来るわけがない!」
ジャッジは接した時間こそ短いが、僕を幾度も救ってくれた恩人だ。彼を殺すなんて、そんなことしたくない。イディオットすら死にかけているというのに、二人も一気に友人を失うなんて耐えられない。
そんな様子を見ながら、ルイスはケラケラと声を上げて笑った。
「ああ、凄い。私が見たかったのはこういう物語だよ。君がまたこの世界に戻って来た時には配役に困ったものだけど、ジャバウォックの補充に当てたのは正解だった」
「戻ってきた…?」
何のことか分からずに、僕はルイスの言葉を復唱する。すると、ルイスはさも当然と言いたげに頷いた。
「もしかして、前にここに来た経緯まで忘れてしまったのかい?ああ、でもそうだな…現実で換算すれば君が来たのはもう10年以上前のことになるのか。忘れたくもなる出来事だったのか、記憶が風化したのか…」
彼の言葉に頭の芯が冷えていくように寒くなる。僕は何か大事なことを忘れている。それを思い出すなと頭の中で警鐘が鳴っていた。
思い出すな。思い出すな。
そう思うのに、僕は自分の年齢から10を引く。
僕は24歳。と、なれば14歳。14歳の時に何か大きなことが起きた覚えはないが、そこで僕は強烈な違和感を覚えた。
違う。もっと後にあった。忘れていたい出来事があった。
「ジャバウォック、君は今年で何歳になった?」
僕は両手の指を折る。1、2、3、指を折って、10本全て折ってはまた両手を開き、また折る。
「24…」
「違うよ」
噛み殺したようにルイスは笑う。
「サバを読むのはやめて貰いたい。君が高校生の時の話…そう、17歳で君は一度この世界を訪れたんだ。君はもう27歳。三十路を手前にして君はまた自分の生き方に迷って、ここに来たんだろう?」
「僕が27…?」
記憶を手繰ろうとする脳は凍りつく。27歳の僕は一体何をしているんだ?空白の3年間を僕はどうやって過ごしていた?
「アスカ、はやく、はやく私を殺してくれ…」
ジャッジの声が遠ざかる。視界がボヤけ、暗闇の中へと落ちていく。
歯を鳴らすようにルイスが笑う声が深淵のような暗闇で聞こえた。囁くようなそれは不思議と優しく、耳障りが良かった。
「さあ、君の話をしよう」
誰かが僕の両頬を包むように両手で掴んだ。詩が聞こえる。
夕火の刻、粘滑らかなるトーヴ。遥場はるばにありて回儀ふるまい錐穿がつ。総弱ぼらしきはボロゴーヴ、かくて郷遠しラースのうずめき叫ばん。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

ギルドの受付嬢はうごかない ~定時に帰りたいので、一歩も動かず事件を解きます~

ぱすた屋さん
ファンタジー
ギルドの受付嬢アイラは、冒険者たちから「鉄の女」と呼ばれ、畏怖されている。 絶世の美貌を持ちながら、常に無表情。そして何より、彼女は窓口から一歩も動かない。 彼女の前世は、某大手企業のコールセンター勤務。 営業成績トップを走り抜け、最後には「地獄のクレーム処理専門部署」で数多の暴言を鎮めてきた、対話術の怪物。 「次の方、どうぞ。……ご相談ですか?(クローズド・クエスチョン)」 転生した彼女に備わったのは、声の「真偽」が色で見える地味な能力。 だが、彼女の真の武器は能力ではなく、前世で培った「声のトーン操作」と「心理誘導」だった。 ある日、窓口に現れたのは「相棒が死んだ」と弔慰金をせしめようとする嘘つきな冒険者。 周囲が同情し、ギルドマスターさえ騙されかける中、アイラは座ったまま、静かにペンを走らせる。 「……五秒だけ、沈黙を差し上げます。その間に、嘘を塗り直すおつもりですか?」 戦略的沈黙、オウム返し、そして逃げ場を塞ぐイエス・セット。 現代のコールセンター術を叩きつけられた犯人は、自らその罪を吐き散らし、崩れ落ちる。 「あー、疲れた。一五分も残業しちゃった。……マスター、残業代三倍でお願いしますね」 これは、一歩も動きたくない受付嬢が、口先だけで悪を断罪し、定時退勤を目指す物語。

五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人
恋愛
「君との婚姻は無効だ。実家へ帰るがいい」 大聖堂の冷たい石畳の上で、辺境伯ロルフから突然「婚姻は最初から無かった」と宣告された子爵家次女のエリシア。実家にも見放され、身重の体で王都の旧市街へ追放された彼女は、絶望のどん底で愛娘クララを出産する。 生き抜くために針と糸を握ったエリシアは、持ち前の技術で不思議な力を持つ「祝布(しゅくふ)」を織り上げる職人として立ち上がる。施しではなく「仕事」として正当な対価を払い、決して土足で踏み込んでこない救恤院の監督官リュシアンの温かい優しさに触れエリシアは少しずつ人間らしい心と笑顔を取り戻していった。 しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。 「すまない。私は父としての責任を果たす」 かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。 だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。 これは、全てを奪われた一人の女性が母として力強く成長し誰にも脅かされることのない「本物の家族」と「静かで確かな幸福」を自分の手で選び取るまでの物語。

さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」 ――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。 額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。 涙すら出なかった。 なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。 ……よりによって、元・男の人生を。 夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。 「さようなら」 だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。 慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。 別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。 だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい? 「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」 はい、あります。盛りだくさんで。 元・男、今・女。 “白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。 -----『白い結婚の行方』シリーズ ----- 『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。

少し冷めた村人少年の冒険記

mizuno sei
ファンタジー
 辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。  トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。  優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...