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ゼロになる
第213話 愛を忘れた男
しおりを挟むアキネの顔は恐怖に歪んでいる。顔が真っ青になっているのが、夜の闇の中でも分かった。
光太朗は身体を逸らしながら衛兵の剣を避け、逆手に持った短剣を一閃させる。
衛兵の腕から血が飛び散るのを見ながら、続けて脇腹に肘を叩きつけた。衛兵はそのまま後ろへ倒れ、痛みにのたうち回る。
それを見ていたランシスは、アキネを押さえながら低く笑いを漏らした。
「良い動きだ。……見るところによると、護衛も居なくなったようだな。お前の事を忘れて、出ていったか?」
「……お察しの通り。ここには俺しかいない」
乱れた呼吸を整えて、光太朗はランシスを見据えた。暗くて見えなかったが、周りには多くの衛兵の姿も見える。
各方向から感じる気配に身構えていると、ランシスが片眉を吊り上げた。
「えらく余裕だな。もうお前を守る者は誰もいないのだぞ? この王宮から、お前の存在は消え去った。もっと焦るべきではないのか?」
「焦っても状況は変わらない」
「ほう……」
緑の瞳を細めて、ランシスは笑う。リーリュイとは少しも似ていない、歪んだ笑みだ。
「窮地に陥っても屈しない、まさに戦士の精神を持っているな。……そんなお前が、何でリーリュイの女になった? 雌として、あいつに組み敷かれたのだろう?」
「……俺は雌じゃない」
「男を受け入れているんだから、雌に違いないだろう。その強気な顔が、男の下だとどう変わるのか……非常に興味深い」
光太朗を囲い込むように、衛兵らがじわりと間を詰める。姿勢を低く落としていると、ランシスが警告のようにアキネの髪を掴んだ。
か弱い悲鳴に光太朗が動きを止めると、ランシスがにやりと笑う。
「お前は今日から、私の奴隷だ。その顔が乱れる所を見てみたい。自尊心が打ち砕かれ、自分の事を雌だと認めるまで堕とす。……リーリュイより私が良いと、床の中で泣き叫ぶ姿が見たいものだ」
「そんな事、絶対にあり得ない。あいつ以外と繋がるくらいなら、死んだ方がましだ。……そんな事より……俺はもう抵抗しねぇから、アキネさんを放してくれよ」
光太朗が短剣を投げ捨てると、衛兵がすかさずその手を縛り上げた。大人しく拘束される光太朗を、アキネは眉根を寄せて見ている。
アキネももう、光太朗の事を忘れているのだろう。光太朗を見る視線から、親しみが消えている。
拘束された光太朗を満足げに見下ろし、ランシスは口を開く。
「リーリュイとは、もう終わったと思え。あいつに授与された耳環には、ディティが作った晄露の結晶が埋め込んである」
「……っ」
「加護持ちを操るには、ディティの晄露を身に着けさせるのが一番だ。……特に戦で弱った身体には、容赦なくディティの呪いが浸透して行くだろう」
ランシスの声で、光太朗の胸がじわりと冷えた。不快で無機質な冷たいものが、自分を侵食していく。
加護持ちの者を、ディティがどうやって操っているか見当は付いていた。アキネの装飾品から、腐った晄露の匂いがしていたからだ。
カジャルの実を与えて、故意に身体を弱らせたのも、その為だろう。
それが分かってから、光太朗はリーリュイの持ち物や周囲に、神経を張り巡らせてきた。
戴冠式で耳環が授与されると分かっていたら、リーリュイに警告も出来ただろう。しかしそれは叶わず、彼は呪われた晄露を身につけてしまった。
「リーリュイは、お前の事を全て忘れた。お前の存在自体が、無になったんだ」
「………」
「お? その表情は良いな。絶望の表情だ」
ランシスが光太朗へ寄り、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。光太朗の様子を窺うように顔を覗き込んでくる。
「そうだ。リーリュイが帰ってきたら、対面させてやろう。お前の存在が消え去ったリーリュイを前にすれば、お前の心は拠り所を無くすだろう。お前の絶望する顔を見ながら犯すのも良いな。良い考えだと思わないか?」
(リュウから俺が消えた? ……俺の存在が……彼からもう無くなったのか?)
膝の感覚が無くなって、光太朗はその場に跪いた。急に寒くなった気がして、身体を丸める。
手首に食い込む縄の感触だけが、やけに生々しい。
「ぎゃあぎゃあ泣き叫ぶアキネを抱くのは、もう飽いた。……心から私を欲するものを抱きたい。……リーリュイが帰るまで、お前を投獄する。逃げられては困るからな」
楽しそうなランシスの声を、光太朗は俯いたまま聞く。アキネの視線を感じるが、それに反応することも出来ない。
(……記憶が無くなるその時に、側に居たかった……)
リーリュイの記憶から、自分が居なくなる覚悟はしていた。
ただ彼の記憶から自分が消え去る瞬間だけは、一緒に居たかった。
(……痛くなかったか? リュウ。寂しくなかったか? ……側に居てあげられなくて、ごめんな)
優しくて寂しがり屋で、愛おしい人。
彼が記憶を失うとき、どんな想いでいたか。考えるだけでも心が引き裂かれそうだ。
「……リュウ、ごめん」
そう呟く光太朗の姿を、ランシスは不思議そうに見下ろしていた。
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