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第6章
87 大公の苦悩
しおりを挟むひったくり騒動の翌日、アシュリーはレティシアの部屋に泊まると言い出す。
「え?そうなんですか?」
「明日、食堂で朝食を食べたいと思ってね」
「公爵ご夫妻とではなく、私と…ですよね?」
「あぁ、食堂では一度も食べたことがないんだ」
(…でしょうね…)
「それに、今日からは魔力香をもっと強くしてみようと思っている。もしかすると、レティシアが眠ってしまうかもしれないだろう?何かあったら心配だから側にいたい」
「…分かりました。では、ロザリーに説明をしておきます」
「もう私から伝えておいたよ。後で準備に来ると言っていた」
「ありがとうございます……準備?」
ほどなくして、ロザリーがパタパタとやって来る。
アシュリーの分の飲み物を増やしたり、照明を調節したり、部屋の四隅と二つのテーブルに紫がかった怪しい色合いの大きな蝋燭を灯したり…忙しそうに動き回った後、レティシアをベッドへ誘導して天蓋の幕を引き始めた。
最後に室内を念入りにチェックしたロザリーは、頭を下げて消えるように部屋を出て行く。
(…完全に…“共寝”と勘違いしているわ…)
準備と聞いた時から、嫌な予感はしていた。
巨大なベッドの上にポツンと座っていると、アシュリーが側へ近付いて来る。空気が動いて、蝋燭の灯りから妙に甘い香りが漂う。
広い部屋の空間を天蓋で狭く仕切ったことで、ベッドにいる二人っきり感は三倍増しだった。
真顔のレティシアがアシュリーを睨むと、彼は笑いを堪えて今にも吹き出しそうな顔をしている。
「殿下、ロザリーに何と仰ったのです?」
「………今夜は泊まるからと…」
「それだけですか?あまりにも言葉足らずではありませんか」
「心配しなくても、ルークがちゃんと説明をする」
「だからって、純真なロザリーをからかうのはいけませんよ?」
「…すまない…」
アシュリーは怒っているレティシアの前で、叱られた子犬のような顔をする。
「では、私は帰ったほうがいいのだろうか?」
「いいえ。自分が至らなかったせいだとロザリーが気にするので、帰ってはいけません。今度からは、なぜ泊まるのかをちゃんと説明してあげてくださいね」
「ロザリーは、レティシアに大事にされているな」
「彼女が私のことを大事にしてくれるからです。いつも…ほら、全力でお世話を頑張っているでしょう?」
部屋の様子を見てご覧なさい…と言わんばかりに、レティシアは手のひらで室内を指し示した。
「さて、殿下には罰を与えますよ?お覚悟なさいませ!」
「…ば…罰…?」
♢
十分後、アシュリーの長い髪を三つ編みだらけにしたレティシアが得意気に話す。
「こうして髪に触れるのは撫でる代わりになりますよね?我ながらいいアイデアだわ。私、殿下が髪を下ろしているお姿が好きです…けれど…プッ!」
「…レティシア…」
「アハハ…殿下、お似合いですよ。ほら、あそこに立派な鏡があるので見てください」
ショゲた表情のアシュリーが素直に大鏡の前へ立ち、自分の姿に渋い顔をする様子がおかしくて、レティシアが大笑いする。
「笑い過ぎだろう?」
「すいません…ふふふっ、アルティア王国の末っ子王子様は…どうしてこんなに可愛いのかしら…」
「全く…随分な罰だ」
不満そうな顔をしたアシュリーが、ベッドに転がるレティシアの身体を上から押さえ込んだ。
今どんなに怖い表情をしていても、三つ編みのヘアスタイルではちっともキマらない。
アシュリーにのしかかられ身動きできない状態のレティシアは、両手で三つ編みを握り締めて笑い続けた。
──────────
大事な髪を三つ編みにされ、可愛いと笑われる。兄弟でもしたことのないような戯れ合いに、アシュリーは振り回されていた。
こんな扱いを受けたのは生まれて初めて。それを悪くないと思うのだから…レティシアの魅力に相当溺れているし、その自覚もある。過去の自分にはなかった感情や興奮に驚くと共に、切ない渇きを覚えた。
最近のレティシアは、少し幼さの残っていた容姿に変化が見られる。以前から時折余裕のある大人ぶった微笑みを見せていた彼女が、今ではその表情だけではなく…顔つきまで変わり始めていることにアシュリーは気付く。
アルティア王国へ着いてから間もなく一ヶ月、身体と魂との一体化が随分と進んできたと見るべきなのかもしれない。見た目に違いが現れているレティシアは、魂寄りに同化しつつあった。
侯爵令嬢だったレティシア・トラスは、平民のレティシアへと完全に生まれ変わりを遂げる。そう遠くない未来に、中身28歳の…大人びたレティシアが誕生するだろう。
─ 私は、彼女を拒絶してしまうのか? ─
こうなる先は最初から見えていたはず。
それなのに、突然現実味を帯びて…感じたことのない恐怖心でアシュリーの身体の奥底がブルリと震えた。
聖力を纏っていたとしても、今までのように触れ合えなくなる。拒絶反応をわずかでも示せば、レティシアは側を離れて行ってしまうのでは?
─ どうすればいい? ─
この手の中から、レティシアを失いたくない。
──────────
「…ん…殿下ったら、重たいですよ…」
「…あぁ…すまない…」
苦しそうな声に、アシュリーはハッとした。身体の下で、レティシアが身を捩って呻いている。
立ち上がったアシュリーの髪は、三つ編みが全て解かれ…元に戻っていた。
「明日の朝食、本当に食堂で召し上がるおつもりですか?」
「…何か都合が悪いのか?」
「いえ…殿下のように素敵な男性が現れますと、かなり注目されてしまう恐れがあります。落ち着いて食事ができなくて…困るのではないかと」
アシュリーとしては、前例のない行動をすることで、レティシアはこの国の大公の特別な秘書官であると周りに示したい。あわよくば、恋人だと勘違いくらいはされたいところ。それには、ある程度注目されなければ意味がない。
「…ぅん?私を褒めてくれているんだな。貴族のような目立つ身なりはしないつもりだよ」
「服装や髪型でどうにかなる問題とは思えません。殿下は、ご自分がお美しいと…ご存知ですよね?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするが…?」
「…う…私は、毎日食堂に行っておりますから」
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