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第14章
196 消えない刻印2
しおりを挟む「…アリス?ガ……ルリ……」
魔法紙を手にしたアシュリーは、たった今知ったばかりのレティシアの魂の名を、聞こえた通り声に出した。
「…っ…」
「……アリス……」
(…まさか、本名を呼ばれる日が来るだなんて…)
「…もう一度、言ってみてくれないか…?」
「え?…えぇ…有栖川…瑠璃」
「アリス…ガぁ…ルリ?……ル……るリ…」
好奇心や興味本位ではなく、彼は真剣な顔付きでこの世界に存在しない“日本語”を正しく発音しようとしている。
お互いが捉える音の響きがどう違うのか?レティシアにもはっきりとは分からない。ただ、アシュリーが名前を呼ぶ度…胸にジンと染みて、懐かしさで目頭が熱くなった。
「はい、呼名は『瑠璃』です」
「……るり…?」
(…あっ…)
「…るり…」
「…………」
「…美しい名だと思っ……あぁ…」
碧玉の瞳から零れ落ちる涙をそっと拭うレティシアの姿に気付いたアシュリーは、か細い吐息を漏らす。
「すまない…君はレティシアとして生きると決めているのに、混乱させてしまった」
「…いいえ…大丈夫です。今夜の儀式には、真名を使うのですね」
「今宵、私たちは正式な契りを結ぶ。生涯消えない紋様を深く刻み、神の祝福を得て強い伴侶の絆が完成する」
涙に濡れてしっとりした淡い薔薇色の頬を、アシュリーが指先で撫でる。水分を含んで重くなった長い睫毛が、パタパタと忙しなく動いた。
「レティシア…今後は、異性にその身を触れさせてはならない。真名を口にするのも私のみが許される…いいね?」
「…アシュリー様…こういう時は、もう少し甘い言葉を囁くべきではありませんの…?」
「ん?」
子供に言って聞かせるかのような口振りが気に障ったのか、レティシアはアシュリーが抱き寄せた背中を少し反らせて距離を取り、むくれた顔をしている。
王族の婚約者という立場を十分理解しているからこそ、信用されていないと受け取って不満に感じたのかもしれない。人柄のよさで男女を問わず皆に慕われ、実は隠れた多くの信者がいると知りもしない彼女は、未来の夫の嫉妬心をこれっぽっちも察していなかった。
アシュリーは、レティシアが親しい大魔術師レイヴンや神獣サハラと普通にスキンシップをするだけでも気になる。豊満な胸を常に狙っていて油断も隙もない“おっぱい星人”のクオンに至っては、論外。冗談ではない。
「私は想像以上に独占欲が強いらしい…許してくれ」
喉元まで出掛かった私欲渦巻く想いを独占欲というオブラートで上手く覆ったのは、唇を尖らせて拗ねる愛しい彼女の表情があまりにもいじらしく思えたせいだ。
些細なことだと笑われるかもしれないが、こうして喜怒哀楽の感情を素直に表に出してくれるのも、アシュリーはうれしくて堪らなかった。
「私が刻印を受けていても、まだ満たされませんか?」
「うん、君は何ものにも代え難い唯一無二の存在だ。来世でもレティシアと巡り逢う運命を約束してくれる儀式であれば…尚よかったのだが…」
「…え?」
(…待って…つまり、生まれ変わってもまた私と…?)
潤んだ目を丸くするレティシアを見て、アシュリーは口元を緩め…穏やかに微笑んだ。
「…ひょっとすると、君と私の魂は過去に一度結ばれたことがあるのかもしれないな…」
──────────
──────────
「お嬢様、お湯加減はいかがでしょうか?」
「丁度いいわ」
清めの沐浴も二度目。身体の隅々まで手入れをされ、しっかりと湯に浸る。レティシアの心は、前回と比べものにならないくらいに凪いでいた。
「マッサージで身体が解れていて、いい気持ちよ」
「それは何よりでございます。本日はこのような尊い儀式でお役目をいただき、大変光栄に存じます」
ユティス公爵家侍女長のアイリスは、抱えていた聖水の壺を浴室の床に置いて頭を下げる。
「侍女長、いろいろとありがとう。一泊とはいっても、同行した使用人が多くて大変だったでしょう?」
「こちらの別荘地が初めてという使用人も多数おりましたが、大公家の侍女長が手伝いに来てくださいましたので、全て順調でございます」
「確か、パメラとは旧知の仲だそうね」
「旦那様が君主でいらした時分から、共に側仕えをいたしておりました。お嬢様が大公殿下の婚約者となられてお住まいを移されましても、パメラが側にいれば安心でございます」
「えぇ、本当に有り難いわ。…夕食は?使用人たちも皆、ちゃんと食べれたかしら?」
侍女長アイリスは、公爵家が新しく迎え入れた養女レティシアに仕えて一ヶ月程。その間、令嬢らしからぬ言動に驚く出来事こそ数回あったものの、苦労をした記憶は一度もない。
社交の場では猫を被り、邸では我儘し放題など、嫁ぐまで甘やかされて育つ令嬢は意外と多い。しかし、すでに職に就いて実績を残しているレティシアは、いつも周りの者へ気を配り感謝の気持ちを忘れない良識ある人物だった。
公爵夫妻や先に養子となったラファエルと仲がよく、公爵家に身を寄せているケルビンを気遣う優しさもある。明朗快活で、今や公爵家自慢の令嬢となったレティシアからの問い掛けに、アイリスは笑顔で肯いた。
「夕食はビュッフェ形式にいたしましたので、皆手の空いた時間に好きな料理をお腹いっぱい食べたはずです」
「そう…よかった。今夜、私たちは別室で食事をいただいたでしょう?この前はパメラが私の釣った魚を食べれなくて、気になっていたの」
「まぁ!左様でございましたか。ご安心ください、私共も新鮮なお魚をご馳走になりました。旦那様と奥様は、別荘へ来ていない使用人も含め全員に祝い菓子をお配りになっておられます。皆、大変喜んでおりますよ。レティシアお嬢様、心よりお祝いを申し上げます」
「…ありがとう…」
前世では結婚を経験していないだけに、慶事を大々的に祝うムードというのは少々気恥ずかしく擽ったい。
いつか慣れる日が来るのだろうか?…間もなく催される婚約披露パーティー、その後に続くデビュタントなどの大きな行事が、白い湯気の如くもやもやとレティシアの頭に浮かんだ。
──────────
「…楽しみにしていろと言ったのは、こういうことか…」
アシュリーはベッドの端に座り、腕を組んで唸る。
『楽しみに』とは、頻度こそ減ったが…未だレティシアのドレスを勝手に作って売り込みにやって来る高級ブティックのデザイナー、カナリヤの言葉だった。
目の前には、黒の細かなレース生地を使った膝丈のナイトドレスを淑やかに着こなす小悪魔風な女神がいる。
首の後ろで結ばれた細い紐にビキニのような三角の布がぶら下がり、艶めく肌と一際白い胸の膨らみが目立つ。丸みのある身体のラインを優しく包み込む布地の背中側はバックリと開いていて、スカートは息を吹いただけで飛びそうな軽さをしていた。
「…そんなにじっくり見られると…」
「君の身体で、私が見ていないところなどないが?」
「…だって…」
下着を身に着けていない…と、両足を隙間なく合わせてモジモジして恥じらうレティシアからは、頭の芯を溶かしてしまう甘くて淫らな匂いがする。
「以前にロザリーの用意してくれていた夜着が恋しくなります。私ったら、いつの間にこんな大胆な格好を受け入れるようになってしまったの…?」
「君に手を出すのを禁止されていたころとは違う。もっと積極的に私を誘ってくれて構わない。尤も…誘ってくれなくても手は出すよ?」
「真顔で冗談を仰らないで。流石にもうこれ以上は……アシュリー様は…私に何かご希望でもございまして?」
「………いや…」
(今の妙な間は、一体何なの?)
そういえば、先日の王宮の茶会では男性親族と祝杯を交わして盛り上がったと聞く。酒に酔った男たちが集まれば、若者に閨のアレコレをアドバイスする可能性は無きにしも非ず。
カインの影響で禁欲を実行していたというアシュリーは、既婚者の経験談を耳にして刺激を受けたか…或いは何か興味をそそられる話題があって、それを思い出したのかもしれない。
「…本当にありませんか?」
────────── next 197 消えない刻印3
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