底なし沼を覗けば

wannai

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 それから翌週の金曜もまた同じラーメン屋に行って二人でラーメンを食べ、翌々週には「デートはしないのか」と聞かれた。食事もデートのうちだと答えるとその日は納得していたのに、その翌週にまた「食事以外にも何処か行くべきだと言われた」と言ってきた。
 澄川め、絶対に遊んでるな。溜め息を吐きつつ、何処か行きたい場所はあるのかと聞いても、当然阿見は首を傾げるだけだ。
 人目が気にならないデート、と考えて、映画のレイトショーを思い付いた。金曜の夜だと他の曜日に比べて混んでいるだろうが、昼間行くよりはマシだろう。
 スマホで上映している映画を調べて、阿見も興味を持ちそうなものを選んでチケットを予約した。

「二十一時からだから、プレイ終わったら一回家帰るかな」

 さすがに丸一日一緒に居たら疲れるだろうとそう言っておいたのに、延々と叩かれ続けて気を失って、阿見に揺り起こされた時には十九時を回っていた。

「……腹減った」

 開口一番そう漏らした俺に、阿見は小首を傾げてから「またラーメンか?」と訊いてくる。重い身体を起こすと、尻がズキズキと痛んだ。
 昼過ぎに始めて、何時間叩かれたんだ。

「少しは手加減してくれよ」
「ずっとしてる」
「えー」

 座っているだけで痛くて、結局もう一度ごろりとベッドに転がった。横に座る阿見の手が寄ってきて、無意識みたいに俺の頭を撫でてくる。見上げると阿見はいつもの無表情で俺を見下ろして、目が合ってもまるで何処か別のところを見ているみたいだ。

「俺、一回帰るって言ったじゃん」
「帰らせたくなかった」
「……うお」

 完全に不意打ちされて心臓が跳ねた。
 そういうこと真顔で言えちゃうのか、とこっちが恥ずかしくて視線を逸らすのに、熱くなった目元を阿見の指が撫でていく。

「その顔、……かわいい」
「は?」
「分かんね。心臓痛ぇ。もっと触りたくなる」

 寝転がる俺に跨がるように阿見が乗ってきて、額に口付けた。ちゅ、ちゅ、と優しく傷痕から頬の辺りまで唇が下りてきて、照れ臭さに耐えきれずに阿見の胸を押して止めた。

「ちょ、やめろ、恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
「だからお前、自分の顔が良いの忘れんなって」
「……?」

 何を言ってるんだ? と阿見は訝しむみたいに眉間に皺を寄せて、けれどそんな表情ですら綺麗だ。いやいやいや。こんな綺麗な男が俺に惚れるとか、無いって。阿見から見れば大体顔なんて同じようなレベルかもしれないが、恋人として立てるレベルってのがあるだろう。俺は無理だ。いや、っていうか、こんなこと考えてること自体、阿見の気持ちを本気にしてるのか? 無いって。勘違いだって。
 ぶるぶる首を横に振る俺を見下ろして、阿見はしばらく黙って、それから目を細めて微笑んだ。

「……っ」
「お、効いた」

 お前にも効くのか、とまるで笑顔が攻撃方法だと思っているような言い方をした阿見に顔が引き攣る。いや、攻撃か。顔が良いのを忘れるどころか、使いどころを熟知してるじゃねぇか。
 見ていられなくて首ごと阿見から逸らすのに、彼は両手で俺の顔を掴んで自分の方へ向けて楽しそうにケラケラと笑う。

「かわいい。うん、やっと分かった。ヒロは可愛い」
「あのな」
「ヒロと居るとずっとふわふわでもっとずっと一緒に居たくなる」

 やばい、やばいやばいやばい。
 そんな無邪気に言われたら、本音としか思えなくなる。真っ赤になっているだろう俺の顔を嬉しそうにふにふに揉んで、阿見が軽く唇にキスしてくる。好きだよ、と囁かれて、必死に過去の阿見を脳裏に描く。
 落ち着け俺、こいつは加虐癖の上にネジが数本ぶっ飛んだヤバい奴だ。流されて好きになったりしたら、あの鉄鎖で打たれるぞ。そんなの嫌だろ、という俺に、けれどもう一人の俺が、使わないって約束したから大丈夫じゃん? などと言ってくる。やめろやめろ。流されたがるな。
 一人で百面相しているだろう俺に、阿見は気にせずキスして裸のままの身体を撫でてくる。

「なあヒロ、もう一回……」
「だ、駄目だ」

 乳首を摘まれて、また始めようとする気配を感じて慌てて思考を切った。

「映画行くんだろ。さすがにそこまで時間無い」
「ちょっとだけ」
「駄目だって」
「……今しないなら、来週はもっとキツくするよ」

 急に低い声と共に睨まれて、ひゅ、と息を呑む。熱に浮かされそうになっていた頭がそれで冷静になる。ほら、こいつはこういう奴なんだって。言う事聞いてる間は優しいかもしれないけど、逆らえば何をされるか分からない。
 好きだのなんだのも、マゾとしてお気に入り、くらいの意味合いでしかないんだって。
 勘違いしそうになっていた胸あたりがズキズキ痛んで、本気にする前に現実に引き戻されて良かった、と溜め息を吐く。

「……ネットで席予約したんだから、キャンセル代寄越せよ」

 体の力を抜いてそう愚痴を溢すと、阿見は満足そうに笑って耳に齧り付いてきた。

「ちょっとだって言ったろ。映画も行く。……泣いて、ヒロ」

 耳朶を噛まれながら乳首を雑に摘んで引っ張られて、痛みに呻く。ぎゅ、ぎゅ、と先端を指に捻られて背筋が浮いたのを上に乗った阿見が体の動きで察したのか目を細めた。

「ん、んぅ……っ」

 唇を噛んで呻く俺の目尻から、溢れた涙が溢れる前に阿見に啜られていく。ぺろぺろと目玉を舐められて、ぞわぞわするからやめて欲しいのに息が上がる。

「阿見、それ、やめ……やめて、ほしい」
「ん?」
「目、舐めるの」

 やめろ、と言いそうになって、言い直した。お願いなら大抵は聞いてくれると言っていた阿見は、俺の言葉を聞いて初めて目玉を舐めているのに気付いたのか、目を丸くして顔を離してから素直に頷いてくれた。

「あー、ごめん、泣いてんの見たら可愛くて。気を付ける」

 きゅ、と唇を結ぶ様が可愛らしくて思わず笑みを溢したら、またぐりぐりと両手に顔を包まれて揉まれた。

「泣いてなくても可愛い」
「……」

 いっそ本気にして騙されてしまえば幸せになれるかもしれない。そう思ってしまうくらい、阿見は俺に優しく触れた。ひとしきり撫でて口付けて、それから時計を見て「そろそろ行かないとまずい?」と聞いてくる。予約した映画館は阿見の家の最寄り駅から五駅ほど向かった都内で、駅近とは言え逆算するとそろそろギリギリだと答えた。
 軽くシャワーを浴びてから着替えて外に出ると、ヒュウ、と冷たい夜風が首元を過ぎていって身震いした。

「さっむ」
「寒いね」

 ほとんど同時に呟いて、阿見と顔を見合わせて笑い合う。

「お前も寒いとか思うんだ?」
「ヒロは俺をなんだと思ってんの」
「ヒューマノイド的な」
「俺そんなにロボ感ある?」
「顔が綺麗過ぎて。作り物っぽいもんお前」
「よく言われる」
「だろうな」

 駅前通りは沢山の街灯と店の灯りで煌々と照らされ、まだ歩行者も多かった。
 阿見と二人で肩を並べて歩くと、やはり視線の集まり方が尋常じゃない。阿見に気を取られて横を歩く俺に気付かない人も結構居て、避け損ねて軽く腕が当たってやっとこっちを見て不愉快そうに睨まれて「すいません」と小さく謝った。

「お?」

 ぐっと肩を掴んで阿見の方へ寄せられて、首を傾げて横の彼を見る。

「どした?」
「……今の、お前が謝るとこじゃねぇだろ」

 無言で通り過ぎて行った、俺にぶつかった女性を振り返ってまで睨む阿見に肩を竦める。

「実際ぶつかってんだから、謝っといた方が角が立たねぇだろ」
「でもあっちは謝らなかった」
「どうでも良い」

 それより、女を守るみたいに肩を掴んで抱き寄せられていると違う意味で視線を集めてしまう。阿見の機嫌を損ねないように肩に置かれた指を叩いて示すのだけれど、阿見はすっかり仏頂面で唇をへの字に曲げている。

「……そう言えばさ、お前のその話し方、どっちが素なの?」

 違う話題を振って機嫌を修正しようと試みるが、阿見は俺が肩の手を外そうとするのを見て逆にグッと力を籠めてきた。

「阿見、恥ずかしいんだけど」
「何が」
「周りからめっちゃ見られてる」
「俺はいつもだ」

 いやそうだろうけど、でもいつもはもっとずっと好意的にだろ。今はどう考えても見慣れないものへの揶揄いとか不愉快さに満ちた視線ばかりなんだが。それを言っても阿見は気にしないんだろう。逆に、何が違うんだ、とか言われそうだ。
 諦めてそのまま駅まで歩いて、電車の切符を買った。混み合う駅の階段ではさすがに離れてくれたのに、電車待ちの列に並ぶ段階になるとまたぴたりと寄ってきて、今度は手を繋がれた。

「……これも、澄川さんに言われたのか?」

 指の絡み合う手を持ち上げて呆れ混じりに聞くと、阿見は片方の眉を上げて首を振る。

「いや。したくなったからだけど」
「……あっそ」

 俺たちの前に並んだサラリーマンが、俺と阿見のやりとりを見て迷惑そうにした後、阿見の顔を見てギョッとした。うん、驚くよな。俺もだ。
 そのまま手を繋いで電車を待って、乗り込んだ。金曜の夜は二十二時前でも上り電車は混んでいて、手を繋いでいるのにそれほど目立って注視されることもない。開かない方のドア前に二人で立ってガタンゴトンと揺られる。

「どっちが素か、自分でも分からなくなる時がある」
「ん?」

 無言だった阿見が急に話し始めて、揺れる窓の外をぼんやり眺めていた俺は彼の方へ顔を向けた。阿見はそのまま窓の向こうの闇を見つめていて、作り物めいた美貌の唇だけが動く。

「丁寧な言葉を使えば警戒されない。警戒されなければ捕まえられる。捕まえてから逃げられない為に優しく丁寧にする。それの繰り返しだから、もうずっと丁寧でマトモな人間の皮を被ってた」

 外皮を被っているのは無意識では無かった訳か。
 阿見の言葉がさっき訊いた俺の質問への回答だとすぐに分かって、先を促すように頷いてみせた。ちら、と一瞬こちらへ向いた視線はまた窓の外へ戻って、真っ黒の瞳に外の街灯が反射してチカチカと光る。
 阿見がサドの自覚を持ったのはいつ頃なんだろう。高校の時はまだだったと言っていた気がする。
 マゾを捕まえる為に彼なりに努力したらしいというのは伝わってきて、だけれど少し心がざわついた。彼が『捕まえたい』とまで思ったマゾたちはどうなったんだろう。飽きてすぐ放逐されたのか、阿見の危険さに気付いて逃げ出したのか。
 阿見自身は『好き』という感情を知らなかったような言いぶりだったけれど、これまでも好きだと感じた相手や瞬間はあったんじゃないだろうか。
 ──俺は別に特別じゃない。
 今、たまたまこいつの興味が俺に向いているだけ。あまり本気にならないようにセーブしないと。

「言葉遣いに気が回らなくなるくらい興奮するのはヒロだけ。ヒロを見てるとそういうのが吹っ飛ぶ」
「……そっか」
「そう。だから最近は特に気を付けてる。ヒロも丁寧な皮の方が怖がらないみたいだし」

 皮、って。ふは、と噴き出すと、阿見が不思議そうに視線を向けてきた。

「別にどっちでもいいよ、話し方くらい」
「でも怖がるだろ?」
「俺が怖いのはあの鉄鎖使われる事を、だよ。俺だって言葉遣い汚いだろ」

 変えて欲しいか? と訊くと、少し考えるように黙ってから目を細めて俺の耳に顔を寄せてきた。

「あのオネエキャラで一回ヤッてみたさはある」

 マジか。くっ、と小さく笑って、「今度な」と囁き返す。
 下らない話をしているうちに目的の駅に着いて、二人して降りた。
 映画館は予想通りレイトショーでも七割ほどの席が埋まっていた。俺が選んだのは不良とヤクザの抗争を描くド派手さが売りの邦画で、ジムの客でも若い女性が何人か観に行ったと話しているのを聞いたことがある。
 連作の最終章だったのか前提とする設定が多くて序盤は疲れたが、後半の盛り上がりは確かに派手で面白かった。
 観終えて劇場を出てから、終電まではまだ時間があるからと駅中の喫茶店に入った。カフェインが良く効くタイプなので、寝れなくなったら困るからとメロンソーダを頼む。阿見が頼んだのは林檎ジュースで、意外性にグッときてしまいそうになって慌てて映画の話を振った。

「なかなか良かったな」
「出てくる奴が多過ぎて覚えられなかった」

 正面に座る阿見が真っ先にそう言って肩を竦めたのを見て、本当に顔覚えられないんだな、と笑ってしまった。

「あー、でも俺もリーダー格の五人? 六人? くらいしか覚えてない」
「金髪の主人公、お前に似てたな」
「いや無ぇわ」
「顔っていうか、雰囲気が」
「お前髪の色しか覚えてねぇんだろ」
「……」

 図星か、と俺がケラケラ笑うと、阿見は口をへの字に結びながらも目元を緩めた。

「最後らへんの、あの赤い法被の奴が車斜めにして登場したとこめっちゃ笑いそうになった」
「ヒロ、ずっと口抑えてたよな」
「だってヤバくね? あの斜めに何の意味があるんだよ」
「……かっこいい」
「かっこいいか!?」
「あの運転手のドラテクが」
「どらてく」

 請われたから仕方なく観にきた映画だったのに、やたらと楽しく感じた。スマホをチラと見て、終電の時間が近付いてきたのが悔しくなる。まだ話し足りない、と阿見を窺うと、彼も俺のスマホの時刻表示を見つめていた。

「……明日、ヒロは仕事だよな」
「……仕事なんだよな」
「……」
「……」

 阿見と別れ難(がた)いと思ったのは初めてで、まるで恋してるみたいだ、と自分に呆れる。ああ駄目だ。本格的に、のめり込み始めている。

「来週は」

 そろそろ出るか、の言葉を吐くのが嫌で黙ってしまった俺より先に、阿見が口を開いた。

「木曜の夜に映画観て、そのまま俺の家に泊まりにくればいい。錘の方は早めに上がらせてもらうから」

 そうしたら土曜の仕事に差し支えないだろ、と言われて、ああ神様、とこれっぽっちも信仰したことのない存在にひれ伏したくなった。
 理解不能だと思っていた阿見が、今確かに、俺と同じ気持ちでいる。
 ぐしゃぐしゃになりそうな気持ちが苦しくて、両手を組んだところに額を付けて大きく溜め息を吐いた。

「都合悪ぃか?」
「違う。今、めちゃくちゃ苦しいの」
「あ?」
「お前とおんなじ。俺もお前に嬉しいこと言われて苦しくなった」

 少し落ち着かせて欲しくてゆっくり深呼吸するのに、後頭部に暖かい感触が乗ってきて心臓が跳ねた。

「撫でると落ち着くぞ?」
「……ありがと」

 駄目だ駄目だと思っているうちに、思っていたからこそ、駄目になった。なんて馬鹿らしい。
 組んだ指から視線を上げると、阿見は柔らかく微笑んで俺を見ていた。穏やかな笑みなのに、やっぱりその目はどろりと沼のように濁っている。恋をするとキラキラ輝くというけれど、阿見には当て嵌まらないのかもしれない。

「来週、木曜の夜な」
「うん」
「……じゃあ、そろそろ出るか」

 さっきは絶対に口に出したくないと思った言葉が、次の約束が出来たことで少しだけ滑らかになって喉から吐けた。
 切符を買ってまた二人で電車に乗って、終電だからか混み合う中でまた、阿見が手を繋いできた。絡む指が少しだけ汗ばんで、だけれど恥ずかしさより離れがたさの方が勝って先に降りる駅に着くまで握っていた。
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