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第10章
半年という距離 ―― 触れない優しさと、消せない誓い
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あれから、半年が経った。
私は今、城の中の厨房に配属されている。
仕事は、食事を終えたあとの皿洗いと、
空いた時間での下ごしらえ。
食材を切ったり、
簡単な仕込みを手伝ったりする程度だけれど、
最初の頃に比べれば、ずいぶん手際もよくなった。
……まあ、割合、自分に合っている仕事だと思う。
ただ、ひとつだけ困ることがある。
手が、荒れる。
昼食の皿洗いを終えたところで、
私は一度水を止めて、軽く息を吐いた。
指先は赤くなり、
ところどころ、ひび割れかけている。
まあ、いいんだけどね。
このまま何年もここにいたら、
そのうち、城の食堂のおばちゃん枠に
自然と収まっていくんだろうなあ。
そんな将来を思い浮かべて、
私は一人、苦笑いを浮かべた。
厨房の職員は、私より年上の人が多い。
一番年が近い人でも、五歳は上だ。
最初は少し気後れもしたけれど、
今では、それも悪くないと思っている。
少なくとも、
食いっぱぐれの心配はなさそうだ。
それに――。
遠くからでも、
レイスさんの姿を見られるのは、
皿洗い担当の、ささやかな特権だった。
騎士たちは、
外勤でない限り、
基本的にこの城の食堂で食事をとる。
だから、数日に一度くらいは、
必ず、その姿を目にすることができる。
もちろん、
本当に、ちらっと盗み見る程度だけど。
それだけで、十分だった。
皿を拭いていると、
食堂の奥が、少しだけざわついた。
視線を上げなくても分かる。
騎士たちの気配の中に、
ひときわ落ち着いた空気が混じる。
……来た。
私は手元に集中するふりをしながら、
ほんの一瞬だけ、視線を滑らせた。
やっぱり、レイスさんだった。
食事を終えた騎士たちが席を立ち、
使い終えた食器が戻ってくる。
その中の一つを、
レイスさん自身が運んできた。
「……お疲れさま」
低い声。
以前より、少しだけ近い距離感の呼びかけ。
「お疲れさまです」
皿を受け取りながら、
私は小さく頭を下げた。
「厨房の仕事、
もう慣れました?」
「はい。
思ってたより、楽しいです」
「それなら、よかった」
それだけ。
必要以上に踏み込まない、
でも突き放してもいない。
ちょうどいい距離だった。
そのとき、
一瞬だけ。
レイスさんの視線が、
私の手元に落ちた――ような気がした。
けれど、
何も言わないまま、
彼は騎士たちの輪へ戻っていった。
……気のせい、かな。
そう思うことにして、
私は次の皿を手に取った。
それから、数日後。
夕方、厨房から戻る途中で、
レイスさんに呼び止められた。
「少し、いいですか」
「はい」
人目のない廊下で、
彼は一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから、
小さな包みを差し出した。
「これ……」
「え?」
受け取ると、
中には、小さな容器が入っていた。
「手に使うものです」
説明は、それだけ。
「あ……ありがとうございます」
何に使うものかは、
見ればすぐに分かった。
「城の薬師に頼んで、
刺激の少ないものを用意してもらいました」
事務的な口調。
でも、どこか不自然に短い。
――ああ。
あのとき。
厨房で、
何も言わずに視線を落としたのは、
このためだったのだと、
ようやく気づく。
「大丈夫ですから」
反射的にそう言うと、
レイスさんは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……無理は、しないでください」
それだけ言って、
彼はそれ以上、何も言わなかった。
立ち去る背中を見送りながら、
私は、しばらくその小さな容器を
握りしめたまま、動けずにいた。
その夜。
部屋に戻ってから、
私は小さな卓の前に座った。
昼間の喧騒が嘘みたいに、
この部屋は静かだ。
ランプの灯りの下で、
レイスさんから渡された小さな容器を、
そっと手に取る。
蓋を開けると、
ほのかに、薬草の匂いがした。
指先に少し取って、
手の甲に伸ばす。
ひび割れかけていたところに触れると、
ほんの少し、しみる。
……効きそうだ。
そう思いながら、
ゆっくりと両手になじませていく。
嬉しい。
それは、否定しようがない。
言葉にしなくても、
ちゃんと見てくれていたことが、
分かってしまったから。
でも――。
胸の奥に、
小さく、鈍い痛みが残る。
これは、
本当に受け取っていい優しさだったのだろうか。
気を使わせているだけじゃないか。
守る必要のない相手に、
余計な心配をさせているだけじゃないか。
私は、もう巫女じゃない。
特別でもない。
ただの、城の使用人だ。
――半年前。
城に戻ると決めたとき、
私は、自分に約束をした。
きちんと彼に、
決別の言葉を言うつもりだ、と。
ずるずると、
そばに居続けることはしない。
甘えたまま、
曖昧な関係にすがることもしない。
それが、
私なりの、けじめだった。
そして今。
もう、半年が経った。
そろそろ、その約束を
思い出す頃なのだと思う。
「もう大丈夫です」
そう言えるようにならなければならない。
いつまでも、
誰かの優しさに守られている場合じゃない。
そう、
半年前の私は、確かに思っていた。
……なのに。
指先に残る、この感触が。
その言葉を、
少しだけ、遠ざける。
私は、
クリームを塗り終えた手を、
胸の前でぎゅっと握った。
守ると決めた誓いは、
まだ、消えていない。
消えていないからこそ、
こんなにも、苦しい。
私は今、城の中の厨房に配属されている。
仕事は、食事を終えたあとの皿洗いと、
空いた時間での下ごしらえ。
食材を切ったり、
簡単な仕込みを手伝ったりする程度だけれど、
最初の頃に比べれば、ずいぶん手際もよくなった。
……まあ、割合、自分に合っている仕事だと思う。
ただ、ひとつだけ困ることがある。
手が、荒れる。
昼食の皿洗いを終えたところで、
私は一度水を止めて、軽く息を吐いた。
指先は赤くなり、
ところどころ、ひび割れかけている。
まあ、いいんだけどね。
このまま何年もここにいたら、
そのうち、城の食堂のおばちゃん枠に
自然と収まっていくんだろうなあ。
そんな将来を思い浮かべて、
私は一人、苦笑いを浮かべた。
厨房の職員は、私より年上の人が多い。
一番年が近い人でも、五歳は上だ。
最初は少し気後れもしたけれど、
今では、それも悪くないと思っている。
少なくとも、
食いっぱぐれの心配はなさそうだ。
それに――。
遠くからでも、
レイスさんの姿を見られるのは、
皿洗い担当の、ささやかな特権だった。
騎士たちは、
外勤でない限り、
基本的にこの城の食堂で食事をとる。
だから、数日に一度くらいは、
必ず、その姿を目にすることができる。
もちろん、
本当に、ちらっと盗み見る程度だけど。
それだけで、十分だった。
皿を拭いていると、
食堂の奥が、少しだけざわついた。
視線を上げなくても分かる。
騎士たちの気配の中に、
ひときわ落ち着いた空気が混じる。
……来た。
私は手元に集中するふりをしながら、
ほんの一瞬だけ、視線を滑らせた。
やっぱり、レイスさんだった。
食事を終えた騎士たちが席を立ち、
使い終えた食器が戻ってくる。
その中の一つを、
レイスさん自身が運んできた。
「……お疲れさま」
低い声。
以前より、少しだけ近い距離感の呼びかけ。
「お疲れさまです」
皿を受け取りながら、
私は小さく頭を下げた。
「厨房の仕事、
もう慣れました?」
「はい。
思ってたより、楽しいです」
「それなら、よかった」
それだけ。
必要以上に踏み込まない、
でも突き放してもいない。
ちょうどいい距離だった。
そのとき、
一瞬だけ。
レイスさんの視線が、
私の手元に落ちた――ような気がした。
けれど、
何も言わないまま、
彼は騎士たちの輪へ戻っていった。
……気のせい、かな。
そう思うことにして、
私は次の皿を手に取った。
それから、数日後。
夕方、厨房から戻る途中で、
レイスさんに呼び止められた。
「少し、いいですか」
「はい」
人目のない廊下で、
彼は一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから、
小さな包みを差し出した。
「これ……」
「え?」
受け取ると、
中には、小さな容器が入っていた。
「手に使うものです」
説明は、それだけ。
「あ……ありがとうございます」
何に使うものかは、
見ればすぐに分かった。
「城の薬師に頼んで、
刺激の少ないものを用意してもらいました」
事務的な口調。
でも、どこか不自然に短い。
――ああ。
あのとき。
厨房で、
何も言わずに視線を落としたのは、
このためだったのだと、
ようやく気づく。
「大丈夫ですから」
反射的にそう言うと、
レイスさんは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……無理は、しないでください」
それだけ言って、
彼はそれ以上、何も言わなかった。
立ち去る背中を見送りながら、
私は、しばらくその小さな容器を
握りしめたまま、動けずにいた。
その夜。
部屋に戻ってから、
私は小さな卓の前に座った。
昼間の喧騒が嘘みたいに、
この部屋は静かだ。
ランプの灯りの下で、
レイスさんから渡された小さな容器を、
そっと手に取る。
蓋を開けると、
ほのかに、薬草の匂いがした。
指先に少し取って、
手の甲に伸ばす。
ひび割れかけていたところに触れると、
ほんの少し、しみる。
……効きそうだ。
そう思いながら、
ゆっくりと両手になじませていく。
嬉しい。
それは、否定しようがない。
言葉にしなくても、
ちゃんと見てくれていたことが、
分かってしまったから。
でも――。
胸の奥に、
小さく、鈍い痛みが残る。
これは、
本当に受け取っていい優しさだったのだろうか。
気を使わせているだけじゃないか。
守る必要のない相手に、
余計な心配をさせているだけじゃないか。
私は、もう巫女じゃない。
特別でもない。
ただの、城の使用人だ。
――半年前。
城に戻ると決めたとき、
私は、自分に約束をした。
きちんと彼に、
決別の言葉を言うつもりだ、と。
ずるずると、
そばに居続けることはしない。
甘えたまま、
曖昧な関係にすがることもしない。
それが、
私なりの、けじめだった。
そして今。
もう、半年が経った。
そろそろ、その約束を
思い出す頃なのだと思う。
「もう大丈夫です」
そう言えるようにならなければならない。
いつまでも、
誰かの優しさに守られている場合じゃない。
そう、
半年前の私は、確かに思っていた。
……なのに。
指先に残る、この感触が。
その言葉を、
少しだけ、遠ざける。
私は、
クリームを塗り終えた手を、
胸の前でぎゅっと握った。
守ると決めた誓いは、
まだ、消えていない。
消えていないからこそ、
こんなにも、苦しい。
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