僕は天才美容師

ましゅまろ

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6. 修行の日々

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吉良蓮さんが帰ったあと、僕は少しの間、何も手につかなかった。

 あの静かなカット。迷いのないハサミの音。お客さんの気持ちに寄り添う言葉。

 どれもが、僕の中に強烈な印象を残していた。

「……僕、まだまだだ」

 帰り道、ママにそうつぶやいた。

「それに気づけたなら、もう一歩前に進んだ証拠よ」

 ママはそう言って、僕の頭を軽くなでてくれた。

 次の日から、僕は決めた。

 毎日、お店の掃除を手伝うこと。

 学校から帰ったら、ランドセルを玄関に置いてすぐに店のフロアに向かった。お客様が帰った後の席を一つずつ丁寧に拭き、床に落ちた髪を時間をかけて掃いた。

 コームも、ブラシも、ドライヤーも、使った後には決まった場所に戻す。鏡も、カウンターも、スツールの足元も。すべてが“次のお客様”のために整っていなければならない。

 最初はただのお手伝いのつもりだった。

 でも、ある日、ふと気づいた。

 掃除って、すごく奥が深い。

 たとえば、床に落ちた髪が目立つところと目立たないところでは、掃除の順番を変えた方が効率がいい。鏡を拭くときの布の種類で、跡が残るかどうかが変わる。ドライヤーのコードがいつも絡まる原因も、置き方一つで変わる。

 「美しさ」は、カットの中だけじゃない。

 お客様が安心して座れる空間を整えることも、美容師の大事な仕事なんだと知った。

 ある日、パパが声をかけてきた。

「道具の手入れ、やってみるか?」

「いいの?」

「掃除ができるやつは、道具にも気を配れる。道具を大事にできない美容師は、お客さんも大事にできないんだ」

 パパは無口だけど、ときどきすごく深いことを言う。

 その日から、僕は毎晩ハサミやブラシを磨くことも始めた。

 使わない日でも、ハサミのネジを調整したり、オイルをなじませたり。磨きながら、自分の気持ちも一緒に整えられていくような、不思議な感覚があった。

 掃除と手入れが習慣になっていくと、店の中の「気配」にも敏感になってきた。

 たとえば、お客様が入ってくる前の表情。施術中に少しだけ視線が落ちたときの空気。シャンプーが少し冷たかっただけで、肩がすくむ反応。

 そうした“見えない情報”が、掃除を通じて少しずつ読み取れるようになってきた。

「海斗、今日の空気、ちょっと違うって気づいてた?」

 ある日、ママにそう聞かれた。

「うん。なんか、お客さん、みんなちょっと静かだった。たぶん、台風のニュースの影響かな」

「正解。気温も下がったしね。美容師は天気も読まなきゃいけないのよ」

 笑って言われたけど、それは僕にとって大きな学びだった。

 髪を切るのは“手”だけじゃない。

 空気を読む“目”、気持ちに寄り添う“心”が必要なんだ。

 華やかなカットの裏にある、地味で根気のいる積み重ね。

 誰にも気づかれなくても、誰にも見られなくても。

 掃除も準備も、僕にとっては大切な“修行”になっていた。

 ——そう思っていたある日。

 学校の帰り道、友達の優斗(ゆうと)に言われた。

「なあ海斗、最近ぜんぜん遊んでくれないじゃん。掃除? それってさ、ただの雑用だろ?」

 その言葉に、少しだけ胸がチクリとした。

 たしかに、僕のやっていることは、ぱっと見は“地味”だ。

 でも、僕は誇りを持って答えた。

「掃除だって、立派な仕事なんだよ。美容師にとっては、すごく大事なことなんだ」

 優斗は「ふーん」と言って笑ったけど、僕は心の中でこう思っていた。

 雑用じゃない。“土台”なんだ。

 華やかな技術は、その上にしか成り立たない。

 そして僕は、いつかその上に、自分だけの“技術”を積み上げてみせる。
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