僕は天才美容師

ましゅまろ

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8. 初めてのお客様

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その日、ママの美容室はいつもより静かだった。

 週末の午後。午前中の予約が終わり、午後の空き時間に差し掛かろうとしていたころ。僕はいつも通り、鏡の汚れを拭き、床を丁寧に掃いていた。

 そこへ、ひとりの女性がふらりとお店に入ってきた。

「すみません……予約してないんですけど、大丈夫ですか?」

 やさしそうな雰囲気の女性だった。肩より少し長い黒髪。大きめのマスクをしていたけれど、どこか疲れたような目をしていた。

 ママがにっこりと迎え入れる。

「もちろん、大丈夫ですよ。どんなスタイルにされたいですか?」

「えっと……子どもが幼稚園に入って、ようやく少し時間ができて……。髪を、バッサリ切ろうかなって思って……」

 その言葉を聞いたとき、僕の心がピクリと動いた。

 何かを変えたい気持ち——きっと、その髪にこもってる。

 ママがカルテを準備していると、ふと彼女が僕の方を見て、笑った。

「もしかして……美容師さんの卵さん?」

「えっ、あ、はい……まだ修行中です」

 「修行中」という言葉に、思わず力が入った。

 すると彼女が、ママにぽつりと聞いた。

「……もしよかったら、この子に切ってもらっても……? すごく丁寧に掃除してたの、見てたから。きっと大事にしてくれる気がして」

 僕も、ママも、一瞬、驚いて固まった。

 「えっ……僕が……?」

 ママは女性の目を見て、静かにうなずいた。

「海斗、やってみる?」

 手が汗でにじんだ。でも、逃げたくなかった。

 これまでの練習が、掃除が、努力が、全部ここにつながっている気がした。

 僕はゆっくりと深呼吸して、うなずいた。

「……はい。よろしくお願いします」

 ——これが、僕の“初めてのお客様”だった。

 椅子に座ってもらい、ケープをかけ、髪の状態をチェックする。髪は少し乾燥していて、毛先がまとまりづらくなっていた。

「長さは、肩より上くらいですか?」

「うん。できれば、朝が楽なスタイルがいいな」

「わかりました。自然にまとまる、ボブベースにして、毛先を少し軽めにしますね」

 鏡越しに、彼女がやさしくうなずいた。

 ハサミを持つ手が震えそうになった。だけど、今まで練習してきた。見てきた。考えてきた。

 「僕らしいスタイル」で、お客様の気持ちを晴らしたい。

 そう思った瞬間、手が自然に動き始めた。

 ブロッキングして、慎重にラインをとる。クセの出方を見て、毛流れに逆らわないように切る。耳まわりは乾いたときに浮きやすいから、少しだけ内側に調整する。

 ——シャキン、シャキン。

 ハサミの音がリズムに変わっていった。

 30分ほどで、カットが終わった。

 僕は彼女に鏡を渡しながら言った。

「ご確認、お願いします」

 彼女は静かに自分の髪を見つめた。そして——ふっと笑った。

「……すごく、軽くなった。気持ちまで、明るくなった気がする」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の目が熱くなった。

 それは、僕がずっと夢見ていた瞬間だった。

 たったひとつの髪型が、誰かの心を動かす。

 そして、最後に彼女が言った。

「ありがとう、海斗くん。あなたに切ってもらってよかった」

 僕は思わず、深くお辞儀をした。

「こちらこそ……ありがとうございました!」

 背中にママの拍手が聞こえた。

 初めてのお客様。初めての「ありがとう」。

 その日、僕は少しだけ、美容師に近づけた気がした。
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