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策謀交錯
第1話
しおりを挟む街の喧騒が、ゆっくりと戻ってきていた。
つい先ほどまで光と怒声が渦巻いていた路地も、今はもう、日暮れの静けさに包まれている。
リリアはジャドと並んで歩いていた。
胸の奥にはまだ、アランの最後の言葉が残っている。
「十分に気をつけて過ごすんだよ」
あの穏やかな声音が、なぜかひどく遠く感じられた。
魔術ギルドを出て、宿へ向かう。
傾いた陽が石畳を朱に染め、街の影が長く伸びていく。
胸の鼓動は、まだ完全には落ち着かない。
扉を押して中に入ると、油の灯りが小さく揺れていた。
ヴァルガンが椅子に腰かけ、帳簿に視線を落としている。
「おう、やっと帰ったか。……で、カイとセラは?」
その問いに、リリアとジャドは息を呑んだ。
リリアは黙り込んだまま視線を落とす。
代わりに、ジャドが小さく咳払いして答えた。
「……ええと、二人は……たぶん、少しもめて」
ヴァルガンは「はあ」と短く息を吐き、帳簿を勢いよく閉じた。
「やれやれ、またか。どうせカイがすねて、セラはセラで癇癪を起こして帰ってくるのが遅れてるんだろ」
呆れたように言いながらも、その声にはどこか慣れた温かさがあった。
リリアは胸の奥を締め付けられるような思いで、その言葉を聞いていた。
「居場所なら、だいたい見当はついてる。心配いらん」
ヴァルガンは片目をつぶり、気楽そうに言った。
「まったく、エルドランの話を盗み聞きに行くなんて言ってたときから嫌な予感はしたが……あいつららしいな」
リリアは顔を上げかけて、ふと動きを止めた。
──声が出せるようになったことは、しばらく伏せておいたほうがいい。
あの深淵の管理者の言葉が頭をよぎる。
リリアはそっとジャドの袖をつまんで、首を横に振った。
本当のことを言わないで、その意志を込めて。
ジャドは一瞬、迷うようにヴァルガンを見たが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「……そうですね。でも、えっと、すぐに戻ってくると思います」
ヴァルガンは「ふん」と鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかる。
閉じた帳簿を机の上に叩き付け、息を吐いた。
「まあ、帰ってきたら説教のひとつでもしてやるさ。あいつら、最近ちょっと気が抜けてる」
その言葉には怒気も苛立ちもなく、むしろ子を心配するような柔らかさがあった。
リリアの胸の痛みが、ほんの少し和らぐ。
そのときだった。
「お帰りなさい」
涼やかな声が、背後から響いた。
振り返ると、白い衣をまとったミリエラが立っていた。
手には湯気の立つカップを持ち、優しい笑みを浮かべている。
「ずいぶん遅かったわね。疲れたでしょう?」
リリアが小さくうなずくと、ミリエラはにっこりと笑った。
「リリアちゃんは、もう部屋に行って休んじゃいなさいな。顔色が悪いわ」
そう言って、ミリエラは自然な仕草でリリアの腕を取った。
その手は温かく、リリアの疲れた心に染み込むようだった。
「ヴァルガン、話の続きはまた明日ね。子どもたちを働かせすぎよ」
「へいへい、説教なら後でまとめて聞こうじゃねぇか」
ヴァルガンは肩をすくめ、苦笑した。
ミリエラは軽やかにリリアを部屋の方へ導いた。
背中で扉が閉まると、外のざわめきが遠ざかっていく。
ランプの光がゆらめく中、リリアはようやく息をついた。
胸の奥で、言葉にならない思いが渦を巻く。
──カイ、セラ。どこにいるの……?
リリアはミリエラに肩を押されるようにして、部屋の中へ入った。
その手はいつもと同じように温かかったが、どこか急かすようでもあった。
リリアは戸口の影で一瞬だけ振り返る。
ヴァルガンの声が遠くに聞こえたが、扉が静かに閉じられると、世界の音がふっと消えた。
「ほら、座って。顔が真っ青よ」
ミリエラは笑いながら椅子を引き、リリアの背を軽く押した。
その笑顔は優しい。けれどほんの少し、違う。
いつもなら労わるような手つきが、今は制するように感じられた。
違和感を声には出せず、リリアは首を傾ける。
ミリエラはその視線に気づいたように、柔らかく笑った。
「カイとセラってば……アラン陛下の足元にも及ばなくて、相当な衝撃だったみたいね」
その言葉に、リリアの胸が小さく跳ねた。
ミリエラは続ける。
「ずいぶんと遠くまで逃げちゃったわ」
くすくすと穏やかに笑うその声音は、あまりにも静かで、あまりにも冷たかった。
まるで他人事のように。
いや、それ以上に、すべてを見通している者のように。
リリアは息を呑む。
──どうして、アランのことを……?
そう問いかけようとした瞬間、ミリエラが先に口を開いた。
「どうして知っているのか、でしょう?」
その笑みは、美しく、そして怖いほどに自然だった。
ミリエラは胸元に手を差し入れ、丁寧な仕草で一通の封書を取り出した。
金色に光る封蝋には、見覚えのある紋章。
──王家の印。
リリアの背筋に、冷たいものが走る。
所在が分からなくなっていた召喚令状。
アランの印が押された、リリア宛てのただ一通の命令書。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れた。
目の前の世界が遠のいていく。
身体を支えられない。
とっさに手を伸ばすと、その指先をミリエラの白い手が優しく絡め取った。
「ごめんね。少しだけ……眠っていてね」
耳に届いた声は、夜の風のように穏やかで、そして冷ややかだった。
それが最後だった。
リリアの意識は、深い闇の底へ沈んでいった。
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