必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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策謀交錯

第7話

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 夜は長い。
 森の闇が小屋の隙間を縫い、冷たい風を忍ばせてくる。
 焚き火の灯だけが、世界の形をかろうじて留めていた。

 リリアは眠れなかった。
 何度も目を閉じようとしたが、まぶたの裏に焼き付いた剣の光が離れない。
 火花の軌跡、金属の衝突、そしてヴァルガンの背中。

 外では虫の声ひとつしない。
 ヴァルガンは出て行ったきり、まだ戻っていなかった。

 残されたのは、カリムと自分だけ。
 小さな焚き火を挟んで、沈黙が長く続く。

 火がぱちりと弾ける音に紛れて、リリアが口を開いた。

「……どうして、私を守るんですか」

 カリムは顔を上げる。
 炎がその瞳をかすかに照らした。

「どうして、私を連れて逃げるんですか」

 問いは二度、ゆっくりと繰り返された。
 カリムはしばらくなにも言わなかった。
 やがて、短く答える。

「……お前に死なれたら困るからだ」

 それだけだった。
 あまりに素っ気なく、まるで感情の欠けらもない声。

 リリアは唇を噛んだ。
 胸の奥に刺さるような痛みが広がる。

「……私は、命を懸けて守ってもらうような人間じゃない。だから、あの人だって切り捨てたはずなのに……。どうして今になって追いかけてくるの? どうして……みんな、私を……」

 言葉の途中で、声が震えた。
 涙が頬を伝う。
 それを見て、カリムは困ったように頭をかいた。

「……言いたかないが、お前の血筋が重要なんだろ」

 そのぶっきらぼうな言葉が、夜の静寂を割った。
 リリアの目がかすかに揺れる。

 リリアはゆっくりと立ち上がった。
 肩に掛けていたカリムの上着が、音もなく床に落ちた。
 引き裂かれたままの薄絹のネグリジェが、炎の光を受けて輪郭を浮かび上がらせた。
 光と影の境目で、リリアの存在だけが際立って見える。

 カリムが息をのむ。
 彼は目を逸らすでも、凝視するでもなく、ただそこにいるリリアの姿を確かめるように見つめる。

 リリアは、そんなカリムをまっすぐに見つめ返した。

「重要なのは、私じゃない。私に流れている血ですよね?」

 リリアの左胸に淡く浮かぶ模様。
 痣のような、しかしどこかで見たことのある印。
 火の光を受けて、血のような赤に揺らめく。

「父が亡くなって、祖母もいなくなって……この模様が濃くなりました。みんな、これが欲しいんですよね。欲しいのは、私じゃなくて……これを持つ者なのでしょう?」

 リリアが話を終えると、部屋が静まり返った。
 風の音だけが、壁の隙間を抜けていく。

 カリムはゆっくり立ち上がった。
 真面目な顔でリリアの前に立つと、無言のまま手を伸ばす。
 指の腹がリリアの頬に触れ、涙をなぞる。

「……正直に言う」

 低い声が落ちた。

「俺は詳しいことを知らない。墓守の一族が賢者の末裔だということも、最近まで知らなかった。ただ、陛下も宰相閣下も……お前を手放す気はない。理由は、たぶんその印だ」

 リリアの瞳が揺れる。
 けれど、カリムの声は静かで、まっすぐだった。

「……もし本当に、自分の身に起きていることを知りたいなら。宰相閣下に会うのも、悪くねぇと思う。あの人は少なくとも、陛下よりは正直だ」

 リリアはなにも言わなかった。
 ただ、肩を震わせながら、カリムの言葉を飲み込んだ。

 涙が頬を伝い、彼の手の甲に落ちる。
 その温度が、やけに現実的だった。

 火がぱちりと弾け、二人の影を壁に映す。
 それは、触れ合いそうで、決して交わらない。

 長い沈黙のあと、リリアが囁いた。

「……あなたも、印が欲しいですか」

 カリムは顔を上げる。焚き火の光が、その瞳の奥で揺れた。

「私はいらないけれど、印だけが欲しいのですか? 私じゃなくて、血の証だけが」

 その問いに、カリムはしばらくなにも言わなかった。
 炎のはぜる音だけが、ふたりの間を埋める。

 やがて、彼は真剣な声で言った。

「……陛下はきっと、お前という人間を成長させたかったんだと思う」

 リリアのまつげが揺れる。

「必要ないから切り捨てたんじゃない。必要だから……繋がりを断ったんだ」

 その言葉は、静かに胸に沈んだ。
 だが、リリアは小さく首を振る。

「そんなの……わかりません」

「俺だって、本当のところはわからないさ」

 カリムは短く息を吐いた。
 少しの間、焚き火の光がふたりを隔てて揺らめいた。

「……流れている血じゃない」

 カリムは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「生まれ持った宿命としてじゃなく、ひとりの人間として、自分の傍にいることを選んでくれる存在が、陛下は欲しかったんだろう」

 リリアはその言葉を、胸の奥で静かに反すうした。

 ──じゃあ、アランは? アランだって王家の人間として生まれた。生まれながらにして未来の王と定められた人。その宿命を、彼自身はどう思っているの……?

 問いは喉の奥まで込み上げたが、声にはならなかった。
 ただ、炎の揺らぎを見つめながら、リリアは唇を噛んだ。

「……でもな」

 カリムは視線を落とし、ほんのわずかに照れたように笑う。
 困ったようで、それでもどこか優しい表情だった。

「俺自身は、リリアという存在がいてくれてよかったと思っているけどな」

 カリムの声は、ほとんど消えるほど小さかった。
 リリアは息を呑んだ。
 その言葉が、火の粉のように胸の奥で静かに燃えた。

 外では、風が森を渡っていく。
 夜は長い。
 それでも、ほんの少しだけ、寒さが遠のいた気がした。
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