必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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古王封域

第1話

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 崩れた石碑の傍らに残してきたカリムの姿が、胸の奥に棘のように刺さったままだった。
 折れた腕と足。蒼白な顔。震える呼吸。
 「言いなりになるな」「行くな」と訴える彼の声が耳に残る。

 リリアは唇を噛みしめ、石段を下りていた。
 決して後ろを振り返らないと心に決めて。

 アランは無言でリリアの背に続く。
 足音だけが狭い通路に反響し、空気は冷たく張り詰めている。

 地下へ進むほど、重く湿った空気が肌にまとわりつく。
 魔力が揺れ、瘴気が薄く漏れ出す。
 微かな唸りのような音が、どこからともなく響いてくる。

 ──長の封域が近い。

 それに呼応するように、リリアの左胸がずきりと痛んだ。

「っ……!」

 思わず足が止まり、胸に手を当てる。

「リリィ?」

 背後から驚いたような声。
 アランの足音が近づき、伸ばされた手が肩に触れようとする。

「どこか……痛むのかい?」

 その声音は、かつて学園で聞いたものと同じ、優しい響きだった。

 ──どうして、こんな時だけ。

 あまりにも反則のように優しくて、リリアはそっと身を引き、アランの手を避けた。

「……ご自分で選ばれた道です。どうか、些末なことを気に掛けるのはおやめください」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
 アランの表情が、ひどく痛ましげに揺らぐ。
 その顔を見ると胸が締めつけられ、余計に苦しくなる。

「……ずるいです」

 声が震えた。

「そんな顔、しないでください。私を心配するのなら……どうして、あんなふうに脅すんですか? せめて冷徹に、ご自分の選んだ道を貫いてください。情けをかけるなら……最初から、あんな風に力を使わなければよかった……!」

 一息に巻し立てると、リリアは顔を背け、早足で歩き出した。
 しばらく、アランの足音は聞こえなかった。

 ――どうして、追ってきてくれないの?

 振り返りたい衝動を押し殺し、リリアは歩を進める。
 湿った空気が肺の奥に張りつき、胸の痛みが鼓動に合わせて強まる。

 やがて、遠くで足音が再び響く。
 迷いを帯びた慎重な足取りで、アランが近づいてくる。

「……リリィ」

 アランが、息を整えながら言葉を紡ぐ。

「僕は……ただ君を──」

 そこで言葉がつかえた。
 暗い通路に、緊張した沈黙が落ちる。
 そして、かすれた声で続きがこぼれた。

「……君とまた、笑い合える時間を取り戻したいんだ」

「………………っ」

 リリアはアランの言葉に何も答えられない。
 今、この場で返せる言葉がみつけられなかった。

 足を止めれば、泣きそうで。
 振り返れば、心が揺らいでしまいそうで。

 だから、ただ前を向いて歩き続けた。
 決して振り返らなかった。
 アランがどんな顔をしてその言葉を口にしているか、目にすることはできなかった。

 通路はさらに狭まり、石壁には長年の魔力に侵食された黒い筋が走り、淡く脈打っている。
 静寂はあまりにも深く、耳を押しつぶすほどの重さを帯びていた。

 やがて、通路の先に巨大な門が姿を現す。

 苔むした岩壁に埋め込まれた黒い石の扉。
 中央には禍々しいほど精緻な『長の紋章』。

 門の前に立った瞬間、リリアの胸の紋様が焼けつくように疼いた。
 熱が皮膚の下で暴れ、足元がふらつく。

 ここは、グレイモンド家の者であっても滅多に踏み入ることのない領域。
 長との対話には常に心の均衡が求められ、少しでも隙があれば飲み込まれる。
 この最深部へ来るのは、リリアにとっても久しぶりだった。

 胸の奥に冷たい不安が広がる。
 長は王を連れて来た自分を、どう受け止めるのか。
 怒りを示すのか。悲しみを帯びるのか。
 それとも、言葉すら許さぬ沈黙で迎えるのか。

 揺らぎかけた心を押し止めるように、リリアはそっと目を閉じ、深く息を吸った。

 私はグレイモンドの末裔。
 長の声を聞き、導き、封じ続けてきた一族の最後の墓守。

 瞼を開けたとき、リリアの眼差しには迷いの色はなかった。

「……ここが、長がおられる封牢です」

 低く告げると、隣に来たアランが門を見上げた。
 黒い扉は重く、生き物のように紋章が脈打っているように見える。

 沈黙のあと、アランが息を呑んだ。

「……リリィ」

 声を震わせながら、アランは問いかけてきた。

「僕は……呪いを断ち切れると思うかい?」

 その弱さは、王のものではなく、ひとりの青年のものだった。
 リリアが答えようと息を吸った瞬間、アランは自らその不安を断ち切るように首を振った。

「……いや。もう決めたんだ。進むと」

 次の瞬間、アランは表情を硬くし、厳しい声音で言い放つ。

「リリア・グレイモンド、ここを──開けろ」

 その声に、リリアはアランの覚悟を悟る。
 ゆっくりと、震える手で門に触れた。
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