必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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古王封域

第2話

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 リリアがゆっくりと封牢の扉を押し開けた瞬間、内側から黒い瘴気の奔流が溢れ出した。

「っ……く……!」

 瘴気への抵抗を持つリリアですら、胸が締め付けられるほど濃い憎悪が肌を灼いた。
 左胸の紋が熱を帯び、鼓動に合わせて疼く。
 思わず胸元を押さえ、膝を折りそうになる。

 だが、隣に立つアランは、瘴気に触れながらもまるで嵐の中心に立つかのように一歩も退かない。
 その瞳は暗闇の奥を真っ直ぐに見据えていた。
 リリアはその覚悟を悟り、そっと頭を下げた。

「……まずは私が挨拶をしてまいります。陛下はここで、お待ちください」

 しかし、アランは足を止めず、そのまま封牢の奥へ歩を進めた。

「お、お待ちください、陛下!」

 慌てて後を追った、その刹那。

 ──ふっ……。

 闇の奥で、誰かが深く息を吸う気配が響いた。
 人間ではありえない重さを帯びた呼気。
 空気そのものが押し引きされるように揺らぎ、肌が総毛立った。

 リリアは即座に膝をつき、額が石畳に触れんばかりに身を低くする。

「お久しゅうございます……アズ=カラグ様」

 名を呼ぶと、封牢の空気がわずかに震える。
 続いて洞窟全体を満たすような重低音が響いた。

「……………………墓守の娘よ。……久しいな」

 声というより、地の底から響く咆哮の残響のようだった。
 続けざまに、ふしゅうううう、という巨大な生き物が鼻から息を吐く音がした。
 湿った熱気が瘴気を押し広げ、暗闇の形がゆらぐ。

「……顔を上げよ。久方ぶりなのだ、そう固くなるな。ゆるりと話をしていけ」

「……ありがたきお言葉にございます」

 リリアはゆっくりと顔を上げる。

「もっと近くへ来い……墓守の娘よ」

 逆らう理由はない。
 慎重に歩を進めると、闇の奥に巨岩のような影が丸まっていた。
 その輪郭は闇に沈み、眠っているかのようだ。

 だが、響く呼吸音は確かにそこに存在を刻んでいた。
 胸郭は動かないのに、空気だけが揺れている。
 その存在は肉体がそこにあるというより、竜という概念が眠っているとしか言い表せない。

 黒い鱗は岩のように硬質で、ところどころ赤黒くひび割れている。
 封印の紋様が光の筋となり、脈動しながら鱗の隙間を走っていた。

 リリアは膝をつき、鼻先にそっと唇を触れさせる。

 その瞬間、巨体は一切動かぬまま、封牢全体が震えるように揺らいだ。
 世界そのものが竜の存在を肯定するかのように。

「……墓守の娘よ。そなたの気配は、相変わらず穏やかだ」

 鱗一枚動かぬまま降り注ぐ声は、以前よりどこか澄んでいた。

「…………アズ=カラグ様、今日は──」

 リリアの言葉を遮るように、古き長は続ける。

「この封牢に満ちる憎しみは衰えぬ。我が内に残る怨念も……消えはせぬ」

 黒い瘴気がゆるやかに揺らぐ。
 その口ぶりからは、今日リリアがここへ来た理由をすでに理解している気配が漂っていた。

「されど、長き時を経て我は知った。憎しみをぶつけても怨念は増すばかり。怒りは慰めにはならず、救いにもならぬ」

 声は驚くほど穏やかだった。

「ゆえに我はもう……そなたら人間に恨みを向けようとは思わぬ」

 その言葉に、暗闇でアランの呼吸が揺らぐ。

「人間の王になど、もはや興味はない。我を滅そうとするなら好きにせよ。我はもう、空を翔けることも叶わぬ身……」

 角は折れ、片翼は失われている。
 封牢を出て行けぬことを、竜自身がよく知っていた。

「……ただひとつ」

 瘴気が波紋のように広がる。

「そなたと語れぬようになるのが……惜しい」

 その一言に、リリアの胸が強く締めつけられる。

「長き年月、そなたの一族は我の声を聴き、怒りを受け止め、孤独を知ってくれた。そなたと過ごすひとときは……我にとって安らぎであった」

 封牢の温度が、ほんのわずかに暖かさを帯びた。
 しかし、アランの周囲の空気だけが、ぴしりと音を立てて歪んでいく。

「今代の王よ。そなた……墓守の娘を好いておるな」

「っ……!」

 思わぬ言葉に、アランの肩がわずかに震えた。
 竜の声音は嘲りでも挑発でもない。ただ真実の観察者としての響きだった。

「嫉妬は……幼い感情だ。それは力を曇らせる」

 アランの拳が固く握られる。

「我を斃すも封を断つも、そなたの自由だ。そなたの先祖が奪ったものは、とうに時が飲み込んだ」

 そして──

「だが、墓守の娘だけは……我のであった」

 その一言は、封牢の中の瘴気さえ揺らすほどの重みを持っていた。
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