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二の段 蠣崎家のほうへ 三度目の冬―奈落の底(四)
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さすがに話を聞いたお方さまから、首に巻くがよい、傷痕を隠しなさい、と見舞い代わりのつもりか、絹の細布が送られたときには、あやめは当惑した。
お方さまにしてみると、精力は横溢しているものの、自分やもう一人の側室に対してはごく当たりまえの(であろう)睦みあいしかないお屋形が、「堺」にだけは、なぜああなのかが不審である。夫に、女の躰に痣を作り、傷を負わせるほどの凶暴な真似が出来ようとは、信じがたいのであった。新三郎ほどの武家ならば、合戦での勇猛や武芸上手と同じ平面に日常の暴力性があったりはしない。
それほどに、狂うまでにあの女にご執心か、と思えば妬ましくもなるはずだったが、どうしたものか、細い躰の「堺」があわれに思えてならなくなった。
もとはといえばおやかたさまの「堺」へのお手付きの仕方も感心できなかったのを、今になれば想起できる。
自分の夫を異常者だとも思えず、むしろ、新三郎その人すらあわれに感じられる。お方さまは、自分の夫ほど実は心やさしい男はいないくらいに思っていた。
(おやかたさまのお気持ちはわかるが、……やりようは間違っておられたのではないか?)
(お間違いのまま、ここまで拗れてしまったのでは……?)
一方、納屋のコハルはといえば、同情や当惑だけではすまない。殺意を抑えるのに懸命である。蠣崎新三郎を今すぐにもこの手で殺してやりたいのであった。
湯殿の一件があって以来、コハルは全力をあげて大舘に手の者を潜り込ませるための手を打った。釣り上げかけていてそのままだった、大舘のかなりの大物と相通じ、なかば取り込むのに成功すると、これまでいかにも困難だった手の者の配置も少し容易になった。
あやめこそは新三郎の最も側にいる者になってしまったが、「堺の方」に対してはお屋形が大事な考えをふと漏らしたりはしない。表向きのことはあくまで、以前のように納屋今井の御寮人を呼びつけて、一族重臣の前でおおっぴらに相談するくらいである。
だからということもあり、あやめは「堺の方」として自分がどんな目に遭わされているかまではコハルにも話さない。それは誇りが許さない。
だが、大舘の、お方さまの侍女のひとりまでが、すでに間接的にコハルの手の中にあった。
「あれはひどい。堺どのもよく我慢されるものじゃ。」
と、あやめに冷淡だったはずの、その侍女までがいっているという。
それを伝えたのは、コハルの使う者である。
ただの女ではない。
どこから見てもいまは田舎豪族の台所の下女の顔つきだが、こちらに呼び寄せる前は、京の公家屋敷で主人の夜伽をやって不思議ではなかった。
何にでもなれる女であった。その時々で、いかなる者にも化け、それになりきってしまう。
「それほどか。」
「あたしも、ああいうお偉い手合いにこそ、閨で頭がおかしいのが多いのはよく存じておるが、新三郎はとりわけさね。」
大舘の使用人の雑魚寝から抜け出して、下女の恰好のまま、本来の顔―かどうかはわからぬが―に戻って、雪あかりの差しこむどこぞの寺の本堂にある女は、寒そうに身をすくめた。
「おぬしの前の情人よりもか。」
「いろ、とはこれはむごい。おかしら様のお命じからだったではござらぬか、あれは。」
「気を悪くするな。褒めておる、つい、そのように思えるほどであったぞ。いまは、こちらの言葉にもよく馴染んだ。見事なものだ。」
「いや、今もそれが一番の苦労じゃが、……」奇怪な職業人らしい自足を得たらしく、女は薄く笑った。「台所では、無口で通しておる。」
「おぬしが、か。」コハルもふっと笑ったが、「とりわけ、とはどういうところか。」
「聞かれたいか。」
「聞きたくはないが、聞かねばならぬ。」
お方さまにしてみると、精力は横溢しているものの、自分やもう一人の側室に対してはごく当たりまえの(であろう)睦みあいしかないお屋形が、「堺」にだけは、なぜああなのかが不審である。夫に、女の躰に痣を作り、傷を負わせるほどの凶暴な真似が出来ようとは、信じがたいのであった。新三郎ほどの武家ならば、合戦での勇猛や武芸上手と同じ平面に日常の暴力性があったりはしない。
それほどに、狂うまでにあの女にご執心か、と思えば妬ましくもなるはずだったが、どうしたものか、細い躰の「堺」があわれに思えてならなくなった。
もとはといえばおやかたさまの「堺」へのお手付きの仕方も感心できなかったのを、今になれば想起できる。
自分の夫を異常者だとも思えず、むしろ、新三郎その人すらあわれに感じられる。お方さまは、自分の夫ほど実は心やさしい男はいないくらいに思っていた。
(おやかたさまのお気持ちはわかるが、……やりようは間違っておられたのではないか?)
(お間違いのまま、ここまで拗れてしまったのでは……?)
一方、納屋のコハルはといえば、同情や当惑だけではすまない。殺意を抑えるのに懸命である。蠣崎新三郎を今すぐにもこの手で殺してやりたいのであった。
湯殿の一件があって以来、コハルは全力をあげて大舘に手の者を潜り込ませるための手を打った。釣り上げかけていてそのままだった、大舘のかなりの大物と相通じ、なかば取り込むのに成功すると、これまでいかにも困難だった手の者の配置も少し容易になった。
あやめこそは新三郎の最も側にいる者になってしまったが、「堺の方」に対してはお屋形が大事な考えをふと漏らしたりはしない。表向きのことはあくまで、以前のように納屋今井の御寮人を呼びつけて、一族重臣の前でおおっぴらに相談するくらいである。
だからということもあり、あやめは「堺の方」として自分がどんな目に遭わされているかまではコハルにも話さない。それは誇りが許さない。
だが、大舘の、お方さまの侍女のひとりまでが、すでに間接的にコハルの手の中にあった。
「あれはひどい。堺どのもよく我慢されるものじゃ。」
と、あやめに冷淡だったはずの、その侍女までがいっているという。
それを伝えたのは、コハルの使う者である。
ただの女ではない。
どこから見てもいまは田舎豪族の台所の下女の顔つきだが、こちらに呼び寄せる前は、京の公家屋敷で主人の夜伽をやって不思議ではなかった。
何にでもなれる女であった。その時々で、いかなる者にも化け、それになりきってしまう。
「それほどか。」
「あたしも、ああいうお偉い手合いにこそ、閨で頭がおかしいのが多いのはよく存じておるが、新三郎はとりわけさね。」
大舘の使用人の雑魚寝から抜け出して、下女の恰好のまま、本来の顔―かどうかはわからぬが―に戻って、雪あかりの差しこむどこぞの寺の本堂にある女は、寒そうに身をすくめた。
「おぬしの前の情人よりもか。」
「いろ、とはこれはむごい。おかしら様のお命じからだったではござらぬか、あれは。」
「気を悪くするな。褒めておる、つい、そのように思えるほどであったぞ。いまは、こちらの言葉にもよく馴染んだ。見事なものだ。」
「いや、今もそれが一番の苦労じゃが、……」奇怪な職業人らしい自足を得たらしく、女は薄く笑った。「台所では、無口で通しておる。」
「おぬしが、か。」コハルもふっと笑ったが、「とりわけ、とはどういうところか。」
「聞かれたいか。」
「聞きたくはないが、聞かねばならぬ。」
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