えぞのあやめ

とりみ ししょう

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五の段  顔  恋う声(三)

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 だが、あやめが思わぬ形で言葉を残してくれたことで、よい、しばらくすればまた会うのだ、とだけ思えた。
 昨日の夜、あやめが箱館に奔ったことを確認でき、突き上げる感情に耐えつつ、いっそ箱館に奪い返しにいってやろうか、「政庁」を気取っている親父殿にここで釘をさしておく好機かもしれぬなどと考えはじめていると、ふと灯火が消えた。
 咄嗟に刀を引きつけ、気配をうかがう。
「おやかたさま。」
 どこからか、声が聞こえた。
「あやめ?」
 あやめの声に違いない、と聞こえる。
「お前、戻ってきたか?」
 声に喜色が出たが、待て、と自分を押しとどめる。なぜ姿も見せぬ。
「このような形でお詫び申し上げます。お許しください。」
(あやめの声にしか聞こえぬが、これは別の者か。)
「今井は、こうした芸を使うか。」
「御明察にござります。失礼ながら大舘の中に忍び入りましたこの者に、わたくしに代わって喋らせまする。」
「姿を見せよ。忍び入ったとは聞き捨てならぬ。斬る。」
 刀を握った。
「お許しください。あやめとして、ご挨拶を申し上げさせまする。」
「……」
「おやかたさま。長きにわたりお情けを頂戴し、あやめは幸せにございました。御礼を申し上げます。」
「……幸せだったと? そうでも あるまい。」
「おっしゃる通りでございます。途中まではとても、とても。」
「いいよるのう、あやめは。たれかしらぬが、声を出しているお前、そう答えるようにいわれておるな。」
 新三郎は苦笑いした。文にしなかったのは不思議でもあるが、あやめの趣向に乗ってやろうという気になっている。
(あやめは、声が美しい。澄んで、よく通る。)
(その咽喉を一度、絞めて潰してしまったことがあったな。おれは、ひどく悔いたものだ。何日かで元に戻ってよかった。)
「……でも、いまは幸せにのみ存じております。おやかたさま、あやめは、心より蠣崎新三郎さまをお慕い申しております。」
「……あやめ?」
 新三郎は、ほんとうにそこにあやめがいるような気になってきた。構えに入っていた刀から手を放す。
「箱館は良港。商いはあの土地がよい。でも、おやかたさまと離れたくはございませぬ。」
「では、なぜ、あんなところにいく? やめておけといったのに?」
 気づいて、伝えるがよい、といい繕った。
「……十四郎には、おれがいずれ必ず会わせてやるから、無理をすることなどない。もしもひどい戦になってしまえば、お前たちの命も危なくなるのだぞ。」
「ご心配には及びませぬ。」
「儂はあやめを、殺したりしたくはないのだ。戻ってこい。いまならまだ間に合う。……いや、と、そこの女、あやつに伝えよ。お前の主人であろう。」
「あやめは何も心配しておりませぬよ。おやかたさまを、信じられるようになりましたので。」
「信じるだと。」
「おやかたさまは、必ず、お決めになられます。よくしてくださいます。わたくしどもは、それでとうとう、十四郎さまと三人で許しあって、笑って暮らせるようになります。おやかたさまがいってくださった、あやめも入れてくださる、蠣崎のお家の夢。わたくしも、みました。まことにしとうございます。」
「……おれに、安東侍従の命など聴くな。蝦夷代官などやめろ、というのだな。箱館に頭を下げて、志州さまに従え、と。お前、……いや、納屋は。そこの者、帰って納屋めに伝えよ、それができぬ理由は、いってやった。それがわからぬ納屋の御寮人とも思えぬが。」
「またお目にかかるのが楽しみでなりませぬ。それからが、どのような形になるのかはわかりませぬが、それでも楽しみでございます。おやかたさまがいわれました。世がどうあろうと、互いに想いあっていればそれでよい、と。わたくしは側妾としてお仕えしただけでございましたが、おやかたさまに可愛がられ、深いお心に気づかされ、おやかたさまをお慕いすることが、とうとうできました。ほど知らずながら、想いあったと存じております。」
(ああ、そうだ。おれは、お前と……。)
「お別れは申しませぬ。しばしのお暇を頂戴いたします。早いうちにお決めくださいませ。その分、また早くお目にかかれましょう。」
 気配が消えた。新三郎は座り込んでいる。目は板の間の床の一点を見つめていた。

 台所女であったコハルの配下の女は、闇のなかで気配を消すと、すぐに大舘での顔に戻った。しれっと新三郎のもとに行ってやろうかと思ったが、気が変わった。
 御寮人さまから頼まれた仕事は果たした。
(なるほど、文に残すわけにはいかない。)
 十四郎はおろか、コハルにすら知られたくない内容を新三郎に伝えたい、と直接頼まれたのだ。
(おかしらを通さぬ仕事で、もし知れたら、あとで叱られるかもしれぬが、……)
 女は、新三郎の肌の匂いを自分も知っている、ただそのために、あやめに特別な親近の情を抱くようになっている。そんな自分に気づいて、驚いていた。
 だから、余計な仕事を黙って受けた。
(あの北の方様が、妙に御寮人さまをお好きだ。御寮人さまもそうだ。武家の主従とはいえ、要はひとりの男を取り合っているわけにはならないのか。あの不思議さが、我が身にも起こったか。)
「あの方は、きっと十四郎さまとわかりあえる。」
 思い出し、また口真似をしてみて、女はくすりと笑った。
 あの娘さまは、あれほど忌み嫌い、殺したいほど憎み、新三郎と呼び捨てていた男を、いまは「あの方」と呼ぶ。命懸けで愛している十四郎と並べて、同じように信頼している。
 敵として憎み続け嫌いぬくのが当然なのに、もうそれができなくなってしまった。
(ひとを好きになってしまうというのは、おそろしいことじゃな。)

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