186 / 210
七の段 死闘 希望(三)
しおりを挟む
ひとつには、新三郎の考えは、はっきりと自分たちに対立するものだ。
蝦夷島を天下の交易のなかで据え付けるのは、新三郎の気には入るまい。それは必ずアイノを不幸にするのだ、というのがかれの確信だった。蝦夷を見下し、冷酷に搾ることしか考えていないはずの新三郎の口から出たとはにわかには信じがたいものだったが、そればかりではなく、あやめにとっても思いもよらぬ見方だった。虚をつかれたともいえる。
(商売というのは、決しておやかたさまの思われるような悪行ではない。)
(だが、わたくしの考えも、いい気なものに思えてきてならない。)
(蝦夷島が商いで一つにまとまれば、みなが腹いっぱい食べられるとは限らない。安楽に暮らせるわけもない。商いは頭を使い、からだを使い、日々競い合うものだ。勝ち負けがある。かならず、商いの争いに負けてしまう者が出る。いや、下手をすれば、わたくしたち和人商人が、蝦夷島のアイノたちをすべて負かしてしまう。おやかたさまのご心配はそれだった。)
(今日負けても明日勝てばいい、とはいかぬ者も出よう。商いは人死にすら出す。)
(現に、この合戦で何が起こった? アイノは鉄砲でひとを殺し、また殺された。酒を喰らい、合戦のあとの狼藉を恣ままにした者も出た。)
「ヨイチのお方(八郎右衛門)は、どこかでお儲けでしょうね?」
「さしぐみ(いきなり)、なんだ? まあ、そうしてくれるだろう。 あれほどの船を調達してくれたのだし、報いてやりたい。」
(いかさま左様じゃ。)
(イシカリの長もまた、いっそう力を強められよう。それもこれも、和人の家から出た蝦夷ご宰領さまを押し立てて、戦をさせたからだ。)
(だが、それは、かれらにとってよいことなのか?)
(アシリレラは、こんな土地にまで来て、幸せなのか? ……わたくしがここで十四郎さまとふたりでいるのに、あの子が胸を痛めていないはずがない。そんな悲しみも、十四郎さまやわたくしと出会ってしまったからだ。)
「あやめ?」
「……ぼんやりしておりました。」
すでに日は落ちつつあり、薄暗がりのなかに二人はいる。十四郎は侍女を呼び、灯りをともさせた。それをよいことに、あやめは口をつぐんでしまった。
あやめが最も当惑したのは、新三郎の言葉が、躰の記憶とともに蘇ったからだ。
(あんな話をしたら、それだけで、おかしくなってしまう?)
あやめは心の中で、十四郎に詫びた。たれよりも自分を想ってくれる人とようやく一緒に過ごせているのに、ふとした拍子に別の男の肉体の記憶が鮮明によみがえる自分を、情けない、あさましいと内心で罵った。
「日が落ちた。」
十四郎は、独り言のようにいう。気づいている。あやめが様式ばった文(あやめの手紙は、十四郎よりもはるかに書簡の格式に添ったものばかりで、簡略だった)の一行だけ、おやかたは天下の北に穴の空くを御憂慮、と書いてきたことがあった。
(そんな話を、兄上とすることもあったのだろう。)
妬心の痛みはおぼえたが、もう二度といってはならぬ、と十四郎は決めている。
黙ってしまったあやめこそが、苦しいのだとわかっている。
「あやめ、何事も、ゆるるかに(ゆっくりと)参ろう?」
あやめは思わず身を固くする。
今宵、といわれてこうして来ている。厭なのではない。うれしいのだ。待ちわびていた宵だといっていいのだ。だが、
(できるのか……十四郎さまと?)
さきほどまで機嫌よく楽しく喋っていたときには消えていた悩みが、にわかに身にのしかかってきたようだ。
(できる。できるはずだ。おやかたさまが、治してくださった。)
(好きなお方と、ちゃんと睦みあえ、繋がれた。)
(であれば、十四郎さまと、またできぬはずはない。)
(いまいちど、身も心も一つになれる……はずじゃ。)
(もし、もしも、おやかたさましか受け付けぬ躰になってしまっていたら、どうしたらいい?)
(また、またあの震えが出てしまったら?)
(生涯、十四郎さまとだけは睦みあえぬあやめになっていたら?)
「疲れてしまったのなら、もうよい。……明日中には、われらは東に立つ。道中も短くない。ゆるるかに、でよい。」
「……」
「無理はせぬ。酔ったのなら、もうやすまれよ。やすむがよい。」
「……」
「楽しかった。あやめと話ができて、まことに楽しい。また、明日から毎日」
「どうして、……」
あやめは顔を伏せた。
「どうして、それほどにおやさしいのです?」
「やさしくなどない。」
おれが心からやさしければ、そもそもお前はこんなに苦しまなくてよかったのだ、と十四郎は思った。
「いいえ、おやさしい。わたくしの躰などを、お気遣いになって。」
「おれは、自分のことばかりだ。いまも、あやめに無理強いして嫌われたくないだけだ。」
「嫌いになど、ならない。……なったことがない。」
あやめは十四郎に飛びつくように抱きついた。十四郎は固く抱きしめる。背中を撫でながら、
「有り難し。かたじけない。あんなことをした、おれを?」
「お恨みいたしました。……でも、十四郎さまを嫌ったことなど、ただの一度もない。」
十四郎は、自分は疑いなく幸せだと思った。今宵、やはり前へ進もう、と決意した。
「あやめ……」
「いまだって、何をされても構わない。壊れてしまってもよいのでございます。」
十四郎の表情が、一瞬で凍った。
蝦夷島を天下の交易のなかで据え付けるのは、新三郎の気には入るまい。それは必ずアイノを不幸にするのだ、というのがかれの確信だった。蝦夷を見下し、冷酷に搾ることしか考えていないはずの新三郎の口から出たとはにわかには信じがたいものだったが、そればかりではなく、あやめにとっても思いもよらぬ見方だった。虚をつかれたともいえる。
(商売というのは、決しておやかたさまの思われるような悪行ではない。)
(だが、わたくしの考えも、いい気なものに思えてきてならない。)
(蝦夷島が商いで一つにまとまれば、みなが腹いっぱい食べられるとは限らない。安楽に暮らせるわけもない。商いは頭を使い、からだを使い、日々競い合うものだ。勝ち負けがある。かならず、商いの争いに負けてしまう者が出る。いや、下手をすれば、わたくしたち和人商人が、蝦夷島のアイノたちをすべて負かしてしまう。おやかたさまのご心配はそれだった。)
(今日負けても明日勝てばいい、とはいかぬ者も出よう。商いは人死にすら出す。)
(現に、この合戦で何が起こった? アイノは鉄砲でひとを殺し、また殺された。酒を喰らい、合戦のあとの狼藉を恣ままにした者も出た。)
「ヨイチのお方(八郎右衛門)は、どこかでお儲けでしょうね?」
「さしぐみ(いきなり)、なんだ? まあ、そうしてくれるだろう。 あれほどの船を調達してくれたのだし、報いてやりたい。」
(いかさま左様じゃ。)
(イシカリの長もまた、いっそう力を強められよう。それもこれも、和人の家から出た蝦夷ご宰領さまを押し立てて、戦をさせたからだ。)
(だが、それは、かれらにとってよいことなのか?)
(アシリレラは、こんな土地にまで来て、幸せなのか? ……わたくしがここで十四郎さまとふたりでいるのに、あの子が胸を痛めていないはずがない。そんな悲しみも、十四郎さまやわたくしと出会ってしまったからだ。)
「あやめ?」
「……ぼんやりしておりました。」
すでに日は落ちつつあり、薄暗がりのなかに二人はいる。十四郎は侍女を呼び、灯りをともさせた。それをよいことに、あやめは口をつぐんでしまった。
あやめが最も当惑したのは、新三郎の言葉が、躰の記憶とともに蘇ったからだ。
(あんな話をしたら、それだけで、おかしくなってしまう?)
あやめは心の中で、十四郎に詫びた。たれよりも自分を想ってくれる人とようやく一緒に過ごせているのに、ふとした拍子に別の男の肉体の記憶が鮮明によみがえる自分を、情けない、あさましいと内心で罵った。
「日が落ちた。」
十四郎は、独り言のようにいう。気づいている。あやめが様式ばった文(あやめの手紙は、十四郎よりもはるかに書簡の格式に添ったものばかりで、簡略だった)の一行だけ、おやかたは天下の北に穴の空くを御憂慮、と書いてきたことがあった。
(そんな話を、兄上とすることもあったのだろう。)
妬心の痛みはおぼえたが、もう二度といってはならぬ、と十四郎は決めている。
黙ってしまったあやめこそが、苦しいのだとわかっている。
「あやめ、何事も、ゆるるかに(ゆっくりと)参ろう?」
あやめは思わず身を固くする。
今宵、といわれてこうして来ている。厭なのではない。うれしいのだ。待ちわびていた宵だといっていいのだ。だが、
(できるのか……十四郎さまと?)
さきほどまで機嫌よく楽しく喋っていたときには消えていた悩みが、にわかに身にのしかかってきたようだ。
(できる。できるはずだ。おやかたさまが、治してくださった。)
(好きなお方と、ちゃんと睦みあえ、繋がれた。)
(であれば、十四郎さまと、またできぬはずはない。)
(いまいちど、身も心も一つになれる……はずじゃ。)
(もし、もしも、おやかたさましか受け付けぬ躰になってしまっていたら、どうしたらいい?)
(また、またあの震えが出てしまったら?)
(生涯、十四郎さまとだけは睦みあえぬあやめになっていたら?)
「疲れてしまったのなら、もうよい。……明日中には、われらは東に立つ。道中も短くない。ゆるるかに、でよい。」
「……」
「無理はせぬ。酔ったのなら、もうやすまれよ。やすむがよい。」
「……」
「楽しかった。あやめと話ができて、まことに楽しい。また、明日から毎日」
「どうして、……」
あやめは顔を伏せた。
「どうして、それほどにおやさしいのです?」
「やさしくなどない。」
おれが心からやさしければ、そもそもお前はこんなに苦しまなくてよかったのだ、と十四郎は思った。
「いいえ、おやさしい。わたくしの躰などを、お気遣いになって。」
「おれは、自分のことばかりだ。いまも、あやめに無理強いして嫌われたくないだけだ。」
「嫌いになど、ならない。……なったことがない。」
あやめは十四郎に飛びつくように抱きついた。十四郎は固く抱きしめる。背中を撫でながら、
「有り難し。かたじけない。あんなことをした、おれを?」
「お恨みいたしました。……でも、十四郎さまを嫌ったことなど、ただの一度もない。」
十四郎は、自分は疑いなく幸せだと思った。今宵、やはり前へ進もう、と決意した。
「あやめ……」
「いまだって、何をされても構わない。壊れてしまってもよいのでございます。」
十四郎の表情が、一瞬で凍った。
0
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる