えぞのあやめ

とりみ ししょう

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七の段  死闘  希望(三)

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 ひとつには、新三郎の考えは、はっきりと自分たちに対立するものだ。
蝦夷島を天下の交易のなかで据え付けるのは、新三郎の気には入るまい。それは必ずアイノを不幸にするのだ、というのがかれの確信だった。蝦夷を見下し、冷酷に搾ることしか考えていないはずの新三郎の口から出たとはにわかには信じがたいものだったが、そればかりではなく、あやめにとっても思いもよらぬ見方だった。虚をつかれたともいえる。
(商売というのは、決しておやかたさまの思われるような悪行ではない。)
(だが、わたくしの考えも、いい気なものに思えてきてならない。)
(蝦夷島が商いで一つにまとまれば、みなが腹いっぱい食べられるとは限らない。安楽に暮らせるわけもない。商いは頭を使い、からだを使い、日々競い合うものだ。勝ち負けがある。かならず、商いの争いに負けてしまう者が出る。いや、下手をすれば、わたくしたち和人商人が、蝦夷島のアイノたちをすべて負かしてしまう。おやかたさまのご心配はそれだった。)
(今日負けても明日勝てばいい、とはいかぬ者も出よう。商いは人死にすら出す。)
(現に、この合戦で何が起こった? アイノは鉄砲でひとを殺し、また殺された。酒を喰らい、合戦のあとの狼藉を恣ままにした者も出た。)
「ヨイチのお方(八郎右衛門)は、どこかでお儲けでしょうね?」
「さしぐみ(いきなり)、なんだ? まあ、そうしてくれるだろう。 あれほどの船を調達してくれたのだし、報いてやりたい。」
(いかさま左様じゃ。)
(イシカリの長もまた、いっそう力を強められよう。それもこれも、和人の家から出た蝦夷ご宰領さまを押し立てて、戦をさせたからだ。)
(だが、それは、かれらにとってよいことなのか?)
(アシリレラは、こんな土地にまで来て、幸せなのか? ……わたくしがここで十四郎さまとふたりでいるのに、あの子が胸を痛めていないはずがない。そんな悲しみも、十四郎さまやわたくしと出会ってしまったからだ。)
「あやめ?」
「……ぼんやりしておりました。」

 すでに日は落ちつつあり、薄暗がりのなかに二人はいる。十四郎は侍女を呼び、灯りをともさせた。それをよいことに、あやめは口をつぐんでしまった。
 あやめが最も当惑したのは、新三郎の言葉が、躰の記憶とともに蘇ったからだ。
(あんな話をしたら、それだけで、おかしくなってしまう?)
 あやめは心の中で、十四郎に詫びた。たれよりも自分を想ってくれる人とようやく一緒に過ごせているのに、ふとした拍子に別の男の肉体の記憶が鮮明によみがえる自分を、情けない、あさましいと内心で罵った。
「日が落ちた。」
 十四郎は、独り言のようにいう。気づいている。あやめが様式ばった文(あやめの手紙は、十四郎よりもはるかに書簡の格式に添ったものばかりで、簡略だった)の一行だけ、おやかたは天下の北に穴の空くを御憂慮、と書いてきたことがあった。
(そんな話を、兄上とすることもあったのだろう。)
 妬心の痛みはおぼえたが、もう二度といってはならぬ、と十四郎は決めている。
 黙ってしまったあやめこそが、苦しいのだとわかっている。
「あやめ、何事も、ゆるるかに(ゆっくりと)参ろう?」
 あやめは思わず身を固くする。
 今宵、といわれてこうして来ている。厭なのではない。うれしいのだ。待ちわびていた宵だといっていいのだ。だが、
(できるのか……十四郎さまと?)
 さきほどまで機嫌よく楽しく喋っていたときには消えていた悩みが、にわかに身にのしかかってきたようだ。
(できる。できるはずだ。おやかたさまが、治してくださった。)
(好きなお方と、ちゃんと睦みあえ、繋がれた。)
(であれば、十四郎さまと、またできぬはずはない。)
(いまいちど、身も心も一つになれる……はずじゃ。)
(もし、もしも、おやかたさましか受け付けぬ躰になってしまっていたら、どうしたらいい?)
(また、またあの震えが出てしまったら?)
(生涯、十四郎さまとだけは睦みあえぬあやめになっていたら?)

「疲れてしまったのなら、もうよい。……明日中には、われらは東に立つ。道中も短くない。ゆるるかに、でよい。」
「……」
「無理はせぬ。酔ったのなら、もうやすまれよ。やすむがよい。」
「……」
「楽しかった。あやめと話ができて、まことに楽しい。また、明日から毎日」
「どうして、……」
 あやめは顔を伏せた。
「どうして、それほどにおやさしいのです?」
「やさしくなどない。」
 おれが心からやさしければ、そもそもお前はこんなに苦しまなくてよかったのだ、と十四郎は思った。
「いいえ、おやさしい。わたくしの躰などを、お気遣いになって。」
「おれは、自分のことばかりだ。いまも、あやめに無理強いして嫌われたくないだけだ。」
「嫌いになど、ならない。……なったことがない。」
 あやめは十四郎に飛びつくように抱きついた。十四郎は固く抱きしめる。背中を撫でながら、
「有り難し。かたじけない。あんなことをした、おれを?」
「お恨みいたしました。……でも、十四郎さまを嫌ったことなど、ただの一度もない。」
 十四郎は、自分は疑いなく幸せだと思った。今宵、やはり前へ進もう、と決意した。
「あやめ……」
「いまだって、何をされても構わない。壊れてしまってもよいのでございます。」
 十四郎の表情が、一瞬で凍った。

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