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終の段 ずずめ(四)
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最初の晩に最も緊張したが、なんということもない。襖越しに御寮人さまの寝息が聞こえる気がするほどの近くで眠ったが、隣室で何が起きるというのでもなかった。
「おや、お前が、」と微笑まれた。「宿直(とのい)をしてくれるのかえ?」
「はい、寝ずの番とも思っております。」
「寝てよい。」
御寮人さまは笑われた。
「武家の室の作法でもあるまい。」
ふと口に出されたたあと、お顔付きに影が差したのを、神経が張っているすずは見落とさなかった。だが、余計なことはいわないと心している。
小春さんのことでも何かお尋ねかと思ったが、あの主従で直接のお話がなかったはずもなかった。そのまま、寝間に入られた。
朝になり、小春さんを介さずに御寮人さまのお世話をするのも、楽しかった。お口数が少ないのはいつも通りだが、お声がけは増えるし、会話のようなものがある。仕事には慣れたか、はい。お陰様にて、といった程度のものだが。
灯火の頃になって夕餉をとられるときに、侍っているすずの顔をふと見て、薄暗い中で瞳がいつも以上に明るく開いているのに気づいたためか、尋ねてこられた。
「すず、お前はどちらの親に似たといわれる?」
「お母あでございましょう。」
「摂津のひとかえ?」
「うちは昔から、同じ村のようで。」
「そうか。……わたくしは、その土地にはその土地の顔があると思っておったが、勘違いであったようじゃ。」
「上方には珍しき、へんな顔にございます。」
すずは、御寮人さままでがこの顔立ちをことあげするのか、と少し悲しかった。
「いや、可愛らしい。別嬪ではないか。お前のような顔だち、わたくしには好ましい。」
「お好きでございますか。ありがたきお言葉にて。……兄も聞いたら、さぞ喜びましょう。」
また余計なことをいった。村の悪い大人たちがいいそうなたわぶれで、失礼ではないか、と汗が噴き出た。幸い、御寮人さまはからかわれたようには、お受け取りでないようだ。
「そのひとと似ているのか。」
「はい、兄三人も母親似でございます。父親似は女きょうだいに多く。」
御寮人さまは、すずの大きな目と尖った鼻を、男の顔に置き換えて想像されたらしい。
「堺には、南蛮僧が今よりもたくさんおられたが、まさか、ああしたお顔か。」
懐かし気な表情になられたが、ふと気づき、すまなさげな顔をなされた。
「……いや、せっかく奉公に慣れてきたのに、故郷の話などして、悪かった。」
すずは、村よりも衣食住や治安の心配がない堺の大店での暮らしが気に入っているので、お気を廻されると悪いほどであったが、そういわれれば、なんだか寂しい気が急にしてきた。
その夜、綿の詰まった夜着を心配しながら、声を潜めて泣いてしまった。
すると、寝入られたはずの御寮人さまが襖を開けてこられたので、驚いた。
(失態じゃ。お起こししてしまった。)
あまりのことに硬直して、飛びあがって詫びるのもできない。
「厠に起きただけじゃ。」
誰にとでもなく、そういわれるのに、その場に立って、膨らんだ夜着に目を落しておられる。
「皆と寝ないと、やはりさびしいか? こんなところに一人は、やはりこわいか?」
「左様はございませぬ。」
答えたのに、寝たままであった。あとで思い出して、すずは自分を殴ってやりたくなる。
「では、やはりお里を、思い出させてしもうたな。すまぬな。……昼は仕事で、忘れてしまえるのにの。」
御寮人さまは、なぜか溜息をつくような口調になった。すずに対してではないらしい。
「もったいのうございます。里心ついたわけにはございませぬ。」
「気にならぬから、泣いていてよいぞ。朝になったら泣きやむがよい。」
そして、すずが、それだけ夜着からちょこんと出している頭を撫でてくれた。温かい手に撫でられているうちに、すずは涙もとまり、落ち着いた。そしてあろうことか、恐縮する間もなく寝てしまった。
次の朝、すずが青くなって無礼を謝ると、御寮人さまは怒っているわけでも、また、とくに親し気になっているというわけでもなく、普段と変わらず無言で頷くだけだった。
その御寮人さまの涙をみようとは、思いもよらぬことだった。
まずは、怪異と呼んでよい出来事に出くわした。
その夜、もう泣く気もなく、ぐっすり寝入っていたすずは、襖越しに気配がしたので目が覚めた。
床の軋む足音がした。隣の部屋で、誰かがせわしなく歩き回っている気配がする。
(御寮人さまか?)
女の足音のような気がしたから、最初はそう思えた。だが、すぐに夜着の中で凍りついた。
しわがれた声で、誰かが何かいっている。ごく小さな、口の中で呟くような声だが、相手があってものを語っている様子だ。女のようだが、御寮人さまの声ではない。聞きなれぬ音と調子の高低も混じっているから、意味がとれない。その誰かが語りかけているその相手が、御寮人さまだという気がした。
(盗人か?)
まずそれを疑うべきなので、すずは震えあがったが、勇を鼓して起き上がり、しかし瞬時迷った。声をかけるべきかどうか。足音と呟き声は絶えた。
しかし、御寮人さまの長い溜息らしきものが聞こえた。その瞬間に、
「御寮人さま、ご無礼いたしまする!」
と襖を開け放った。もしも曲者がいるのならば、飛びかかっていかねばならない。
御寮人さまは、夜具の上で半身を起こされていた。こちらに気づいて、どうしたか、という顔をされた。他に誰の姿もない。
「声がいたしましたので。」
「……わたくしの、寝言であろう? 起こしてしもうたのか。」
「いえ、どなたかの足音も……?」
御寮人さまは、寝乱れた前髪を払うと、そこで初めて薄く笑われて、
「それは、お前も寝ぼけたかな。」
その夜は、それで済んだ。朝になると、御寮人さまにもお変わりの様子は何もない。もちろん、すずは不審だったが、こちらから御寮人さまに話を出すわけにもいかない。ただ、はじめて小春さんの帰還を待ち望む気持ちになった。
また夜がきて、すずはまんじりともできない。とはいえいつの間にかうとうととしていると、隣室から襖が音もなく開けられた。ふとめざめると、御寮人さまが枕元にお座りになって、こちらの顔を伺っておられる。夜目に真っ白い顔が浮かび上がり、失礼ながら、すずは悲鳴をあげそうになった。
今度はさすがに飛びあがるようにして起き直り、何の御用でございましょうか、と尋ねると、
「すず、泣いていたかい?」
「いいえ、すずはもう、泣いておりませぬ。」
「……そうか、ならばよい。」
と立ち上がられたが、ふとお振り返りになり、
「すずめ、お前はやはり、わたくしを恨んでいるのではないかえ?」
すずは、その暗いご口調と「恨み」という語に、肌が粟立つのを覚えたが、
「いいえ、すずめは、御寮人さまをお恨みするなど、めっそうもござりませぬ。」
と即答した。
「御奉公できて、運のよいばかり。……なぜ、御寮人さまは、そんなことをお尋ねでございましょうか。」
「お前は……」
御寮人さまは、黒いお瞳の目ですずの顔を穴のあくほどに見つめていらっしゃるが、やがてはっとしたようになり、また笑みを浮かべられた。
「……どうやら、また寝ぼけた。」
すずは、ほっとしたが、納得はしていない。思い返せば先ほど「すずめ」とお呼びだったが、自分のもとの名前をご存じだったのか、それも不審だ。
「恥ずかしいから、小春さんにもいわないでおくれ。」
「承知いたしました。」
低頭するすずに、起こしてすまなかったな、とまた詫びられて、部屋にお戻りになった。
このときのことは、しかし、次の日に御寮人さまから持ち出された。冬の陽の明るく差す中だから、喋って、笑い話にしておこうと思われたのではないか。
「昨日の晩じゃがな、じつは、怖い夢をみたのじゃ。」
照れた笑顔でお話しだされた。お仕事もなく、お茶も召し上がらず、珍しくすずの掃除の邪魔をしに来られたのだ。無論すずも昨夜や一昨夜のことは、明るい陽の下では、恐怖したのが少し馬鹿ばかしくも思える。お話しかけいただくと、ただうれしいばかりだった。
「それで、ついすずのところに行ってしもうた。おとなのくせにな。すまぬな。あの後、眠れたか? いま、眠くはないか?」
すずは恐縮したが、どんな怖いお夢でしたのでしょう、と尋ねた。
「悪い夢こそ、他人に喋ってしまえば、禍が消えると申します。」
「初めて聞いた。」
御寮人さまは、お前が聞きたいのじゃろう、と笑われたが、最初から結局、似たようなことは考えていらしたのかもしれない。打ち明ければ、少しは楽になるとでも。
「晒し首の夢じゃった。」
「それはこわい。」
とはいったが、すずは拍子抜けする思いだ。たとえば山崎の戦で自分の村にもどんな騒ぎが及んだかを、よく知っているわけではない。ものごころつくころには、畿内では大名間の合戦はない。だが、別に戦火が絶えたわけではなく、ある時期に頻発した一揆のあと、生首が晒されているのを見たことはある。この堺とて、三年ほど前に埋め立てられたというお濠の内側がまったく物騒でなかったわけでもない。すずの記憶にも薄くある、癸未(天正十一年)の紀州雑賀勢の和泉・摂津襲来では、この堺も占領されたのも、ご覧になったはずだ。
(この方は、遠くよりお戻りになったと聞いたが、よほど平穏無事な場所であったのか?)
「戦があったばかりの、お城の中じゃったが、女の首が木に吊るしてあってな。ぶらぶら揺れている。皆が、悪行のむくいじゃ、いい気味じゃと笑って眺めておる。その中に混じって、よくよく見てみると、わたくしの首であった。それを、わたくしが見ている。目が合うてしもうた。」
「……」
「夜着の中で目を覚ましたが、厭な夢であったわ。」
御寮人さまはかすれた声で笑われたが、無理をされている。
「夢とわかっても、怖くて仕方がなかった。それに、色々考えてしまって……」
そこで顔をまじまじとまた見られたので、すずは当惑した。
「いや、すまぬな、小さい子に怖い話をしてしもうたが、こうして話すと、いかにも阿呆らしい夢じゃったのう。」
そういわれながら、白いお顔が一層青ざめておられる。思い出して言葉にしたのは、失策だったと気づかれたのかもしれない。
「夢でございますねえ。いい気味だ、とみなが嗤うなど、いかさま、夢でしかない。もし、もしも御寮人さまが亡くなられたら、みな悲しくて泣きまする。すずも泣きまする。」
「……左様か。それはおおきに。」
またその夜も、ただではすまなかった。案の定、すずのほうが女の生首の飛んでくる悪夢に襲われて、悲鳴とともに飛び起きたのである。
「すず? 怖い夢をみたな?」
御寮人さまも飛び起きられるように、こちらに来てくださる。震えあがり、夢とわかって逆に安堵のあまり泣いてしまったすずの肩を抱いて、
「ああ、泣くな。泣かないでおくれ。悪いことをしてしもうた。頑是ない子に、わたくしの、おそろしい話などして。」
「申し訳ありませぬ。御寮人さま、御寮人さま。」
「すず、わたくしなら、ここにおる。悪い主人じゃがな。……だが、もう心配ない。夢、それはただの夢じゃ。」
すずは泣きやまない。御寮人さまは、困ってしまった。やはり、自分などのそばに置いては気の毒ではないかとふと思った。
「……すず、帰りたければ、いつでも村に帰してやる。いくらか銭金もつけてやろうから、父母に叱られる心配はないぞ」
「厭でございます。御寮人さまのお側にいたい。お帰しくださいますな。」
すずの中の大人の部分が計算していっているのではなく、怖い夢を見て泣いてしまう子どもの部分が、そういわせている。何か月にもならぬ奉公なのに、このへんなご主人と離れがたい気分が起きていた。
この夜、それが決定的になった。すずが驚いたことに、そうか、と頷くと、御寮人さまはよしよしと、すずをうんと小さい子のように抱き上げて、自分の夜具まで運んでいかれた。どんなに断っても、泣いておるではないか、といって、聞かれない。
「わたくしも、どうも怖い夢を見そうじゃ。一緒に寝てくれぬか。窮屈じゃったら、お前が寝つくまででよい。それまでわたくしが起きて、見ていてやろう。」
そして母親が小さい子に添い寝するように、すずを同じ夜着に潜り込まされたのである。
母とは違う、大人の女のよい匂いに包まれ、すずはあまりのことにぼうっとしている。こんな風に、自分にやさしくしてくれる大人など一人もいなかった。
「御寮人さま、怖いお夢はきっと、すずが引き受けますので……。」
「おおきにな。だが、逆じゃ。わたくしが大人ゆえ、童の夢ぐらい引き受けてやる。それに、お前の怖い夢など、わたくしにはたいしたことはないのかもしれぬぞ。」
お前は温かいのう、と御寮人さまはすずを抱き寄せて、うれしげにいった。御寮人さまはそれほどの深いお考えはなく、猫の子を抱いて寝るくらいのつもりだったのかもしれぬとは、このときのすずは思わない。
この少女は、大人びたところが多すぎたのかもしれない。いまはそのすすが、これまでのは知らぬ痺れがくるほどの感激に包まれていて、お侍が誇る主君への忠義の心というのは、こうした甘美なものかと感じ入っている。
「御寮人さま、お尋ねいたしてよろしいでしょうか。」
「……?」
いいよ、と微笑まれる気配がする。
「御寮人さまは、なぜすずの元の名をご存じでしたか?」
「元の名?」
「すずは、村での名をすずめと申しまして。」
御寮人さまのお胸が大きく上下したのが、すずにはわかった。
(昨日の夜は、たしかに、なにかお間違いであったのか。)
「どなたか前にご存じのすずめさまがいらっしゃって、すずにお顔が似ておられましたのか?」
しばらく黙っていた御寮人さまは、やがて闇の中で微笑まれたようだ。すずのからだを、あやすように、ゆすってくださった。
「すず……すずめは、かしこいの。」
「すずとお呼び下され。その名でお仕えいたしております。」
「親御様から貰った名は、よいのか?」
「御寮人さまからいただいたお名前が大事と。」
「小春さんの付けた名だが、……そうなるか。」
御寮人さまははっきりとはなにもお答えではないが、すずは満足した。そのあと御寮人さまは、では、すず、もう遅いから寝よ、とおっしゃり、少女はそれに従うようにすぐに寝入った。
明け方、ふと目が覚めると、まだ御寮人さまが横にいらっしゃるので、うれしかった。
(だが、自分の寝場所に戻らねば……)
そっと夜着の片方から腕を抜いたところで、御寮人さまの様子に気づいた。
すずに背中を向けて眠っておられるが、寝息が妙であった。すすり泣くような苦し気な声が低く漏れる。両手が、もぞもぞと動いている。身を揉むようにして、吐息を漏らされた。夜に添い寝いただいたときに感じた、やさしい甘い香りともまた違う、むせかえるようなあやしい匂いが、熱とともに立ちのぼった。
(ああ……)
開放的な村育ちの子であるすずには、齢相応に、そうした知識はある。自分自身の躰はまだ子どもとはいえ、大人の女になる心の準備もできているつもりであった。御寮人さまが今、どんな種類の夢を見られているのかがわかるし、それに驚きや嫌悪はなかった。むしろ、大好きになってきている、やさしいご主人の秘密の美しい姿を目にしている気になる。
(だが、お起きになられては、さすがに気まずい。)
すずはゆっくりと、そっと静かに夜具を抜け出す。御寮人さまが躰を返されて、瞼を固く閉じた、悩まし気な表情が見えた時には、すずの胸で動悸が走った。お睫毛が震える。少し丸めたお唇から、舌の先端の綺麗な濡れた色がのぞいた。
(どんな殿方の夢をご覧なのじゃろう?)
(昔、松前のことであろうか?)
(今は、……存じぬが、今はありえぬなあ。)
すずは襖を開ける音もたてぬように苦労する。
「……さま。」
御寮人さまはたしかに呟かれた。その名だか呼び名だかは、すずには聞き覚えはない。
次の間から覗うと、御寮人さまの上気した頬に、閉じた瞼の下から涙が流れた。
(やはり、お夢の中ですら、悲しんでおられる。お悦びだけではない。)
すずは、また胸が潰れる思いで、そっと襖を閉じた。
(御寮人さまのお悲しみのわけを知りたい。)
幼い忠誠心に目覚めたすずは、また強く感じている。
(できるなら、そのわけをお取り除きしたい。)
「すず、村に帰りたいか?」
小春がいつになく冷たい声で返したので、すずは青くなった。低頭し、許しを請う。
「お前は……いや、誰も、余計なことは知らぬでいい。」
(小春さんはご存じでしょう?)
そう思っているから、御寮人さまとの四晩について、口止めされていないことを報告したあと、まず「すずめ」について尋ねてみたのだ。その途端に、これであった。
ただ、小春は、すずのすずめが、お側に侍るようになった効果はあったように思っている。
(毒と同じじゃ。お薬にもなる。この子は、そうなってくれておる。)
だから、逆に何も知らせたくはない。へんに店の者にでも詮索しはじめると、ついには村へ追い返すだけではすまなくなる。村にはあの中ノ家の次男坊の安吉がいて、いま商売の付き合いがある、この元の店員がなかなか面倒である。
「すずめというのはな、昔、御寮人さまが蝦夷島は松前のお店をお預かりのときに……」まあこれくらいはよかろう、と小春は端折って説明する。「お側の世話を仰せつかっていた者なのだ。」
(やはり、蝦夷島にお越しだったではないか。)
(覚えていない、とは、まことにお忘れになっているのか。そんなことがあろうか?)
「おおきにありがとうございます。すずは、そのお方にお顔が似ておりますので?」
「お前、すずめというのは、アイ……蝦夷の子でな。お前が気を悪くするといけないと思い、」と小春は嘘をまぜながら、「いわなかったのじゃよ。」
「この団栗眼は、気に病もうが病むまいが変わりませぬ。……その蝦夷の子は、今でも松前におるので?」
「どこかで、死んだと聞く。」
(野垂れ死にか?……恨んでおるか、といわれたのは、それか。)
「……だいたい、わかったの? 御寮人さまはおやさしい。お情け深い。死んだ侍女のことまでを、お気にかけて下さる。お前もその顔と元の名のせいで、ご縁ができ、可愛がっていただけている。これでよいじゃろ?」
「まことに。」
にこにこと低頭しながら、すずは尋ねたくてたまらない。
(ならば小春さんは、なぜ、わざわざあたしを連れてきたのだろう? 御寮人さまのお心を掻き乱しかねない、この顔を? 御寮人さまの一のご家来だろう、この小春さんが?)
すずは、外でのお使いでお店の手代の一人に出くわしたとき、小春さんのいいつけを破ってみた。手代はすずを可愛がってくれていて、店への帰り道をつきあってくれる。
「なに、失礼なこというな。御寮人さまは、いまでも蝦夷島の納屋の御主人じゃ。お体をお悪くされて、箱舘からお帰りになった。若い番頭がお店をお預かりしておるが、商いのご差配は、最後は御寮人さまがなされとる。」
まだ若い下女や家事方の使用人とちがい、お店の手代などはよく知っているものだと思った。すずが感づいていたのを、すらすらと裏付けてくれる。それに、ここまでは、店の上のほうのひとなら誰でも知っている話なのだろう。
「ハコダテ? 松前ではないのですか。」
すずと顔なじみの手代は、もとは蝦夷島で御寮人さまに直接お仕えしていた者だという。つい最近、京の出店からこちらに来た。京で家族を病に亡くしたからでもあったが、すずをみると、死んだ小さな娘を思い出してまだ涙ぐんだりする。そのうえ、つまりはすずの知るあの次男坊の上で働いていたわけで、蝦夷島から引き揚げてきたのも同じ敦賀上りの船だったというから、気安く話をするようになってくれたのだ。
「最初のお店は松前じゃ。箱舘に移ったのじゃ。わしらはその前の癸未(天正十一年)の上り船で引き揚げたから、松前納屋しか知らぬ。……すずめ? 侍女? コハルさんの間違いじゃろう。御寮人さまのお側といえば、あのコハルさんよ。」
「そんなに前からのお仕えですか、小春さんは。」
「すずは知るまいなあ。あの小春より前に、コハルさんというのがおったのよ。御寮人さまの乳母のようなひとじゃったが、不思議な女であった。いや、あれはまことに女だったのかの? 蝦夷島の戦で亡くなったとかいうが、どこで亡くなったのかは、店の者も誰も知らんのだ。」
すずは、わけのわからぬ「コハルさん」のことはどうでもいいが、
「蝦夷島にも戦がありましたか。」
「あったと聞く。わしらは知らぬ。」
すずは、手代の口が急に重くなったのに気づいている。お店の近くに来たからだろうか。
「すず、蝦夷島はな、わしらにはおそろしいところだった。」
「戦はご存じないのでしょう?」
「その戦を起こした蝦夷侍たちは、……いや、松前のお武家様たちとは、わしも商いでお付き合いがあったわ。気安い、よいお方にも会ったが、おそろしいお方が多かった。お武家だから、どんなに取り澄ましておられても乱暴で、それに、……」手代は、そこは堺の育ちらしく、へんに口を慎まないで、「お家の方々が、殺し合いされるのよ。兄弟、親子で相争うは珍しうないが、それにしても、蠣崎さまはまことにきつい。乙酉(天正十三年)のおお戦も、それで起こったと聞いたぞ。」
「御寮人さまは、……」
すずは、このひとは本当のことを喋ってくれるとわかったので、建物の陰に入るようにして、声を潜めた。
「……その、カキザキさまの戦を、ハコダテとやらでご存じなので?」
手代は、困った顔になった。それが答えだ、とわかった気がしたが、
「すず、お前も納屋のお勤めを続けたければ、松前の話を御寮人さまの前で、決してするな。」
「なぜでございます?」
それは禁忌なのだ、という意を、手代は遠回しにくどくどといったが、ついには、すずには信じられぬことを告げた。
「わしら、松前帰りの者は、決していまの箱舘のお店の仕事にはさわれない。蝦夷島帰りは皆じゃ。箱舘納屋とは関係のないお仕事が必ずあてがわれる。でなければ、暇を出される。わしなど、先日、御寮人さまにご挨拶はできたが、つい二、三年ほど前はそれも許されなかった。ご本人はいざ知らず、大旦那様や旦那様が、御寮人さまと元の店の者が会うのも嫌われたのじゃ。」
「なじょうに?」
「蝦夷島で御寮人さまのお身にあったことは忘れよ、ということじゃろう。わしもそれは守る。」
「……なにがあったのかは、教えていただけませぬか。乙酉のおお戦で、御寮人さまは」
「すず。これ以上は、誰にも尋ねるな。みな、絶対に喋らぬ。」
「大旦那様、旦那様のおいいつけでございますから?」
「命が惜しい。……すず、お前も命を大事にしてくれよ。わしですら、ここまでお前に教えてしもうたことで、もう……」背中を返した。「……怖うて仕方がない。」
「おや、お前が、」と微笑まれた。「宿直(とのい)をしてくれるのかえ?」
「はい、寝ずの番とも思っております。」
「寝てよい。」
御寮人さまは笑われた。
「武家の室の作法でもあるまい。」
ふと口に出されたたあと、お顔付きに影が差したのを、神経が張っているすずは見落とさなかった。だが、余計なことはいわないと心している。
小春さんのことでも何かお尋ねかと思ったが、あの主従で直接のお話がなかったはずもなかった。そのまま、寝間に入られた。
朝になり、小春さんを介さずに御寮人さまのお世話をするのも、楽しかった。お口数が少ないのはいつも通りだが、お声がけは増えるし、会話のようなものがある。仕事には慣れたか、はい。お陰様にて、といった程度のものだが。
灯火の頃になって夕餉をとられるときに、侍っているすずの顔をふと見て、薄暗い中で瞳がいつも以上に明るく開いているのに気づいたためか、尋ねてこられた。
「すず、お前はどちらの親に似たといわれる?」
「お母あでございましょう。」
「摂津のひとかえ?」
「うちは昔から、同じ村のようで。」
「そうか。……わたくしは、その土地にはその土地の顔があると思っておったが、勘違いであったようじゃ。」
「上方には珍しき、へんな顔にございます。」
すずは、御寮人さままでがこの顔立ちをことあげするのか、と少し悲しかった。
「いや、可愛らしい。別嬪ではないか。お前のような顔だち、わたくしには好ましい。」
「お好きでございますか。ありがたきお言葉にて。……兄も聞いたら、さぞ喜びましょう。」
また余計なことをいった。村の悪い大人たちがいいそうなたわぶれで、失礼ではないか、と汗が噴き出た。幸い、御寮人さまはからかわれたようには、お受け取りでないようだ。
「そのひとと似ているのか。」
「はい、兄三人も母親似でございます。父親似は女きょうだいに多く。」
御寮人さまは、すずの大きな目と尖った鼻を、男の顔に置き換えて想像されたらしい。
「堺には、南蛮僧が今よりもたくさんおられたが、まさか、ああしたお顔か。」
懐かし気な表情になられたが、ふと気づき、すまなさげな顔をなされた。
「……いや、せっかく奉公に慣れてきたのに、故郷の話などして、悪かった。」
すずは、村よりも衣食住や治安の心配がない堺の大店での暮らしが気に入っているので、お気を廻されると悪いほどであったが、そういわれれば、なんだか寂しい気が急にしてきた。
その夜、綿の詰まった夜着を心配しながら、声を潜めて泣いてしまった。
すると、寝入られたはずの御寮人さまが襖を開けてこられたので、驚いた。
(失態じゃ。お起こししてしまった。)
あまりのことに硬直して、飛びあがって詫びるのもできない。
「厠に起きただけじゃ。」
誰にとでもなく、そういわれるのに、その場に立って、膨らんだ夜着に目を落しておられる。
「皆と寝ないと、やはりさびしいか? こんなところに一人は、やはりこわいか?」
「左様はございませぬ。」
答えたのに、寝たままであった。あとで思い出して、すずは自分を殴ってやりたくなる。
「では、やはりお里を、思い出させてしもうたな。すまぬな。……昼は仕事で、忘れてしまえるのにの。」
御寮人さまは、なぜか溜息をつくような口調になった。すずに対してではないらしい。
「もったいのうございます。里心ついたわけにはございませぬ。」
「気にならぬから、泣いていてよいぞ。朝になったら泣きやむがよい。」
そして、すずが、それだけ夜着からちょこんと出している頭を撫でてくれた。温かい手に撫でられているうちに、すずは涙もとまり、落ち着いた。そしてあろうことか、恐縮する間もなく寝てしまった。
次の朝、すずが青くなって無礼を謝ると、御寮人さまは怒っているわけでも、また、とくに親し気になっているというわけでもなく、普段と変わらず無言で頷くだけだった。
その御寮人さまの涙をみようとは、思いもよらぬことだった。
まずは、怪異と呼んでよい出来事に出くわした。
その夜、もう泣く気もなく、ぐっすり寝入っていたすずは、襖越しに気配がしたので目が覚めた。
床の軋む足音がした。隣の部屋で、誰かがせわしなく歩き回っている気配がする。
(御寮人さまか?)
女の足音のような気がしたから、最初はそう思えた。だが、すぐに夜着の中で凍りついた。
しわがれた声で、誰かが何かいっている。ごく小さな、口の中で呟くような声だが、相手があってものを語っている様子だ。女のようだが、御寮人さまの声ではない。聞きなれぬ音と調子の高低も混じっているから、意味がとれない。その誰かが語りかけているその相手が、御寮人さまだという気がした。
(盗人か?)
まずそれを疑うべきなので、すずは震えあがったが、勇を鼓して起き上がり、しかし瞬時迷った。声をかけるべきかどうか。足音と呟き声は絶えた。
しかし、御寮人さまの長い溜息らしきものが聞こえた。その瞬間に、
「御寮人さま、ご無礼いたしまする!」
と襖を開け放った。もしも曲者がいるのならば、飛びかかっていかねばならない。
御寮人さまは、夜具の上で半身を起こされていた。こちらに気づいて、どうしたか、という顔をされた。他に誰の姿もない。
「声がいたしましたので。」
「……わたくしの、寝言であろう? 起こしてしもうたのか。」
「いえ、どなたかの足音も……?」
御寮人さまは、寝乱れた前髪を払うと、そこで初めて薄く笑われて、
「それは、お前も寝ぼけたかな。」
その夜は、それで済んだ。朝になると、御寮人さまにもお変わりの様子は何もない。もちろん、すずは不審だったが、こちらから御寮人さまに話を出すわけにもいかない。ただ、はじめて小春さんの帰還を待ち望む気持ちになった。
また夜がきて、すずはまんじりともできない。とはいえいつの間にかうとうととしていると、隣室から襖が音もなく開けられた。ふとめざめると、御寮人さまが枕元にお座りになって、こちらの顔を伺っておられる。夜目に真っ白い顔が浮かび上がり、失礼ながら、すずは悲鳴をあげそうになった。
今度はさすがに飛びあがるようにして起き直り、何の御用でございましょうか、と尋ねると、
「すず、泣いていたかい?」
「いいえ、すずはもう、泣いておりませぬ。」
「……そうか、ならばよい。」
と立ち上がられたが、ふとお振り返りになり、
「すずめ、お前はやはり、わたくしを恨んでいるのではないかえ?」
すずは、その暗いご口調と「恨み」という語に、肌が粟立つのを覚えたが、
「いいえ、すずめは、御寮人さまをお恨みするなど、めっそうもござりませぬ。」
と即答した。
「御奉公できて、運のよいばかり。……なぜ、御寮人さまは、そんなことをお尋ねでございましょうか。」
「お前は……」
御寮人さまは、黒いお瞳の目ですずの顔を穴のあくほどに見つめていらっしゃるが、やがてはっとしたようになり、また笑みを浮かべられた。
「……どうやら、また寝ぼけた。」
すずは、ほっとしたが、納得はしていない。思い返せば先ほど「すずめ」とお呼びだったが、自分のもとの名前をご存じだったのか、それも不審だ。
「恥ずかしいから、小春さんにもいわないでおくれ。」
「承知いたしました。」
低頭するすずに、起こしてすまなかったな、とまた詫びられて、部屋にお戻りになった。
このときのことは、しかし、次の日に御寮人さまから持ち出された。冬の陽の明るく差す中だから、喋って、笑い話にしておこうと思われたのではないか。
「昨日の晩じゃがな、じつは、怖い夢をみたのじゃ。」
照れた笑顔でお話しだされた。お仕事もなく、お茶も召し上がらず、珍しくすずの掃除の邪魔をしに来られたのだ。無論すずも昨夜や一昨夜のことは、明るい陽の下では、恐怖したのが少し馬鹿ばかしくも思える。お話しかけいただくと、ただうれしいばかりだった。
「それで、ついすずのところに行ってしもうた。おとなのくせにな。すまぬな。あの後、眠れたか? いま、眠くはないか?」
すずは恐縮したが、どんな怖いお夢でしたのでしょう、と尋ねた。
「悪い夢こそ、他人に喋ってしまえば、禍が消えると申します。」
「初めて聞いた。」
御寮人さまは、お前が聞きたいのじゃろう、と笑われたが、最初から結局、似たようなことは考えていらしたのかもしれない。打ち明ければ、少しは楽になるとでも。
「晒し首の夢じゃった。」
「それはこわい。」
とはいったが、すずは拍子抜けする思いだ。たとえば山崎の戦で自分の村にもどんな騒ぎが及んだかを、よく知っているわけではない。ものごころつくころには、畿内では大名間の合戦はない。だが、別に戦火が絶えたわけではなく、ある時期に頻発した一揆のあと、生首が晒されているのを見たことはある。この堺とて、三年ほど前に埋め立てられたというお濠の内側がまったく物騒でなかったわけでもない。すずの記憶にも薄くある、癸未(天正十一年)の紀州雑賀勢の和泉・摂津襲来では、この堺も占領されたのも、ご覧になったはずだ。
(この方は、遠くよりお戻りになったと聞いたが、よほど平穏無事な場所であったのか?)
「戦があったばかりの、お城の中じゃったが、女の首が木に吊るしてあってな。ぶらぶら揺れている。皆が、悪行のむくいじゃ、いい気味じゃと笑って眺めておる。その中に混じって、よくよく見てみると、わたくしの首であった。それを、わたくしが見ている。目が合うてしもうた。」
「……」
「夜着の中で目を覚ましたが、厭な夢であったわ。」
御寮人さまはかすれた声で笑われたが、無理をされている。
「夢とわかっても、怖くて仕方がなかった。それに、色々考えてしまって……」
そこで顔をまじまじとまた見られたので、すずは当惑した。
「いや、すまぬな、小さい子に怖い話をしてしもうたが、こうして話すと、いかにも阿呆らしい夢じゃったのう。」
そういわれながら、白いお顔が一層青ざめておられる。思い出して言葉にしたのは、失策だったと気づかれたのかもしれない。
「夢でございますねえ。いい気味だ、とみなが嗤うなど、いかさま、夢でしかない。もし、もしも御寮人さまが亡くなられたら、みな悲しくて泣きまする。すずも泣きまする。」
「……左様か。それはおおきに。」
またその夜も、ただではすまなかった。案の定、すずのほうが女の生首の飛んでくる悪夢に襲われて、悲鳴とともに飛び起きたのである。
「すず? 怖い夢をみたな?」
御寮人さまも飛び起きられるように、こちらに来てくださる。震えあがり、夢とわかって逆に安堵のあまり泣いてしまったすずの肩を抱いて、
「ああ、泣くな。泣かないでおくれ。悪いことをしてしもうた。頑是ない子に、わたくしの、おそろしい話などして。」
「申し訳ありませぬ。御寮人さま、御寮人さま。」
「すず、わたくしなら、ここにおる。悪い主人じゃがな。……だが、もう心配ない。夢、それはただの夢じゃ。」
すずは泣きやまない。御寮人さまは、困ってしまった。やはり、自分などのそばに置いては気の毒ではないかとふと思った。
「……すず、帰りたければ、いつでも村に帰してやる。いくらか銭金もつけてやろうから、父母に叱られる心配はないぞ」
「厭でございます。御寮人さまのお側にいたい。お帰しくださいますな。」
すずの中の大人の部分が計算していっているのではなく、怖い夢を見て泣いてしまう子どもの部分が、そういわせている。何か月にもならぬ奉公なのに、このへんなご主人と離れがたい気分が起きていた。
この夜、それが決定的になった。すずが驚いたことに、そうか、と頷くと、御寮人さまはよしよしと、すずをうんと小さい子のように抱き上げて、自分の夜具まで運んでいかれた。どんなに断っても、泣いておるではないか、といって、聞かれない。
「わたくしも、どうも怖い夢を見そうじゃ。一緒に寝てくれぬか。窮屈じゃったら、お前が寝つくまででよい。それまでわたくしが起きて、見ていてやろう。」
そして母親が小さい子に添い寝するように、すずを同じ夜着に潜り込まされたのである。
母とは違う、大人の女のよい匂いに包まれ、すずはあまりのことにぼうっとしている。こんな風に、自分にやさしくしてくれる大人など一人もいなかった。
「御寮人さま、怖いお夢はきっと、すずが引き受けますので……。」
「おおきにな。だが、逆じゃ。わたくしが大人ゆえ、童の夢ぐらい引き受けてやる。それに、お前の怖い夢など、わたくしにはたいしたことはないのかもしれぬぞ。」
お前は温かいのう、と御寮人さまはすずを抱き寄せて、うれしげにいった。御寮人さまはそれほどの深いお考えはなく、猫の子を抱いて寝るくらいのつもりだったのかもしれぬとは、このときのすずは思わない。
この少女は、大人びたところが多すぎたのかもしれない。いまはそのすすが、これまでのは知らぬ痺れがくるほどの感激に包まれていて、お侍が誇る主君への忠義の心というのは、こうした甘美なものかと感じ入っている。
「御寮人さま、お尋ねいたしてよろしいでしょうか。」
「……?」
いいよ、と微笑まれる気配がする。
「御寮人さまは、なぜすずの元の名をご存じでしたか?」
「元の名?」
「すずは、村での名をすずめと申しまして。」
御寮人さまのお胸が大きく上下したのが、すずにはわかった。
(昨日の夜は、たしかに、なにかお間違いであったのか。)
「どなたか前にご存じのすずめさまがいらっしゃって、すずにお顔が似ておられましたのか?」
しばらく黙っていた御寮人さまは、やがて闇の中で微笑まれたようだ。すずのからだを、あやすように、ゆすってくださった。
「すず……すずめは、かしこいの。」
「すずとお呼び下され。その名でお仕えいたしております。」
「親御様から貰った名は、よいのか?」
「御寮人さまからいただいたお名前が大事と。」
「小春さんの付けた名だが、……そうなるか。」
御寮人さまははっきりとはなにもお答えではないが、すずは満足した。そのあと御寮人さまは、では、すず、もう遅いから寝よ、とおっしゃり、少女はそれに従うようにすぐに寝入った。
明け方、ふと目が覚めると、まだ御寮人さまが横にいらっしゃるので、うれしかった。
(だが、自分の寝場所に戻らねば……)
そっと夜着の片方から腕を抜いたところで、御寮人さまの様子に気づいた。
すずに背中を向けて眠っておられるが、寝息が妙であった。すすり泣くような苦し気な声が低く漏れる。両手が、もぞもぞと動いている。身を揉むようにして、吐息を漏らされた。夜に添い寝いただいたときに感じた、やさしい甘い香りともまた違う、むせかえるようなあやしい匂いが、熱とともに立ちのぼった。
(ああ……)
開放的な村育ちの子であるすずには、齢相応に、そうした知識はある。自分自身の躰はまだ子どもとはいえ、大人の女になる心の準備もできているつもりであった。御寮人さまが今、どんな種類の夢を見られているのかがわかるし、それに驚きや嫌悪はなかった。むしろ、大好きになってきている、やさしいご主人の秘密の美しい姿を目にしている気になる。
(だが、お起きになられては、さすがに気まずい。)
すずはゆっくりと、そっと静かに夜具を抜け出す。御寮人さまが躰を返されて、瞼を固く閉じた、悩まし気な表情が見えた時には、すずの胸で動悸が走った。お睫毛が震える。少し丸めたお唇から、舌の先端の綺麗な濡れた色がのぞいた。
(どんな殿方の夢をご覧なのじゃろう?)
(昔、松前のことであろうか?)
(今は、……存じぬが、今はありえぬなあ。)
すずは襖を開ける音もたてぬように苦労する。
「……さま。」
御寮人さまはたしかに呟かれた。その名だか呼び名だかは、すずには聞き覚えはない。
次の間から覗うと、御寮人さまの上気した頬に、閉じた瞼の下から涙が流れた。
(やはり、お夢の中ですら、悲しんでおられる。お悦びだけではない。)
すずは、また胸が潰れる思いで、そっと襖を閉じた。
(御寮人さまのお悲しみのわけを知りたい。)
幼い忠誠心に目覚めたすずは、また強く感じている。
(できるなら、そのわけをお取り除きしたい。)
「すず、村に帰りたいか?」
小春がいつになく冷たい声で返したので、すずは青くなった。低頭し、許しを請う。
「お前は……いや、誰も、余計なことは知らぬでいい。」
(小春さんはご存じでしょう?)
そう思っているから、御寮人さまとの四晩について、口止めされていないことを報告したあと、まず「すずめ」について尋ねてみたのだ。その途端に、これであった。
ただ、小春は、すずのすずめが、お側に侍るようになった効果はあったように思っている。
(毒と同じじゃ。お薬にもなる。この子は、そうなってくれておる。)
だから、逆に何も知らせたくはない。へんに店の者にでも詮索しはじめると、ついには村へ追い返すだけではすまなくなる。村にはあの中ノ家の次男坊の安吉がいて、いま商売の付き合いがある、この元の店員がなかなか面倒である。
「すずめというのはな、昔、御寮人さまが蝦夷島は松前のお店をお預かりのときに……」まあこれくらいはよかろう、と小春は端折って説明する。「お側の世話を仰せつかっていた者なのだ。」
(やはり、蝦夷島にお越しだったではないか。)
(覚えていない、とは、まことにお忘れになっているのか。そんなことがあろうか?)
「おおきにありがとうございます。すずは、そのお方にお顔が似ておりますので?」
「お前、すずめというのは、アイ……蝦夷の子でな。お前が気を悪くするといけないと思い、」と小春は嘘をまぜながら、「いわなかったのじゃよ。」
「この団栗眼は、気に病もうが病むまいが変わりませぬ。……その蝦夷の子は、今でも松前におるので?」
「どこかで、死んだと聞く。」
(野垂れ死にか?……恨んでおるか、といわれたのは、それか。)
「……だいたい、わかったの? 御寮人さまはおやさしい。お情け深い。死んだ侍女のことまでを、お気にかけて下さる。お前もその顔と元の名のせいで、ご縁ができ、可愛がっていただけている。これでよいじゃろ?」
「まことに。」
にこにこと低頭しながら、すずは尋ねたくてたまらない。
(ならば小春さんは、なぜ、わざわざあたしを連れてきたのだろう? 御寮人さまのお心を掻き乱しかねない、この顔を? 御寮人さまの一のご家来だろう、この小春さんが?)
すずは、外でのお使いでお店の手代の一人に出くわしたとき、小春さんのいいつけを破ってみた。手代はすずを可愛がってくれていて、店への帰り道をつきあってくれる。
「なに、失礼なこというな。御寮人さまは、いまでも蝦夷島の納屋の御主人じゃ。お体をお悪くされて、箱舘からお帰りになった。若い番頭がお店をお預かりしておるが、商いのご差配は、最後は御寮人さまがなされとる。」
まだ若い下女や家事方の使用人とちがい、お店の手代などはよく知っているものだと思った。すずが感づいていたのを、すらすらと裏付けてくれる。それに、ここまでは、店の上のほうのひとなら誰でも知っている話なのだろう。
「ハコダテ? 松前ではないのですか。」
すずと顔なじみの手代は、もとは蝦夷島で御寮人さまに直接お仕えしていた者だという。つい最近、京の出店からこちらに来た。京で家族を病に亡くしたからでもあったが、すずをみると、死んだ小さな娘を思い出してまだ涙ぐんだりする。そのうえ、つまりはすずの知るあの次男坊の上で働いていたわけで、蝦夷島から引き揚げてきたのも同じ敦賀上りの船だったというから、気安く話をするようになってくれたのだ。
「最初のお店は松前じゃ。箱舘に移ったのじゃ。わしらはその前の癸未(天正十一年)の上り船で引き揚げたから、松前納屋しか知らぬ。……すずめ? 侍女? コハルさんの間違いじゃろう。御寮人さまのお側といえば、あのコハルさんよ。」
「そんなに前からのお仕えですか、小春さんは。」
「すずは知るまいなあ。あの小春より前に、コハルさんというのがおったのよ。御寮人さまの乳母のようなひとじゃったが、不思議な女であった。いや、あれはまことに女だったのかの? 蝦夷島の戦で亡くなったとかいうが、どこで亡くなったのかは、店の者も誰も知らんのだ。」
すずは、わけのわからぬ「コハルさん」のことはどうでもいいが、
「蝦夷島にも戦がありましたか。」
「あったと聞く。わしらは知らぬ。」
すずは、手代の口が急に重くなったのに気づいている。お店の近くに来たからだろうか。
「すず、蝦夷島はな、わしらにはおそろしいところだった。」
「戦はご存じないのでしょう?」
「その戦を起こした蝦夷侍たちは、……いや、松前のお武家様たちとは、わしも商いでお付き合いがあったわ。気安い、よいお方にも会ったが、おそろしいお方が多かった。お武家だから、どんなに取り澄ましておられても乱暴で、それに、……」手代は、そこは堺の育ちらしく、へんに口を慎まないで、「お家の方々が、殺し合いされるのよ。兄弟、親子で相争うは珍しうないが、それにしても、蠣崎さまはまことにきつい。乙酉(天正十三年)のおお戦も、それで起こったと聞いたぞ。」
「御寮人さまは、……」
すずは、このひとは本当のことを喋ってくれるとわかったので、建物の陰に入るようにして、声を潜めた。
「……その、カキザキさまの戦を、ハコダテとやらでご存じなので?」
手代は、困った顔になった。それが答えだ、とわかった気がしたが、
「すず、お前も納屋のお勤めを続けたければ、松前の話を御寮人さまの前で、決してするな。」
「なぜでございます?」
それは禁忌なのだ、という意を、手代は遠回しにくどくどといったが、ついには、すずには信じられぬことを告げた。
「わしら、松前帰りの者は、決していまの箱舘のお店の仕事にはさわれない。蝦夷島帰りは皆じゃ。箱舘納屋とは関係のないお仕事が必ずあてがわれる。でなければ、暇を出される。わしなど、先日、御寮人さまにご挨拶はできたが、つい二、三年ほど前はそれも許されなかった。ご本人はいざ知らず、大旦那様や旦那様が、御寮人さまと元の店の者が会うのも嫌われたのじゃ。」
「なじょうに?」
「蝦夷島で御寮人さまのお身にあったことは忘れよ、ということじゃろう。わしもそれは守る。」
「……なにがあったのかは、教えていただけませぬか。乙酉のおお戦で、御寮人さまは」
「すず。これ以上は、誰にも尋ねるな。みな、絶対に喋らぬ。」
「大旦那様、旦那様のおいいつけでございますから?」
「命が惜しい。……すず、お前も命を大事にしてくれよ。わしですら、ここまでお前に教えてしもうたことで、もう……」背中を返した。「……怖うて仕方がない。」
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(2022.04.04)
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