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4話「スプリングパル」
しおりを挟む4話「スプリングパル」
菊那が自宅に帰り、樹にメールをするとすぐに返事が返ってきた。
『ありがとうございます。作戦、よろしくお願い致します』
という簡単なメッセージだった。
宛名には先ほど菊那が登録した「史陀樹」と表示されている。
今日初めてあった男性と連絡先を交換したのだ。しかも、相手は有名な大学の教授だった。大きなお屋敷に住み、立派な庭園を持ち、そして休みの日なのにスーツを着込み姿勢正しく紅茶を飲む。そんな紳士だ。しかも、モデル顔負けのかっこよさを持っている。自分とは住む場所が違う、そんな相手とこうやって連絡を取り合っている。
出会いとは不思議なものだ。
「……どうして花の名前が羨ましいのかな?」
菊那の名前を聞いて、彼はそう言いながら少し遠い目をして切ない表情を見せた。短い時間の会話の中でも、彼は時折笑顔以外の表情を見せたのだ。それが、菊那にとってとても気になったのだ。
名前に花を望むというのに、花が好きなんですね、と言うと彼自身が迷う姿も見られた。
彼の名前は「樹」。大学で植物の事を教えているぐらいに草木が好きならば、とても誇らしい名前ではないかと思うが、それでも菊那の名前を羨ましがるのだ。
やはり樹という男は不思議だった。
「けど………花泥棒を見つければ、この関係もなくなるわ」
ソファにゴロンと横になり、菊那はスマホのメール画面を見つめながらそうつぶやいた。
たまたま少年とぶつかり、その少年が持っていた花を樹が取り戻したかった。樹はその花のために菊那と連絡を交換しただけなのだ。そうでなければ、屋敷に入れたり、汚れた顔や髪を拭いてくれたりはしなかったはずだ。
すべては、あの一輪の茶色い花が導いた短い間の関係。
「………少し寂しいな…………って……!」
自然と口がそう動き、吐息と一緒に小さな声がもれた。
そして、菊那はハッとした。
今、自分は何と言ったのか。
寂しいとは、彼と会えなくなるのだろうか?たった1回しか会っていない、時間にして1時間にも満たない時間しか共にしていないのだ。優しくされもしたが、腕を掴まれて協力を強要されたの近い事までされた。
それなのに、すでに別れる事を寂しいと思ってしまっている。
出会いが運命的だったから?
優しくされたから?
………かっこいいから?
「………どっちにしても気になっていい人じゃないよ………」
菊那はスマホの画面を消して、真っ赤になった顔を両手で覆いながら、大きくため息を吐いたのだった。
それから、樹から夜に毎日連絡が来た。
とても短い『こんばんは。今日は来ませんでした。それでは、よい夢を』という、メッセージだった。
平日の夕方には花泥棒らしき少年は現れなかったようだ。菊那は、安心しつつも残念な気持ちに襲われていた。毎日仕事をしながらポケットにスマホを忍ばせて、何か通知が来る度にドキドキしていたのだ。
けれど、平日の夕方には連絡が来る事もなく約1週間が経過した。
樹と出会ってから、丁度1週間になる前日の夜。
この日はメールではなく、電話だった。
菊那は驚き、わたわたしながらも、通話ボタンを押す前に大きく深呼吸をしてから電話に出た。
「もしもし、菊那です」
『こんばんは、樹です。突然、お電話してしまい申し訳ありません。今、お時間いただけますか?』
彼のゆったりとした声が耳に伝わってくる。ゾクッとした感触を感じ、菊那の耳は赤くなった。電話の声でもこんな反応をしてしまうなんて、どうかしている……と菊那は気持ちを落ち着かせた。
「はい。大丈夫ですが……何かありましたか?」
『いえ、花泥棒が出たわけではないのですが、菊那さんは明日お休みですか?』
「はい、明日は休みです」
『それはよかった。花泥棒の少年が平日に来なかったという事は、きっと休みの日に来ると思うのです。ですので、明日、一緒に張り込みをしてくれませんか?』
「は、張り込みですか?」
刑事ドラマに出てきそうな言葉に、菊那は思わず声を上げてしまうと、電話越しに彼が小さく笑っているのがわかった。
菊那は、恥ずかしくなり小さな声で「すみません……」と言うと、彼は『いえいえ』と返事をしてくれる。
『花泥棒が入れるように屋敷のドアを開けておけておき、入ってきたところを菊那さんに確認してもらって、前回と同じ少年であった場合は捕まえます』
「なるほど……」
『なので、前回の時間より少し早めにいらっしゃってくれませんか?』
「わかりました」
『ありがとうございます。おいしいお菓子を準備してますね。では、おやすみなさい』
「おやすみなさい」
そう言うとしばらくの間の後に、電話が切れた。
ここまでくれば断るつもりはわかったが、樹の提案にすぐに承諾してしまった自分に菊那はため息をついた。完璧に彼のペースに乗せられしまっているのだ。
「………明日、大丈夫かな」
何はともあれ、明日は花泥棒を捕まえる事になったのだ。少年とはいえ人を捕まえるなど、子どもの頃の鬼ごっこぶりだ。
話しをして返してくれるといいが、上手くいくとも限らない。相手は子どもなのだ。
「大切な物だから返して欲しい……そう、伝えればわかってくれるよね」
菊那はベッドにゴロンと横になった。
狭いワンルームの部屋で独り言で呟くが、それは静けさがあっという間に包んで消してしまう。
菊那はフーッと息を吐いて、目を閉じた。
花泥棒の顔を改めて思い出す。咄嗟の事だったが、彼の怒った表情は菊那の頭にしっかりと残っていた。大丈夫、しっかりと見分けられる。
そう思い、菊那は明日のために早めに寝てしまおうと思った。
そうしないと、樹の顔が浮かんで眠れなくなってしまいそうだった。
作戦決行の日。
菊那は動きやすいように、パンツスタイルにシューズという格好で向かう事にした。けれど、ホワイトのニットに厚手のライトグレーのショートコートにして、少しは女性らしさを感じられる物を選んでしまった。少年を捕まえるだけなのに、おしゃれなんて必要ないと思いつつも、女心は複雑だった。
結局は、いつもよりお化粧に力が入ってしまったり、出掛ける前に鏡の前で何回もチェックをしてしまった。
「これじゃあ、まるでデートみたいだわ………って、デートなのかな?いや……違うか……」
そんな独り言を繰り返しながら、やっとの事で出掛けたのだった。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
そう言って出迎えた彼は、今日は少しカジュアルな服装だった。と、言ってもカッチリとしたズボンに、白いシャツの上に紺のニットを着ていた。日中は暖かくなったので、薄着になったのかもしれない。コートを着ていた菊那は少し暑さを感じていたぐらいに今日は温かく春の訪れを感じさせてくれた。
そんな樹が案内してくれたのは、2階の1室だった。とても豪華なお屋敷なのできっと豪華な家具や装飾が並んでいるのだろうと菊那は思ったが、とてもシンプルなものだった。家具は確かにアンティークなものが多かったけれど、装飾品はほとんどなく、少し寂しさを感じるものだった。出窓付近に、椅子とテーブルが準備されており、菊那をそこに案内した。
「ここの窓から屋敷の前に誰が来たのが見えるんです」
「本当ですね……」
「えぇ。ですので、ここから見張ってみようかと思っています。今、お茶を準備しますので、菊那さん。見ていてくれませんか?」
「わかりました」
菊那が頷くと、樹は部屋から出ていってしまった。出窓からは、袋小路に入る小道も見えるが、屋敷の庭もよく見えた。そして、庭をすっぽりと覆うガラスの窓を上から見下ろす事も出来る。ガラスのドームは屋敷の1階と2階の間から接続されているようで、2階の窓にはガラスの屋根はかかっていないのだ。温室のような不思議なドームの中で少しぼやけてみる花たち。ここから見てもわかるほどの数だ。どれぐらいの花の数があるのだろうか、と思って見いってしまう。が、本来の仕事を思い出して道を見るがやはり視線は自然と庭へと移ってしまう。
「そんなに庭が気に入りましたか?」
「え、あ、はい………。あまりにもたくさんの花の種類ってどれぐらいあるのかな?と思ってしまって」
「………なるほど………」
樹は戻ってくると、真ん中に色とりどりのフルーツが入ったロールケーキとミルクティーを菊那の前に置いた。樹はミルクティーだけのようだ。菊那は「ありがとうございます」と、甘い誘惑についつい笑みを浮かべてしまう。
「菊那さんは、薔薇の種類がどれぐらいあるかご存知ですか?」
「え、種類ですか?………いろんな色や形があるのは知ってますが………数百ぐらいですか?」
突然の質問に驚きながらも、自分の知っている薔薇を思い浮かべながら、菊那はそう答えた。
すると、樹はニッコリと笑って人差し指を顔の横に置き「正解は」と、先生のように言った。そう言えば彼は教授なのだ。
「薔薇の品種は約4万種あると言われています」
「そんなに、ですか!?」
「えぇ。ですから、この庭にある花たちはほんの僅かしかないんですよ。薔薇だって、30種あるかないかですから」
「薔薇だけでそんな種類があるんですね」
菊那は驚いて、庭にある薔薇を上から見つめた。花びらの大きさや数、葉や茎と少しの違いで花の雰囲気も変わり、名前も変わるのだろう。新しい発見に、菊那はそんな風に今まで見てきた薔薇を思い浮かべた。まだまだ出会っていない薔薇も、その他の花もたくさんあるのだ。
「薔薇の名前もとても面白いですよ。日本の人が品種改良して作ったものは日本語の名前がついたりしています」
「そうなんですね。そんなに沢山あるのなら自分に合う薔薇を見つけたいですね」
「え………」
花には、誕生花や花言葉などがあり、意味も様々だ。だからこそ、見た目や名前で自分に合った薔薇を見つけたら素敵だなと思ったことを口にしてしまった。すると、樹は驚いた表情を見せたのだ。
菊那は自分が何か変な事を言ってしまっただろうか?と首を傾げ、頬を少し赤くして彼に問いかけた。
「あ、あの……私、何か変なことを言いましたか?」
「いえ……そんな事を考えたことはなかったものですから。でも、いいですね………あなたの薔薇もそして私の薔薇も探してみたいです」
そう言って微笑む樹は、とても嬉しそうで、今まで見てきた中で1番楽しそうだな、と菊那は思い、胸の奥がギュッと締め付けられる感覚に襲われた。
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