社畜サラリーマン、異世界でパンと魔法の経営革命

yukataka

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第一話「死んだはずなのに、パンがない」

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「あー、もう無理だ……」
 終電のホーム。蛍光灯の白い光が、疲れ切った俺の影を長く伸ばしている。
 佐藤健、三十歳。大手商社の営業マン――という肩書は格好いいが、実態はただのブラック企業の奴隷だ。今月の残業時間? 数えるのをやめた。二百時間は確実に超えてる。
 スマホの画面には、上司からのLINEが並ぶ。
『明日の朝イチで企画書修正して』
『週末の接待、お前も来い』
『あ、例の件、今日中に終わらせといて』
 ……今、午前二時なんですけど。
「はは、今日中ってもう昨日だよ、馬鹿野郎……」
 乾いた笑いが出る。もう何も感じない。怒りも、悲しみも、全部どこかに置いてきてしまった。
 ホームに滑り込んでくる電車の光。
 ああ、これに乗れば家に帰れる。布団に倒れ込んで、三時間だけ眠って、また会社に行く。明日も、明後日も、ずっと――
「……いつまで続くんだろうな、これ」
 ふと、足元がふらついた。
 あれ?
 視界が傾く。ホームの端。黄色い線の、向こう側。
 電車のライトが眼を射る。
 ああ、ダメだ。これ、落ちる――
 誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
 でも不思議と、怖くなかった。
 ただ一つだけ、頭に浮かんだのは。
(母さんの焼いてくれた、パン。もう一度、食べたかったな)
 それが、佐藤健の最後の想いだった。

  ◇ ◆ ◇

「――起きろ、小僧」
 低く、渋い声が耳に届く。
「うっ……」
 体中が痛い。まるで全身を殴られたみたいだ。いや、電車に轢かれたんだから当然か。でも、なんで声が聞こえる? 俺、死んだはずじゃ――
「いつまで寝てるつもりだ。日が暮れるぞ」
 ゆっくりと目を開ける。
 視界に飛び込んできたのは、見たこともない天井。いや、天井じゃない。これは……藁? 木の梁?
「ここ、どこ……?」
「ようやく気がついたか。お前、森で倒れてたんだぞ。オオカミに食われなかっただけでも運がいい」
 声の主を見る。
 五十代くらいの、ごつい体格の男。無精髭を生やして、粗末な麻の服を着ている。まるで中世ヨーロッパの農民みたいな――
 って、待て待て。
「あの、すみません。ここ、どこですか? それと、俺、なんで生きてるんですか?」
「何を言ってる。お前が倒れてたのはベルガルド村の北の森だ。記憶でも失ったか?」
 ベルガルド? 聞いたこともない地名だ。
 慌てて自分の体を見下ろす。
 ……なんだこれ。
 俺の手じゃない。白くて、傷一つない、若い手。体も軽い。スーツじゃなく、ボロボロの布を纏っている。
「鏡……鏡はありませんか?」
「鏡だぁ? そんな高級品、この村にあるわけないだろ。せいぜい磨いた銅板くらいだ」
 男が差し出してくれたのは、確かに鈍く光る金属板。
 そこに映った顔は――
 二十歳前後の、黒髪黒目の青年。
 確かに俺の面影はある。でも、十歳は若い。
「……マジかよ」
「おい、大丈夫か? やっぱり頭を打ったか?」
「いや、その、えっと――」
 混乱する頭で、状況を整理する。
 電車に轢かれた。死んだ。気がついたら、見知らぬ世界で、若返ってた。
 これって、アレだ。異世界転生ってやつじゃないのか?
 会社の後輩が読んでたラノベで見た展開だ。まさか自分の身に起こるとは思わなかったが。
「あー、その、記憶が少しあやふやで……ここは、ベルガルド村、ですよね?」
「そうだ。アルテリア王国北部辺境の、ただの寒村だ。お前みたいな旅の若造が来るような場所じゃない」
 男は溜息をつく。
「まあいい。動けるなら、とっとと出て行ってくれ。こっちも余裕はないんでな」
 そう言って、男は粗末なパンのかたまりを差し出した。
 いや、パン?
 これが?
 手に取ったそれは、石のように硬く、黒ずんで、カビの一歩手前みたいな代物だった。
「これ……パン、ですか?」
「ああ。ライ麦のパンだ。うちの村の主食だよ。固いが、水に浸せば何とか食える」
 齧ってみる。
 ――マズい。
 いや、マズいなんてレベルじゃない。酸っぱくて、渋くて、喉を通らない。まるで木の皮を食ってるみたいだ。
「うぇ……こ、これを毎日……?」
「贅沢言うな。これでも貴重なんだぞ。今年は小麦の収穫が悪くてな。村人の半分は粥だけで凌いでる」
 男の表情が、一瞬だけ暗く沈む。
 その時、俺の脳裏に、ある記憶が蘇った。
 母さんが焼いてくれた、ふわふわのパン。バターの香りと、ほんのり甘い小麦の味。ちぎると湯気が立って、頬張ると幸せが口いっぱいに広がった――
「……この世界に、ふわふわのパンはないのか」
「ふわふわ? 何を言ってる。パンは固いもんだ。柔らかいパンなんて、聞いたこともない」
 その瞬間、俺の中で何かがカチリと音を立てた。
 そうか。
 もしかして、これが俺の使命なのか?
 過労死して、異世界に転生した意味。
「……よし、決めた」
「あ? 何をだ?」
「俺、この村でパン屋をやります」
「はぁ?」
 男が目を丸くする。
「お前、頭本当に大丈夫か? パンなんて、どこの村でも作ってる。珍しくも何ともないぞ」
「いや、違うんです。俺が作るのは、ふわふわで、甘くて、温かいパン。食べたら、誰もが笑顔になるパンです」
「……お前、熱でもあるんじゃないか?」
 男は呆れた顔で首を振ったが、俺はもう決めていた。
 前の世界で、俺は何のために生きていたんだろう。
 会社のため? 上司のため? 金のため?
 違う。本当は、誰かを幸せにしたかった。誰かの役に立ちたかった。
 その想いを、ブラック企業の歯車の中で見失っていた。
 でも、今なら違う。
 ここは新しい世界。ゼロからやり直せる場所。
 そして、もしかしたら――
(俺には、何か特別な力があるかもしれない)
 異世界転生モノの定番。チート能力。
「ステータス、オープン」
 試しに呟いてみると。
 目の前に、青白い光の文字が浮かび上がった。
【佐藤健 / ケン・サトウ】
年齢:20歳(転生体)
スキル:
・発酵魔法 Lv.MAX
・経営知識(現代知識)
・言語理解
 発酵魔法――?
「これ、は……!」
 瞬間、脳内に膨大な情報が流れ込んできた。
 酵母の性質。発酵のメカニズム。温度管理。菌の活性化。そして――イーストを自在に操る力。
 そうか、こういうことか。
 この世界にふわふわのパンがないのは、発酵技術が未発達だからだ。
 でも、俺にはある。
 発酵魔法という、前例のない力が。
「おい、小僧。本当に大丈夫か? 変な光が――」
「大丈夫です。それより、教えてください。この村に、小麦粉と水と塩はありますか?」
「は? あるにはあるが……」
「それと、暖かい場所。あと、できればオーブン――いや、石窯みたいなものは?」
「石窯なら、村の共同炉がある。パンを焼くための……って、お前、まさか本気で――」
「ええ、本気です」
 俺はゆっくりと立ち上がった。
 体は軽い。心も、不思議と晴れやかだ。
 ブラック企業で潰れかけた心が、今、希望で満たされていく。
「俺、この村で、世界一美味いパンを作ります。そして、みんなを笑顔にする」
 男は、しばらく呆然としていたが。
 やがて、苦笑しながら肩をすくめた。
「……ま、いいか。どうせ暇だし、面白そうだ。やってみろよ、旅の若造」
「ありがとうございます。あの、お名前は?」
「グスタフだ。この村の猟師をやってる。まあ、好きに呼べ」
「グスタフさん、ありがとうございます。俺、ケンって言います。ケン・サトウ」
 こうして、俺の異世界パン革命が始まった。
 まだ誰も知らない。
 この小さな出会いが、やがて王国を、大陸を、世界を変える物語になるとは――
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