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第1章「断頭台の血」
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広場は人で埋まっていた。
夏の陽射しが石畳を焼き、群衆の汗と興奮の匂いが立ち昇る。王都リオネールの中央広場。普段は市が立ち、商人が声を張り上げる場所。今日はそこに、黒い木組みの処刑台が組まれていた。
セリーヌは両手を背中で縛られたまま、階段を登った。
足元がふらつく。三日間、地下牢で水だけを与えられた身体は、もう力が入らない。護衛兵が肩を押す。一段、また一段。木の階段が軋む音が耳に痛い。
台の上に立つと、視界が開けた。
何千という人々の顔が見える。知っている顔もある。市場で果物を売っていた老婆。宮殿の庭を手入れしていた庭師。セリーヌが慈善施設を訪ねたとき、泣きながら感謝を口にした母親。
その全員が、今は石を握りしめていた。
「反逆者に死を!」
誰かが叫ぶ。群衆が呼応する。怒号が波のように押し寄せる。石が飛んできた。頬をかすめ、肩に当たる。痛みよりも、冷たさが先に来た。
心臓が凍りつくような冷たさ。
「父王を毒殺した王女に、慈悲はいらぬ!」
また別の声。セリーヌは唇を噛んだ。父を毒殺など、していない。父は病で亡くなった。侍医も、評議会も、それを認めていたはずだった。
だが、三ヶ月前に全てが変わった。
宰相バルドが評議会に提出した一通の書簡。父王の侍医が遺したとされる告発文。そこには、セリーヌが毒を盛るよう強要したと記されていた。侍医はすでに亡くなっていた。自殺と発表された。
「嘘です」
セリーヌは何度も訴えた。だが、証拠は次々と積み上げられた。父王の遺言書——セリーヌを後継者から外し、王弟ロベルトを指名する内容——が発見された。筆跡鑑定士が真筆だと証言した。セリーヌの部屋から毒薬の小瓶が見つかった。
全て、仕組まれたものだった。
だが、それを証明する術はなかった。
処刑台の中央に、斧を持った男が立っていた。顔を黒い布で覆った処刑人。斧の刃が陽光を反射して、鈍く光る。
セリーヌの視線の先に、壇上の椅子に座る男の姿があった。
王弟ロベルト。
深紅の外套を纏い、金の紋章を胸に輝かせている。髭を整え、黒髪を撫でつけた男。セリーヌの伯父。父の弟。幼い頃、優しく本を読んでくれた人。
その男が、今は冷たい目でこちらを見ていた。
ロベルトが立ち上がる。群衆が静まる。彼は両手を広げ、朗々たる声で語り始めた。
「リオネールの民よ。今日、我々は正義を執行する」
声が広場に響く。訓練された演説。セリーヌは歯を食いしばった。
「先王陛下は、この国を愛し、民を愛した偉大な王であった。その命を奪った者が、実の娘であったという事実は、我々全員の心に深い傷を残した」
群衆がざわめく。怒りの声が上がる。
「だが、王家といえども法の前には平等である。罪を犯した者は、その罪に相応しい罰を受けねばならない」
ロベルトの視線がセリーヌに向けられた。
「王女セリーヌ。汝は父王殺害の罪により、斬首刑に処す」
群衆が歓声を上げた。
セリーヌは何も言わなかった。もう、言葉に意味はない。三ヶ月間、弁明を続けた。法廷で、牢で、評議会で。だが誰も耳を貸さなかった。
いや、一人だけいた。
騎士レオン。彼だけは最後まで信じると言ってくれた。だが、レオンは処刑の三日前に国境警備に派遣された。宰相バルドの命令で。
今、この場にレオンはいない。
護衛兵がセリーヌを処刑台の中央へ引きずっていく。膝を折らされる。石の台に額を押しつけられる。冷たい。首の後ろに風が当たる。髪を束ねていた紐が解かれ、髪が垂れる。
母の形見の髪飾りが、石に落ちて音を立てた。
小さな銀の飾り。月の形をしたそれを、母はいつも大切にしていた。セリーヌが十歳のとき、母は病で亡くなった。その時、母はこう言った。
「どんなに辛いことがあっても、月は必ず昇る。希望を捨てないで」
希望。
今、どこにあるのか。
処刑人が斧を構える気配がした。靴音が近づく。金属が空気を切る音。
セリーヌは目を閉じた。
走馬灯のように記憶が流れる。父と庭を歩いた日。初めて馬に乗った日。貧しい村を訪ね、子どもたちに本を配った日。民衆が笑顔で手を振ってくれた日。
その全てが、今は石に変わった。
群衆の怒号が耳に刺さる。
「死ね、反逆者!」
「王殺しに裁きを!」
涙が溢れた。悔しさではない。悲しさでもない。ただ、虚しかった。
信じていた。人を、国を、正義を。
だが、正義は存在しなかった。あるのは力だけだった。権力を持つ者が正義を作り、持たざる者はそれに従うしかない。
ロベルトが手を上げた。
「刑を執行せよ」
処刑人が斧を振りかぶる。
セリーヌは最後に空を見た。青い空。白い雲。夏の陽射し。美しい世界。
刃が振り下ろされる。
風を切る音。
その瞬間、世界が白く染まった。
眩い光。時間が止まる。群衆の声が遠ざかる。
耳元で、誰かの声がした。
女性の声。優しく、しかし悲しげな響き。
「哀れな子よ」
光の中に、人影が見えた。白い衣を纏い、長い金髪を持つ女性。その姿は透けて、向こうの景色が透けて見える。
「あなたは……」
「私は女神リュミエール。光と時を司る者」
女神。
セリーヌは呆然とした。伝承の中にしか存在しないはずの存在。それが今、目の前にいる。
「なぜ、私に」
「あなたは不当に命を奪われようとしている。それは私の許すところではない」
女神の手がセリーヌの頬に触れた。温かい。涙を拭うように。
「あなたに、時を巻き戻す力を与えましょう。一年前へ。まだ陰謀が始まったばかりの時へ」
一年前。
父がまだ生きていた頃。ロベルトの策略がまだ表面化していなかった頃。
「ただし」
女神の声が厳しくなる。
「この力は一度きり。二度目はない。あなたが選ぶのです。復讐か、赦しか。裁きか、慈悲か。その選択が、この国の未来を決める」
光が強くなる。
「私は、どうすれば」
「あなた自身の心に従いなさい。ただし、覚えておきなさい。復讐は連鎖する。だが、慈悲もまた弱さとなりうる。選ぶのはあなた」
女神の姿が薄れていく。
「待って」
「さあ、目を覚ましなさい。あなたの戦いはこれからです」
光が爆発した。
セリーヌの意識が暗闇に沈む。
そして——
処刑人の斧が、首を断った。
夏の陽射しが石畳を焼き、群衆の汗と興奮の匂いが立ち昇る。王都リオネールの中央広場。普段は市が立ち、商人が声を張り上げる場所。今日はそこに、黒い木組みの処刑台が組まれていた。
セリーヌは両手を背中で縛られたまま、階段を登った。
足元がふらつく。三日間、地下牢で水だけを与えられた身体は、もう力が入らない。護衛兵が肩を押す。一段、また一段。木の階段が軋む音が耳に痛い。
台の上に立つと、視界が開けた。
何千という人々の顔が見える。知っている顔もある。市場で果物を売っていた老婆。宮殿の庭を手入れしていた庭師。セリーヌが慈善施設を訪ねたとき、泣きながら感謝を口にした母親。
その全員が、今は石を握りしめていた。
「反逆者に死を!」
誰かが叫ぶ。群衆が呼応する。怒号が波のように押し寄せる。石が飛んできた。頬をかすめ、肩に当たる。痛みよりも、冷たさが先に来た。
心臓が凍りつくような冷たさ。
「父王を毒殺した王女に、慈悲はいらぬ!」
また別の声。セリーヌは唇を噛んだ。父を毒殺など、していない。父は病で亡くなった。侍医も、評議会も、それを認めていたはずだった。
だが、三ヶ月前に全てが変わった。
宰相バルドが評議会に提出した一通の書簡。父王の侍医が遺したとされる告発文。そこには、セリーヌが毒を盛るよう強要したと記されていた。侍医はすでに亡くなっていた。自殺と発表された。
「嘘です」
セリーヌは何度も訴えた。だが、証拠は次々と積み上げられた。父王の遺言書——セリーヌを後継者から外し、王弟ロベルトを指名する内容——が発見された。筆跡鑑定士が真筆だと証言した。セリーヌの部屋から毒薬の小瓶が見つかった。
全て、仕組まれたものだった。
だが、それを証明する術はなかった。
処刑台の中央に、斧を持った男が立っていた。顔を黒い布で覆った処刑人。斧の刃が陽光を反射して、鈍く光る。
セリーヌの視線の先に、壇上の椅子に座る男の姿があった。
王弟ロベルト。
深紅の外套を纏い、金の紋章を胸に輝かせている。髭を整え、黒髪を撫でつけた男。セリーヌの伯父。父の弟。幼い頃、優しく本を読んでくれた人。
その男が、今は冷たい目でこちらを見ていた。
ロベルトが立ち上がる。群衆が静まる。彼は両手を広げ、朗々たる声で語り始めた。
「リオネールの民よ。今日、我々は正義を執行する」
声が広場に響く。訓練された演説。セリーヌは歯を食いしばった。
「先王陛下は、この国を愛し、民を愛した偉大な王であった。その命を奪った者が、実の娘であったという事実は、我々全員の心に深い傷を残した」
群衆がざわめく。怒りの声が上がる。
「だが、王家といえども法の前には平等である。罪を犯した者は、その罪に相応しい罰を受けねばならない」
ロベルトの視線がセリーヌに向けられた。
「王女セリーヌ。汝は父王殺害の罪により、斬首刑に処す」
群衆が歓声を上げた。
セリーヌは何も言わなかった。もう、言葉に意味はない。三ヶ月間、弁明を続けた。法廷で、牢で、評議会で。だが誰も耳を貸さなかった。
いや、一人だけいた。
騎士レオン。彼だけは最後まで信じると言ってくれた。だが、レオンは処刑の三日前に国境警備に派遣された。宰相バルドの命令で。
今、この場にレオンはいない。
護衛兵がセリーヌを処刑台の中央へ引きずっていく。膝を折らされる。石の台に額を押しつけられる。冷たい。首の後ろに風が当たる。髪を束ねていた紐が解かれ、髪が垂れる。
母の形見の髪飾りが、石に落ちて音を立てた。
小さな銀の飾り。月の形をしたそれを、母はいつも大切にしていた。セリーヌが十歳のとき、母は病で亡くなった。その時、母はこう言った。
「どんなに辛いことがあっても、月は必ず昇る。希望を捨てないで」
希望。
今、どこにあるのか。
処刑人が斧を構える気配がした。靴音が近づく。金属が空気を切る音。
セリーヌは目を閉じた。
走馬灯のように記憶が流れる。父と庭を歩いた日。初めて馬に乗った日。貧しい村を訪ね、子どもたちに本を配った日。民衆が笑顔で手を振ってくれた日。
その全てが、今は石に変わった。
群衆の怒号が耳に刺さる。
「死ね、反逆者!」
「王殺しに裁きを!」
涙が溢れた。悔しさではない。悲しさでもない。ただ、虚しかった。
信じていた。人を、国を、正義を。
だが、正義は存在しなかった。あるのは力だけだった。権力を持つ者が正義を作り、持たざる者はそれに従うしかない。
ロベルトが手を上げた。
「刑を執行せよ」
処刑人が斧を振りかぶる。
セリーヌは最後に空を見た。青い空。白い雲。夏の陽射し。美しい世界。
刃が振り下ろされる。
風を切る音。
その瞬間、世界が白く染まった。
眩い光。時間が止まる。群衆の声が遠ざかる。
耳元で、誰かの声がした。
女性の声。優しく、しかし悲しげな響き。
「哀れな子よ」
光の中に、人影が見えた。白い衣を纏い、長い金髪を持つ女性。その姿は透けて、向こうの景色が透けて見える。
「あなたは……」
「私は女神リュミエール。光と時を司る者」
女神。
セリーヌは呆然とした。伝承の中にしか存在しないはずの存在。それが今、目の前にいる。
「なぜ、私に」
「あなたは不当に命を奪われようとしている。それは私の許すところではない」
女神の手がセリーヌの頬に触れた。温かい。涙を拭うように。
「あなたに、時を巻き戻す力を与えましょう。一年前へ。まだ陰謀が始まったばかりの時へ」
一年前。
父がまだ生きていた頃。ロベルトの策略がまだ表面化していなかった頃。
「ただし」
女神の声が厳しくなる。
「この力は一度きり。二度目はない。あなたが選ぶのです。復讐か、赦しか。裁きか、慈悲か。その選択が、この国の未来を決める」
光が強くなる。
「私は、どうすれば」
「あなた自身の心に従いなさい。ただし、覚えておきなさい。復讐は連鎖する。だが、慈悲もまた弱さとなりうる。選ぶのはあなた」
女神の姿が薄れていく。
「待って」
「さあ、目を覚ましなさい。あなたの戦いはこれからです」
光が爆発した。
セリーヌの意識が暗闇に沈む。
そして——
処刑人の斧が、首を断った。
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