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深夜のオフィスは、いつものように静かだった。
プリンターの間延びした駆動音と、古い空調の唸り声だけが、生き物のように響いている。
黒田誠司は、机の上に置かれた書類の束を指先で弾いた。
斎藤悠真の名前が、その表紙にあった。
「……こいつのせいで仕事が滞る」
その夜、斎藤は会議室で倒れた。
救急車に運ばれたと聞いたときも、黒田は特別な感慨を抱かなかった。
“よくあることだ”と、心のどこかが勝手に処理した。
しかし翌朝、訃報が届いた。
その瞬間、オフィスの空気が裏返ったように変わった。
同僚たちの視線が一斉に黒田へ向き、重い沈黙が頭上にのしかかる。
「管理職として、どう説明するんですか」
「過重労働、把握していたんでしょう」
家に帰れば、家族からも言われた。
「お父さんの会社で人が死んだって、本当なの?」
「お父さんのことがニュースになったらどうするの?」
黒田は否定しようとしたが、言葉が続かなかった。自分のどこまでが悪くて、どこまでが正しかったのか、もう判断がつかなかった。
ただ一つだけ、心の奥から湧いた感情がある。
――あいつが弱かっただけだ。
その“答え”に辿りついたとき、黒田という男はひとつ終わった。
*
数日後、黒田は酒を握りしめたまま夜の街を歩き、気づけば橋の欄干にもたれていた。
頭が重く、胸の奥に沈殿した濁りが、酒でかき混ぜられているような感覚だった。
斎藤のことを思い出す。
自分を睨むわけでも、抗議するわけでもなかったあの目。ただ、疲れ果てていた。
「あいつが……斎藤が……勝手に倒れただけだ」
そう呟いたとき、足がふらついた。
次の瞬間、冷たい闇が身体を包んだ。
水面が跳ね、黒田の悲鳴は雨音に飲まれた。
そのまま、川は彼を沈めていった。彼の心に最後まで残ったのは――“全部、斎藤のせいだ”
その濁った恨みだけだった。
***
水の匂いは、冷たさではなく重さを帯びていた。黒田誠司は、泥だらけの川辺で目を開け、乾いた咳を漏らした。
見上げた空は鈍い灰色で、自分がどこにいるのかすぐには理解できなかった。
「……転げ落ちたのか、俺は」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
記憶は、濁った川のように、ところどころを引きちぎられながら戻ってきた。
斎藤悠真が倒れた日の、あの騒然としたオフィス。
責任者として全員の前に立たされたときの、ひりつくような視線。
家族の沈黙――そして、何より自分自身の惨めさ。
(全部……あいつのせいだ)
その思考が生まれるまで、時間は必要なかった。まともに向き合えば、自分が崩れるとわかっていた。だから黒田は“人を責めることで自分を保つ” という一番簡単な道を選んだ。
酒場で机を叩きながら斎藤の名前を罵った夜。橋の欄干に寄りかかり、酔いに任せて足を踏み外した瞬間。
(あれで、川に落ちたのか?今はどこだ?)
その思いだけが、胸の奥でくすぶっていた。
*
目の前に見える村は小さく、疲れた顔をした労働者たちが行き交っていた。
互いに肩を寄せ合い、日暮れ前の作業に急いでいる。
(まずはここがどこか聞かなくては)
ただ、黒田は村に近づくにつれ、その労働者の姿を眺め、思った。
(俺なら、もっとうまく回せる)
それは“反省を経て得た気づき”ではなく、“過去から何一つ学ばないままの確信”だった。
この村が聞いたことのない場所であったため、とりあえず村長に取り入った。
村長は、器が小さそうな感じの男で、うまく使えば自分の生活が安定できると感じた。
労働の配置、管理の仕方、時間の使い方
――黒田は前の世界と同じ理屈を持ち込み、村に押し付けた。
「まだ作業が残っているだろう。休む時間を惜しむな。働けるうちに働いておけ」
そう言う黒田の横顔は、どこか誇らしげでさえあった。自分の“正しさ”を疑うという発想は、そもそも存在しない。
だが村人たちの目は、日ごとに曇っていった。疲れ切り、口数が減り、倒れる者が出始める。
噂が流れるのは早い。
「あの新参者、仕事を倍にした」
「産んだばかりの女まで呼び出した」
「子どもにまで荷物を運ばせた」
「村長にごますりばかり」
それでも黒田は気づかなかった。人々の声を“反発”ではなく、彼らの“無理解”だと思い込んでいたからだ。
夜、ひとり部屋に座り、酒瓶を傾けながら、黒田はふっと笑う。
(俺は正しい。この世界の人間は甘いんだ。強い者が導いてやらないと何もできない)
瓶の底に沈んだ酒を飲み干したとき、薄く震える感情が湧いた。
――斎藤は……あいつは、この世界でどうしている?
数日前、村に届いた旅商人の噂を思い出す。
「読み書きを教える変わった者がいる」
「孤児が、教育を受けて就職したらしい」
「サイトウユウマ、とかいったか?」
酒が胃の底でぐらりと波を打つ。
(……斎藤!!生きていやがった)
嫉妬というより、それは“黒田という男を形作る毒の核”そのものだった。倒れた斎藤の顔が、くすんだ黄土色の灯りの中で浮かぶ。
自分より弱く、自分より黙り、自分より下のはずの男。その男が、どこかの世界で期待され、感謝されている。黒田は、唇を噛み破るほどに噛み締めた。
(そんなの許せるわけがない)
ゆっくりと、黒田の破滅は始まっていた。自分で自分を追い詰め、誰よりも深い場所へ沈んでいく。だがその未来を予測できるほど、黒田誠司は自分に忠実ではなかった。
***
新しい世界の風は、どこか柔らかかった。石畳の道を歩くと、午前の陽光が肩に落ち、かすかな温みを感じる。前の世界の“蛍光灯の白さ”とは違う、心の奥まで染みてくる色だった。
「……ここで、やり直せるのか」
そう呟くと、不思議と胸が軽くなる。
この世界に来てから幾晩も、前世の光景が夢に出た。上司の怒号、深夜のオフィス、積み上がった書類。
休むという選択肢が存在しない日々。気づけば、疲れるという感覚にすら鈍感になっていた。
斎藤悠真は、転生後、“疲労無効”というスキルを授かったとき、皮肉のように感じたのはそのせいだ。
(俺に必要なのは、疲れない身体じゃなくて……疲れたときに休める心だったんだよな)
苦く笑ったその時――
「……お腹、すいた」
小さな声が、足元から聞こえた。
振り返ると、泥まみれの少年が立っていた。あの、終電間際のホームで見た“影のような自分”を思い出す顔だった。
悠真は思わずしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。
「大丈夫。まずは何か食べよう」
その言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。前の世界で、誰かにこう言ったことなど一度もない。
少年は驚いたように目を丸くし、やがて怯えと期待が入り混じったまま、袖を掴む。
「……おじさん、怒らないの?」
「怒らないよ」
この一言に、少年はほっと息をついた。
しばらくして、少女も姿を見せた。兄妹ではない。だが似たもの同士の孤児だという。
少女は、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「……食べ物くれるの? いいの?」
悠真は、ゆっくりと頷いた。
「信じてほしい。俺は、誰かを追い詰めるような生き方はしない。君たちが安心して眠れる場所、そしてご飯が食べれる場所を作りたい」
それは、前世の自分への誓いでもあった。
子どもたちの手は、驚くほど軽く、温かかった。触れた瞬間、胸の中で何かがほどけるようだった。
(守れるだろうか。いや、守りたい)
その夜、粗末な小屋の中で、子どもたちは寄り添うように眠った。悠真は焚き火の灯を見ながら、前世では味わえなかった穏やかさに包まれる。
ふと、胸に沈んでいた最後の疑問が浮かぶ。
(前の世界の人たちは……今、どうしているんだろう)
黒田の名が脳裏をかすめた。だが、すぐに火の中に溶けるように消えていく。
今は、こっちを見ていたい。子どもたちの安心した寝息を。
悠真は、静かに目を閉じた。
その瞬間、小さな決意が胸に灯った。
――この世界では、誰も使い潰さない。
働く人も、弱い人も、子どもたちも。みんなが笑って眠れる場所を作ろう。
その誓いは、この世界での悠真の歩みの始まりだった。
***
黒田は泥だらけの村を振り返った。道端には倒れた農夫、荷車は崩れ、倉庫の扉は風で揺れていた。それでも黒田の胸は、誇らしさで膨らんでいた。
(俺は成果を出した……この村を立て直したんだ)
そう自分に言い聞かせる。
村は確かに生き残った。だが、それは人々の血と汗を踏みにじった結果だった。倒れる者を放置し、子どもを働かせ、病人は自宅に押し返した。だが黒田は見えないものを見ようとはしなかった。虚飾だけを積み上げ、目に見える「結果」を王宮に売り込む算段に余念がなかった。
噂を広める手段は簡単だった。旅商人に言いくるめ、王宮宛てに「村を再建した」と吹聴する。
証拠の書類? もちろん偽装済みだ。農夫の名前は適当に並べ、収穫量も水増しする。
「俺ほど王に仕える価値のある者は、他にいない」
夜、ろうそくの灯りで顔を映すと、笑顔はどこか痛々しかった。自分の目に映るのは、過去の影――斎藤悠真の笑顔だった。
(あいつが死ななければ……)
憎悪は、黒田の胸を締め付ける。だが、その憎悪は同時に、虚栄心を支える燃料でもあった。
*
村人たちは、黒田の言う「再建」など夢のまた夢だと知っていた。昼は働かされ、夜は疲れ切って倒れ、声を上げれば罵られる。誰もが、少しずつ目を伏せ、やがて何も言わなくなる。
「……また来たか」
小さな声があちこちから漏れる。目を合わせれば、絶望の色。だが黒田はそれを「注意力不足」と思い込み、改善しようともしない。
唯一、黒田の目が輝くのは、王宮への道を妄想するときだけだった。「再建した村を誇示する自分」を想像し、王の前で褒められる姿を思い浮かべる。それは、現実よりもずっと甘美で、彼を救う幻だった。
***
一方、悠真は村から少し離れた場所で、孤児たちに読み書きを教えていた。瓦屋根の下、木の机に向かい、彼の声が子どもたちの耳に届く。
「無理はしなくていい。休むことは恥じゃない」
子どもたちの目は、少しずつ輝きを取り戻していく。疲れ知らずの自分の体を盾に、あえて「働きすぎない価値」を教える悠真。前世の経験が、言葉に深みを与えていた。
「君たちの未来は、君たちの手で作るんだ。誰かが犠牲にならなくても、夢は叶えられる」
夜になり、焚き火の灯が揺れる。子どもたちは夢中で文字を書き、絵を描き、未来を描く。悠真はその姿を見つめ、静かに頷く。
(こうして守るんだ……前世ではできなかったことを)
その夜、近隣の町で開かれる奴隷市。
市場の商人たちは冷笑を浮かべ、群衆はざわめき、買い手たちは価格だけを見て取引を進める。人々のざわめきと灯火の下、数多の奴隷たちが押し出され、取引の声が飛び交う。鎖に繋がれ、身を縮める者、泣き声を上げる者
――その中に、ひときわ怯え、目の輝きを失った少女がいた。
人混みに押し出される奴隷のエヴァは、鎖に繋がれ怯えた瞳で周囲を見渡す。この世界で不運に巻き込まれ、誰も助けてはくれないと、心の奥で諦めかけていた。
鎖やぼろ服で目立つその姿は、群衆の中でも自然と悠真の視界に入った。
その瞬間、心の奥で声が響く――
「彼女を助けなければ」
悠真は人混みをかき分け、少女のもとに近づく。群衆の喧騒、商人の冷笑、護衛の視線――すべてが彼を妨げようとしたが、悠真は一歩も引かない。
「君、大丈夫。もう怖くない」
緊張で震える少女を抱き上げ、鎖を外す。少女の目に、恐怖と安堵が交錯する。その瞬間、初めて自由を感じた瞳が、悠真を見上げた。
「もう大丈夫だ。安心して」
群衆のざわめきの中、悠真は少女を連れ、静かに闇を抜ける。その他の奴隷たちもまだ危険に晒されていたが、悠真の目は、今救うべき者――この少女に定まっていた。
夜の冷気が二人を包む。少女の小さな手を握り、悠真は心の中で決意する。
「この子を守る。そして、この世界で未来を作る」
***
黒田は噂を巧みに利用する。
旅商人、地方官、王宮の目に留まる者に、次々と虚偽の経歴を伝える。
「村を復興させ、民を導いた者です」
「前の世界で培った経営手腕を、この国でも活かせます」
自分の非道さ、村人の苦痛、倒れた者の悲鳴――そんなものは一切語らない。
必要なのは、見せかけの実績と、王に刺さる言葉だけだ。
夜更け、鏡の前で黒田は自分に言い聞かせる。
「俺は正しい。誰より優秀だ。あいつの存在は……忘れろ」
だが、斎藤悠真の笑顔の残像は、薄い影のように脳裏から消えない。
嫉妬と虚栄にまみれた黒田の歩みは、ゆっくりとだが確実に、崩壊への道を進んでいた。
***
王宮の門前に立つ黒田は、胸の高鳴りを抑えられなかった。
石の壁に刻まれた装飾、遠くに見える中庭の噴水――すべてが、自分の力を映す鏡のように感じられた。
(ここで認められれば、斎藤を超えられる……)
過労で死んだあいつへの恨み。あの男の笑顔を、過去の自分の無力さを、黒田は決して忘れない。それが胸の奥で熱を帯び、王宮という舞台にかける自信と嫉妬が入り混じる。
彼は偽りの経歴書を携えていた。
「村を再建し、民を導き、前世で培った経営手腕をこの国に活かせます」
文字だけなら完璧に見える。だが現実は違った。倒れた村人、失われた信頼――黒田はそれを隠し、王にだけ見せるつもりでいた。
***
一方、悠真は孤児院と学校の運営に没頭していた。
奴隷市から救い出したエヴァは、奴隷として幼少期からまともな食事をとっていなかったため、体は小柄だが、少女というよりももう少しで大人の女性という年齢であった。
そのため、悠真と一緒になり、孤児の世話を行ってくれていた。
朝、子どもたちが文字を覚え、絵を描き、学ぶ姿が広がる。村人たちも少しずつ生活を立て直し、成果は数字や記録として可視化されていった。
「先生、今日も新しい文字を書けるようになった!」
ユウリの声に、リサやレオも加わる。エヴァは微笑み、悠真は静かに頷いた。
(これが、前世でできなかったことだ)
人を働き潰すのではなく、信頼と教育で成果を生む――
それが、悠真の本当の力であり、黒田の虚栄と大きく対照的だった。
***
黒田は王の前で胸を張った。
声は震えていたが、必死に理路整然を装い、経歴を語る。
「私は村を再建し、民を導きました。その結果がその書類です」
けれど、官僚たちは書類の上に視線を落としたまま微動だにせず、王の眉間には深い皺が刻まれる。
「黒田氏の報告とは異なる記録が確認されている。村人たちの証言も同様だ」
血の気が一気に引いた。心臓の奥で、何かが音もなく崩れていくのがわかった。
「いや……あれは資料の……」
声は喉に詰まり、言葉は出てこない。
王宮の空気は重く、冷たい視線が黒田を押し潰す。周囲の囁きが、胸の奥で鈍い鎚のように響く。
ふと、心の奥底に悠真の笑顔が浮かぶ。
あいつは、今この世界で人を育て、目に見える成果を示している――。
あいつは本当は俺の言う通りしているだけの人間だったくせに。
黒田は、自分の人生の浅さを痛感した。
虚栄と見栄に塗り固めた日々、他人を踏みつけて得たわずかな満足、そして悠真への嫉妬
――それらが、今まさに音もなく崩れ落ちていく。
***
宿屋で、黒田の手は震えていた。
酒瓶を握りしめる指先が、微かな痛みに痺れる。
王宮での屈辱、民の冷たい目、悠真の圧倒的な実績
――虚像はあっけなく崩れ、残ったのは虚栄心の死骸だけだった。
(……俺は、何もできてないのか?……)
過去の傲慢、他人を踏みにじった日々、悠真への嫉妬が、胸の奥で黒い音を立てて響く。
酒の匂いに紛れながらも、その響きは消えない。
虚構で固めた自分の価値――それが、ただの幻だったことを、心が叩きつけてくる。
夜更け、窓の外を見つめると、遠くで村人の笑い声が聞こえる。そこに悠真と孤児たちが生き生きと暮らす姿を重ねる。黒田は、ただ震え、酒にすがるしかなかった。
薄明かりの宿屋で、黒田は夜を明かした。空になった酒瓶を握りしめ、指先の震えに気づく。
心の奥で、悠真の笑顔がちらつくたびに、胸の奥が冷たい痛みに締め付けられた。あいつは現実で人を育て、未来を作っている――その事実が、虚飾で塗り固めた自分の人生を無慈悲に暴く。
*
翌朝、黒田はかつて支配した村へ戻った。
しかし村は荒れ、民は目を逸らし、子どもたちは声を潜める。声をかけても無視され、嘲笑と冷たい視線が追いかけてくる。
かつての権威は砂の城のように崩れ、助けを求めることすらできない。
途方に暮れ、隣国へ助けを求める決意をした黒田。しかしそこは、奴隷制度が厳しい国だった。
「この男、使えそうか?」
商人たちは鼻で笑い、護衛は肩をすくめる。
かつて威厳を振りかざした男は、ただの笑いものに過ぎなかった。
市場に押し出され、鎖につながれ、隣国の奴隷として競りにかけられる。
子どもたちには指を差され、大人たちは軽蔑の目で見下す。
会議室で悠真を追い詰めた冷徹な男は、今や誰の助けも得られず、震えながら笑いものになった。
完全なる孤独。虚栄心だけが残る、無力な敗北。
***
その一方で、悠真とエヴァは孤児院で日々を重ねていた。
笑い声、喧嘩、寝静まった夜の静寂――二人の間に芽生える微かな気配は、確実に愛の形へと育ちつつある。悠真の目は優しく、エヴァの笑顔は少しだけ照れくさそうだ。
黒田誠司の名は、彼らの未来に一切影を落とすことはなかった。
虚飾にまみれた過去は、静かに消え去ったのだ。
プリンターの間延びした駆動音と、古い空調の唸り声だけが、生き物のように響いている。
黒田誠司は、机の上に置かれた書類の束を指先で弾いた。
斎藤悠真の名前が、その表紙にあった。
「……こいつのせいで仕事が滞る」
その夜、斎藤は会議室で倒れた。
救急車に運ばれたと聞いたときも、黒田は特別な感慨を抱かなかった。
“よくあることだ”と、心のどこかが勝手に処理した。
しかし翌朝、訃報が届いた。
その瞬間、オフィスの空気が裏返ったように変わった。
同僚たちの視線が一斉に黒田へ向き、重い沈黙が頭上にのしかかる。
「管理職として、どう説明するんですか」
「過重労働、把握していたんでしょう」
家に帰れば、家族からも言われた。
「お父さんの会社で人が死んだって、本当なの?」
「お父さんのことがニュースになったらどうするの?」
黒田は否定しようとしたが、言葉が続かなかった。自分のどこまでが悪くて、どこまでが正しかったのか、もう判断がつかなかった。
ただ一つだけ、心の奥から湧いた感情がある。
――あいつが弱かっただけだ。
その“答え”に辿りついたとき、黒田という男はひとつ終わった。
*
数日後、黒田は酒を握りしめたまま夜の街を歩き、気づけば橋の欄干にもたれていた。
頭が重く、胸の奥に沈殿した濁りが、酒でかき混ぜられているような感覚だった。
斎藤のことを思い出す。
自分を睨むわけでも、抗議するわけでもなかったあの目。ただ、疲れ果てていた。
「あいつが……斎藤が……勝手に倒れただけだ」
そう呟いたとき、足がふらついた。
次の瞬間、冷たい闇が身体を包んだ。
水面が跳ね、黒田の悲鳴は雨音に飲まれた。
そのまま、川は彼を沈めていった。彼の心に最後まで残ったのは――“全部、斎藤のせいだ”
その濁った恨みだけだった。
***
水の匂いは、冷たさではなく重さを帯びていた。黒田誠司は、泥だらけの川辺で目を開け、乾いた咳を漏らした。
見上げた空は鈍い灰色で、自分がどこにいるのかすぐには理解できなかった。
「……転げ落ちたのか、俺は」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
記憶は、濁った川のように、ところどころを引きちぎられながら戻ってきた。
斎藤悠真が倒れた日の、あの騒然としたオフィス。
責任者として全員の前に立たされたときの、ひりつくような視線。
家族の沈黙――そして、何より自分自身の惨めさ。
(全部……あいつのせいだ)
その思考が生まれるまで、時間は必要なかった。まともに向き合えば、自分が崩れるとわかっていた。だから黒田は“人を責めることで自分を保つ” という一番簡単な道を選んだ。
酒場で机を叩きながら斎藤の名前を罵った夜。橋の欄干に寄りかかり、酔いに任せて足を踏み外した瞬間。
(あれで、川に落ちたのか?今はどこだ?)
その思いだけが、胸の奥でくすぶっていた。
*
目の前に見える村は小さく、疲れた顔をした労働者たちが行き交っていた。
互いに肩を寄せ合い、日暮れ前の作業に急いでいる。
(まずはここがどこか聞かなくては)
ただ、黒田は村に近づくにつれ、その労働者の姿を眺め、思った。
(俺なら、もっとうまく回せる)
それは“反省を経て得た気づき”ではなく、“過去から何一つ学ばないままの確信”だった。
この村が聞いたことのない場所であったため、とりあえず村長に取り入った。
村長は、器が小さそうな感じの男で、うまく使えば自分の生活が安定できると感じた。
労働の配置、管理の仕方、時間の使い方
――黒田は前の世界と同じ理屈を持ち込み、村に押し付けた。
「まだ作業が残っているだろう。休む時間を惜しむな。働けるうちに働いておけ」
そう言う黒田の横顔は、どこか誇らしげでさえあった。自分の“正しさ”を疑うという発想は、そもそも存在しない。
だが村人たちの目は、日ごとに曇っていった。疲れ切り、口数が減り、倒れる者が出始める。
噂が流れるのは早い。
「あの新参者、仕事を倍にした」
「産んだばかりの女まで呼び出した」
「子どもにまで荷物を運ばせた」
「村長にごますりばかり」
それでも黒田は気づかなかった。人々の声を“反発”ではなく、彼らの“無理解”だと思い込んでいたからだ。
夜、ひとり部屋に座り、酒瓶を傾けながら、黒田はふっと笑う。
(俺は正しい。この世界の人間は甘いんだ。強い者が導いてやらないと何もできない)
瓶の底に沈んだ酒を飲み干したとき、薄く震える感情が湧いた。
――斎藤は……あいつは、この世界でどうしている?
数日前、村に届いた旅商人の噂を思い出す。
「読み書きを教える変わった者がいる」
「孤児が、教育を受けて就職したらしい」
「サイトウユウマ、とかいったか?」
酒が胃の底でぐらりと波を打つ。
(……斎藤!!生きていやがった)
嫉妬というより、それは“黒田という男を形作る毒の核”そのものだった。倒れた斎藤の顔が、くすんだ黄土色の灯りの中で浮かぶ。
自分より弱く、自分より黙り、自分より下のはずの男。その男が、どこかの世界で期待され、感謝されている。黒田は、唇を噛み破るほどに噛み締めた。
(そんなの許せるわけがない)
ゆっくりと、黒田の破滅は始まっていた。自分で自分を追い詰め、誰よりも深い場所へ沈んでいく。だがその未来を予測できるほど、黒田誠司は自分に忠実ではなかった。
***
新しい世界の風は、どこか柔らかかった。石畳の道を歩くと、午前の陽光が肩に落ち、かすかな温みを感じる。前の世界の“蛍光灯の白さ”とは違う、心の奥まで染みてくる色だった。
「……ここで、やり直せるのか」
そう呟くと、不思議と胸が軽くなる。
この世界に来てから幾晩も、前世の光景が夢に出た。上司の怒号、深夜のオフィス、積み上がった書類。
休むという選択肢が存在しない日々。気づけば、疲れるという感覚にすら鈍感になっていた。
斎藤悠真は、転生後、“疲労無効”というスキルを授かったとき、皮肉のように感じたのはそのせいだ。
(俺に必要なのは、疲れない身体じゃなくて……疲れたときに休める心だったんだよな)
苦く笑ったその時――
「……お腹、すいた」
小さな声が、足元から聞こえた。
振り返ると、泥まみれの少年が立っていた。あの、終電間際のホームで見た“影のような自分”を思い出す顔だった。
悠真は思わずしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。
「大丈夫。まずは何か食べよう」
その言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。前の世界で、誰かにこう言ったことなど一度もない。
少年は驚いたように目を丸くし、やがて怯えと期待が入り混じったまま、袖を掴む。
「……おじさん、怒らないの?」
「怒らないよ」
この一言に、少年はほっと息をついた。
しばらくして、少女も姿を見せた。兄妹ではない。だが似たもの同士の孤児だという。
少女は、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「……食べ物くれるの? いいの?」
悠真は、ゆっくりと頷いた。
「信じてほしい。俺は、誰かを追い詰めるような生き方はしない。君たちが安心して眠れる場所、そしてご飯が食べれる場所を作りたい」
それは、前世の自分への誓いでもあった。
子どもたちの手は、驚くほど軽く、温かかった。触れた瞬間、胸の中で何かがほどけるようだった。
(守れるだろうか。いや、守りたい)
その夜、粗末な小屋の中で、子どもたちは寄り添うように眠った。悠真は焚き火の灯を見ながら、前世では味わえなかった穏やかさに包まれる。
ふと、胸に沈んでいた最後の疑問が浮かぶ。
(前の世界の人たちは……今、どうしているんだろう)
黒田の名が脳裏をかすめた。だが、すぐに火の中に溶けるように消えていく。
今は、こっちを見ていたい。子どもたちの安心した寝息を。
悠真は、静かに目を閉じた。
その瞬間、小さな決意が胸に灯った。
――この世界では、誰も使い潰さない。
働く人も、弱い人も、子どもたちも。みんなが笑って眠れる場所を作ろう。
その誓いは、この世界での悠真の歩みの始まりだった。
***
黒田は泥だらけの村を振り返った。道端には倒れた農夫、荷車は崩れ、倉庫の扉は風で揺れていた。それでも黒田の胸は、誇らしさで膨らんでいた。
(俺は成果を出した……この村を立て直したんだ)
そう自分に言い聞かせる。
村は確かに生き残った。だが、それは人々の血と汗を踏みにじった結果だった。倒れる者を放置し、子どもを働かせ、病人は自宅に押し返した。だが黒田は見えないものを見ようとはしなかった。虚飾だけを積み上げ、目に見える「結果」を王宮に売り込む算段に余念がなかった。
噂を広める手段は簡単だった。旅商人に言いくるめ、王宮宛てに「村を再建した」と吹聴する。
証拠の書類? もちろん偽装済みだ。農夫の名前は適当に並べ、収穫量も水増しする。
「俺ほど王に仕える価値のある者は、他にいない」
夜、ろうそくの灯りで顔を映すと、笑顔はどこか痛々しかった。自分の目に映るのは、過去の影――斎藤悠真の笑顔だった。
(あいつが死ななければ……)
憎悪は、黒田の胸を締め付ける。だが、その憎悪は同時に、虚栄心を支える燃料でもあった。
*
村人たちは、黒田の言う「再建」など夢のまた夢だと知っていた。昼は働かされ、夜は疲れ切って倒れ、声を上げれば罵られる。誰もが、少しずつ目を伏せ、やがて何も言わなくなる。
「……また来たか」
小さな声があちこちから漏れる。目を合わせれば、絶望の色。だが黒田はそれを「注意力不足」と思い込み、改善しようともしない。
唯一、黒田の目が輝くのは、王宮への道を妄想するときだけだった。「再建した村を誇示する自分」を想像し、王の前で褒められる姿を思い浮かべる。それは、現実よりもずっと甘美で、彼を救う幻だった。
***
一方、悠真は村から少し離れた場所で、孤児たちに読み書きを教えていた。瓦屋根の下、木の机に向かい、彼の声が子どもたちの耳に届く。
「無理はしなくていい。休むことは恥じゃない」
子どもたちの目は、少しずつ輝きを取り戻していく。疲れ知らずの自分の体を盾に、あえて「働きすぎない価値」を教える悠真。前世の経験が、言葉に深みを与えていた。
「君たちの未来は、君たちの手で作るんだ。誰かが犠牲にならなくても、夢は叶えられる」
夜になり、焚き火の灯が揺れる。子どもたちは夢中で文字を書き、絵を描き、未来を描く。悠真はその姿を見つめ、静かに頷く。
(こうして守るんだ……前世ではできなかったことを)
その夜、近隣の町で開かれる奴隷市。
市場の商人たちは冷笑を浮かべ、群衆はざわめき、買い手たちは価格だけを見て取引を進める。人々のざわめきと灯火の下、数多の奴隷たちが押し出され、取引の声が飛び交う。鎖に繋がれ、身を縮める者、泣き声を上げる者
――その中に、ひときわ怯え、目の輝きを失った少女がいた。
人混みに押し出される奴隷のエヴァは、鎖に繋がれ怯えた瞳で周囲を見渡す。この世界で不運に巻き込まれ、誰も助けてはくれないと、心の奥で諦めかけていた。
鎖やぼろ服で目立つその姿は、群衆の中でも自然と悠真の視界に入った。
その瞬間、心の奥で声が響く――
「彼女を助けなければ」
悠真は人混みをかき分け、少女のもとに近づく。群衆の喧騒、商人の冷笑、護衛の視線――すべてが彼を妨げようとしたが、悠真は一歩も引かない。
「君、大丈夫。もう怖くない」
緊張で震える少女を抱き上げ、鎖を外す。少女の目に、恐怖と安堵が交錯する。その瞬間、初めて自由を感じた瞳が、悠真を見上げた。
「もう大丈夫だ。安心して」
群衆のざわめきの中、悠真は少女を連れ、静かに闇を抜ける。その他の奴隷たちもまだ危険に晒されていたが、悠真の目は、今救うべき者――この少女に定まっていた。
夜の冷気が二人を包む。少女の小さな手を握り、悠真は心の中で決意する。
「この子を守る。そして、この世界で未来を作る」
***
黒田は噂を巧みに利用する。
旅商人、地方官、王宮の目に留まる者に、次々と虚偽の経歴を伝える。
「村を復興させ、民を導いた者です」
「前の世界で培った経営手腕を、この国でも活かせます」
自分の非道さ、村人の苦痛、倒れた者の悲鳴――そんなものは一切語らない。
必要なのは、見せかけの実績と、王に刺さる言葉だけだ。
夜更け、鏡の前で黒田は自分に言い聞かせる。
「俺は正しい。誰より優秀だ。あいつの存在は……忘れろ」
だが、斎藤悠真の笑顔の残像は、薄い影のように脳裏から消えない。
嫉妬と虚栄にまみれた黒田の歩みは、ゆっくりとだが確実に、崩壊への道を進んでいた。
***
王宮の門前に立つ黒田は、胸の高鳴りを抑えられなかった。
石の壁に刻まれた装飾、遠くに見える中庭の噴水――すべてが、自分の力を映す鏡のように感じられた。
(ここで認められれば、斎藤を超えられる……)
過労で死んだあいつへの恨み。あの男の笑顔を、過去の自分の無力さを、黒田は決して忘れない。それが胸の奥で熱を帯び、王宮という舞台にかける自信と嫉妬が入り混じる。
彼は偽りの経歴書を携えていた。
「村を再建し、民を導き、前世で培った経営手腕をこの国に活かせます」
文字だけなら完璧に見える。だが現実は違った。倒れた村人、失われた信頼――黒田はそれを隠し、王にだけ見せるつもりでいた。
***
一方、悠真は孤児院と学校の運営に没頭していた。
奴隷市から救い出したエヴァは、奴隷として幼少期からまともな食事をとっていなかったため、体は小柄だが、少女というよりももう少しで大人の女性という年齢であった。
そのため、悠真と一緒になり、孤児の世話を行ってくれていた。
朝、子どもたちが文字を覚え、絵を描き、学ぶ姿が広がる。村人たちも少しずつ生活を立て直し、成果は数字や記録として可視化されていった。
「先生、今日も新しい文字を書けるようになった!」
ユウリの声に、リサやレオも加わる。エヴァは微笑み、悠真は静かに頷いた。
(これが、前世でできなかったことだ)
人を働き潰すのではなく、信頼と教育で成果を生む――
それが、悠真の本当の力であり、黒田の虚栄と大きく対照的だった。
***
黒田は王の前で胸を張った。
声は震えていたが、必死に理路整然を装い、経歴を語る。
「私は村を再建し、民を導きました。その結果がその書類です」
けれど、官僚たちは書類の上に視線を落としたまま微動だにせず、王の眉間には深い皺が刻まれる。
「黒田氏の報告とは異なる記録が確認されている。村人たちの証言も同様だ」
血の気が一気に引いた。心臓の奥で、何かが音もなく崩れていくのがわかった。
「いや……あれは資料の……」
声は喉に詰まり、言葉は出てこない。
王宮の空気は重く、冷たい視線が黒田を押し潰す。周囲の囁きが、胸の奥で鈍い鎚のように響く。
ふと、心の奥底に悠真の笑顔が浮かぶ。
あいつは、今この世界で人を育て、目に見える成果を示している――。
あいつは本当は俺の言う通りしているだけの人間だったくせに。
黒田は、自分の人生の浅さを痛感した。
虚栄と見栄に塗り固めた日々、他人を踏みつけて得たわずかな満足、そして悠真への嫉妬
――それらが、今まさに音もなく崩れ落ちていく。
***
宿屋で、黒田の手は震えていた。
酒瓶を握りしめる指先が、微かな痛みに痺れる。
王宮での屈辱、民の冷たい目、悠真の圧倒的な実績
――虚像はあっけなく崩れ、残ったのは虚栄心の死骸だけだった。
(……俺は、何もできてないのか?……)
過去の傲慢、他人を踏みにじった日々、悠真への嫉妬が、胸の奥で黒い音を立てて響く。
酒の匂いに紛れながらも、その響きは消えない。
虚構で固めた自分の価値――それが、ただの幻だったことを、心が叩きつけてくる。
夜更け、窓の外を見つめると、遠くで村人の笑い声が聞こえる。そこに悠真と孤児たちが生き生きと暮らす姿を重ねる。黒田は、ただ震え、酒にすがるしかなかった。
薄明かりの宿屋で、黒田は夜を明かした。空になった酒瓶を握りしめ、指先の震えに気づく。
心の奥で、悠真の笑顔がちらつくたびに、胸の奥が冷たい痛みに締め付けられた。あいつは現実で人を育て、未来を作っている――その事実が、虚飾で塗り固めた自分の人生を無慈悲に暴く。
*
翌朝、黒田はかつて支配した村へ戻った。
しかし村は荒れ、民は目を逸らし、子どもたちは声を潜める。声をかけても無視され、嘲笑と冷たい視線が追いかけてくる。
かつての権威は砂の城のように崩れ、助けを求めることすらできない。
途方に暮れ、隣国へ助けを求める決意をした黒田。しかしそこは、奴隷制度が厳しい国だった。
「この男、使えそうか?」
商人たちは鼻で笑い、護衛は肩をすくめる。
かつて威厳を振りかざした男は、ただの笑いものに過ぎなかった。
市場に押し出され、鎖につながれ、隣国の奴隷として競りにかけられる。
子どもたちには指を差され、大人たちは軽蔑の目で見下す。
会議室で悠真を追い詰めた冷徹な男は、今や誰の助けも得られず、震えながら笑いものになった。
完全なる孤独。虚栄心だけが残る、無力な敗北。
***
その一方で、悠真とエヴァは孤児院で日々を重ねていた。
笑い声、喧嘩、寝静まった夜の静寂――二人の間に芽生える微かな気配は、確実に愛の形へと育ちつつある。悠真の目は優しく、エヴァの笑顔は少しだけ照れくさそうだ。
黒田誠司の名は、彼らの未来に一切影を落とすことはなかった。
虚飾にまみれた過去は、静かに消え去ったのだ。
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