そこは優しい悪魔の腕の中

真木

文字の大きさ
2 / 11

2 恋

しおりを挟む
 私が家の外に出るのは、多い時で二週間に一度くらいだ。
 子どもの頃から体が弱くて学校に行けなかったことが直接の原因ではあったけれど、成長してからは兄の一言にすべてが左右されたことが大きい。
 長男が絶大な力を持つこの世界では、後妻の生んだ次男である兄の立場は生まれた時から複雑だった。
――龍二は次男の器じゃない。あいつがいつか大人になると思うとぞっとする。
 父にそうぼやかせたほど、兄は恐ろしく優秀な子どもだった。
 単純な学業成績や運動能力だけではなかった。金儲けの才や人を動かす手腕までもがあった。
 そして人目を引いた。美貌というには野生的すぎる容姿と気迫でもって、自分より何回りも年上の大人たちを簡単に自分の味方につけた。
 それでも父は長兄を推していたが、長兄がもう五年以上不在であることと、父も高齢になってきたこともあって、やむなく兄に跡を継がせた。
 聞けば、それに異を唱える者は誰ひとりいなかったそうだ。
「お嬢様、お体の具合でも?」
 椅子に座ったまま頭を押さえていると、隣にかけたみさおさんがそっと声をかけてきた。
「いいえ。その……」
 私は少し迷って口を開く。
「みなは、兄が恐ろしいのかしら」
「龍二様でございますか」
 彼女はうっとりとしたように頬に手を当てる。
「上に立つ御方は厳しくなければいけません。それに男性は少し怖いくらいが素敵でございますよ」
「怖いかしら……」
 私はぽつりと呟いて口をつぐんだ。
 兄は私には優しいというか、徹底的に甘い。手を上げたことなどないし、そもそも怒ったことすら一度もない。
 だけど、おそらくは怖い人なのだろう。それは幼い頃からたびたび肌で感じてきたことだ。
 開演時間になって、私は顔を上げる。照明の落ちたホールの中、舞台にだけスポットライトが当てられる。
 今日は都内の音大で、今期の卒業生によるコンサートが開かれている。
 プロではないけれど、その道に進む学生も多いからレベルは高い。
 ただ、今回は目的があって来た。たった一人の演奏者の音楽を聴くためだけに足を運んだ。
 最後の演奏者になって、私は瞬きをした。
 舞台に上ったのはまだ少年のような男性だった。大学の卒業生だから確実に二十歳は超えているだろうに、彼は私より年下に見えた。
「あら。綺麗な方ですね」
 操さんが隣で小さく声を上げる。
 彼は銀髪に近いセミロングの金の髪に碧の瞳、透けるような白い肌をしていた。
 中性的な容姿だけど、女性に見間違えることはない。ぴんと張られた一本の琴の弦のように、凛とした少年の力強さがあった。
 舞台の中央に立つなり、彼は他の演奏者のように一礼することもなくおもむろにバイオリンを弾き始める。
 その途端に奏でられる冷厳な音楽に、私はため息をついて聴き惚れた。
 数ヶ月前にこの音大のチャペルを見学したら、彼はパイプオルガン奏者に合わせてバイオリンを弾いていた。
 生まれて初めて、恋という感情を知った。
 真冬の冷え切った教会の中で繊細な音をつむぎ出す彼は、本当に天使みたいだと思った。
 話をしてみたい、もっと近付いてみたいと思ったけれど、自分の立場を思うとなかなか決心もつかなかった。
 異性とあらば手習いの先生すら私に近付かせない兄のことだから、私が想いを寄せているなどと気づいたらきっとその人を許しておかないだろう。
 その時のパイプオルガン奏者と話をして、銀髪の彼の名前がレオニード・カルナコフで、今春卒業するということだけは聞くことができた。
「操さん。少しここで待っていてください」
 コンサートが終わると、私は操さんを残して演奏者控室へと足を向けた。
 一度だけと心に決めた。この卒業コンサートで一度直接話をしてみようと。
「演奏者の方に花束を差し上げたいのですが」
「ああ、どうぞ」
 それですべて諦めようという誓いを胸に、私は控室の中に足を踏み入れた。
「あら?」
 中にカルナコフさんの姿はなかった。私は慌てて側の人を呼びとめる。
「カルナコフ……ああ、あいつなら少し呼ばれていきました。花束ならお預かりします」
「直接差し上げたいのです。どちらにおいででしょう」
 私が尋ねると、大学生の方は困ったように眉を寄せた。
「失礼します」
 何となく嫌な予感を抱いて、私は踵を返す。
 初めはおしとやかに歩くつもりだった。けれど段々心が急いて来て、着物の袖を振り乱して駆けだす。
「……少し付き合えって言ってるだけだろ?」
 校舎の裏に複数人の声を聞きとって、私は足を止める。
「お前は付き合いが悪すぎるんだよ。飲みに来たこともないじゃないか」
 覗き込むと、三人の男に詰め寄られているのは確かにカルナコフさんだった。
「そのごちゃごちゃした言葉で話さないでくれない? 僕は日本語が得意じゃないんだ」
 そっけなく言い捨てて踵を返そうとしたカルナコフさんの腕を、男の一人が掴む。
「そう言うなよ。お前、男が好きなんだろ?」
 にやにや笑う彼らに、カルナコフさんは不愉快そうに眉を上げた。
「隠しているわけじゃないけど、僕が好きなのは綺麗な男の子だよ。君らみたいな下品な野郎なんて見るだけでうんざり」
「こいつ……!」
 彼らは顔色を変えて掴みかかろうとする。
「……お止めなさい!」
 私は声を上げてそれを制止した。
「失礼な方々ですね。お食事に誘うなら紳士的に、礼儀正しく。それも、カルナコフさんのお国の言葉でお誘いするべきでしょう」
「どこのお嬢様か知らないが、他人が口を出すことじゃないだろ」
「おい、ちょっと待て」
 声を荒げた男を止めて、他の二人が私の前まで歩いてくる。
「すげえ……こんな美人初めて見た」
「着物着てるよ。本物のお嬢様みたいだ」
「俺やっぱ女がいい」
 校舎の影で三人に取り囲まれた。
「命が惜しいのなら、私に触れてはなりません」
 手が伸びてくるのを見て、私は短く告げる。
 それでも手が髪に触れたのを感じ取って、私は小さく息をついた。
「ぐっ」
 花束を投げて、私は彼らの懐に飛び込む。
 目の前の男の鳩尾を突いて、慌てた他の二人も同じ場所を刺すように突いた。
「息が出来ませんか? でも次は本当に息の根を止めますよ」
 倒れこむ彼らを見下ろして、私は怒声を響かせる。
「散りなさい!」
 散り散りになって逃げ出す彼らを見送った。
 振り向くと、カルナコフさんは興味なさそうに横を向いていた。
『要らぬことをして申し訳ありません。お詫びいたします』
 私は深く頭を下げて彼の母国語で謝罪する。
 少し沈黙があって、彼が歩いてくる気配がした。
「これ、君の?」
 顔を上げると、カルナコフさんは私の持ってきた花束を拾い上げていた。
「あなたに差し上げるつもりでしたが……汚れてしまったので、私が持ちかえります」
「いや」
 彼は花束に顔を埋めて碧の双眸を閉じる。
「なら僕のだ。もらっていくよ」
 ゆっくりと瞳を開いて、彼はじっと私を見下ろす。
「君、名前は?」
「春日遥花です」
「ハルカ」
 彼に名前を呼んでもらえただけで、私は胸がいっぱいになって思わず微笑んでいた。
「じゃあまた」
「はい。ありがとうございます」
 たぶん二度と会うことはないだろうけれど、私は何年分かの幸せを凝縮したような喜びを感じながら頭を下げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました

鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。 けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。 そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。 シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。 困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。 夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。 そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。 ※他投稿サイトにも掲載中

転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました

桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。 言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。 しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。 ──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。 その一行が、彼の目に留まった。 「この文字を書いたのは、あなたですか?」 美しく、完璧で、どこか現実離れした男。 日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。 最初はただの好奇心だと思っていた。 けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。 彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

王宮地味女官、只者じゃねぇ

宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。 しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!? 王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。 訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ―― さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。 「おら、案内させてもらいますけんの」 その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。 王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」 副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」 ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」 そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」 けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。 王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。 訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る―― これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。 ★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。

十年越しの幼馴染は今や冷徹な国王でした

柴田はつみ
恋愛
侯爵令嬢エラナは、父親の命令で突然、10歳年上の国王アレンと結婚することに。 幼馴染みだったものの、年の差と疎遠だった期間のせいですっかり他人行儀な二人の新婚生活は、どこかギクシャクしていました。エラナは国王の冷たい態度に心を閉ざし、離婚を決意します。 そんなある日、国王と聖女マリアが親密に話している姿を頻繁に目撃したエラナは、二人の関係を不審に思い始めます。 護衛騎士レオナルドの協力を得て真相を突き止めることにしますが、逆に国王からはレオナルドとの仲を疑われてしまい、事態は思わぬ方向に進んでいきます。

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

溺愛ダーリンと逆シークレットベビー

吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。 立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。 優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

処理中です...