10 / 11
10 お姫様
しおりを挟む
翌朝目覚めると、既に兄は家にいなかった。
「九州で会議があるそうなんですよ。それだけはどうしても外せないみたいで。明日の昼にお戻りになるみたいです」
朝食の席で給仕をする家の者に話を聞いた。
「……すみません。下げてください」
家の者に心配をかけたくないとは思いながらも、気分が悪くてほとんど食べられなかった。
「お嬢様!」
席を立って戸口に向かおうとしたところで、視界が真っ暗になった。
私はどうやら倒れたらしく、次に目を開くと隣室の布団に寝かされていた。
すぐに医師が呼ばれて診察を受ける。ここのところあまり食べていなかったことと前日のショックで貧血になったようだった。
「落ち着いて。大したことはありません」
私は点滴を受けながら、慌ただしく出入りする家の者たちをどうしようかと考えていた。
けれど体が酷く重くて制止の声にも力が入らなかった。
熱も上がってきたようだった。意識が朦朧として、どうにも収拾がつかない心地になる。
幼い頃からよく高熱を出した。そのたびに兄がお見舞いに来てくれた。
でも今日は来られないとわかっている。怪我をおしてまでの会議なのだから。
何度も上がっては落ちる意識の中で、私は夢を見ていた。
ぼろぼろのぬいぐるみを抱きしめて、私はどこかの座敷に座っていた。白く横長の台が目の前に置いてあって、その上には小さな袋が乗っていた。
色々な人が部屋を出入りする気配を感じる。けれど私は睨むように小さな袋をみつめたまま動かなかった。
まるで目を逸らしたらそれが消えてしまうかのように、ただその袋を見続けていた。
ふいに視界に入って来た人たちがいた。五十台くらいの大柄な男の人と、十代前半の少年だった。
――君が遥花?
少年に声をかけられたけど、私は黙っていた。少年の父親らしい男の人は、周りの人たちと何か話していた。
ふいに男の人が小さな袋に手を伸ばす。
その瞬間、私はきっと目を尖らせて立ち上がっていた。
「おかあさん」
熱に浮かされて呟いた私は、傍らに誰かが座っていることに気付く。
「かわいそうに、遥花」
額に触れる大きな手と馴染んだ声に、私は目を開く。
「……にいさま?」
枕元に座って、眉を寄せながら私を見下ろしていたのは兄だった。
「どうしてここに。今日は外せない会議だって……」
「遥花より大事な会議なんてない」
まだ朝の光が残る時間だ。途中で引き返してきたのだろうかと、私は言葉を失う。
「起こしてしまったか? すまない」
兄は布を桶の水に浸して絞り、私の額にそれを乗せる。
「にいさま、私のことはいいの。お仕事に行って」
「代理をやっておいた。遥花こそ、兄の心配は要らない」
私がどれだけ勧めても、兄は腰を上げる気配がなかった。
兄は私に熱さましを飲ませたり、手ずから果物をむいてくれたりした。
幼い頃からのいつもの風景に、私は会社の者たちに申し訳ないと思いながらも心を和ませる。
薬が効いて少し落ち着いて来た頃、兄は言葉を落とした。
「遥花。初めて会った時を覚えているか?」
「ええ」
兄と初めて会ったのは、母の葬儀の式場でのことだった。
母の親族がどういうつてを使ってか父を呼んで、兄はそれについて来ていたのだ。
「遥花は親父の手を叩いて怒ったな。「触るな」と」
母の遺骨に触れようとした父に飛びついて、私は叫んだ。
「「小さくなってもはるかのお母さんだ。汚い手で触るな」と親父に怒鳴った」
今思えばずいぶん無謀なことをしたものだ。裏社会の長だった父にそんなことをすれば、どんな目に遭ってもおかしくなかった。
「にいさまが庇ってくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」
五歳の子どもの言葉とはいえ、父はさすがに青筋を立てた。だけどその間に兄が割って入って父を宥めてくれた。
「兄は遥花を、本物のお姫様なのだと思った」
私が目を上げると、兄は眩しいものを見る目で私をみつめていた。
「親父は汚いことや酷いこともした。それを遥花は感じ取って拒絶したんだろう。兄はこの子と半分でも血がつながっていると知って、舞い上がるくらいに嬉しかった」
兄は首を傾けて苦笑する。
「親父と同じで、兄も汚いことや酷いことをする。遥花に嫌われても仕方がないとわかっている」
兄はそっと屈みこんで、額の布ごしに私に口づけた。
「だが遥花を愛しているんだ。……それは、わかってくれ」
私は兄を見上げて口元を歪める。
兄はしばらく私の髪を撫でていた。何か言い淀んでいる気配がした。
「遥花、兄に何か話したいことがあるんじゃないか?」
手を止めずに、彼は穏やかに私を見下ろす。
「それを言ったら兄が怒ると思っているかもしれないが……兄は遥花に怒ったりなんてしない。遥花が望むなら何でも受け入れよう」
きっと兄は、私がレオを好きなことをとっくに気づいている。
「兄に言ってくれ、遥花」
……言うな、遥花。
兄の苦しそうな黒い瞳は、口に出したこととは正反対の言葉を告げている気がした。
私は胸がいっぱいになる。
結局私はただ喉を詰まらせて、何も言葉にすることができなかった。
「九州で会議があるそうなんですよ。それだけはどうしても外せないみたいで。明日の昼にお戻りになるみたいです」
朝食の席で給仕をする家の者に話を聞いた。
「……すみません。下げてください」
家の者に心配をかけたくないとは思いながらも、気分が悪くてほとんど食べられなかった。
「お嬢様!」
席を立って戸口に向かおうとしたところで、視界が真っ暗になった。
私はどうやら倒れたらしく、次に目を開くと隣室の布団に寝かされていた。
すぐに医師が呼ばれて診察を受ける。ここのところあまり食べていなかったことと前日のショックで貧血になったようだった。
「落ち着いて。大したことはありません」
私は点滴を受けながら、慌ただしく出入りする家の者たちをどうしようかと考えていた。
けれど体が酷く重くて制止の声にも力が入らなかった。
熱も上がってきたようだった。意識が朦朧として、どうにも収拾がつかない心地になる。
幼い頃からよく高熱を出した。そのたびに兄がお見舞いに来てくれた。
でも今日は来られないとわかっている。怪我をおしてまでの会議なのだから。
何度も上がっては落ちる意識の中で、私は夢を見ていた。
ぼろぼろのぬいぐるみを抱きしめて、私はどこかの座敷に座っていた。白く横長の台が目の前に置いてあって、その上には小さな袋が乗っていた。
色々な人が部屋を出入りする気配を感じる。けれど私は睨むように小さな袋をみつめたまま動かなかった。
まるで目を逸らしたらそれが消えてしまうかのように、ただその袋を見続けていた。
ふいに視界に入って来た人たちがいた。五十台くらいの大柄な男の人と、十代前半の少年だった。
――君が遥花?
少年に声をかけられたけど、私は黙っていた。少年の父親らしい男の人は、周りの人たちと何か話していた。
ふいに男の人が小さな袋に手を伸ばす。
その瞬間、私はきっと目を尖らせて立ち上がっていた。
「おかあさん」
熱に浮かされて呟いた私は、傍らに誰かが座っていることに気付く。
「かわいそうに、遥花」
額に触れる大きな手と馴染んだ声に、私は目を開く。
「……にいさま?」
枕元に座って、眉を寄せながら私を見下ろしていたのは兄だった。
「どうしてここに。今日は外せない会議だって……」
「遥花より大事な会議なんてない」
まだ朝の光が残る時間だ。途中で引き返してきたのだろうかと、私は言葉を失う。
「起こしてしまったか? すまない」
兄は布を桶の水に浸して絞り、私の額にそれを乗せる。
「にいさま、私のことはいいの。お仕事に行って」
「代理をやっておいた。遥花こそ、兄の心配は要らない」
私がどれだけ勧めても、兄は腰を上げる気配がなかった。
兄は私に熱さましを飲ませたり、手ずから果物をむいてくれたりした。
幼い頃からのいつもの風景に、私は会社の者たちに申し訳ないと思いながらも心を和ませる。
薬が効いて少し落ち着いて来た頃、兄は言葉を落とした。
「遥花。初めて会った時を覚えているか?」
「ええ」
兄と初めて会ったのは、母の葬儀の式場でのことだった。
母の親族がどういうつてを使ってか父を呼んで、兄はそれについて来ていたのだ。
「遥花は親父の手を叩いて怒ったな。「触るな」と」
母の遺骨に触れようとした父に飛びついて、私は叫んだ。
「「小さくなってもはるかのお母さんだ。汚い手で触るな」と親父に怒鳴った」
今思えばずいぶん無謀なことをしたものだ。裏社会の長だった父にそんなことをすれば、どんな目に遭ってもおかしくなかった。
「にいさまが庇ってくれなかったら、どうなっていたかわからないわ」
五歳の子どもの言葉とはいえ、父はさすがに青筋を立てた。だけどその間に兄が割って入って父を宥めてくれた。
「兄は遥花を、本物のお姫様なのだと思った」
私が目を上げると、兄は眩しいものを見る目で私をみつめていた。
「親父は汚いことや酷いこともした。それを遥花は感じ取って拒絶したんだろう。兄はこの子と半分でも血がつながっていると知って、舞い上がるくらいに嬉しかった」
兄は首を傾けて苦笑する。
「親父と同じで、兄も汚いことや酷いことをする。遥花に嫌われても仕方がないとわかっている」
兄はそっと屈みこんで、額の布ごしに私に口づけた。
「だが遥花を愛しているんだ。……それは、わかってくれ」
私は兄を見上げて口元を歪める。
兄はしばらく私の髪を撫でていた。何か言い淀んでいる気配がした。
「遥花、兄に何か話したいことがあるんじゃないか?」
手を止めずに、彼は穏やかに私を見下ろす。
「それを言ったら兄が怒ると思っているかもしれないが……兄は遥花に怒ったりなんてしない。遥花が望むなら何でも受け入れよう」
きっと兄は、私がレオを好きなことをとっくに気づいている。
「兄に言ってくれ、遥花」
……言うな、遥花。
兄の苦しそうな黒い瞳は、口に出したこととは正反対の言葉を告げている気がした。
私は胸がいっぱいになる。
結局私はただ喉を詰まらせて、何も言葉にすることができなかった。
1
あなたにおすすめの小説
行き遅れのお節介令嬢、氷の公爵様と結婚したら三人娘の母になりました
鳥柄ささみ
恋愛
お節介焼きで困っている人を放っておけないシアは、数多のご令嬢達から人気の令嬢だ。毎日ファンレターが届き、社交界に出れば令嬢に取り囲まれるほどである。
けれど、それに反比例するように男性からの人気はなく、二十七だというのに嫁の貰い手もないため、毎日母から小言をもらっていた。
そんなある日のこと、突然公爵家から縁談の話が。
シアは公爵家がなぜ自分に縁談など持ち掛けるのかと訝しく思いつつ話を受けると、なんと公爵の後妻として三人の娘の母代わりになれと言われる。
困惑するも、自分へ縁談を持ちかけた理由を聞いて、お節介なシアは嫁ぐこと決めたのだった。
夫になるレオナルドはイケメンなのに無表情で高圧的。三人の娘も二女のアンナを除いて長女のセレナも三女のフィオナもとても反抗的。
そんな中でもお節介パワーを発揮して、前向きに奮闘するシアの物語。
※他投稿サイトにも掲載中
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
運命の番より真実の愛が欲しい
サトウミ
恋愛
田舎娘のゾーイは龍族の王子・シャウロンの『運命の番』だった。
ロマンチックな恋を夢見るゾーイは『運命の番』であるシャウロンと会えるのを楽しみにしていた。
しかし、シャウロンはゾーイに対して素っ気ない。
運命の番だからといって、必ずしも愛し合う関係だとは限らないらしい。
それを悟ったゾーイは、シャウロンのもとから去ることを決意した。
王宮地味女官、只者じゃねぇ
宵森みなと
恋愛
地味で目立たず、ただ真面目に働く王宮の女官・エミリア。
しかし彼女の正体は――剣術・魔法・語学すべてに長けた首席卒業の才女にして、実はとんでもない美貌と魔性を秘めた、“自覚なしギャップ系”最強女官だった!?
王女付き女官に任命されたその日から、運命が少しずつ動き出す。
訛りだらけのマーレン語で王女に爆笑を起こし、夜会では仮面を外した瞬間、貴族たちを騒然とさせ――
さらには北方マーレン国から訪れた黒髪の第二王子をも、一瞬で虜にしてしまう。
「おら、案内させてもらいますけんの」
その一言が、国を揺らすとは、誰が想像しただろうか。
王女リリアは言う。「エミリアがいなければ、私は生きていけぬ」
副長カイルは焦る。「このまま、他国に連れて行かれてたまるか」
ジークは葛藤する。「自分だけを見てほしいのに、届かない」
そしてレオンハルト王子は心を決める。「妻に望むなら、彼女以外はいない」
けれど――当の本人は今日も地味眼鏡で事務作業中。
王族たちの心を翻弄するのは、無自覚最強の“訛り女官”。
訛って笑いを取り、仮面で魅了し、剣で守る――
これは、彼女の“本当の顔”が王宮を変えていく、壮麗な恋と成長の物語。
★この物語は、「枯れ専モブ令嬢」の5年前のお話です。クラリスが活躍する前で、少し若いイザークとライナルトがちょっと出ます。
十年越しの幼馴染は今や冷徹な国王でした
柴田はつみ
恋愛
侯爵令嬢エラナは、父親の命令で突然、10歳年上の国王アレンと結婚することに。
幼馴染みだったものの、年の差と疎遠だった期間のせいですっかり他人行儀な二人の新婚生活は、どこかギクシャクしていました。エラナは国王の冷たい態度に心を閉ざし、離婚を決意します。
そんなある日、国王と聖女マリアが親密に話している姿を頻繁に目撃したエラナは、二人の関係を不審に思い始めます。
護衛騎士レオナルドの協力を得て真相を突き止めることにしますが、逆に国王からはレオナルドとの仲を疑われてしまい、事態は思わぬ方向に進んでいきます。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる