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幼少期
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第一章:瓦礫の中の宝石
ディディアラの記憶にある最初の世界は、煤けたレンガの壁と、市場の喧騒、そして何よりも優しい母の笑顔で彩られていた。
公爵家という言葉も、そこに渦巻く嫉妬や策謀も、幼い彼女には縁のないことだった。
母は、市街の片隅にある小さな家で、懸命にディディアラを育てていた。
その細い指で刺繍を施し、日銭を稼ぐ母の横顔は、時折ひどく儚げに見えた。それでも、ディディアラに向ける眼差しは、常に陽だまりのような温かさに満ちていた。
「ディディアラ、あなたは私の宝物よ」
それが母の口癖だった。母は、自分がどこから来たのか、なぜここで暮らしているのかを語ることはなかった。ただ、時折、古い装飾が施された指輪を指でなぞりながら、遠い目をして空を見上げることがあった。
その幸せな日々は、ディディアラが5歳になった冬、唐突に終わりを告げる。
母が、乾いた咳を繰り返すようになったのだ。日に日に痩せ細り、ベッドから起き上がれない時間が増えていく。
ディディアラは、小さな手で母の額を冷やし、つたない言葉で励まし続けた。しかし、運命の歯車は止まらない。
ある雪の降る夜、母はか細い声でディディアラを呼んだ。
「ディディアラ…いい子だから、聞いて…もし、お母さんがいなくなっても…きっと、あなたを迎えに来てくれる人がいるわ。その人が来たら、一緒に行くのよ…」
それが、最期の言葉だった。
母の温もりが消えた部屋で、ディディアラは独りになった。世界の色彩がすべて失われ、音のない灰色の時間がただ流れていった。
そんな絶望の淵にいた彼女の前に、一人の老婆が現れたのは、母が亡くなって三日目のことだった。上質な、しかし古びたドレスをまとったその老婆は、自分を母の乳母だったと名乗った。
「お嬢様から、お聞きしておりました。万が一のことがあれば、この子を頼むと…さあ、ディディアラ様。参りましょう。あなたの還るべき場所へ」
乳母はそう言うと、ディディアラの小さな手を優しく握った。その手は、母と同じくらい温かかった。
第二章:冷たい城門
豪華な紋章が刻まれた馬車に揺られ、ディディアラは初めて見る壮麗な景色に息をのんだ。市街の雑然とした風景が嘘のように、整然とした並木道がどこまでも続いている。やがて、天を衝くような城門が見えてきた。
「ここが、あなたのお母様の故郷、アークライト公爵家です」
乳母の言葉に、ディディアラの胸は期待と不安で張り裂けそうだった。母が育った場所。ここに、自分を受け入れてくれる家族がいるのだろうか。
しかし、馬車を降りた二人を出迎えたのは、凍てつくような冷気だった。重厚な扉の前に立つ執事は、ディディアラを汚物でも見るかのような目で見下し、奥の部屋へと案内した。
そこにいたのは、威圧的な雰囲気を持つ一人の男だった。鋭い目つき、固く結ばれた唇。彼が母の兄であり、現アークライト公爵である叔父だと、乳母がディディアラに囁いた。
「…公爵様。お久しゅうございます。お嬢様の忘れ形見、ディディアラ様をお連れいたしました」
乳母が深々と頭を下げる。
しかし、叔父の言葉は氷の刃となって突き刺さった。
「知らんな。家を捨て、家の名を汚した者の娘など、私には関係のないことだ。今すぐその子を連れて立ち去れ」
「お待ちください!」
乳母が声を張り上げた。彼女は懐から、ディディアラの母が肌身離さず持っていた指輪を取り出した。
「妹君は、この公爵家の証である指輪を国王陛下に返納されておりません。つまり、このディディアラ様にも、アークライト公爵家の血は流れ、継承権が存在するのです!」
叔父の眉がぴくりと動いた。指輪とディディアラの顔を忌々しげに見比べ、舌打ちをする。
「…よかろう。だが、条件がある。その娘が18の誕生日を迎えた日、継承権のすべてを放棄し、二度と我らの前に姿を見せないと誓うのであれば、それまでの間、保護してやる」
それは保護という名の、猶予期間だった。乳母は悔しそうに唇を噛みしめ、だが頷くしかなかった。こうして、ディディアラの公爵家での生活が始まった。それは、光の見えない長いトンネルの入り口に立った瞬間だった。
第三章:天使の仮面
叔父がディディアラに与えたのは、北塔の屋根裏にある、陽の当たらない寒い小部屋だった。食事は使用人以下の粗末なもの。誰もが彼女を「家名を汚した女の娘」として、存在しないかのように扱った。
そんなディディアラに、唯一優しく接してくれる人物がいた。叔父の一人娘、ララフィーナだ。
絹のような金色の髪に、空の色を映したような青い瞳。人形のように愛らしい彼女は、ディディアラより一つ年下だった。
「ディディアラお姉様、ようこそ。わたくしはララフィーナ。これから、姉妹ですわね」
初めて会った日、ララフィーナは天使のような笑顔でディディアラの手を取った。その優しさに、ディディアラの凍てついた心は少しだけ溶けていくように感じた。
しかし、その仮面が剥がれるのに、時間はかからなかった。
二人きりになると、ララフィーナの表情は能面のように冷たく変わる。
「汚らわしい。あなたのような人が、わたくしのお姉様なはずがないわ」
ララフィーナの虐待は陰湿を極めた。ディディアラのドレスをわざと汚したり、大切にしていた母の形見の小さな刺繍を隠したり。そして、何か問題が起こると、悲しげな顔で父親である叔父に駆け寄るのだ。
「お父様…ディディアラお姉様が、わたくしのリボンをハサミで切ってしまったのです…」
叔父はディディアラの言い分など聞きもせず、彼女を物置に閉じ込めた。冷たい石の床の上で、ディディアラは独り、膝を抱えて涙を流した。ララフィーナの完璧な令嬢としての評判は、ディディアラの犠牲の上に成り立っていた。
使用人たちは見て見ぬふりをした。乳母だけが、隠れて食事を運び、ディディアラを抱きしめてくれたが、彼女の力も公爵家の中ではあまりに無力だった。
「なぜ、私は家族に愛してもらえないの…」
何度もそう思った。母が恋しかった。あの市街の小さな家が、世界で一番幸せな場所だったと、ディディアラは痛感していた。
心はすり減り、感情は麻痺していく。ただ、生きるために、18歳になる日を待つために、ディディアラは心を殺して日々を耐え忍んだ。
それが、これから始まる更なる地獄の、ほんの序章に過ぎないことも知らずに。
ディディアラの記憶にある最初の世界は、煤けたレンガの壁と、市場の喧騒、そして何よりも優しい母の笑顔で彩られていた。
公爵家という言葉も、そこに渦巻く嫉妬や策謀も、幼い彼女には縁のないことだった。
母は、市街の片隅にある小さな家で、懸命にディディアラを育てていた。
その細い指で刺繍を施し、日銭を稼ぐ母の横顔は、時折ひどく儚げに見えた。それでも、ディディアラに向ける眼差しは、常に陽だまりのような温かさに満ちていた。
「ディディアラ、あなたは私の宝物よ」
それが母の口癖だった。母は、自分がどこから来たのか、なぜここで暮らしているのかを語ることはなかった。ただ、時折、古い装飾が施された指輪を指でなぞりながら、遠い目をして空を見上げることがあった。
その幸せな日々は、ディディアラが5歳になった冬、唐突に終わりを告げる。
母が、乾いた咳を繰り返すようになったのだ。日に日に痩せ細り、ベッドから起き上がれない時間が増えていく。
ディディアラは、小さな手で母の額を冷やし、つたない言葉で励まし続けた。しかし、運命の歯車は止まらない。
ある雪の降る夜、母はか細い声でディディアラを呼んだ。
「ディディアラ…いい子だから、聞いて…もし、お母さんがいなくなっても…きっと、あなたを迎えに来てくれる人がいるわ。その人が来たら、一緒に行くのよ…」
それが、最期の言葉だった。
母の温もりが消えた部屋で、ディディアラは独りになった。世界の色彩がすべて失われ、音のない灰色の時間がただ流れていった。
そんな絶望の淵にいた彼女の前に、一人の老婆が現れたのは、母が亡くなって三日目のことだった。上質な、しかし古びたドレスをまとったその老婆は、自分を母の乳母だったと名乗った。
「お嬢様から、お聞きしておりました。万が一のことがあれば、この子を頼むと…さあ、ディディアラ様。参りましょう。あなたの還るべき場所へ」
乳母はそう言うと、ディディアラの小さな手を優しく握った。その手は、母と同じくらい温かかった。
第二章:冷たい城門
豪華な紋章が刻まれた馬車に揺られ、ディディアラは初めて見る壮麗な景色に息をのんだ。市街の雑然とした風景が嘘のように、整然とした並木道がどこまでも続いている。やがて、天を衝くような城門が見えてきた。
「ここが、あなたのお母様の故郷、アークライト公爵家です」
乳母の言葉に、ディディアラの胸は期待と不安で張り裂けそうだった。母が育った場所。ここに、自分を受け入れてくれる家族がいるのだろうか。
しかし、馬車を降りた二人を出迎えたのは、凍てつくような冷気だった。重厚な扉の前に立つ執事は、ディディアラを汚物でも見るかのような目で見下し、奥の部屋へと案内した。
そこにいたのは、威圧的な雰囲気を持つ一人の男だった。鋭い目つき、固く結ばれた唇。彼が母の兄であり、現アークライト公爵である叔父だと、乳母がディディアラに囁いた。
「…公爵様。お久しゅうございます。お嬢様の忘れ形見、ディディアラ様をお連れいたしました」
乳母が深々と頭を下げる。
しかし、叔父の言葉は氷の刃となって突き刺さった。
「知らんな。家を捨て、家の名を汚した者の娘など、私には関係のないことだ。今すぐその子を連れて立ち去れ」
「お待ちください!」
乳母が声を張り上げた。彼女は懐から、ディディアラの母が肌身離さず持っていた指輪を取り出した。
「妹君は、この公爵家の証である指輪を国王陛下に返納されておりません。つまり、このディディアラ様にも、アークライト公爵家の血は流れ、継承権が存在するのです!」
叔父の眉がぴくりと動いた。指輪とディディアラの顔を忌々しげに見比べ、舌打ちをする。
「…よかろう。だが、条件がある。その娘が18の誕生日を迎えた日、継承権のすべてを放棄し、二度と我らの前に姿を見せないと誓うのであれば、それまでの間、保護してやる」
それは保護という名の、猶予期間だった。乳母は悔しそうに唇を噛みしめ、だが頷くしかなかった。こうして、ディディアラの公爵家での生活が始まった。それは、光の見えない長いトンネルの入り口に立った瞬間だった。
第三章:天使の仮面
叔父がディディアラに与えたのは、北塔の屋根裏にある、陽の当たらない寒い小部屋だった。食事は使用人以下の粗末なもの。誰もが彼女を「家名を汚した女の娘」として、存在しないかのように扱った。
そんなディディアラに、唯一優しく接してくれる人物がいた。叔父の一人娘、ララフィーナだ。
絹のような金色の髪に、空の色を映したような青い瞳。人形のように愛らしい彼女は、ディディアラより一つ年下だった。
「ディディアラお姉様、ようこそ。わたくしはララフィーナ。これから、姉妹ですわね」
初めて会った日、ララフィーナは天使のような笑顔でディディアラの手を取った。その優しさに、ディディアラの凍てついた心は少しだけ溶けていくように感じた。
しかし、その仮面が剥がれるのに、時間はかからなかった。
二人きりになると、ララフィーナの表情は能面のように冷たく変わる。
「汚らわしい。あなたのような人が、わたくしのお姉様なはずがないわ」
ララフィーナの虐待は陰湿を極めた。ディディアラのドレスをわざと汚したり、大切にしていた母の形見の小さな刺繍を隠したり。そして、何か問題が起こると、悲しげな顔で父親である叔父に駆け寄るのだ。
「お父様…ディディアラお姉様が、わたくしのリボンをハサミで切ってしまったのです…」
叔父はディディアラの言い分など聞きもせず、彼女を物置に閉じ込めた。冷たい石の床の上で、ディディアラは独り、膝を抱えて涙を流した。ララフィーナの完璧な令嬢としての評判は、ディディアラの犠牲の上に成り立っていた。
使用人たちは見て見ぬふりをした。乳母だけが、隠れて食事を運び、ディディアラを抱きしめてくれたが、彼女の力も公爵家の中ではあまりに無力だった。
「なぜ、私は家族に愛してもらえないの…」
何度もそう思った。母が恋しかった。あの市街の小さな家が、世界で一番幸せな場所だったと、ディディアラは痛感していた。
心はすり減り、感情は麻痺していく。ただ、生きるために、18歳になる日を待つために、ディディアラは心を殺して日々を耐え忍んだ。
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