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クララ、お逸の容態を心配するのこと
ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第44回 クララ、お逸の容態を心配するのこと
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今回分は、父の勤め先である商法講習所のトラブル、福沢諭吉の日常の一コマ、そしてお逸の急病の話がメインとなります。
明治11年3月20日 水曜日
東京府が私たちの家のひどくいたんだ畳を替えてくれるというので、家の中をすっかり片付けた。
ところが、畳屋が来て寸法を取り、畳表を剥がしてしまった後のこと。
商法講習所長の矢野二郎氏が突然やって来て云った。
「この家には新しい畳を入れるわけにはいかない。元のように畳表を縫いつけるように」
呆然とする私たちを尻目に「ああ、それから」と、矢野は簡単な口調で更に衝撃的な台詞を吐いた。
「このたび我が商法講習はマイヤーズ氏を講師に迎えることになりましたから」
「……マイヤーズ氏?」
少し沈思してから、私はようやくあの間抜けの通風病みの太った水ぶくれしたような男を思い出す。
およそ無愛想で、横浜幼稚園からも開成学校からも追い出された人物なのだ。
それでもこの男は……矢野の友人なのだ。
ああ、私たちの悩みはいつ尽きるのであろう?
親切な日本のお友達もこればかりはどうしようもない。
「どうか神様が助けて下さいますように」
私はいつも祈っている。
サットン家の娘さんたちが、アディと私を午後のパーティーに招待してくれていたので、重い心を抱いて私は出かけた。
小さい子供のパーティーで、ガシーとハワードが来るまでは、アメリカ人はアディと私だけだった。
いろんな子供っぽいゲームが行われて、私はまったく気乗りがしなかったけれど、つとめて機嫌よくした。
しかしサットン氏が鬼の時だけは、太っているのにとても動きが早いので、私も素早く動き回らなければならなかった。
彼はしょっちゅう、冗談を飛ばして私たちを笑わせた。
サットン夫人も子供のようにはしゃいでゲームに参加した。
小さい日本人の子供が四人いたが、そのうちの一人、伊藤さんの息子と私は仲良しになった。
彼は年齢、名前、住所などを教えてくれて、お姉様たちのことも説明し、遊びに来て下さいと云った。
ガシーとド・ボワンヴィル夫人と私で小さい丸いテーブルを占領していたけれど、サットン氏がそこに来て冗談を云って笑わせるので、殆ど何も食べられなかった。
でもガシーが来てくれて、助かった。私たち二人は特別扱いだった。
雨降りの上に風邪もひいているので早めに失礼し、ガシーと私が一台の人力車に乗り、ハワードとアディが次の人力車に乗って日本橋まで一緒に行った。
その人力車の中、ガシーはぽつりと姉の症状を漏らした。
「……ジェニーはどうやら回復することはないみたい」
「!」
可哀想に。
明治11年3月23日 土曜日
畳替えはもう諦めて、家の中を整頓した。
ある意味、客間はとても綺麗になった。
「ユウメイのところへ遊びに行って来なさい」
食後、学校の心配と、矢野の意地悪に気が滅入っている母が私に云った。
でも出かける前に松平家の人力車が新しい女中を乗せて来た。二十二歳で京都の人だという感じのよい子だ。
杉田夫人が盛と六蔵とイノコを連れて訪ねて来られた。
ユウメイと私はジェニーを見舞いに加賀屋敷に出かけた。
ガシーは大喜びで、ジェニーも嬉しそうだった。
可哀想に、一月十二日以来床について治る見込みもないのだ。
ライマン氏とスミス氏が入って来られて、話が難しくなったので私たちは失礼した。
明治11年3月25日 月曜日
何故だかアディと私は今日が母の誕生日だと勘違いしてしまっていた。
銀メッキのテーブル用のベルを買ってプレゼントにするつもりが、本当は4月25日だったのだ。
「一年に二度誕生日があるのはずるい!」
どうにもピントがズレたことをアディは云ったけれど、とにかくベルは母にあげて、間違いの誕生祝いと云うことにした。
おやおさんは風邪が悪化して、気分が悪そうだった。
今日は向かい側の電信中央局の開業祝い。
旗や提灯や常緑樹のアーチで綺麗に飾られているので、お逸は四時まで残っていた。
「兄様! ちょっとお待ちになって」
いつものように三時に小鹿さんが我が家の前を通りかかかったのをお逸は呼び止めた。
「開業祝いに私たちを連れて行って欲しいんだけど?」
お逸のお願いにまず小鹿さんは自分一人で偵察に行ってみると告げ、ほんの数分後に戻ってきて報告した。
「行っても、どうせ中には入れないので見に行く価値なし」
それにしても、小鹿さんは以前の威勢の良さは何処やらに行ってしまったようだ。
最近はいつもはにかんだり、もじもじしたりしている。
お逸はそんな「兄様」をからかうのが好きで、わざと彼を居心地悪くするのだ。
向かいの建物の前で消防隊の軽業があった。
橋の上から纏いを担いで駆け下りて来て、六人が一組になって次々に梯子に上り、見事な軽業的作業をして見せてくれた。
でも、一人が落ちて鼻をぶっつけ、卒倒した。
その後、この間上野で心中があった話をお逸に聞いた。
女は若くて綺麗な人だったそうだ。
「兄様、クララにも詳しく分かるように英語で説明してよ」
妹のそんな「おねだり」に小鹿さんは本当に困った様子を見せた。
それはそうだろう。
男女の心中の話の詳細を、妹の前で、妹の親友の年頃の“女の子”の前で、しかも英語で喋らされるなんて、一種の拷問だ。
小鹿さんが適当(としか思えない)理由をつけて帰った後もお逸は残って、恋人たちの話――彼らの運命――を聞かせてくれた。
私はこんなお逸が大好きだ!
……だから、母が最近日本を離れる話をすると悲しくなる。
松平家からの紹介でやってきた新しい女中のチヨは行儀のよい子で、京都弁が面白いが分かりにくい。
お逸でもチヨの云うことはなかなか分からないし、笠原も分からない。
チヨが云うには、東京弁よりずっと楽だという。
東京では私のことを「お嬢様」と云うけれど、京都では「お姫様」という。
水とは絶対に云わない。「お冷や」という。
早く京都弁を習いたいと思う。
明治11年3月27日 水曜日
おやおさんは今朝はみえなかった。
体調が依然芳しくないようだ。
私はビンガム夫人のところへ、勉強のすすんだお逸を連れて行った。
良いお天気で二人とも上機嫌だった。
ビンガム夫人はお逸に私たちの家族を褒めて下さった。
私は『バザー』をお返しして、夫人から『パーパーズ・ウィークリー』や『アトランティック・マンスリー』を何冊か拝借した。
母の作ったスリッパを差し上げたら、大変喜ばれた。親切なことのみならず、おいしいものを一杯頂いて退出した。
ビンガム公使もお逸を丁重に扱われた。
でも、ヒューイットの店に寄って砂糖を買い、隣の薬屋に行きかけた時だ、その異変が起こったのは。
「……うぅっ」
そんな呻き声と共に、顔を真っ青にしたお逸が胸を抑え、薬屋の入口のところで蹲った。
「ちょ、ちょっと大丈夫、お逸!?」
慌てて駆け寄った私は、近くにいた車夫を呼んで、お逸を人力車に運び込んだ。
彼女は一緒に乗り込んだ私の肩に頭を乗せ、しがみついてきた。
私は片手で私たちの膝の上の植木鉢をしっかりと押さえていた。
お逸はとても苦しそうで、見ていられなかった。
顔は真っ青になって、頬の赤味がすっかり消えてしまっている。
家に着くとお逸は自分の人力車に乗り換えて急いで帰宅した。
私もすぐ後を追ったのだけれど、追いつかなかったので帰って来ざるを得なかった。
明治11年3月28日 木曜日
お逸のことが心配で心配で、私は朝からお見舞いに行く支度をした。
ことに杉田先生が呼ばれたと聞いたので気にかかった。
十時頃に屋敷に着いたけれど、正門は修理中で裏門から入った。
勝夫人が私を迎えて下さって、すぐお逸の部屋に案内して下さった。
お逸は床の上の布団に寝て、二人のお姉様――引田孝子さんと内田ゆめさん――がマッサージをしておられた。
「来てくれてありがと、クララ……」
お逸は苦しい中から明るい歓迎の表情を見せた。
頬は少し赤味を取り戻し、髪は邪魔にならぬよう上に巻き上げてあった。
けれども痛みがさすと、あまりに悲しげな顔で私の方を見るので、私は涙を抑えることができなかった。
何かお手伝いをしたかったが、何も出来ないで帰ってきた。
ウィリイが夕方に様子を見に行ったけれど、お逸の症状はよくなっていなかった。
杉田先生と金沢先生両方が呼ばれたということだった。
痛みが段々下の方に広がっているのだそうで、おやおさんも同じ病気なのだ。
明治11年3月29日 金曜日
晩のお客様をお迎えする支度で一日中忙しかったのだけれど、支度にかかる前にお逸のお見舞いに行った。
昨晩ウィリイが行った時、まだひどく悪い症状だった。
今日は大分よくなっていたけれど、治りかけはいらいらするものだ。
私は床のそばに坐ってお逸の熱い手を握った。
短い訪問のあと急いで帰宅し、出来るだけ母の手伝いをした。
お客様のみえる六時までには、すっかり準備が出来上がった。
村田夫人も綺麗だったけれど、川路夫人の美しかったこと。
あの年齢の方としては本当に吃驚する美しさだ。
村田夫人はずっと私のそばについておられて、一度は本当にキスされた。
日本人は絶対にキスなんかしないのに! 一体、誰に教わったのだろう?
「是非遊びに来ていらしてね。あと写真を差し上げますので貰って貰えると嬉しいです」
村田氏はそんな奥様の様子に大変ご機嫌で、寛いだご様子だった。
明治11年4月1日 月曜日
お昼に横浜に用事があって出かけた。
けれど急いで回ったので、あまり面白くなかった。
横浜の品物がすっかり減ってしまっていたし、あっても値段が高くて買えなかった。
例えば革手袋。私のサイズは六なのに七か八しかなかった。
私たちはサットン氏と一緒に行ったのだけれど、ひたすら自慢話を聞かされた。
海軍兵学校でのご自分の地位がとても高いこと、みんなご自分の支配下にあり大臣といえども自分に命令することはできないのだということ等々。
それから「日本人は自惚れが強い」と盛んに仰ったけれど、私たちから見ると、自惚れが強いのは日本人ばかりではないようだ。
露西亜とトルコの戦争は終わったものの、ロシアは近くイギリスに宣戦を布告するらしい。
サットン氏はそうなることを願っている。
この前のロシアとの戦争に参加した経験があり、明日にも義勇兵として参加すると云った。
ロシア人が大嫌いなのだ。
「連中など地球の表面から消し去りたい、抹殺したいくらいだ」
サットン氏によれば、トルコ人は大人しい優しい怠け者で、残酷ではないけれど、ロシア人は残酷で野蛮で、日本人ほどの教養がないという。
とにかく大風呂敷を広げたがるのはイギリス人だ。
明治11年4月4日 木曜 万愚節
十時に家を出て、まずお逸のところへ病気全快祝いを云いに行った。
私は歓迎され「ゆっくりしていくように」と云われた。
次に福沢先生の所へアルバムに書いて頂くために行った。
彼は上機嫌で部屋に入って来られるなり、あらゆるお世辞を一気に並び立てられた。
でも私の願いに対しては、意地悪っぽく、やんわり断られた。
「困りましたね、私は字は書けないのですよ。この辺に書の上手な人なら一杯いますよ。誰か呼んできましょうか?」
「いえ、私は先生の書が欲しいのです」
「それでは何か上手い文章を印刷してあげましょう」
「そうじゃありません、私は先生に書いて欲しいのです」
それでやっと笑いながら福沢先生は降参された。
けれど、他の人の書も書いてある私のアルバムを見ると「本当に困り果てた」という様子になり「どうしても書けませんね」と云われた。
特に勝氏の書かれた歌を見て嘆息され、有名な大先生も本当に困っておられた。
「私の字は大下手で、本当にこの方たちと一緒のところに書くことなんて出来ませんよ」
もっとも先生の言葉はみんな冗談なのだ。
そのあと私は大鳥家へ行った。
けれど、病人があったりして、淋しそうで、不景気だった。
お雛さんは五月十五日に結婚なさるそうだ。
けれど、ちっとも嬉しそうではなく、立派な家柄を有り難く思わない様子だった。
【クララの明治日記 超訳版解説第44回】
「病に苦しむ美少女たる親友を、心の底から心配するアメリカ人少女。なんて美味しいシチュエーションなんだろう♪」
「その病で苦しむ少女の趣味が“実の兄をからかって遊ぶ”ってものでなければ、もっと共感も得られるでしょうし、同情もされるでしょうに」
「チッチッチッ、分かってないなー、メイは。
普段活発な少女が、病になった時に親友にだけ垣間見せる弱気なところ、っていうギャップが萌えるんじゃない♪」
「……わたくしには理解できない世界ですので、勝手に進めますわよ。
といっても、今週は特に解説すべき点も……いえ、貴女のお兄様のエピソードに隠れてしまいそうですけれど、3月25日が電信中央局が開設された日で、この祝賀会が開かれた工部大学校――大鳥圭介氏の所管ですわね――では、学生が電池五十個を使ってアーク灯に点火して見せた、という記録が残っていますわね。これが日本の電気灯の始まり、と云われています。
貴女にせよ、クララにせよ、後世に記録される場に何度も立ち会っておきながら、歴史的意義を全然理解していませんわね、本当に!」
「後出しの後世の視点で勝手にそんなことを云われても、ねぇ?
クララにせよ、後年日本人の誰もが卒業式で歌うことになることを予期して『蛍の光』の原曲を、日本を去る外国人たちとの別れの場で必ず演奏していた訳じゃないんだし」
「それについては貴女と、貴女の未来の旦那様が主犯でしょうが! その話はまたいずれ致しますけれど。
あと今回分の最後はクララと福沢氏のちょっとした一コマですけれども……一般には知られていない、随分“人間くさい”エピソードですわね」
「……やっぱりこの人、むかつくよね。
この頃はまだ素直にうちの父様の歌を褒めていたのに、ちょっと借金を断ったら人格攻撃に移るなんて。ああ、そうだ、日記の時期的にはもうそろそろ父様に借金を申し込んでくる頃だよね(怒)」
「……お逸の“私憤”は置いておくとしても。
福沢氏、人間くさいエピソードですけれども、人によっては不快に思われるかも知れませんわね。取りようだとは思いますけれど。
現にクララも“もっとも先生の言葉はみんな冗談なのだ”と書いていますけれど、これは肯定的な評価でしょうし、他の日記の記述からして、クララは福沢氏を非常に尊敬していたことが読み取れますわ」
「……ま、仕方ないよね、この頃はまだ父様と喧嘩していないし」
「この数年後、本格的に福沢氏が勝氏を攻撃するようになった時、二人を尊敬していたクララはどんな風に思ったのでしょうね? 日記にそこまで綴られていないのは残念ですけれども」
明治11年3月20日 水曜日
東京府が私たちの家のひどくいたんだ畳を替えてくれるというので、家の中をすっかり片付けた。
ところが、畳屋が来て寸法を取り、畳表を剥がしてしまった後のこと。
商法講習所長の矢野二郎氏が突然やって来て云った。
「この家には新しい畳を入れるわけにはいかない。元のように畳表を縫いつけるように」
呆然とする私たちを尻目に「ああ、それから」と、矢野は簡単な口調で更に衝撃的な台詞を吐いた。
「このたび我が商法講習はマイヤーズ氏を講師に迎えることになりましたから」
「……マイヤーズ氏?」
少し沈思してから、私はようやくあの間抜けの通風病みの太った水ぶくれしたような男を思い出す。
およそ無愛想で、横浜幼稚園からも開成学校からも追い出された人物なのだ。
それでもこの男は……矢野の友人なのだ。
ああ、私たちの悩みはいつ尽きるのであろう?
親切な日本のお友達もこればかりはどうしようもない。
「どうか神様が助けて下さいますように」
私はいつも祈っている。
サットン家の娘さんたちが、アディと私を午後のパーティーに招待してくれていたので、重い心を抱いて私は出かけた。
小さい子供のパーティーで、ガシーとハワードが来るまでは、アメリカ人はアディと私だけだった。
いろんな子供っぽいゲームが行われて、私はまったく気乗りがしなかったけれど、つとめて機嫌よくした。
しかしサットン氏が鬼の時だけは、太っているのにとても動きが早いので、私も素早く動き回らなければならなかった。
彼はしょっちゅう、冗談を飛ばして私たちを笑わせた。
サットン夫人も子供のようにはしゃいでゲームに参加した。
小さい日本人の子供が四人いたが、そのうちの一人、伊藤さんの息子と私は仲良しになった。
彼は年齢、名前、住所などを教えてくれて、お姉様たちのことも説明し、遊びに来て下さいと云った。
ガシーとド・ボワンヴィル夫人と私で小さい丸いテーブルを占領していたけれど、サットン氏がそこに来て冗談を云って笑わせるので、殆ど何も食べられなかった。
でもガシーが来てくれて、助かった。私たち二人は特別扱いだった。
雨降りの上に風邪もひいているので早めに失礼し、ガシーと私が一台の人力車に乗り、ハワードとアディが次の人力車に乗って日本橋まで一緒に行った。
その人力車の中、ガシーはぽつりと姉の症状を漏らした。
「……ジェニーはどうやら回復することはないみたい」
「!」
可哀想に。
明治11年3月23日 土曜日
畳替えはもう諦めて、家の中を整頓した。
ある意味、客間はとても綺麗になった。
「ユウメイのところへ遊びに行って来なさい」
食後、学校の心配と、矢野の意地悪に気が滅入っている母が私に云った。
でも出かける前に松平家の人力車が新しい女中を乗せて来た。二十二歳で京都の人だという感じのよい子だ。
杉田夫人が盛と六蔵とイノコを連れて訪ねて来られた。
ユウメイと私はジェニーを見舞いに加賀屋敷に出かけた。
ガシーは大喜びで、ジェニーも嬉しそうだった。
可哀想に、一月十二日以来床について治る見込みもないのだ。
ライマン氏とスミス氏が入って来られて、話が難しくなったので私たちは失礼した。
明治11年3月25日 月曜日
何故だかアディと私は今日が母の誕生日だと勘違いしてしまっていた。
銀メッキのテーブル用のベルを買ってプレゼントにするつもりが、本当は4月25日だったのだ。
「一年に二度誕生日があるのはずるい!」
どうにもピントがズレたことをアディは云ったけれど、とにかくベルは母にあげて、間違いの誕生祝いと云うことにした。
おやおさんは風邪が悪化して、気分が悪そうだった。
今日は向かい側の電信中央局の開業祝い。
旗や提灯や常緑樹のアーチで綺麗に飾られているので、お逸は四時まで残っていた。
「兄様! ちょっとお待ちになって」
いつものように三時に小鹿さんが我が家の前を通りかかかったのをお逸は呼び止めた。
「開業祝いに私たちを連れて行って欲しいんだけど?」
お逸のお願いにまず小鹿さんは自分一人で偵察に行ってみると告げ、ほんの数分後に戻ってきて報告した。
「行っても、どうせ中には入れないので見に行く価値なし」
それにしても、小鹿さんは以前の威勢の良さは何処やらに行ってしまったようだ。
最近はいつもはにかんだり、もじもじしたりしている。
お逸はそんな「兄様」をからかうのが好きで、わざと彼を居心地悪くするのだ。
向かいの建物の前で消防隊の軽業があった。
橋の上から纏いを担いで駆け下りて来て、六人が一組になって次々に梯子に上り、見事な軽業的作業をして見せてくれた。
でも、一人が落ちて鼻をぶっつけ、卒倒した。
その後、この間上野で心中があった話をお逸に聞いた。
女は若くて綺麗な人だったそうだ。
「兄様、クララにも詳しく分かるように英語で説明してよ」
妹のそんな「おねだり」に小鹿さんは本当に困った様子を見せた。
それはそうだろう。
男女の心中の話の詳細を、妹の前で、妹の親友の年頃の“女の子”の前で、しかも英語で喋らされるなんて、一種の拷問だ。
小鹿さんが適当(としか思えない)理由をつけて帰った後もお逸は残って、恋人たちの話――彼らの運命――を聞かせてくれた。
私はこんなお逸が大好きだ!
……だから、母が最近日本を離れる話をすると悲しくなる。
松平家からの紹介でやってきた新しい女中のチヨは行儀のよい子で、京都弁が面白いが分かりにくい。
お逸でもチヨの云うことはなかなか分からないし、笠原も分からない。
チヨが云うには、東京弁よりずっと楽だという。
東京では私のことを「お嬢様」と云うけれど、京都では「お姫様」という。
水とは絶対に云わない。「お冷や」という。
早く京都弁を習いたいと思う。
明治11年3月27日 水曜日
おやおさんは今朝はみえなかった。
体調が依然芳しくないようだ。
私はビンガム夫人のところへ、勉強のすすんだお逸を連れて行った。
良いお天気で二人とも上機嫌だった。
ビンガム夫人はお逸に私たちの家族を褒めて下さった。
私は『バザー』をお返しして、夫人から『パーパーズ・ウィークリー』や『アトランティック・マンスリー』を何冊か拝借した。
母の作ったスリッパを差し上げたら、大変喜ばれた。親切なことのみならず、おいしいものを一杯頂いて退出した。
ビンガム公使もお逸を丁重に扱われた。
でも、ヒューイットの店に寄って砂糖を買い、隣の薬屋に行きかけた時だ、その異変が起こったのは。
「……うぅっ」
そんな呻き声と共に、顔を真っ青にしたお逸が胸を抑え、薬屋の入口のところで蹲った。
「ちょ、ちょっと大丈夫、お逸!?」
慌てて駆け寄った私は、近くにいた車夫を呼んで、お逸を人力車に運び込んだ。
彼女は一緒に乗り込んだ私の肩に頭を乗せ、しがみついてきた。
私は片手で私たちの膝の上の植木鉢をしっかりと押さえていた。
お逸はとても苦しそうで、見ていられなかった。
顔は真っ青になって、頬の赤味がすっかり消えてしまっている。
家に着くとお逸は自分の人力車に乗り換えて急いで帰宅した。
私もすぐ後を追ったのだけれど、追いつかなかったので帰って来ざるを得なかった。
明治11年3月28日 木曜日
お逸のことが心配で心配で、私は朝からお見舞いに行く支度をした。
ことに杉田先生が呼ばれたと聞いたので気にかかった。
十時頃に屋敷に着いたけれど、正門は修理中で裏門から入った。
勝夫人が私を迎えて下さって、すぐお逸の部屋に案内して下さった。
お逸は床の上の布団に寝て、二人のお姉様――引田孝子さんと内田ゆめさん――がマッサージをしておられた。
「来てくれてありがと、クララ……」
お逸は苦しい中から明るい歓迎の表情を見せた。
頬は少し赤味を取り戻し、髪は邪魔にならぬよう上に巻き上げてあった。
けれども痛みがさすと、あまりに悲しげな顔で私の方を見るので、私は涙を抑えることができなかった。
何かお手伝いをしたかったが、何も出来ないで帰ってきた。
ウィリイが夕方に様子を見に行ったけれど、お逸の症状はよくなっていなかった。
杉田先生と金沢先生両方が呼ばれたということだった。
痛みが段々下の方に広がっているのだそうで、おやおさんも同じ病気なのだ。
明治11年3月29日 金曜日
晩のお客様をお迎えする支度で一日中忙しかったのだけれど、支度にかかる前にお逸のお見舞いに行った。
昨晩ウィリイが行った時、まだひどく悪い症状だった。
今日は大分よくなっていたけれど、治りかけはいらいらするものだ。
私は床のそばに坐ってお逸の熱い手を握った。
短い訪問のあと急いで帰宅し、出来るだけ母の手伝いをした。
お客様のみえる六時までには、すっかり準備が出来上がった。
村田夫人も綺麗だったけれど、川路夫人の美しかったこと。
あの年齢の方としては本当に吃驚する美しさだ。
村田夫人はずっと私のそばについておられて、一度は本当にキスされた。
日本人は絶対にキスなんかしないのに! 一体、誰に教わったのだろう?
「是非遊びに来ていらしてね。あと写真を差し上げますので貰って貰えると嬉しいです」
村田氏はそんな奥様の様子に大変ご機嫌で、寛いだご様子だった。
明治11年4月1日 月曜日
お昼に横浜に用事があって出かけた。
けれど急いで回ったので、あまり面白くなかった。
横浜の品物がすっかり減ってしまっていたし、あっても値段が高くて買えなかった。
例えば革手袋。私のサイズは六なのに七か八しかなかった。
私たちはサットン氏と一緒に行ったのだけれど、ひたすら自慢話を聞かされた。
海軍兵学校でのご自分の地位がとても高いこと、みんなご自分の支配下にあり大臣といえども自分に命令することはできないのだということ等々。
それから「日本人は自惚れが強い」と盛んに仰ったけれど、私たちから見ると、自惚れが強いのは日本人ばかりではないようだ。
露西亜とトルコの戦争は終わったものの、ロシアは近くイギリスに宣戦を布告するらしい。
サットン氏はそうなることを願っている。
この前のロシアとの戦争に参加した経験があり、明日にも義勇兵として参加すると云った。
ロシア人が大嫌いなのだ。
「連中など地球の表面から消し去りたい、抹殺したいくらいだ」
サットン氏によれば、トルコ人は大人しい優しい怠け者で、残酷ではないけれど、ロシア人は残酷で野蛮で、日本人ほどの教養がないという。
とにかく大風呂敷を広げたがるのはイギリス人だ。
明治11年4月4日 木曜 万愚節
十時に家を出て、まずお逸のところへ病気全快祝いを云いに行った。
私は歓迎され「ゆっくりしていくように」と云われた。
次に福沢先生の所へアルバムに書いて頂くために行った。
彼は上機嫌で部屋に入って来られるなり、あらゆるお世辞を一気に並び立てられた。
でも私の願いに対しては、意地悪っぽく、やんわり断られた。
「困りましたね、私は字は書けないのですよ。この辺に書の上手な人なら一杯いますよ。誰か呼んできましょうか?」
「いえ、私は先生の書が欲しいのです」
「それでは何か上手い文章を印刷してあげましょう」
「そうじゃありません、私は先生に書いて欲しいのです」
それでやっと笑いながら福沢先生は降参された。
けれど、他の人の書も書いてある私のアルバムを見ると「本当に困り果てた」という様子になり「どうしても書けませんね」と云われた。
特に勝氏の書かれた歌を見て嘆息され、有名な大先生も本当に困っておられた。
「私の字は大下手で、本当にこの方たちと一緒のところに書くことなんて出来ませんよ」
もっとも先生の言葉はみんな冗談なのだ。
そのあと私は大鳥家へ行った。
けれど、病人があったりして、淋しそうで、不景気だった。
お雛さんは五月十五日に結婚なさるそうだ。
けれど、ちっとも嬉しそうではなく、立派な家柄を有り難く思わない様子だった。
【クララの明治日記 超訳版解説第44回】
「病に苦しむ美少女たる親友を、心の底から心配するアメリカ人少女。なんて美味しいシチュエーションなんだろう♪」
「その病で苦しむ少女の趣味が“実の兄をからかって遊ぶ”ってものでなければ、もっと共感も得られるでしょうし、同情もされるでしょうに」
「チッチッチッ、分かってないなー、メイは。
普段活発な少女が、病になった時に親友にだけ垣間見せる弱気なところ、っていうギャップが萌えるんじゃない♪」
「……わたくしには理解できない世界ですので、勝手に進めますわよ。
といっても、今週は特に解説すべき点も……いえ、貴女のお兄様のエピソードに隠れてしまいそうですけれど、3月25日が電信中央局が開設された日で、この祝賀会が開かれた工部大学校――大鳥圭介氏の所管ですわね――では、学生が電池五十個を使ってアーク灯に点火して見せた、という記録が残っていますわね。これが日本の電気灯の始まり、と云われています。
貴女にせよ、クララにせよ、後世に記録される場に何度も立ち会っておきながら、歴史的意義を全然理解していませんわね、本当に!」
「後出しの後世の視点で勝手にそんなことを云われても、ねぇ?
クララにせよ、後年日本人の誰もが卒業式で歌うことになることを予期して『蛍の光』の原曲を、日本を去る外国人たちとの別れの場で必ず演奏していた訳じゃないんだし」
「それについては貴女と、貴女の未来の旦那様が主犯でしょうが! その話はまたいずれ致しますけれど。
あと今回分の最後はクララと福沢氏のちょっとした一コマですけれども……一般には知られていない、随分“人間くさい”エピソードですわね」
「……やっぱりこの人、むかつくよね。
この頃はまだ素直にうちの父様の歌を褒めていたのに、ちょっと借金を断ったら人格攻撃に移るなんて。ああ、そうだ、日記の時期的にはもうそろそろ父様に借金を申し込んでくる頃だよね(怒)」
「……お逸の“私憤”は置いておくとしても。
福沢氏、人間くさいエピソードですけれども、人によっては不快に思われるかも知れませんわね。取りようだとは思いますけれど。
現にクララも“もっとも先生の言葉はみんな冗談なのだ”と書いていますけれど、これは肯定的な評価でしょうし、他の日記の記述からして、クララは福沢氏を非常に尊敬していたことが読み取れますわ」
「……ま、仕方ないよね、この頃はまだ父様と喧嘩していないし」
「この数年後、本格的に福沢氏が勝氏を攻撃するようになった時、二人を尊敬していたクララはどんな風に思ったのでしょうね? 日記にそこまで綴られていないのは残念ですけれども」
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真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
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「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
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