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クララ、日本に別れを告げるのこと
ラノベ風に明治文明開化事情を読もう-クララの明治日記 超訳版第110回 クララ、日本に別れを告げるのこと
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明治13年1月22日 木曜
勝夫人に今日木下川の将軍の梅屋敷にいっしょにと言われたが、お逸がひどい風邪をひいたので中止になった。
昨晩は雨が降ったがアンザス氏の家へタ食に行った。グレイ夫妻も来た。
ペイトン氏とアレグザンダー氏がバイオリンを持ってあとから来てダンスをしようとした。
だが私たちは一日中荷造りをしていたのでひどく疲れていたし、この人たちとはそれほど親しくはないので結局お流れにたった。
私はダンスを知らなくてよかったと思う。
本当に馬鹿げたものだと思う。
アンガス氏は素敵な色つき写真を二十枚ほど下さった。
マーシャル夫人と夕食に出かけたが、そのあとディクソン氏の送別会があるのでYMCAにもご一緒した。
ディクソン氏が挨拶をし、ジュエット氏が答礼した。
彼はディクソン氏の後任として会長になることになっている。
私たちはみな家まで歩いて帰ったが、とても楽しかった。
ディクソン氏は生徒から受けとった珍妙な千紙についで話した。
日本語を直訳したのだ。
『名誉先生、あなたが目の前にぶらさかっている愛する家族のもとに帰られると聞き大変残念です』
出発の時が段々近づいでいる。
明治13年1月23日 金曜
お別れの挨拶をするために朝早く家を出発、全部回った。
森氏の家では老婦人に別れを告げ、永田町にある楠本家に行く。
楠本氏は在宅で、母堂に丁重に挨拶された。美しい老婦人である。
楠本議官は府知事を辞められ、暇ができたので、ヨーロッパやアメリカにそのうち行きたいとおっしゃったりして、とても楽しい時を過ごした。
三浦夫人は不在でご主人にお目にかかっただけで、麻布本村町の津田家へ急ぎ奥様とお話をした。
だが一番胸を打たれたのは麻布永坂町にある杉田家で、お祖母様やおよしさん、杉田夫人と火鉢を囲んでしたお話だった。
「もう二度と会えないかもしれませんけれど、魂はあなたちとともにあります。
この世で会えなくとも、天国できっと会えるでしょう。
もう別れることもなく同じ言葉をしゃべり、いつも一緒にいられる天国であなたがたをお探しましょう」
夫人はそう云われた。
本当にもうここでは二度と会えないことだろう。
明治13年1月24日 土曜
昨晩は家で寝たが、布団が足りないので勝夫人がたくさん貸してくださった。
母はウォデル氏の家での祈祷会に行ったが、私は勝家に残った。
明日発つというので私は気が滅入ってしかたがなかったが、奥様はとてもやさしくしてくださり、自分の炬燵に私を入れ、少女時代の面白い話をしてくださった。
私はお逸としばらく坐り、いっしょに聖書を読みお祈りをしてから家に帰った。
今朝は三時に起きて荷造りをし、朝食は勝家でとったが、食べ終わらないうちに客が来だした。
殆どが日本人で、九時前にすでに家は客で一杯になってしまった。
来てくれるのはいいのだが、出発準備でいそがしいのに長居をするのでありがた迷惑だった。
老婦人だちとのお別れは、もう二度と会えないだろうと思うので、一番胸が痛んだ。
岡田夫人とは上手くいったが、内田夫人のおば様の時は、私はすっかり胸がいっぱいになってしまった。
私はおば様がとても好きになっていたのだ。
お逸ともお別れをした。
涙にむせてほとんど物も云えないので彼女を抱くようにして、私はこれだけ告げた。
「さようなら、最愛の友よ、神の祝福がありますように」
お逸も目にいっぱい涙を浮かべて私にキスをした。
「ああ、クララ、これが最後なのかしら」
そう云うと、お逸は炬燵に顔をうずめてしまう。
私は悲しさのあまりお逸をそのままにして飛び出してしまった。
私たちはふたたび会うことがあるだろうか?
来客とは簡単に別れの挨拶をし、やっと私たちの家のあるころび坂を出発した。
だが坂の下で人力車に会った。
乗っているのは、長いこと音沙汰無しになっていた渡辺おふでさんだとすぐわかった。
私は人力車をおりて「いつ東京に来たのですか?」と聞くと、きのう来たばかりで私に会いに来たという。
「それでクララさんはどちらにお出かけですか?」
「アメリカに帰るところです」
これを聞いた時の彼女の顔と「ああ残念ですわ」と言った彼女の口調を忘れられない。
ウィリイがせかすし、後ろでは人力車が何台も待っているのでおふでさんは駅までいっょに来ることになった。
十四台もの人力車が連なって駅につくと、またも大勢の友達、生徒、女の人たちが待っていた。
その十五分間に誰に話をしたか全然覚えがない。
ただやたらにお辞儀をし、お辞儀をされたこと、誰かが私にキスをして泣いたこと、大鳥氏の上着のラベルに涙が一杯ついていたことだけを覚えている。
また見送りの人たちが、待合室から汽車のところまで長い列になって、手をさしのべながら「さようなら」を云ったことも、ぼんやりと覚えている。
こうして私たちはたくさんの楽しい思い出といやな思い出の舞台となった東京を発った。
空は明るく澄み、本々は揺れ、子供たちは陽気に遊び、人々は楽しげに話をし、行きずりの人もいつに変わりない。
この東の都をふたたび訪れ、街を歩き、快活な人々にふれあうことができるだろうか?
だが、すべては終わった。よいことも悪いことも。
私たちはこを去るのだ。
何人かの友達は横浜までいっしょに来て、シモンズ博士の新居で昼食をとった。
勝夫人は横浜に来たことも外洋船に乗ったこともなかったので「浜」とジャネイ号は初めての経験だった。
内田夫人と疋田夫人は汽車にこれまで乗ったことがなかった。
だが別れはどんどん近づき、ついにイギリス波止場で涙ながらにお別れをした。
勝家の人たちは人力車に乗って駅の方に戻って行き、私たちは波止場に立って、見えなくなるまで手を振った。
それからシモンズ家へ戻った。
明治13年1月25日 日曜
昨晩はシモンズ家で泊まったが、この一週間のせわしなさや気疲れの後なので、ぐっすりと寝た。
奥様はなにくれとなく気を配って下さり、羽布団はまったく甘美というほかなかった。
今朝はアンガス氏が東京からみえ、ウィリイ、アディ、私とを教会に連れていって下さったが、ディクソン兄弟も来ていた。
新任のパプティスト教会牧師のヘネット氏が説教をした。
言葉づかいは洗練されていないが、平明で要領を得ており、日常生活から例を引くなど、 彼の人柄が表れていた。
昼食ののち、大勢の人々が東京からお別れにこられた。
ウィリイはディクソン兄弟やその他の人たちといっしょに、荷物を確かめに船に行った。
「安息日」だというのに、とても忙しかったが「一週間の満足をもたらす」のにふさわしい一日だった。
東京からここへ来る前に、勝氏についてすてきな話を聞いた。
彼は、厳寒の大晦日に、粗末な着物に身をやつし、人力車も伴も連れずに、貧困に打ちのめされた徳川旧藩土の家を歩き回って「餅代」を置いてきたという。
彼は私とアディに、ヨーロッパでおもちゃを買いなさい、百ドルもくださった〈!〉。
明治13年1月26日 月曜日 フランス船ジャネイ号にて
ついに出発した。
八時に乗船。午後九時きっかりに船は出港した。
ジェイミーはお兄さんの見送りに、引き船に一緒に乗って船まで来た。
二等で帰るので、来た時ほど部屋はよくないが、シモンズ先生はアメリカ船がよすぎたのだとおっしゃった。
【クララの明治日記 超訳版解説第110回(最終回)】
「……かくしてクララ・ホイットニーの“一度目の日本滞在”は終わりを迎えました。
ホイットニー一家が日本に最初に到着したのは1875年8月3日火曜日。
まだこの時、14歳だったクララも、この日、明治13年1月26日には19歳。
一番多感であろう世代のアメリカ人少女の目を通してみた明治初期日本。
このコーナーを読んで頂けた方々は、どんな感想を抱かれましたでしょうか?」
「んー、私としては、やっぱり“日本人は昔から日本人”ってことかな?
生活は劇的に変わり、人と人との繋がりも130年前と較べて全然薄くなっちゃってるけど、クララたちに対する反応も、クララが観察した日本人同士のやりとりも、今の日本人と殆ど変わらないんだもの。
ちょっと例が違うけど、少し前の日記であったでしょ? うちのたみ義母様が、最新の流行ファッションしている富田夫人に“昔からのスタイルが一番なのよ”と窘めてるシーン。
世代間の反応まで、まるっきり今と変わらないんだもの。笑っちゃった」
「それと似たことは古代エジプトの粘土板にも書いてあるそうですからね、時代・民族を問わない傾向なのでしょう。
ま、世代間対立の件はともかく、民族性というのはたかが130年程度では確かに変わらないようですわね。
アメリカ系中国人のわたくしが云うのもなんですけれど、クララの日記に出てきた記述の、数少ない中国人たちの商売熱心さと強引さは確かに全く変わってませんわ」
「もっとも、クララの日記の中にあって、今の日本人には決定的に欠けちゃってるものもあるけどねー」
「なんですの、それは?」
「庶民の底抜けの明るさ、かな?
クララの日記だけじゃなく、幕末維新前後に日本に滞在した外国人達の記述に共通して記されているのが、日本の庶民が貧しいながらも本当に楽しそうに生活していることなんだよね。
特に子供達に対する可愛がりぶり、というか甘やかしっぷりについては特筆されているから。
もっとも武士家庭の子供の礼儀正しさも同時に記されていることが多いけど。
うちの甥っ子の玄亀なんて、可愛らしいけれど、要所要所では物凄く折り目正しいでしょ?」
「前者については……確かにそうかもしれませんわね。
これは“現在”の景気動向による傾向なのか、第二次大戦前のガチガチに締め上げた家父長教育のせいなのか、判断が難しいところですけれど。
後者に対しては今もそうじゃありませんの?
子供に対するお金の使い方――まあ、お金の使い方だけで可愛がりぶりを判断するつもりもありませんけれど――は、今も半端じゃないと思いますわよ。
もっともこれは日本だけではなく、私の生まれた中国も、更に広く云えばアジア全域がそうのようですわね。
西洋人の教育に関する思考の根本には“子供は不完全な存在であり、親が正しく導いて完全な存在にしなくてはならない”というのがあるのですわ。
どうにも我々東洋系の人間には、そのあたり理解しがたいところがあるのですけれど」
「その辺のギャップがあるからなのかな、来日外国人達の子供に対する記述が多いのは。
クララも当初はずっとつきまとってくる子供たちを相当鬱陶しく感じていたようだけど、日本滞在が長くなってくると、結構そんな子供たちとの会話を楽しんでいるみたいだったし」
「そうでしたわね、その日本の“子供”の中の一番代表格が貴女でしたわね」
「私は子供なんかじゃ……って、わたしもクララと最初に会ったのは15歳の頃か」
「もっとも、クララとの初めての二人きりでの“デート”で、彼女に抱きついて“あなた、好きよ”と告げた貴女は、少し日本人離れしているとは思いますけれど」
「親友にも旅立たれ、今じゃすっかり“行き遅れ”の19歳だけどね。。。」
「さて、ようやく少し話が本筋に戻ったところで」
「えっ!? 私が“行き遅れ”なのが本筋なわけ!?」
「まあ、順を追ってお聞きなさい。
まずは日本を旅立った後のクララたちの航路ですわ。
出航後もクララは日記をつけているのですけれど、残念ながら訳出されていないので、クララの明治日記上巻の前書きと、未訳部分を直接原本から一部訳出している“津田梅子とアナ・C・ハーツホン”から抜粋しますわ。
2月4日に香港でイロウディ号に乗り替えた一行は、2月10日にシンガポール着。
スリランカを経て紅海に入り、2月28日、スエズを通って、カイロに着き、約一週間グランド・ニュー・ホテルに宿泊。
アレキサンドリアでも陸上に一泊した後、3月14日にナポリ到着。
そこから陸路ローマに向かい、3月21日に到着し、当地の日本公使館で、中村代理公使のディナーに招待。
3月30日早朝ローマを発ち、フィレンツェ、ジュネーブを経て4月6日にはパリ到着。
クララにとっては初めてのパリで、もっと長く滞在したかったらしいものの、翌7日正午には出立。
ディエップからは海路ニューヘブンヘ。
ロンドンでの最初の日記は4月9日に書かれていますわ。
イギリスまで来るとアメリカまではあと10日余。
そんなわけで、クララたちはイギリスのクイーンズ・スクエアでかなりゆっくり滞在することになりましたの。
少なくともクララが日記で書き記している8月5日まではイギリスにいたことは確実で、その後日記が一年半ほど空白になるので正確にアメリカに帰ったのはいつなのか定かではありませんけれど、兄ウイリィがペンシルベニア大学医学部に秋入学していることから、それまでには確実にアメリカに戻ったようですわ。
少なくとも4ヶ月程度はあったイギリス生活。
敬虔なクリスチャン一家ですから、ロンドンにあるいくつかの教会の礼拝や行事に熱心に参加し、その一方で、ロンドン市内や公害の名所旧跡をこまめに訪ね、大英博物館を時間を掛けて見物。
友人にお茶に誘われ、ヨークシャイアにも招かれて田園生活を楽しむ等、少なくとも日記から見る限りは、なかなか優雅な生活ですわね。
丁度森有礼夫妻が駐英大使としてロンドンにいた頃で、クララたちはしばしば大使館にも招かれ、殊に森夫人は、クラブとの日本語の会話を楽しみに、彼らを展覧会や音楽会に招待したようですわ。
4月24日には、森有礼夫妻、富田鉄之助氏、そして徳川宗家を嗣いだ徳川家達の、東京時代から知り合い四人組から、ロンドンの郊外、クリスタル・パレスのコンサートに招待されています。
で、ここでクララは“衝撃的にニュース”を聞くのですわ、富田氏から」
「……ああ、なるほど(ポン)」
「そう、貴女と目賀田種太郎氏が結婚することになった、という話ですわ。
このタイミングからして、多分勝氏は、貴女のために、そしてクララのために待っていてあげた、のだと思いますわよ。
2年以上前から、クララの日記の中でさえ貴女の縁談話は出てていたのだから」
「うーん、確証は全然ないけど、確かにそうなのかも知れないよね。
父様のクララ一家への、特にアンナ先生とクララに対する厚遇ぶりは突出してるから。
別れの日に、クララとアディちゃんに渡した100ドルって、凄い大金だし」
「ともあれ、最愛の親友が結婚したこの瞬間、実質的に“クララの日本での少女時代”は終わったのだと思いますわよ。
約2年10ヶ月後、クララ一家は再び日本に戻ってきますけれど、日記の雰囲気も随分と落ち着いたものになりますわ。
というわけで、やはりこの“クララの明治日記 超訳版”も今回をもって最終回とさせて頂きますわね。
将来的には再来日後も取り上げたいと思いますので、一応“第一部 完”ということにさせて頂きますけれど」
「最後までお付き合い下さった方、本当にどうも有り難うございました。
最初はドキドキだった、私たちのこんな“掛け合い漫才解説”にも最後まで苦情、来なかったしねー(笑)。
超訳主も最初は“素面でこんなん書けるか!”ってお酒を飲んでから私たちの会話シーンを書いてたらしいけど、最近は平気、っていうか、全く構成を考えずに書いているんだって」
「……構成どころか、今は書くテーマすら決めてないようですわよ、この超訳主。
最近はその日に紹介する分の日記を読み直して、即興で書いているそうですわ、毎回。
数は少ないですけれど、Google検索で、明らかに専門分野の人間が検索した結果、元掲載のブログに辿り着いている形跡がありますのに、こんないい加減で良いのかしら?」
「しかも辿り着いたら、こんなブログ(http://d.hatena.ne.jp/hitonoumi/)なんだもの。
“グーグル先生の誤検索かよ!?”って疑うレベルだよね、ホント」
「……大変申し訳ありませんけれど、確かにクララの明治日記本編が絶版になっているのは事実ですので、そういう方々には過去回文分で検索して欲しいものですわ。
確かにその方が臨場感も出るでしょうしね」
「ともあれ、改めて、本当に最後までお付きあい下さった方々、どうもありがとうございましたm(_)m」
「クララとの再会の日も期待して頂けると嬉しいです」
「それでは、これにて“クララの明治日記 超訳版”第一部は幕とさせて頂きますわ。
みなさま、ごきげんよう」
勝夫人に今日木下川の将軍の梅屋敷にいっしょにと言われたが、お逸がひどい風邪をひいたので中止になった。
昨晩は雨が降ったがアンザス氏の家へタ食に行った。グレイ夫妻も来た。
ペイトン氏とアレグザンダー氏がバイオリンを持ってあとから来てダンスをしようとした。
だが私たちは一日中荷造りをしていたのでひどく疲れていたし、この人たちとはそれほど親しくはないので結局お流れにたった。
私はダンスを知らなくてよかったと思う。
本当に馬鹿げたものだと思う。
アンガス氏は素敵な色つき写真を二十枚ほど下さった。
マーシャル夫人と夕食に出かけたが、そのあとディクソン氏の送別会があるのでYMCAにもご一緒した。
ディクソン氏が挨拶をし、ジュエット氏が答礼した。
彼はディクソン氏の後任として会長になることになっている。
私たちはみな家まで歩いて帰ったが、とても楽しかった。
ディクソン氏は生徒から受けとった珍妙な千紙についで話した。
日本語を直訳したのだ。
『名誉先生、あなたが目の前にぶらさかっている愛する家族のもとに帰られると聞き大変残念です』
出発の時が段々近づいでいる。
明治13年1月23日 金曜
お別れの挨拶をするために朝早く家を出発、全部回った。
森氏の家では老婦人に別れを告げ、永田町にある楠本家に行く。
楠本氏は在宅で、母堂に丁重に挨拶された。美しい老婦人である。
楠本議官は府知事を辞められ、暇ができたので、ヨーロッパやアメリカにそのうち行きたいとおっしゃったりして、とても楽しい時を過ごした。
三浦夫人は不在でご主人にお目にかかっただけで、麻布本村町の津田家へ急ぎ奥様とお話をした。
だが一番胸を打たれたのは麻布永坂町にある杉田家で、お祖母様やおよしさん、杉田夫人と火鉢を囲んでしたお話だった。
「もう二度と会えないかもしれませんけれど、魂はあなたちとともにあります。
この世で会えなくとも、天国できっと会えるでしょう。
もう別れることもなく同じ言葉をしゃべり、いつも一緒にいられる天国であなたがたをお探しましょう」
夫人はそう云われた。
本当にもうここでは二度と会えないことだろう。
明治13年1月24日 土曜
昨晩は家で寝たが、布団が足りないので勝夫人がたくさん貸してくださった。
母はウォデル氏の家での祈祷会に行ったが、私は勝家に残った。
明日発つというので私は気が滅入ってしかたがなかったが、奥様はとてもやさしくしてくださり、自分の炬燵に私を入れ、少女時代の面白い話をしてくださった。
私はお逸としばらく坐り、いっしょに聖書を読みお祈りをしてから家に帰った。
今朝は三時に起きて荷造りをし、朝食は勝家でとったが、食べ終わらないうちに客が来だした。
殆どが日本人で、九時前にすでに家は客で一杯になってしまった。
来てくれるのはいいのだが、出発準備でいそがしいのに長居をするのでありがた迷惑だった。
老婦人だちとのお別れは、もう二度と会えないだろうと思うので、一番胸が痛んだ。
岡田夫人とは上手くいったが、内田夫人のおば様の時は、私はすっかり胸がいっぱいになってしまった。
私はおば様がとても好きになっていたのだ。
お逸ともお別れをした。
涙にむせてほとんど物も云えないので彼女を抱くようにして、私はこれだけ告げた。
「さようなら、最愛の友よ、神の祝福がありますように」
お逸も目にいっぱい涙を浮かべて私にキスをした。
「ああ、クララ、これが最後なのかしら」
そう云うと、お逸は炬燵に顔をうずめてしまう。
私は悲しさのあまりお逸をそのままにして飛び出してしまった。
私たちはふたたび会うことがあるだろうか?
来客とは簡単に別れの挨拶をし、やっと私たちの家のあるころび坂を出発した。
だが坂の下で人力車に会った。
乗っているのは、長いこと音沙汰無しになっていた渡辺おふでさんだとすぐわかった。
私は人力車をおりて「いつ東京に来たのですか?」と聞くと、きのう来たばかりで私に会いに来たという。
「それでクララさんはどちらにお出かけですか?」
「アメリカに帰るところです」
これを聞いた時の彼女の顔と「ああ残念ですわ」と言った彼女の口調を忘れられない。
ウィリイがせかすし、後ろでは人力車が何台も待っているのでおふでさんは駅までいっょに来ることになった。
十四台もの人力車が連なって駅につくと、またも大勢の友達、生徒、女の人たちが待っていた。
その十五分間に誰に話をしたか全然覚えがない。
ただやたらにお辞儀をし、お辞儀をされたこと、誰かが私にキスをして泣いたこと、大鳥氏の上着のラベルに涙が一杯ついていたことだけを覚えている。
また見送りの人たちが、待合室から汽車のところまで長い列になって、手をさしのべながら「さようなら」を云ったことも、ぼんやりと覚えている。
こうして私たちはたくさんの楽しい思い出といやな思い出の舞台となった東京を発った。
空は明るく澄み、本々は揺れ、子供たちは陽気に遊び、人々は楽しげに話をし、行きずりの人もいつに変わりない。
この東の都をふたたび訪れ、街を歩き、快活な人々にふれあうことができるだろうか?
だが、すべては終わった。よいことも悪いことも。
私たちはこを去るのだ。
何人かの友達は横浜までいっしょに来て、シモンズ博士の新居で昼食をとった。
勝夫人は横浜に来たことも外洋船に乗ったこともなかったので「浜」とジャネイ号は初めての経験だった。
内田夫人と疋田夫人は汽車にこれまで乗ったことがなかった。
だが別れはどんどん近づき、ついにイギリス波止場で涙ながらにお別れをした。
勝家の人たちは人力車に乗って駅の方に戻って行き、私たちは波止場に立って、見えなくなるまで手を振った。
それからシモンズ家へ戻った。
明治13年1月25日 日曜
昨晩はシモンズ家で泊まったが、この一週間のせわしなさや気疲れの後なので、ぐっすりと寝た。
奥様はなにくれとなく気を配って下さり、羽布団はまったく甘美というほかなかった。
今朝はアンガス氏が東京からみえ、ウィリイ、アディ、私とを教会に連れていって下さったが、ディクソン兄弟も来ていた。
新任のパプティスト教会牧師のヘネット氏が説教をした。
言葉づかいは洗練されていないが、平明で要領を得ており、日常生活から例を引くなど、 彼の人柄が表れていた。
昼食ののち、大勢の人々が東京からお別れにこられた。
ウィリイはディクソン兄弟やその他の人たちといっしょに、荷物を確かめに船に行った。
「安息日」だというのに、とても忙しかったが「一週間の満足をもたらす」のにふさわしい一日だった。
東京からここへ来る前に、勝氏についてすてきな話を聞いた。
彼は、厳寒の大晦日に、粗末な着物に身をやつし、人力車も伴も連れずに、貧困に打ちのめされた徳川旧藩土の家を歩き回って「餅代」を置いてきたという。
彼は私とアディに、ヨーロッパでおもちゃを買いなさい、百ドルもくださった〈!〉。
明治13年1月26日 月曜日 フランス船ジャネイ号にて
ついに出発した。
八時に乗船。午後九時きっかりに船は出港した。
ジェイミーはお兄さんの見送りに、引き船に一緒に乗って船まで来た。
二等で帰るので、来た時ほど部屋はよくないが、シモンズ先生はアメリカ船がよすぎたのだとおっしゃった。
【クララの明治日記 超訳版解説第110回(最終回)】
「……かくしてクララ・ホイットニーの“一度目の日本滞在”は終わりを迎えました。
ホイットニー一家が日本に最初に到着したのは1875年8月3日火曜日。
まだこの時、14歳だったクララも、この日、明治13年1月26日には19歳。
一番多感であろう世代のアメリカ人少女の目を通してみた明治初期日本。
このコーナーを読んで頂けた方々は、どんな感想を抱かれましたでしょうか?」
「んー、私としては、やっぱり“日本人は昔から日本人”ってことかな?
生活は劇的に変わり、人と人との繋がりも130年前と較べて全然薄くなっちゃってるけど、クララたちに対する反応も、クララが観察した日本人同士のやりとりも、今の日本人と殆ど変わらないんだもの。
ちょっと例が違うけど、少し前の日記であったでしょ? うちのたみ義母様が、最新の流行ファッションしている富田夫人に“昔からのスタイルが一番なのよ”と窘めてるシーン。
世代間の反応まで、まるっきり今と変わらないんだもの。笑っちゃった」
「それと似たことは古代エジプトの粘土板にも書いてあるそうですからね、時代・民族を問わない傾向なのでしょう。
ま、世代間対立の件はともかく、民族性というのはたかが130年程度では確かに変わらないようですわね。
アメリカ系中国人のわたくしが云うのもなんですけれど、クララの日記に出てきた記述の、数少ない中国人たちの商売熱心さと強引さは確かに全く変わってませんわ」
「もっとも、クララの日記の中にあって、今の日本人には決定的に欠けちゃってるものもあるけどねー」
「なんですの、それは?」
「庶民の底抜けの明るさ、かな?
クララの日記だけじゃなく、幕末維新前後に日本に滞在した外国人達の記述に共通して記されているのが、日本の庶民が貧しいながらも本当に楽しそうに生活していることなんだよね。
特に子供達に対する可愛がりぶり、というか甘やかしっぷりについては特筆されているから。
もっとも武士家庭の子供の礼儀正しさも同時に記されていることが多いけど。
うちの甥っ子の玄亀なんて、可愛らしいけれど、要所要所では物凄く折り目正しいでしょ?」
「前者については……確かにそうかもしれませんわね。
これは“現在”の景気動向による傾向なのか、第二次大戦前のガチガチに締め上げた家父長教育のせいなのか、判断が難しいところですけれど。
後者に対しては今もそうじゃありませんの?
子供に対するお金の使い方――まあ、お金の使い方だけで可愛がりぶりを判断するつもりもありませんけれど――は、今も半端じゃないと思いますわよ。
もっともこれは日本だけではなく、私の生まれた中国も、更に広く云えばアジア全域がそうのようですわね。
西洋人の教育に関する思考の根本には“子供は不完全な存在であり、親が正しく導いて完全な存在にしなくてはならない”というのがあるのですわ。
どうにも我々東洋系の人間には、そのあたり理解しがたいところがあるのですけれど」
「その辺のギャップがあるからなのかな、来日外国人達の子供に対する記述が多いのは。
クララも当初はずっとつきまとってくる子供たちを相当鬱陶しく感じていたようだけど、日本滞在が長くなってくると、結構そんな子供たちとの会話を楽しんでいるみたいだったし」
「そうでしたわね、その日本の“子供”の中の一番代表格が貴女でしたわね」
「私は子供なんかじゃ……って、わたしもクララと最初に会ったのは15歳の頃か」
「もっとも、クララとの初めての二人きりでの“デート”で、彼女に抱きついて“あなた、好きよ”と告げた貴女は、少し日本人離れしているとは思いますけれど」
「親友にも旅立たれ、今じゃすっかり“行き遅れ”の19歳だけどね。。。」
「さて、ようやく少し話が本筋に戻ったところで」
「えっ!? 私が“行き遅れ”なのが本筋なわけ!?」
「まあ、順を追ってお聞きなさい。
まずは日本を旅立った後のクララたちの航路ですわ。
出航後もクララは日記をつけているのですけれど、残念ながら訳出されていないので、クララの明治日記上巻の前書きと、未訳部分を直接原本から一部訳出している“津田梅子とアナ・C・ハーツホン”から抜粋しますわ。
2月4日に香港でイロウディ号に乗り替えた一行は、2月10日にシンガポール着。
スリランカを経て紅海に入り、2月28日、スエズを通って、カイロに着き、約一週間グランド・ニュー・ホテルに宿泊。
アレキサンドリアでも陸上に一泊した後、3月14日にナポリ到着。
そこから陸路ローマに向かい、3月21日に到着し、当地の日本公使館で、中村代理公使のディナーに招待。
3月30日早朝ローマを発ち、フィレンツェ、ジュネーブを経て4月6日にはパリ到着。
クララにとっては初めてのパリで、もっと長く滞在したかったらしいものの、翌7日正午には出立。
ディエップからは海路ニューヘブンヘ。
ロンドンでの最初の日記は4月9日に書かれていますわ。
イギリスまで来るとアメリカまではあと10日余。
そんなわけで、クララたちはイギリスのクイーンズ・スクエアでかなりゆっくり滞在することになりましたの。
少なくともクララが日記で書き記している8月5日まではイギリスにいたことは確実で、その後日記が一年半ほど空白になるので正確にアメリカに帰ったのはいつなのか定かではありませんけれど、兄ウイリィがペンシルベニア大学医学部に秋入学していることから、それまでには確実にアメリカに戻ったようですわ。
少なくとも4ヶ月程度はあったイギリス生活。
敬虔なクリスチャン一家ですから、ロンドンにあるいくつかの教会の礼拝や行事に熱心に参加し、その一方で、ロンドン市内や公害の名所旧跡をこまめに訪ね、大英博物館を時間を掛けて見物。
友人にお茶に誘われ、ヨークシャイアにも招かれて田園生活を楽しむ等、少なくとも日記から見る限りは、なかなか優雅な生活ですわね。
丁度森有礼夫妻が駐英大使としてロンドンにいた頃で、クララたちはしばしば大使館にも招かれ、殊に森夫人は、クラブとの日本語の会話を楽しみに、彼らを展覧会や音楽会に招待したようですわ。
4月24日には、森有礼夫妻、富田鉄之助氏、そして徳川宗家を嗣いだ徳川家達の、東京時代から知り合い四人組から、ロンドンの郊外、クリスタル・パレスのコンサートに招待されています。
で、ここでクララは“衝撃的にニュース”を聞くのですわ、富田氏から」
「……ああ、なるほど(ポン)」
「そう、貴女と目賀田種太郎氏が結婚することになった、という話ですわ。
このタイミングからして、多分勝氏は、貴女のために、そしてクララのために待っていてあげた、のだと思いますわよ。
2年以上前から、クララの日記の中でさえ貴女の縁談話は出てていたのだから」
「うーん、確証は全然ないけど、確かにそうなのかも知れないよね。
父様のクララ一家への、特にアンナ先生とクララに対する厚遇ぶりは突出してるから。
別れの日に、クララとアディちゃんに渡した100ドルって、凄い大金だし」
「ともあれ、最愛の親友が結婚したこの瞬間、実質的に“クララの日本での少女時代”は終わったのだと思いますわよ。
約2年10ヶ月後、クララ一家は再び日本に戻ってきますけれど、日記の雰囲気も随分と落ち着いたものになりますわ。
というわけで、やはりこの“クララの明治日記 超訳版”も今回をもって最終回とさせて頂きますわね。
将来的には再来日後も取り上げたいと思いますので、一応“第一部 完”ということにさせて頂きますけれど」
「最後までお付き合い下さった方、本当にどうも有り難うございました。
最初はドキドキだった、私たちのこんな“掛け合い漫才解説”にも最後まで苦情、来なかったしねー(笑)。
超訳主も最初は“素面でこんなん書けるか!”ってお酒を飲んでから私たちの会話シーンを書いてたらしいけど、最近は平気、っていうか、全く構成を考えずに書いているんだって」
「……構成どころか、今は書くテーマすら決めてないようですわよ、この超訳主。
最近はその日に紹介する分の日記を読み直して、即興で書いているそうですわ、毎回。
数は少ないですけれど、Google検索で、明らかに専門分野の人間が検索した結果、元掲載のブログに辿り着いている形跡がありますのに、こんないい加減で良いのかしら?」
「しかも辿り着いたら、こんなブログ(http://d.hatena.ne.jp/hitonoumi/)なんだもの。
“グーグル先生の誤検索かよ!?”って疑うレベルだよね、ホント」
「……大変申し訳ありませんけれど、確かにクララの明治日記本編が絶版になっているのは事実ですので、そういう方々には過去回文分で検索して欲しいものですわ。
確かにその方が臨場感も出るでしょうしね」
「ともあれ、改めて、本当に最後までお付きあい下さった方々、どうもありがとうございましたm(_)m」
「クララとの再会の日も期待して頂けると嬉しいです」
「それでは、これにて“クララの明治日記 超訳版”第一部は幕とさせて頂きますわ。
みなさま、ごきげんよう」
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みんなの感想(2件)
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とっても面白かったです。
クララの二度目の訪日の箇所も是非ともラノベにしていただきたいです、お願いします。
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