クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第6話 秘密の共有者

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あの金曜日から、世界はまるで違って見えた。
土曜日も日曜日も、俺の頭の中は月宮さんのことで埋め尽くされていた。彼女の驚いた顔、震える指先、そして最後にほんの少しだけ緩んだ口元。それらを思い出すだけで、心臓が勝手に走り出す。

「ニヤニヤして、気持ち悪いわよ」
リビングでスマホを見ながら手話の練習をしていたら、妹の美咲に心底気味悪そうな顔をされた。俺は慌てて表情を引き締め、自分の部屋に逃げ込んだ。

危ない。どうやら俺は、無意識のうちに締まりのない顔を晒していたらしい。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋める。興奮と期待で、どうにかなってしまいそうだった。月曜日が、こんなにも待ち遠しいなんて生まれて初めてだ。

そして、運命の月曜日の朝が来た。
いつもより少しだけ早く家を出て、学校へ向かう。教室のドアの前に立ち、一度深呼吸をする。大丈夫だ。いつも通りに振る舞え。

俺は平静を装いながらドアを開けた。
教室の中は、まだまばらな人影しかない。俺の視線は、自然と窓際の一番後ろの席へと吸い寄せられた。

いた。
月宮さんは、もう自分の席に座っていた。頬杖をつき、窓の外を眺めている。その横顔は、いつもと同じように静かで、美しい。
俺が教室に入ってきたことに気づいたのか、彼女の肩がほんの少しだけ、本当に僅かに震えたのを俺は見逃さなかった。

俺は自分の席に向かいながら、平静を装って鞄を机の横にかける。心臓はうるさいくらいに鳴っているが、誰にも聞こえるはずはない。
席に着き、教科書の準備をするふりをしながら、横目で彼女の様子を窺う。彼女はまだ窓の外を見ていた。もしかして、金曜日のことは夢だったのだろうか。あるいは、俺の勇み足を迷惑に思っているのかもしれない。不安が胸をよぎる。

そんなことを考えていると、不意に、彼女がこちらを向いた。
視線が、ばっちりと交差する。
黒曜石のような、吸い込まれそうな瞳。俺は息を飲んだ。

彼女はすぐに視線を逸らすかと思った。だが、違った。彼女は驚くほど真っすぐに、俺の目を見つめていた。その瞳には、戸惑いと、それからほんの少しの好奇心のような色が浮かんでいる。

今だ。
俺は意を決した。
周囲に他の生徒がいる。見られてはいけない。
俺は机の下に隠した右手で、素早く、そして小さく形を作った。

『おはよう』

それは誰にも見えない、二人だけの暗号だった。
俺の指の動きを認めると、彼女の瞳がわずかに揺れた。そして、次の瞬間、彼女は恥ずかしそうにぷいっと顔を背け、俯いてしまった。長い前髪が、彼女の表情を完全に隠してしまう。

……やっぱり、ダメだったか。
調子に乗りすぎた、と俺が肩を落としかけた、その時。
俯いたままの彼女の、机の下にある右手が、そっと動いたのが見えた。
白いブラウスの袖口からのぞく、華奢な指が、俺と同じ形を小さく描く。

『おはよう』

声にならない声が、確かに聞こえた気がした。
俺は、込み上げてくる喜びを抑えるのに必死だった。顔がにやけそうだ。慌てて教科書で顔を隠す。心臓が早鐘を打っていた。
夢じゃなかった。俺と彼女の間には、確かに特別な繋がりが生まれたのだ。

その日一日、俺と彼女の間では、秘密の会話が何度も交わされた。
授業中、先生が黒板に背を向けた一瞬の隙。目が合えば、どちらからともなく小さく手を動かす。
『この授業、眠いね』
俺がそう送ると、彼女はこくりと頷き、口元に手を当てて欠伸をする真似をしてみせた。そのお茶目な仕草に、俺の心臓は跳ね上がる。
休み時間、健太たちと話している最中でも、俺の意識の半分は彼女に向いていた。遠くで本を読んでいる彼女とふと目が合う。すると彼女は、読んでいた本で顔を隠しながら、その陰で小さく手を振ってくれたりするのだ。

誰にも気づかれていない。この教室の中で、俺たちだけが通じ合っている。
その事実が、たまらないほどの高揚感となって俺を満たした。まるで、壮大なスパイ映画の主人公にでもなった気分だ。俺たちは、秘密を共有する共犯者なのだ。

「おい航。さっきからニヤニヤしてっけど、なんか良いことでもあったのか?」
昼休み、健太が胡散臭そうな目で俺を見てきた。
「な、何でもねえよ」
「嘘つけ。絶対なんかあるだろ。さては例のランキングの……」
「ないない! 気のせいだって!」
俺は慌てて否定し、弁当を口に詰め込んだ。これ以上、この鋭い親友に勘繰られるのは危険すぎる。

放課後、ホームルームが終わると、生徒たちは一斉に騒がしくなる。
「航、部活行くぞー」
「悪い、健太。今日日誌だから先行っててくれ」
「へーい」
もちろん、日直というのは嘘だ。俺は、今日という特別な一日の締めくくりを、彼女と交わしたかった。

生徒たちが次々と教室を出ていき、やがて残っているのは俺と、帰り支度をする月宮さんだけになった。
彼女はゆっくりと鞄に荷物を詰め、椅子を引いて立ち上がる。そして、ドアに向かう途中、ぴたりと足を止めた。
彼女は少しだけ躊躇うように視線を彷徨わせた後、意を決したように俺の方を振り返った。

俺は、彼女が何をしたいのかすぐに分かった。
だから俺は、彼女が指を動かすよりも先に、笑顔で手を動かした。

『さようなら』

俺のメッセージを見て、彼女は驚いたように少し目を見開いた。そして、次の瞬間。
彼女の顔に、今まで見たことのない、柔らかな笑みが浮かんだ。
それは、金曜日に見せた、ほんの一瞬の微笑みとは違う。花が咲くように、ふわりと綻んだ、完璧な笑顔だった。

その笑顔に、俺は完全に心を射抜かれてしまった。
時が止まる。世界から音が消える。
彼女は、こんな風に笑うのか。
太陽みたいに、暖かくて、眩しい笑顔。

彼女は、その最高の笑顔のまま、俺に向かって丁寧に『さようなら』と返してくれた。そして、ぺこりと一度お辞儀をすると、今度は逃げるようにではなく、落ち着いた足取りで教室を出ていった。

一人残された教室で、俺はしばらく動けなかった。
心臓が、痛いくらいに鳴り響いている。
彼女の笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
ああ、もうダメだ。
俺は、月宮雫という少女に、どうしようもなく惹かれている。
この気持ちが何なのか、まだ名前は付けられない。
でも、この秘密の関係が、俺にとって何よりも大切な宝物になったことだけは、確かだった。
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