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第8話 休み時間の図書室
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俺と月宮さんの間で、お互いの名前という特別な言葉が交わされてから数日。俺たちの秘密の関係は、より深く、より親密なものへと変わっていった。教室で交わす視線には明確な意味が宿り、机の下で交わされる指の言葉は、日に日にその数を増やしていった。
だが、同時に俺はもどかしさも感じ始めていた。
教室は、秘密を交わすにはあまりにもオープンな場所だ。先生やクラスメイトの目を盗んで交わせる言葉は、どうしても断片的になってしまう。
その日も、そうだった。
休み時間、俺が新しい手話を披露した時だ。確か「夢」という単語だったと思う。こめかみに当てた指を、ふわりと開く動作。
それを見た月宮さんは、何かを思いついたように目を輝かせ、興奮した様子で指を動かし始めた。しかし、その動きは複雑で、俺の知らない単語ばかりだった。
俺が困惑して首を傾げると、彼女はハッとしたように動きを止め、そして、とても残念そうな顔で小さく首を振った。伝えたいのに、伝えられない。そのもどかしさが、彼女の表情から痛いほど伝わってきた。
その顔を見て、俺は強く思った。
もっと、ちゃんと話したい。
周りの目を気にせず、彼女の言葉を、一つ残らず受け止められる場所が欲しい。
放課後の教室は良いが、いつ誰が来るか分からない。屋上は立ち入り禁止だ。
そして、俺の頭に一つの場所が思い浮かんだ。
図書室。
あそこなら、静かで、人も少ない。特に一番奥の閲覧スペースは、ほとんど誰も利用していない穴場だ。
俺は決意した。次の昼休み、彼女を誘ってみよう。
緊張で、少し汗ばんだ手でペンを握りしめる。授業の内容なんて、全く頭に入ってこなかった。
昼休み。健太が「食堂行こうぜ!」と肩を組んでくるのを、俺は「悪い、ちょっと調べたいことがあって図書室行くわ」と断った。
「は? 図書室? お前が? 明日は槍でも降るんじゃねえか」
健太は心底意外そうな顔をしたが、「まあいいや。俺は先に食ってるわ」と一人で教室を出ていった。
俺は深呼吸を一つして、まだ席で本を読んでいた月宮さんの方へ向き直った。
彼女は俺の視線に気づくと、読んでいた本から顔を上げ、不思議そうに小首を傾げる。
俺は意を決して、指を動かした。
『昼休み』『図書室』
そして、少し間を置いてから付け加える。
『話したい』
俺のメッセージを読み取ると、彼女の瞳が驚きに揺れた。そして、次の瞬間、その表情がぱあっと明るく綻んだ。それは、まるで曇り空から太陽が顔を出したかのような、鮮やかな変化だった。
彼女は、こくこくと何度も力強く頷いた。その喜びように、俺の心まで温かくなる。
俺は彼女より先に教室を出て、図書室へ向かった。
古い本の匂いがする静かな空間。俺は目的の場所、一番奥の閲覧席へと足を運んだ。大きな窓から光が差し込む、居心地の良さそうなスペースだ。
しばらくして、月宮さんが静かな足取りでやってきた。俺の向かいの席に、彼女は少し緊張した面持ちで腰を下ろす。
二人きりの空間。聞こえるのは、微かな空調の音と、ページをめくる遠くの音だけ。
この静寂が、なんだか心地よかった。
俺は鞄からノートとペンを取り出し、机の上に置いた。そして、手話で伝える。
『まだ、俺は知らない言葉が多いから。これで、教えてほしい』
俺がノートを指差すと、彼女はなるほど、というように目を丸くして、すぐに自分も小さなノートとペンを取り出した。準備がいい。もしかしたら、彼女もこんな時を待っていてくれたのかもしれない。
最初のうちは、少しぎこちなかった。
俺がノートに『さっき、休み時間に言いたかったことは?』と書くと、彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、ノートに返事を書いてくれる。
『航くんが見せてくれた「夢」の手話を見て、私の夢の話をしたいなって思ったの』
航くん、という文字に心臓が跳ねた。指文字でしか伝え合っていなかった名前を、こうして文字で見ると、また違った破壊力がある。
俺は平静を装い、さらに書き込んだ。
『君の夢って?』
すると、彼女の目の色が、きらりと変わった。
そこからは、もう彼女の独壇場だった。
『私、将来は絵本作家になりたいの!』
彼女は勢いよくそう書くと、自分の手話も交えて、その夢について語り始めた。
『言葉がなくても、絵だけで気持ちが伝わるような、優しいお話を描きたい』
そう言いながら、彼女は指先で、ページをめくる仕草や、子供が笑う仕草をしてみせる。その表情は生き生きとしていて、情熱に満ち溢れていた。
俺が今まで見てきた、どの月宮雫とも違う顔だった。
クールでミステリアスな、クラスの片隅にいた彼女。
俺にだけ、はにかんだ笑顔を見せてくれるようになった彼女。
そして今、目の前にいるのは、自分の夢を語る、一人の表現者としての彼女。
俺は完全に、彼女の世界に引き込まれていた。
彼女は、自分が好きな絵本作家の名前をノートに書き連ね、その人の絵のどこが素晴らしいのかを、身振り手振りを交えて熱弁してくれる。時々、俺が知らない手話が出ると、その都度ノートに意味を書いてくれる。
その姿は、まるで熱心な先生のようだった。
「すごいな、月宮さん。本当に絵本が好きなんだな」
俺が声でそう言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それから最高に嬉しそうな笑顔で頷いた。
そして、ノートにペンを走らせる。
『航くんは? 夢とか、ある?』
俺の夢。考えたこともなかった。
俺は少し悩んでから、ノートに正直な気持ちを書いた。
『まだ、分からない。でも』
俺はペンを置き、彼女の目を真っ直ぐ見て、手話で続けた。
『君の話を聞くのは、好きだ』
俺の言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。
そして、みるみるうちに顔を真っ赤にして、ノートで顔を隠してしまった。その隙間から見える耳まで、林檎のように赤くなっている。
その反応が可愛すぎて、俺は思わず笑ってしまった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
あっという間の時間だった。
俺たちは名残惜しさを感じながら、慌ててノートを鞄にしまう。
帰り際、彼女が俺の制服の袖を、ちょん、と遠慮がちに引っ張った。
俺が振り返ると、彼女は自分のノートの端を俺に見せてきた。
そこには、小さな、少し震えた文字で、こう書かれていた。
『また、明日もここで話したいな』
俺は、その言葉がどうしようもなく嬉しくて。
力強く頷くと、とびきりの笑顔で、手話で返した。
『もちろん』
図書室を出て、それぞれの教室に戻る。
これからの昼休みは、俺たち二人だけの、秘密の授業時間になるだろう。
彼女の知らない一面を知るたびに、俺はもっと、どうしようもなく彼女に惹かれていく。この気持ちの正体に気づくのは、もう少しだけ先の話だ。
だが、同時に俺はもどかしさも感じ始めていた。
教室は、秘密を交わすにはあまりにもオープンな場所だ。先生やクラスメイトの目を盗んで交わせる言葉は、どうしても断片的になってしまう。
その日も、そうだった。
休み時間、俺が新しい手話を披露した時だ。確か「夢」という単語だったと思う。こめかみに当てた指を、ふわりと開く動作。
それを見た月宮さんは、何かを思いついたように目を輝かせ、興奮した様子で指を動かし始めた。しかし、その動きは複雑で、俺の知らない単語ばかりだった。
俺が困惑して首を傾げると、彼女はハッとしたように動きを止め、そして、とても残念そうな顔で小さく首を振った。伝えたいのに、伝えられない。そのもどかしさが、彼女の表情から痛いほど伝わってきた。
その顔を見て、俺は強く思った。
もっと、ちゃんと話したい。
周りの目を気にせず、彼女の言葉を、一つ残らず受け止められる場所が欲しい。
放課後の教室は良いが、いつ誰が来るか分からない。屋上は立ち入り禁止だ。
そして、俺の頭に一つの場所が思い浮かんだ。
図書室。
あそこなら、静かで、人も少ない。特に一番奥の閲覧スペースは、ほとんど誰も利用していない穴場だ。
俺は決意した。次の昼休み、彼女を誘ってみよう。
緊張で、少し汗ばんだ手でペンを握りしめる。授業の内容なんて、全く頭に入ってこなかった。
昼休み。健太が「食堂行こうぜ!」と肩を組んでくるのを、俺は「悪い、ちょっと調べたいことがあって図書室行くわ」と断った。
「は? 図書室? お前が? 明日は槍でも降るんじゃねえか」
健太は心底意外そうな顔をしたが、「まあいいや。俺は先に食ってるわ」と一人で教室を出ていった。
俺は深呼吸を一つして、まだ席で本を読んでいた月宮さんの方へ向き直った。
彼女は俺の視線に気づくと、読んでいた本から顔を上げ、不思議そうに小首を傾げる。
俺は意を決して、指を動かした。
『昼休み』『図書室』
そして、少し間を置いてから付け加える。
『話したい』
俺のメッセージを読み取ると、彼女の瞳が驚きに揺れた。そして、次の瞬間、その表情がぱあっと明るく綻んだ。それは、まるで曇り空から太陽が顔を出したかのような、鮮やかな変化だった。
彼女は、こくこくと何度も力強く頷いた。その喜びように、俺の心まで温かくなる。
俺は彼女より先に教室を出て、図書室へ向かった。
古い本の匂いがする静かな空間。俺は目的の場所、一番奥の閲覧席へと足を運んだ。大きな窓から光が差し込む、居心地の良さそうなスペースだ。
しばらくして、月宮さんが静かな足取りでやってきた。俺の向かいの席に、彼女は少し緊張した面持ちで腰を下ろす。
二人きりの空間。聞こえるのは、微かな空調の音と、ページをめくる遠くの音だけ。
この静寂が、なんだか心地よかった。
俺は鞄からノートとペンを取り出し、机の上に置いた。そして、手話で伝える。
『まだ、俺は知らない言葉が多いから。これで、教えてほしい』
俺がノートを指差すと、彼女はなるほど、というように目を丸くして、すぐに自分も小さなノートとペンを取り出した。準備がいい。もしかしたら、彼女もこんな時を待っていてくれたのかもしれない。
最初のうちは、少しぎこちなかった。
俺がノートに『さっき、休み時間に言いたかったことは?』と書くと、彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤らめ、ノートに返事を書いてくれる。
『航くんが見せてくれた「夢」の手話を見て、私の夢の話をしたいなって思ったの』
航くん、という文字に心臓が跳ねた。指文字でしか伝え合っていなかった名前を、こうして文字で見ると、また違った破壊力がある。
俺は平静を装い、さらに書き込んだ。
『君の夢って?』
すると、彼女の目の色が、きらりと変わった。
そこからは、もう彼女の独壇場だった。
『私、将来は絵本作家になりたいの!』
彼女は勢いよくそう書くと、自分の手話も交えて、その夢について語り始めた。
『言葉がなくても、絵だけで気持ちが伝わるような、優しいお話を描きたい』
そう言いながら、彼女は指先で、ページをめくる仕草や、子供が笑う仕草をしてみせる。その表情は生き生きとしていて、情熱に満ち溢れていた。
俺が今まで見てきた、どの月宮雫とも違う顔だった。
クールでミステリアスな、クラスの片隅にいた彼女。
俺にだけ、はにかんだ笑顔を見せてくれるようになった彼女。
そして今、目の前にいるのは、自分の夢を語る、一人の表現者としての彼女。
俺は完全に、彼女の世界に引き込まれていた。
彼女は、自分が好きな絵本作家の名前をノートに書き連ね、その人の絵のどこが素晴らしいのかを、身振り手振りを交えて熱弁してくれる。時々、俺が知らない手話が出ると、その都度ノートに意味を書いてくれる。
その姿は、まるで熱心な先生のようだった。
「すごいな、月宮さん。本当に絵本が好きなんだな」
俺が声でそう言うと、彼女は少し驚いた顔をして、それから最高に嬉しそうな笑顔で頷いた。
そして、ノートにペンを走らせる。
『航くんは? 夢とか、ある?』
俺の夢。考えたこともなかった。
俺は少し悩んでから、ノートに正直な気持ちを書いた。
『まだ、分からない。でも』
俺はペンを置き、彼女の目を真っ直ぐ見て、手話で続けた。
『君の話を聞くのは、好きだ』
俺の言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。
そして、みるみるうちに顔を真っ赤にして、ノートで顔を隠してしまった。その隙間から見える耳まで、林檎のように赤くなっている。
その反応が可愛すぎて、俺は思わず笑ってしまった。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
あっという間の時間だった。
俺たちは名残惜しさを感じながら、慌ててノートを鞄にしまう。
帰り際、彼女が俺の制服の袖を、ちょん、と遠慮がちに引っ張った。
俺が振り返ると、彼女は自分のノートの端を俺に見せてきた。
そこには、小さな、少し震えた文字で、こう書かれていた。
『また、明日もここで話したいな』
俺は、その言葉がどうしようもなく嬉しくて。
力強く頷くと、とびきりの笑顔で、手話で返した。
『もちろん』
図書室を出て、それぞれの教室に戻る。
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