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第90話 心の叫び
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救急車のサイレンがけたたましく鳴り響く。
俺の周りを白い制服を着た救急隊員たちが取り囲み、テキパキと状況を確認し始めた。
「意識ははっきりしていますね。腕の裂傷と打撲……念のため、病院で詳しく検査しましょう」
「大丈夫です、大したことないんで……」
俺は雫を安心させたくてそう言おうとした。だが、隊員たちは俺の言葉を聞き入れることなく、マニュアル通りに処置を進めていく。
左腕に手早く包帯が巻かれる。
そして俺の体は有無を言わさずストレッチャーの上に乗せられた。
視界が急に高くなる。
周りの人々の心配そうな顔、顔、顔。
その人垣の向こうに彼女の姿が見えた。
雫。
彼女は少し離れた場所でただ立ち尽くしていた。
俺の腕の中であれだけ泣きじゃくっていたのに。
今の彼女の瞳からは涙は一滴もこぼれていなかった。
その代わり、その瞳には底なしの深い、暗い絶望の色が宿っていた。
その瞳を見た瞬間、俺は思い出した。
事故のあの瞬間。
俺が車に接触し、アスファルトの上に倒れたあの時の彼女の顔を。
―――
その瞬間、雫の世界から全ての音が消えた。
キャッキャとはしゃいでいた子供たちの声が消える。
木々を揺らす夏の風の音が消える。
遠くで鳴いていたひぐらしの声も聞こえなくなった。
世界は完全な無音のガラスケースの中に閉じ込められた。
スローモーションのように世界が動く。
航くんがベンチを蹴って駆け出す。
その必死の形相。
道路に飛び出そうとする小さな女の子。
そこに迫る黒い鉄の塊。
やめて。
心の奥で誰かが叫ぶ。
でも、その声は音にならない。
航くんの体が女の子を腕の中に抱きかかえる。
そして、アスファルトの上を転がる。
ガシャン、という鈍い音。
それは聞こえなかったはずなのに、なぜか頭蓋骨の奥ではっきりと響いた。
航くんが倒れる。
破れたシャツの袖から、鮮やかな赤色がじわりと滲み出す。
そのあまりにも鮮烈な「赤」が、雫の世界の全ての色を奪っていった。
時間が止まる。
動かない航くん。
苦痛に歪むその顔。
いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
失うのはもう嫌だ。
大切なものが目の前から消えてしまうのは、もう二度と見たくない。
航くんがいなくなったら?
もうあの優しい笑顔が見れなくなったら?
もうあの温かい手で頭を撫でてもらえなくなったら?
もう「雫」と、あの美しい指で名前を呼んでもらえなくなったら?
どうしよう。
どうしたらいいの。
息ができない。
体が動かない。
指先が氷のように冷たくなっていく。
―――
ストレッチャーがゆっくりと動き出した。
俺の体が救急車の開かれたバックドアへと運ばれていく。
まずい。
このまま彼女を一人にして行ってしまうわけにはいかない。
「雫!」
俺は叫んだ。
「大丈夫だから! すぐに戻るから!」
俺の必死の叫び。
でも、彼女には届いていない。
彼女の瞳には、俺がどこか遠い場所へ、もう二度と会えない場所へ連れ去られていくようにしか見えていなかった。
待って。
行かないで。
私を一人にしないで。
彼女の心の中が悲痛な叫びで満たされていく。
声に出したい。
指を動かしたい。
でも、喉も指も鉛のように重く動かない。
俺の体が救急車の暗がりの中へと半分吸い込まれた。
ドアが閉まり始めている。
その無機質なドアが、俺と彼女の世界を完全に分断しようとしていた。
その瞬間だった。
彼女の喉の奥から。
今まで感じたことのない、熱い灼けるような塊が突き上げてきた。
失いたくない。
ただその一つの、純粋で強烈な想い。
その想いが彼女の心の奥底に固く、固く閉ざされていた、声という名の扉を。
錆びついた錠前を力任せに引きちぎるようにこじ開けた。
迸る心の叫び。
それは声と呼ぶにはあまりにも掠れていて不格好で。
今まで一度も使われたことのなかった声帯が無理やり震わされて軋むような音だった。
でも、それは紛れもなく。
一人の少女の魂の全てを乗せた叫びだった。
「ぁ…………」
喉から空気が漏れる。
「わた、る……く…………」
名前を呼ぼうとしている。
そして、最後の力の限りを振り絞って。
「航くんッ!!!!」
その叫び声が。
公園の騒然とした空気を切り裂いた。
けたたましいサイレンの音も人々のざわめきも全てをかき消して。
そのたった一言だけが、世界に響き渡った。
救急車のドアを閉めようとしていた隊員の手が止まる。
周りで心配そうに見守っていた人々が息をのむ。
そして、ストレッチャーの上にいた俺も。
信じられないというように目を見開いたまま固まっていた。
声の主である雫自身が。
一番驚いていた。
彼女は自分の喉にそっと手を当てた。
そして、信じられないというように震える唇でぱくぱくと息をする。
自分の喉から今、確かに「声」が発せられたという事実を理解できずに。
夏の終わりの公園で。
時間は完全に止まっていた。
ただ、彼女の心の叫びの余韻だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っているような気がした。
俺の周りを白い制服を着た救急隊員たちが取り囲み、テキパキと状況を確認し始めた。
「意識ははっきりしていますね。腕の裂傷と打撲……念のため、病院で詳しく検査しましょう」
「大丈夫です、大したことないんで……」
俺は雫を安心させたくてそう言おうとした。だが、隊員たちは俺の言葉を聞き入れることなく、マニュアル通りに処置を進めていく。
左腕に手早く包帯が巻かれる。
そして俺の体は有無を言わさずストレッチャーの上に乗せられた。
視界が急に高くなる。
周りの人々の心配そうな顔、顔、顔。
その人垣の向こうに彼女の姿が見えた。
雫。
彼女は少し離れた場所でただ立ち尽くしていた。
俺の腕の中であれだけ泣きじゃくっていたのに。
今の彼女の瞳からは涙は一滴もこぼれていなかった。
その代わり、その瞳には底なしの深い、暗い絶望の色が宿っていた。
その瞳を見た瞬間、俺は思い出した。
事故のあの瞬間。
俺が車に接触し、アスファルトの上に倒れたあの時の彼女の顔を。
―――
その瞬間、雫の世界から全ての音が消えた。
キャッキャとはしゃいでいた子供たちの声が消える。
木々を揺らす夏の風の音が消える。
遠くで鳴いていたひぐらしの声も聞こえなくなった。
世界は完全な無音のガラスケースの中に閉じ込められた。
スローモーションのように世界が動く。
航くんがベンチを蹴って駆け出す。
その必死の形相。
道路に飛び出そうとする小さな女の子。
そこに迫る黒い鉄の塊。
やめて。
心の奥で誰かが叫ぶ。
でも、その声は音にならない。
航くんの体が女の子を腕の中に抱きかかえる。
そして、アスファルトの上を転がる。
ガシャン、という鈍い音。
それは聞こえなかったはずなのに、なぜか頭蓋骨の奥ではっきりと響いた。
航くんが倒れる。
破れたシャツの袖から、鮮やかな赤色がじわりと滲み出す。
そのあまりにも鮮烈な「赤」が、雫の世界の全ての色を奪っていった。
時間が止まる。
動かない航くん。
苦痛に歪むその顔。
いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
失うのはもう嫌だ。
大切なものが目の前から消えてしまうのは、もう二度と見たくない。
航くんがいなくなったら?
もうあの優しい笑顔が見れなくなったら?
もうあの温かい手で頭を撫でてもらえなくなったら?
もう「雫」と、あの美しい指で名前を呼んでもらえなくなったら?
どうしよう。
どうしたらいいの。
息ができない。
体が動かない。
指先が氷のように冷たくなっていく。
―――
ストレッチャーがゆっくりと動き出した。
俺の体が救急車の開かれたバックドアへと運ばれていく。
まずい。
このまま彼女を一人にして行ってしまうわけにはいかない。
「雫!」
俺は叫んだ。
「大丈夫だから! すぐに戻るから!」
俺の必死の叫び。
でも、彼女には届いていない。
彼女の瞳には、俺がどこか遠い場所へ、もう二度と会えない場所へ連れ去られていくようにしか見えていなかった。
待って。
行かないで。
私を一人にしないで。
彼女の心の中が悲痛な叫びで満たされていく。
声に出したい。
指を動かしたい。
でも、喉も指も鉛のように重く動かない。
俺の体が救急車の暗がりの中へと半分吸い込まれた。
ドアが閉まり始めている。
その無機質なドアが、俺と彼女の世界を完全に分断しようとしていた。
その瞬間だった。
彼女の喉の奥から。
今まで感じたことのない、熱い灼けるような塊が突き上げてきた。
失いたくない。
ただその一つの、純粋で強烈な想い。
その想いが彼女の心の奥底に固く、固く閉ざされていた、声という名の扉を。
錆びついた錠前を力任せに引きちぎるようにこじ開けた。
迸る心の叫び。
それは声と呼ぶにはあまりにも掠れていて不格好で。
今まで一度も使われたことのなかった声帯が無理やり震わされて軋むような音だった。
でも、それは紛れもなく。
一人の少女の魂の全てを乗せた叫びだった。
「ぁ…………」
喉から空気が漏れる。
「わた、る……く…………」
名前を呼ぼうとしている。
そして、最後の力の限りを振り絞って。
「航くんッ!!!!」
その叫び声が。
公園の騒然とした空気を切り裂いた。
けたたましいサイレンの音も人々のざわめきも全てをかき消して。
そのたった一言だけが、世界に響き渡った。
救急車のドアを閉めようとしていた隊員の手が止まる。
周りで心配そうに見守っていた人々が息をのむ。
そして、ストレッチャーの上にいた俺も。
信じられないというように目を見開いたまま固まっていた。
声の主である雫自身が。
一番驚いていた。
彼女は自分の喉にそっと手を当てた。
そして、信じられないというように震える唇でぱくぱくと息をする。
自分の喉から今、確かに「声」が発せられたという事実を理解できずに。
夏の終わりの公園で。
時間は完全に止まっていた。
ただ、彼女の心の叫びの余韻だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っているような気がした。
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