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第26話:リナリアの噂
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王宮からの使者たちが慌ただしく去った後、応接室には重苦しい沈黙が残された。
テーブルの上に置かれた、壊れた聖剣『エクシード』の入った桐の箱が、まるで不吉な存在のように、部屋の空気を圧迫している。
アシュレイ様は、椅子に深く腰掛けたまま、固く目を閉じていた。その整った貌は完璧な無表情を保っていたが、ぎゅっと握り締められた拳が、彼の内に渦巻く激しい怒りを物語っていた。
「……申し訳、ありません」
私は、か細い声で謝罪した。
「私のせいで、アシュレイ様に、このようなご面倒を……」
私のその言葉に、彼はゆっくりと目を開けた。そして、私の不安を見透かしたように、静かに首を横に振る。
「君が謝ることではない、リナリア」
彼は立ち上がると、私のそばまで歩み寄り、私の肩を優しく抱いた。
「これは、私を牽制したい者たちの、浅はかな策略だ。君を政治の駆け引きの駒に利用しようなど、万死に値する」
その声は、氷のように冷たく、静かな怒りに満ちていた。国王陛下や、その裏で糸を引いているであろう者たちに向けられた、紛れもない敵意。
「ですが、国王陛下のご命令に逆らうわけには……」
「案ずるな。私に考えがある」
彼はそう言うと、私を安心させるように、その腕に少しだけ力を込めた。彼の確かな体温が、私の不安を少しずつ溶かしてくれる。
「君は、何も心配しなくていい。ただ、いつも通り、私の傍にいてくれればいい」
その言葉は、いつもと変わらぬ優しさに満ちていた。けれど、私は分かっていた。この日から、私たちの穏やかな日常は、もう戻らないのだと。
その予感は、すぐに現実のものとなった。
アシュレイ様が私の力を王に示せと勅命を受けたという報せは、瞬く間に王都の社交界を駆け巡った。それと同時に、これまで一部の者たちの間で囁かれていたに過ぎなかった、私に関する噂も、一気に真実味を帯びて広まっていったのだ。
どこかの貴族のサロンでは、扇子で口元を隠した貴婦人たちが、蜜を求める蜂のように噂話に群がっていた。
「まあ、お聞きになって? あの氷の公爵様を夢中にさせているという娘、やはりただ者ではなかったようですわ」
「エルフィールド家の出来損ないと聞いておりましたけれど、まさか王家を動かすほどの力を持っていたなんて」
「いいえ、きっと何か邪な力ですわ。でなければ、あの第二王子殿下に恥をかかせて勘当されるような娘が、公爵様に取り入ることなどできませんもの」
噂は、人々の口から口へと渡るうちに、好き勝手な憶測と悪意にまみれていく。
私が公爵様を誑かした魔性の女であるという説。
私が実は、隣国のゼノビアから送り込まれた密偵であるという説。
私が持つ力は、聖なる力ではなく、悪魔から与えられた禁忌の術であるという説。
どれもこれも、荒唐無稽なものばかりだった。けれど、退屈な日常に刺激を求める貴族たちにとって、それらは格好の娯楽となった。
アシュレイ様は、私がそういった汚らわしい噂を耳にすることがないよう、細心の注意を払ってくれていた。私が出入りするのは屋敷の中だけに限られ、新聞や雑誌の類も、全て彼の検閲を通してから私の元へ届けられた。
けれど、完全に情報を遮断することはできなかった。
ある日、私に仕えてくれる若い侍女の一人が、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
「リナリア様は、本当にお優しい方なのに……。街では、皆様ひどいことばかりを……」
彼女ははっとして口をつぐんだが、もう遅かった。
その夜、私はベッドの中で一人、静かに涙を流した。
やはり、私の存在は、アシュレイ様にとって迷惑でしかないのではないか。私が彼の傍にいればいるほど、彼の輝かしい名声に泥を塗ってしまうのではないか。
そんな黒い考えが、毒のように私の心を蝕んでいく。
翌朝、私の顔色が悪いことに気づいたアシュレイ様は、全てを察したようだった。
彼はその日の『癒やしの時間』を終えると、私を執務室へと連れて行った。そこには、執事長のセバスチャンさんも控えている。
「リナリア。君を不安にさせて、すまなかった」
アシュレイ様は、私の前に跪くと、私の両手を固く握りしめた。
「街の噂など、気にする必要はない。あれは、真実を知らぬ愚か者たちの戯言だ」
「ですが……」
「君は、何も悪くない。悪いのは、君を利用しようとする者たちと、それに踊らされる者たちだ」
彼はそう言うと、セバスチャンさんに向き直った。
「セバスチャン。調査の報告を」
「はっ」
セバスチャンさんは、厳かな様子で一枚の羊皮紙を取り出した。
「リナリア様に関する噂の出所、判明いたしました。発端は、エルフィールド伯爵家から漏れた情報に間違いございません。イザベラ様が、懇意にしているご令嬢方に、ことさらにリナリア様のことを悪し様に吹聴していたようでございます」
「……やはりか」
アシュレイ様の目が、鋭く細められる。
「それに加え、第二王子エドワード殿下の取り巻きたちが、その噂に尾ひれをつけ、意図的に拡散させておりました。『公爵は色香に迷い、正気を失った』と、公爵閣下の評判を貶めるのが目的かと」
その報告を聞いて、私の心は冷たくなった。
また、姉様と王子殿下が……。どこまでも、私を苦しめるのか。
アシュレイ様は、私の手をさらに強く握った。
「分かったか、リナリア。君は、被害者なのだ。君が、心を痛める必要など微塵もない」
彼はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。そして、絶対的な自信に満ちた声で、私に告げた。
「だが、この状況も、もうすぐ終わる」
「え……?」
「国王陛下からの勅命、私にとっては好都合だった。これで、君の力を、公の場で証明することができる」
彼の紫の瞳が、怜悧な光を宿して輝いていた。
「君が聖剣エクシードを修復すれば、どうなると思う?」
「……どう、なるのでしょうか」
「君は、もはや『エルフィールド家の出来損ない』でも、『公爵に拾われた謎の娘』でもなくなる。百年もの間、誰も成し得なかった奇跡を起こした、『国を救う聖女』として、王家と国民から認められることになるのだ」
聖女。その言葉の響きに、私は戸惑いを隠せない。
「そうなれば、もはや誰も君のことを悪く言うことはできなくなる。君を侮辱することは、王家が認めた聖女を、そしてこの国そのものを侮辱することと同義になるからな。……これが、私の描いた筋書きだ」
それは、私を守るための、完璧な戦略だった。私の力を逆手に取り、私の立場を絶対的なものへと引き上げる。彼の頭脳の明晰さと、私を守るという強い意志に、私はただ圧倒されるばかりだった。
「だから、恐れることはない」
彼は、私の頬にそっと触れた。
「君は、ただ、君の思うままに、その力を使えばいい。後のことは、全て私が引き受ける」
その言葉は、何よりも心強かった。
私の心の中に巣食っていた黒い霧が、彼の力強い光によって、すうっと晴れていくのを感じた。
そうだ。私は、もう一人ではない。
この人が、私を信じてくれている。
「……はい」
私は、涙で濡れた瞳で、彼をまっすぐに見上げた。
「私、やります。聖剣を、必ず修復してみせます。アシュレイ様のために」
私の決意を聞いて、彼は深く、そして優しく微笑んだ。
「ああ。私は、信じている」
それは、私たちの反撃の狼煙だった。
私を虐げ、利用しようとする者たちへの、静かで、しかし確実な反撃。
私の運命が、再び大きく動き出そうとしていた。
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「……申し訳、ありません」
私は、か細い声で謝罪した。
「私のせいで、アシュレイ様に、このようなご面倒を……」
私のその言葉に、彼はゆっくりと目を開けた。そして、私の不安を見透かしたように、静かに首を横に振る。
「君が謝ることではない、リナリア」
彼は立ち上がると、私のそばまで歩み寄り、私の肩を優しく抱いた。
「これは、私を牽制したい者たちの、浅はかな策略だ。君を政治の駆け引きの駒に利用しようなど、万死に値する」
その声は、氷のように冷たく、静かな怒りに満ちていた。国王陛下や、その裏で糸を引いているであろう者たちに向けられた、紛れもない敵意。
「ですが、国王陛下のご命令に逆らうわけには……」
「案ずるな。私に考えがある」
彼はそう言うと、私を安心させるように、その腕に少しだけ力を込めた。彼の確かな体温が、私の不安を少しずつ溶かしてくれる。
「君は、何も心配しなくていい。ただ、いつも通り、私の傍にいてくれればいい」
その言葉は、いつもと変わらぬ優しさに満ちていた。けれど、私は分かっていた。この日から、私たちの穏やかな日常は、もう戻らないのだと。
その予感は、すぐに現実のものとなった。
アシュレイ様が私の力を王に示せと勅命を受けたという報せは、瞬く間に王都の社交界を駆け巡った。それと同時に、これまで一部の者たちの間で囁かれていたに過ぎなかった、私に関する噂も、一気に真実味を帯びて広まっていったのだ。
どこかの貴族のサロンでは、扇子で口元を隠した貴婦人たちが、蜜を求める蜂のように噂話に群がっていた。
「まあ、お聞きになって? あの氷の公爵様を夢中にさせているという娘、やはりただ者ではなかったようですわ」
「エルフィールド家の出来損ないと聞いておりましたけれど、まさか王家を動かすほどの力を持っていたなんて」
「いいえ、きっと何か邪な力ですわ。でなければ、あの第二王子殿下に恥をかかせて勘当されるような娘が、公爵様に取り入ることなどできませんもの」
噂は、人々の口から口へと渡るうちに、好き勝手な憶測と悪意にまみれていく。
私が公爵様を誑かした魔性の女であるという説。
私が実は、隣国のゼノビアから送り込まれた密偵であるという説。
私が持つ力は、聖なる力ではなく、悪魔から与えられた禁忌の術であるという説。
どれもこれも、荒唐無稽なものばかりだった。けれど、退屈な日常に刺激を求める貴族たちにとって、それらは格好の娯楽となった。
アシュレイ様は、私がそういった汚らわしい噂を耳にすることがないよう、細心の注意を払ってくれていた。私が出入りするのは屋敷の中だけに限られ、新聞や雑誌の類も、全て彼の検閲を通してから私の元へ届けられた。
けれど、完全に情報を遮断することはできなかった。
ある日、私に仕えてくれる若い侍女の一人が、うっかり口を滑らせてしまったのだ。
「リナリア様は、本当にお優しい方なのに……。街では、皆様ひどいことばかりを……」
彼女ははっとして口をつぐんだが、もう遅かった。
その夜、私はベッドの中で一人、静かに涙を流した。
やはり、私の存在は、アシュレイ様にとって迷惑でしかないのではないか。私が彼の傍にいればいるほど、彼の輝かしい名声に泥を塗ってしまうのではないか。
そんな黒い考えが、毒のように私の心を蝕んでいく。
翌朝、私の顔色が悪いことに気づいたアシュレイ様は、全てを察したようだった。
彼はその日の『癒やしの時間』を終えると、私を執務室へと連れて行った。そこには、執事長のセバスチャンさんも控えている。
「リナリア。君を不安にさせて、すまなかった」
アシュレイ様は、私の前に跪くと、私の両手を固く握りしめた。
「街の噂など、気にする必要はない。あれは、真実を知らぬ愚か者たちの戯言だ」
「ですが……」
「君は、何も悪くない。悪いのは、君を利用しようとする者たちと、それに踊らされる者たちだ」
彼はそう言うと、セバスチャンさんに向き直った。
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セバスチャンさんは、厳かな様子で一枚の羊皮紙を取り出した。
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「分かったか、リナリア。君は、被害者なのだ。君が、心を痛める必要など微塵もない」
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「え……?」
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