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第64話:湖の浄化
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村長のゲルハルトさんに先導され、私たちは薄暗い森の中へと足を踏み入れた。
アシュレイ様は私の半歩前を歩き、その鋭い視線で常に周囲を警戒している。彼の腰に下げられた剣の柄に、常に手が置かれているのが、この森が放つ尋常ならざる気配を物語っていた。
森は、不気味なほどに静かだった。
鳥の声も、虫の音も、風が木々の葉を揺らす音さえもほとんど聞こえない。生命の息吹が、完全に消え失せているかのようだ。地面に積もった落ち葉は湿って黒く変色し、踏みしめるたびに、じゅくりと嫌な音を立てた。
そして、歩を進めるにつれて、鼻をつく微かな、しかし明らかな異臭が漂い始めた。それは、淀んだ水と腐敗した何かが混じり合ったような、不快な匂いだった。
「……リナリア。気分は悪くないか」
アシュレイ様が、心配そうに振り返る。
「はい。大丈夫です」
私は毅然と答えた。確かに空気は重く、肌にまとわりつくような湿気と悪臭は決して心地よいものではない。けれど、私の心は不思議と落ち着いていた。
近づけば近づくほど、呪いの正体がその輪郭をはっきりとさせていくのを感じる。それは巨大で、邪悪で、そして深く哀しんでいる、歪んだエネルギーの塊だった。
しばらく森の中を歩き続けると、木々の切れ間から不気味な光景が目に入ってきた。
湖だ。
かつては『女神の涙』と呼ばれたというその湖は、もはやその美しい名前の面影をどこにも残していなかった。
湖の水は、まるでインクを溶かしたかのようにどす黒く濁り、その表面には油のような虹色の膜が不気味に揺らめいている。湖岸には、枯れて白骨化した木々がまるで墓標のように突き出し、湖全体からはよどんだ濃密な瘴気が陽炎のように立ち上っていた。
その光景は、まさに『死の湖』と呼ぶに相応しかった。
「……これが」
私は息をのんだ。
これほどまでに強く、そして巨大な呪いを私はこれまで感じたことがなかった。アシュレイ様の呪いなど、これに比べればまるで小さな染みのように思えるほどだ。
「閣下、聖女様。これ以上は……」
村長のゲルハルトさんが顔を真っ青にさせ、震える声で言った。彼はこの場所に立っているだけで、呼吸が苦しくなってくるようだった。
「ゲルハルト、君はここで待っていろ」
アシュレイ様が威厳のある声で命じる。そして、私に向き直った。
「リナリア。……やれるか」
その問いは私の能力を試すものではなかった。ただ、純粋に私の覚悟を問うていた。
私は黙って力強く頷いた。
やれるか、ではない。
やらなければならないのだ。
この哀れな湖を、そしてこの土地に生きる人々を救うために。
私はアシュレイ様と共に湖岸ギリギリまで歩み寄った。そして、しゃがみこむと、そのどす黒く濁った水面にそっと自分の両手を浸した。
ひやり、というよりも、ぬるりとした、生命感のない嫌な感触。
水の中から負のエネルギーが、まるで無数の見えない手に掴まれるかのように、私の腕を這い上がってくるのが分かった。普通の人間であればこの瘴気に触れただけで、たちまち病に倒れてしまうだろう。
しかし、私の内なる力はその瘴気に怯むことはなかった。
私は目を閉じた。
そして、私の魂の奥底で眠る黄金色の光を呼び覚ました。
スキル【修復】。
私の全ての力を、今、この瞬間に。
私はただ湖の水を浄化するだけではない。この湖そのものを、そしてこの湖が抱え込んできた五年分の深い哀しみと苦しみを、根源から『修復』するイメージを強く、強く思い描いた。
かつての、女神の涙と呼ばれた清らかな姿へ。
生命の喜びに満ち溢れていた、本来のあなたへ。
――還りなさい!
私の両手から、これまでにないほど強く、そして眩い黄金色の光が迸った。
その光は、まるで水面に投げ込まれた太陽のように、湖の濁った水の中へと一気に広がっていく。
ジュウウウウウウッ!
光が瘴気に触れるたびに、まるで闇が光に焼かれるかのような激しい音が響き渡った。湖面が沸騰したかのように激しく泡立ち、黒い水蒸気がもうもうと立ち上る。
私の身体から膨大なエネルギーが、凄まじい勢いで吸い取られていく。額には玉のような汗が浮かび、呼吸が少しだけ苦しくなる。
「リナリア!」
アシュレイ様の緊迫した声が聞こえた。彼の大きな手が私の肩を力強く支えてくれる。その温もりが、私の最後の支えとなった。
負けない。
私は歯を食いしばり、さらに強く力を込めた。
私の黄金色の光は、もはや湖全体を覆い尽くさんばかりにその輝きを増していく。
光は湖の水を浄化し、湖の底に溜まった汚泥を分解し、そしてこの土地そのものを蝕んでいた呪いの根源そのものを、完全に消滅させていく。
やがて、激しく泡立っていた湖面がゆっくりとその静けさを取り戻し始めた。
立ち上っていた黒い水蒸気は消え、代わりに清らかな白い湯気がふわりと立ち上る。
そして、私の両手が浸かっていたどす黒い水の色が。
徐々に、徐々にその濁りを失い、薄まっていくのが目を閉じていても分かった。
黒から灰色へ。
灰色から茶色へ。
そして茶色から、まるで奇跡のように澄み切った透明な色へと変わっていく。
全ての浄化が終わった瞬間。
私の手から放たれていた黄金色の光は、すうっとその輝きを収めた。
私はゆっくりと目を開けた。
そして目の前に広がる光景に息をのんだ。
そこにあったのは、もはや『死の湖』ではなかった。
湖の水は、その底にある白い砂地が揺らめいて見えるほどに、どこまでもどこまでも透き通っている。湖の表面は、まるで磨き上げられた鏡のように青い空と周りの木々を完璧に映し出していた。
湖岸に突き出していた白骨化した木々からは、信じられないことに小さな緑色の新芽が一斉に芽吹き始めていた。
淀んでいた悪臭は完全に消え失せ、代わりに雨上がりの森のような、清々しくそして生命力に満ちた空気が私たちの周りを満たしていた。
「……できた」
私は安堵のため息と共にその場にへなへなと座り込んでしまった。全身の力はほとんど使い果たしていたが、私の心はこれ以上ないほどの達成感と温かい喜びで満たされていた。
「……信じられん」
私の背後からアシュレイ様の呆然とした声が聞こえた。
「君は、本当に……。私の想像を遥かに超えていく……」
彼は私の隣に跪くと、その腕で私の疲弊した身体を優しく、そして力強く支えてくれた。
その時だった。
静かになった湖の中心から、ぽこんと一つの水泡が上がった。
そして、その水面がふわりと優しい光を放ち始めたのだ。
それは、これから起こるさらなる奇跡のほんの始まりに過ぎなかった。
アシュレイ様は私の半歩前を歩き、その鋭い視線で常に周囲を警戒している。彼の腰に下げられた剣の柄に、常に手が置かれているのが、この森が放つ尋常ならざる気配を物語っていた。
森は、不気味なほどに静かだった。
鳥の声も、虫の音も、風が木々の葉を揺らす音さえもほとんど聞こえない。生命の息吹が、完全に消え失せているかのようだ。地面に積もった落ち葉は湿って黒く変色し、踏みしめるたびに、じゅくりと嫌な音を立てた。
そして、歩を進めるにつれて、鼻をつく微かな、しかし明らかな異臭が漂い始めた。それは、淀んだ水と腐敗した何かが混じり合ったような、不快な匂いだった。
「……リナリア。気分は悪くないか」
アシュレイ様が、心配そうに振り返る。
「はい。大丈夫です」
私は毅然と答えた。確かに空気は重く、肌にまとわりつくような湿気と悪臭は決して心地よいものではない。けれど、私の心は不思議と落ち着いていた。
近づけば近づくほど、呪いの正体がその輪郭をはっきりとさせていくのを感じる。それは巨大で、邪悪で、そして深く哀しんでいる、歪んだエネルギーの塊だった。
しばらく森の中を歩き続けると、木々の切れ間から不気味な光景が目に入ってきた。
湖だ。
かつては『女神の涙』と呼ばれたというその湖は、もはやその美しい名前の面影をどこにも残していなかった。
湖の水は、まるでインクを溶かしたかのようにどす黒く濁り、その表面には油のような虹色の膜が不気味に揺らめいている。湖岸には、枯れて白骨化した木々がまるで墓標のように突き出し、湖全体からはよどんだ濃密な瘴気が陽炎のように立ち上っていた。
その光景は、まさに『死の湖』と呼ぶに相応しかった。
「……これが」
私は息をのんだ。
これほどまでに強く、そして巨大な呪いを私はこれまで感じたことがなかった。アシュレイ様の呪いなど、これに比べればまるで小さな染みのように思えるほどだ。
「閣下、聖女様。これ以上は……」
村長のゲルハルトさんが顔を真っ青にさせ、震える声で言った。彼はこの場所に立っているだけで、呼吸が苦しくなってくるようだった。
「ゲルハルト、君はここで待っていろ」
アシュレイ様が威厳のある声で命じる。そして、私に向き直った。
「リナリア。……やれるか」
その問いは私の能力を試すものではなかった。ただ、純粋に私の覚悟を問うていた。
私は黙って力強く頷いた。
やれるか、ではない。
やらなければならないのだ。
この哀れな湖を、そしてこの土地に生きる人々を救うために。
私はアシュレイ様と共に湖岸ギリギリまで歩み寄った。そして、しゃがみこむと、そのどす黒く濁った水面にそっと自分の両手を浸した。
ひやり、というよりも、ぬるりとした、生命感のない嫌な感触。
水の中から負のエネルギーが、まるで無数の見えない手に掴まれるかのように、私の腕を這い上がってくるのが分かった。普通の人間であればこの瘴気に触れただけで、たちまち病に倒れてしまうだろう。
しかし、私の内なる力はその瘴気に怯むことはなかった。
私は目を閉じた。
そして、私の魂の奥底で眠る黄金色の光を呼び覚ました。
スキル【修復】。
私の全ての力を、今、この瞬間に。
私はただ湖の水を浄化するだけではない。この湖そのものを、そしてこの湖が抱え込んできた五年分の深い哀しみと苦しみを、根源から『修復』するイメージを強く、強く思い描いた。
かつての、女神の涙と呼ばれた清らかな姿へ。
生命の喜びに満ち溢れていた、本来のあなたへ。
――還りなさい!
私の両手から、これまでにないほど強く、そして眩い黄金色の光が迸った。
その光は、まるで水面に投げ込まれた太陽のように、湖の濁った水の中へと一気に広がっていく。
ジュウウウウウウッ!
光が瘴気に触れるたびに、まるで闇が光に焼かれるかのような激しい音が響き渡った。湖面が沸騰したかのように激しく泡立ち、黒い水蒸気がもうもうと立ち上る。
私の身体から膨大なエネルギーが、凄まじい勢いで吸い取られていく。額には玉のような汗が浮かび、呼吸が少しだけ苦しくなる。
「リナリア!」
アシュレイ様の緊迫した声が聞こえた。彼の大きな手が私の肩を力強く支えてくれる。その温もりが、私の最後の支えとなった。
負けない。
私は歯を食いしばり、さらに強く力を込めた。
私の黄金色の光は、もはや湖全体を覆い尽くさんばかりにその輝きを増していく。
光は湖の水を浄化し、湖の底に溜まった汚泥を分解し、そしてこの土地そのものを蝕んでいた呪いの根源そのものを、完全に消滅させていく。
やがて、激しく泡立っていた湖面がゆっくりとその静けさを取り戻し始めた。
立ち上っていた黒い水蒸気は消え、代わりに清らかな白い湯気がふわりと立ち上る。
そして、私の両手が浸かっていたどす黒い水の色が。
徐々に、徐々にその濁りを失い、薄まっていくのが目を閉じていても分かった。
黒から灰色へ。
灰色から茶色へ。
そして茶色から、まるで奇跡のように澄み切った透明な色へと変わっていく。
全ての浄化が終わった瞬間。
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私はゆっくりと目を開けた。
そして目の前に広がる光景に息をのんだ。
そこにあったのは、もはや『死の湖』ではなかった。
湖の水は、その底にある白い砂地が揺らめいて見えるほどに、どこまでもどこまでも透き通っている。湖の表面は、まるで磨き上げられた鏡のように青い空と周りの木々を完璧に映し出していた。
湖岸に突き出していた白骨化した木々からは、信じられないことに小さな緑色の新芽が一斉に芽吹き始めていた。
淀んでいた悪臭は完全に消え失せ、代わりに雨上がりの森のような、清々しくそして生命力に満ちた空気が私たちの周りを満たしていた。
「……できた」
私は安堵のため息と共にその場にへなへなと座り込んでしまった。全身の力はほとんど使い果たしていたが、私の心はこれ以上ないほどの達成感と温かい喜びで満たされていた。
「……信じられん」
私の背後からアシュレイ様の呆然とした声が聞こえた。
「君は、本当に……。私の想像を遥かに超えていく……」
彼は私の隣に跪くと、その腕で私の疲弊した身体を優しく、そして力強く支えてくれた。
その時だった。
静かになった湖の中心から、ぽこんと一つの水泡が上がった。
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