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第33話:交錯する想い、交わらない視線
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決戦前夜。
東京の空は、厚い雲に覆われ、星一つ見えなかった。まるで、これから始まる嵐を予感させるかのように。
藤堂蓮は、自室で最終調整を終えたオケ音源を、ヘッドホンで繰り返し聴いていた。ミキシングも、マスタリングも、今の自分にできる、最高のレベルまで磨き上げた。完璧な舞台は、整った。あとは、二人のボーカリストが、この舞台の上で、どんな歌を歌うのか。それを待つだけだ。
だが、蓮の心は、少しも晴れなかった。
この一週間、彼は陽葵の特訓に付きっきりだった。彼女の成長は、目覚ましいものがあった。最初はただの原石だった彼女の歌声は、蓮という研磨師によって磨かれ、確かな輝きを放ち始めていた。彼女のひたむきな努力と、自分を信じてくれる真っ直ぐな瞳は、蓮にとって何よりの救いだった。
(勝たせてやりたい)
心の底から、そう思う。
彼女の笑顔を守る。そのために、自分はこの戦いに身を投じたのだから。
しかし、その一方で。
蓮の脳裏には、瑠奈の、あの絶望を帯びた歌声が、こびりついて離れなかった。クリエイターとしての本能が、あの歌声の持つ魔的な魅力に、抗いがたく惹かれているのも、また事実だった。
もし、瑠奈があの歌声に、さらに磨きをかけてきたとしたら。
純粋な音楽的評価として、どちらの歌が優れているのか。その判断を、明日の自分は下さなければならない。
それは、あまりにも残酷な選択だった。
陽葵の未来か、瑠奈の魂か。
どちらか一方を、この手で切り捨てなければならない。
蓮は、ヘッドホンを外すと、深く、長いため息をついた。
窓の外の、光のない空を見上げる。答えは、どこにもなかった。
同じ頃、朝霧陽葵は、自室のベッドの上で、膝を抱えていた。明日の決戦を前に、緊張と不安で、心臓が張り裂けそうだった。
この一週間、やれることは、全てやった。蓮の指導のもと、文字通り血の滲むような努力を重ねてきた。喉は、もう限界に近い。だが、後悔はなかった。
蓮先輩。
彼女の心に浮かぶのは、いつも彼の顔だった。
厳しく、しかし誰よりも真剣に、自分と向き合ってくれた。不器用だけど、温かい優しさで、何度も支えてくれた。
彼と過ごしたこの一週間は、陽葵にとって、人生で最も濃密で、かけがえのない時間だった。
だから、勝ちたい。
彼のために。
そして、彼との未来のために。
橘に突きつけられた、残酷な条件。
負ければ、二度と彼には会えなくなる。
それだけは、絶対に嫌だ。
陽葵は、ぎゅっと目を閉じた。
明日は、自分の全てを、あのマイクの前で出し切るだけだ。
技術や経験では敵わない。でも、この曲への想いと、蓮への想いだけは、誰にも負けない。
その想いを、声に乗せて、届ける。
陽葵は、小さな胸の中で、静かに、しかし強く、そう誓った。
そして、星宮瑠奈は。
彼女は、決戦の舞台となる、スターライト・エージェンシーのメインスタジオに、一人いた。橘に特別な許可を取り、最終調整のために、前日からスタジオに籠もっていたのだ。
がらんとした、巨大なレコーディングブース。その中央に、一本だけ立てられたマイクスタンド。
瑠奈は、そのマイクの前に立ち、静かに目を閉じていた。
伝説のトレーナーとの地獄の特訓で、彼女の歌は、神がかり的な領域へと達しようとしていた。もはや、技術ではない。彼女自身の魂そのものを、音に変換する術を、彼女は手に入れたのだ。
(これで、勝てる)
自信は、あった。
あの小娘など、もはや敵ではない。
問題は、その先だ。
この勝負に勝ったとして、蓮は、自分を認めてくれるだろうか。
『すごい』と、言ってくれるだろうか。
そして、もう一度、自分の隣に、戻ってきてくれるだろうか。
分からない。
蓮の心は、もう、あの少女の方へと向かっている。その事実は、瑠奈の胸を、鋭いナイフのように切り裂いた。
自分は、トップアイドルになるために、彼を捨てた。
そして今、彼を取り戻すために、トップアイドルとしての全てを、この一曲に懸けている。
なんという、皮肉。
瑠奈の美しい瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、誰にも見せることのない、女王の孤独な涙だった。
拭うこともせず、彼女は、静かに歌い始めた。
アカペラの、祈るような歌声が、静まり返ったスタジオに、美しく、そして悲しく響き渡った。
三者三様の、眠れない夜。
交錯する想い。
しかし、その視線は、決して交わることはない。
蓮は、陽葵の未来を想い。
陽葵は、蓮との未来を想い。
そして瑠奈は、蓮との過去を想う。
運命の日は、もう、すぐそこまで迫っていた。
それぞれの想いを乗せた歌声が、激しくぶつかり合う、その時が。
夜明け前の空が、最も暗い色をしていた。
東京の空は、厚い雲に覆われ、星一つ見えなかった。まるで、これから始まる嵐を予感させるかのように。
藤堂蓮は、自室で最終調整を終えたオケ音源を、ヘッドホンで繰り返し聴いていた。ミキシングも、マスタリングも、今の自分にできる、最高のレベルまで磨き上げた。完璧な舞台は、整った。あとは、二人のボーカリストが、この舞台の上で、どんな歌を歌うのか。それを待つだけだ。
だが、蓮の心は、少しも晴れなかった。
この一週間、彼は陽葵の特訓に付きっきりだった。彼女の成長は、目覚ましいものがあった。最初はただの原石だった彼女の歌声は、蓮という研磨師によって磨かれ、確かな輝きを放ち始めていた。彼女のひたむきな努力と、自分を信じてくれる真っ直ぐな瞳は、蓮にとって何よりの救いだった。
(勝たせてやりたい)
心の底から、そう思う。
彼女の笑顔を守る。そのために、自分はこの戦いに身を投じたのだから。
しかし、その一方で。
蓮の脳裏には、瑠奈の、あの絶望を帯びた歌声が、こびりついて離れなかった。クリエイターとしての本能が、あの歌声の持つ魔的な魅力に、抗いがたく惹かれているのも、また事実だった。
もし、瑠奈があの歌声に、さらに磨きをかけてきたとしたら。
純粋な音楽的評価として、どちらの歌が優れているのか。その判断を、明日の自分は下さなければならない。
それは、あまりにも残酷な選択だった。
陽葵の未来か、瑠奈の魂か。
どちらか一方を、この手で切り捨てなければならない。
蓮は、ヘッドホンを外すと、深く、長いため息をついた。
窓の外の、光のない空を見上げる。答えは、どこにもなかった。
同じ頃、朝霧陽葵は、自室のベッドの上で、膝を抱えていた。明日の決戦を前に、緊張と不安で、心臓が張り裂けそうだった。
この一週間、やれることは、全てやった。蓮の指導のもと、文字通り血の滲むような努力を重ねてきた。喉は、もう限界に近い。だが、後悔はなかった。
蓮先輩。
彼女の心に浮かぶのは、いつも彼の顔だった。
厳しく、しかし誰よりも真剣に、自分と向き合ってくれた。不器用だけど、温かい優しさで、何度も支えてくれた。
彼と過ごしたこの一週間は、陽葵にとって、人生で最も濃密で、かけがえのない時間だった。
だから、勝ちたい。
彼のために。
そして、彼との未来のために。
橘に突きつけられた、残酷な条件。
負ければ、二度と彼には会えなくなる。
それだけは、絶対に嫌だ。
陽葵は、ぎゅっと目を閉じた。
明日は、自分の全てを、あのマイクの前で出し切るだけだ。
技術や経験では敵わない。でも、この曲への想いと、蓮への想いだけは、誰にも負けない。
その想いを、声に乗せて、届ける。
陽葵は、小さな胸の中で、静かに、しかし強く、そう誓った。
そして、星宮瑠奈は。
彼女は、決戦の舞台となる、スターライト・エージェンシーのメインスタジオに、一人いた。橘に特別な許可を取り、最終調整のために、前日からスタジオに籠もっていたのだ。
がらんとした、巨大なレコーディングブース。その中央に、一本だけ立てられたマイクスタンド。
瑠奈は、そのマイクの前に立ち、静かに目を閉じていた。
伝説のトレーナーとの地獄の特訓で、彼女の歌は、神がかり的な領域へと達しようとしていた。もはや、技術ではない。彼女自身の魂そのものを、音に変換する術を、彼女は手に入れたのだ。
(これで、勝てる)
自信は、あった。
あの小娘など、もはや敵ではない。
問題は、その先だ。
この勝負に勝ったとして、蓮は、自分を認めてくれるだろうか。
『すごい』と、言ってくれるだろうか。
そして、もう一度、自分の隣に、戻ってきてくれるだろうか。
分からない。
蓮の心は、もう、あの少女の方へと向かっている。その事実は、瑠奈の胸を、鋭いナイフのように切り裂いた。
自分は、トップアイドルになるために、彼を捨てた。
そして今、彼を取り戻すために、トップアイドルとしての全てを、この一曲に懸けている。
なんという、皮肉。
瑠奈の美しい瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、誰にも見せることのない、女王の孤独な涙だった。
拭うこともせず、彼女は、静かに歌い始めた。
アカペラの、祈るような歌声が、静まり返ったスタジオに、美しく、そして悲しく響き渡った。
三者三様の、眠れない夜。
交錯する想い。
しかし、その視線は、決して交わることはない。
蓮は、陽葵の未来を想い。
陽葵は、蓮との未来を想い。
そして瑠奈は、蓮との過去を想う。
運命の日は、もう、すぐそこまで迫っていた。
それぞれの想いを乗せた歌声が、激しくぶつかり合う、その時が。
夜明け前の空が、最も暗い色をしていた。
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