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第38話 夏祭りの浴衣、あるいは時が止まるほどの美しさ
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ウォータースライダーでの代理戦争は、俺の予想通り俺たちの惨敗に終わった。
高所恐怖症ではないと抗議したにもかかわらず、雪城さんは「未来のあなたを再現します」と言って、スタート直後から俺の背中にがっしりと抱きついてきた。その結果、俺は彼女の柔らかい感触と甘い香りで完全に思考停止に陥り、まともに滑ることすらできなかったのだ。
「これは戦略的敗北です。あの女(ひと)に私たちの親密さを見せつけるという、本来の目的は達成できましたから」
ジュースを奢りながら、彼女は悔し紛れにそう呟いていた。その横顔が少しだけ拗ねているように見えて、俺は思わず笑ってしまった。
そんな波乱のプールデートから数日後。
俺は再び彼女によって、新たなステージへと引きずり出されていた。
夏の夜の一大イベント。夏祭りだ。
これもまた『完璧なる夏休み計画書』に、極めて重要なイベントとして記載されていた。
『未来であなたが、はぐれた私を必死に探してくれた日』。
その意味深な注釈が、俺の心をざわつかせる。
待ち合わせ場所の神社の鳥居の前。
俺は少しだけそわそわしながら、彼女の到着を待っていた。
日が落ち、提灯に明かりが灯り始めた境内は既に多くの人々で賑わっている。綿あめの甘い匂い、焼きそばの香ばしいソースの香り、そして子供たちのはしゃぐ声。その全てが、夏の夜の特別な高揚感を演出していた。
やがて人混みの中から、すっと彼女が姿を現した。
その瞬間、俺はまたしても、世界の全ての音と色を失った。
時が止まった。
心臓が止まった。
呼吸すら、止まってしまったかもしれない。
そこに立っていたのは、俺の語彙力では到底表現不可能なほどに美しい存在だった。
雪城冬花。
彼女は浴衣を着ていた。
白地に淡い藍色で描かれた、繊細な朝顔の模様。その清楚で凛としたデザインは、彼女の持つ透明感を神々しいまでの領域へと昇華させている。
きっちりと締められた帯は深い藍色。そこに、小さな銀色の帯留めが、きらりと控えめな光を放っていた。
いつもはポニーテールに結われている銀色の髪は今夜は、うなじを美しく見せるようにふわりと夜会巻きにまとめられている。そこには浴衣の柄と同じ、朝顔をモチーフにした小さなかんざしが挿してあった。
いつもよりも、少しだけ薄く引かれた紅。
その完璧な和装姿。
それは、もはや「似合う」とか「可愛い」とか、そういう次元の話ではなかった。
一枚の国宝級の美人画が、そのまま現実世界に抜け出してきたかのような、圧倒的なまでの美。
西洋的な顔立ちの彼女が、日本の伝統的な衣装をまとうことで生まれる奇跡的なまでの調和。
俺は生まれて初めて、「美しい」という言葉の本当の意味を知った気がした。
俺が完全に魂を抜かれて立ち尽くしていると、彼女がこつと下駄を鳴らして俺の前に立った。
「お待たせしました、優斗さん」
その声ですら、いつもより艶っぽく、しっとりと聞こえる。
「……その浴衣……」
俺はかろうじて声を絞り出した。
「未来のあなたが、『今まで見た中で、一番綺麗だ』と言って、涙を流して喜んでくれたものです」
彼女は少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は提灯の柔らかな明かりに照らされて、夢のように儚く、そしてこの世のものとは思えないほど綺麗だった。
俺は未来の俺の気持ちが、痛いほど、痛いほど分かってしまった。
俺も泣きそうだ。
こんなにも美しい存在が、今、俺のためだけにここにいてくれる。その事実だけで、胸がいっぱいで張り裂けそうだった。
「あなたこそ。その甚平、とてもよくお似合いです」
彼女に言われて、俺は自分の服装に目を落とした。
紺色の、ごく普通の甚平。これももちろん彼女の指定だ。「未来のあなたが、夏祭りで必ず着ていたものですから」と言われて、用意させられたものだった。
「……そうか?」
「はい。未来のあなたよりも、少しだけ若々しくて……可愛らしいです」
彼女はくすくすと、鈴を転がすように笑った。
その笑顔に、俺の心臓は完全に撃ち抜かれた。
もうダメだ。降参だ。白旗だ。
俺は、この時が止まるほどに美しい浴衣姿の女神に、身も心も全てを捧げる覚悟を決めた。
「さあ、行きましょう。計画書によれば、まずはリンゴ飴、次に射的、そして金魚すくい、というローテーションでしたね」
彼女はいつもの調子で、完璧な計画を口にする。
だが、その声は明らかに弾んでいた。彼女自身もこの夏祭りを楽しみにしていたのだ。
俺はこくりと頷くと、意を決して右手を差し出した。
「え……?」
驚いて目を丸くする彼女の手を、俺はぎゅっと優しく握った。
「……はぐれたら、大変だろ」
俺が照れ隠しにそう言うと、彼女の顔がぽっと提灯の色よりも赤く染まった。
そして俯きがちに、しかし力強く、俺の手を握り返してくる。
「……はい」
その小さな、小さな声。
俺たちの間には、もうたくさんの言葉は必要なかった。
繋がれた手のひらから伝わる、お互いの体温。
それだけで十分だった。
俺たちは言葉を交わすことなく、ゆっくりと夏祭りの喧騒の中へと歩き始めた。
浴衣姿の彼女は、あまりにも美しくて反則だった。
そして、そんな彼女の手を握り隣を歩いている俺は、きっと世界で一番の幸せ者だったに違いない。
この夜が、どうか明けないでほしい。
俺は心の中で、本気でそう願っていた。
高所恐怖症ではないと抗議したにもかかわらず、雪城さんは「未来のあなたを再現します」と言って、スタート直後から俺の背中にがっしりと抱きついてきた。その結果、俺は彼女の柔らかい感触と甘い香りで完全に思考停止に陥り、まともに滑ることすらできなかったのだ。
「これは戦略的敗北です。あの女(ひと)に私たちの親密さを見せつけるという、本来の目的は達成できましたから」
ジュースを奢りながら、彼女は悔し紛れにそう呟いていた。その横顔が少しだけ拗ねているように見えて、俺は思わず笑ってしまった。
そんな波乱のプールデートから数日後。
俺は再び彼女によって、新たなステージへと引きずり出されていた。
夏の夜の一大イベント。夏祭りだ。
これもまた『完璧なる夏休み計画書』に、極めて重要なイベントとして記載されていた。
『未来であなたが、はぐれた私を必死に探してくれた日』。
その意味深な注釈が、俺の心をざわつかせる。
待ち合わせ場所の神社の鳥居の前。
俺は少しだけそわそわしながら、彼女の到着を待っていた。
日が落ち、提灯に明かりが灯り始めた境内は既に多くの人々で賑わっている。綿あめの甘い匂い、焼きそばの香ばしいソースの香り、そして子供たちのはしゃぐ声。その全てが、夏の夜の特別な高揚感を演出していた。
やがて人混みの中から、すっと彼女が姿を現した。
その瞬間、俺はまたしても、世界の全ての音と色を失った。
時が止まった。
心臓が止まった。
呼吸すら、止まってしまったかもしれない。
そこに立っていたのは、俺の語彙力では到底表現不可能なほどに美しい存在だった。
雪城冬花。
彼女は浴衣を着ていた。
白地に淡い藍色で描かれた、繊細な朝顔の模様。その清楚で凛としたデザインは、彼女の持つ透明感を神々しいまでの領域へと昇華させている。
きっちりと締められた帯は深い藍色。そこに、小さな銀色の帯留めが、きらりと控えめな光を放っていた。
いつもはポニーテールに結われている銀色の髪は今夜は、うなじを美しく見せるようにふわりと夜会巻きにまとめられている。そこには浴衣の柄と同じ、朝顔をモチーフにした小さなかんざしが挿してあった。
いつもよりも、少しだけ薄く引かれた紅。
その完璧な和装姿。
それは、もはや「似合う」とか「可愛い」とか、そういう次元の話ではなかった。
一枚の国宝級の美人画が、そのまま現実世界に抜け出してきたかのような、圧倒的なまでの美。
西洋的な顔立ちの彼女が、日本の伝統的な衣装をまとうことで生まれる奇跡的なまでの調和。
俺は生まれて初めて、「美しい」という言葉の本当の意味を知った気がした。
俺が完全に魂を抜かれて立ち尽くしていると、彼女がこつと下駄を鳴らして俺の前に立った。
「お待たせしました、優斗さん」
その声ですら、いつもより艶っぽく、しっとりと聞こえる。
「……その浴衣……」
俺はかろうじて声を絞り出した。
「未来のあなたが、『今まで見た中で、一番綺麗だ』と言って、涙を流して喜んでくれたものです」
彼女は少し恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は提灯の柔らかな明かりに照らされて、夢のように儚く、そしてこの世のものとは思えないほど綺麗だった。
俺は未来の俺の気持ちが、痛いほど、痛いほど分かってしまった。
俺も泣きそうだ。
こんなにも美しい存在が、今、俺のためだけにここにいてくれる。その事実だけで、胸がいっぱいで張り裂けそうだった。
「あなたこそ。その甚平、とてもよくお似合いです」
彼女に言われて、俺は自分の服装に目を落とした。
紺色の、ごく普通の甚平。これももちろん彼女の指定だ。「未来のあなたが、夏祭りで必ず着ていたものですから」と言われて、用意させられたものだった。
「……そうか?」
「はい。未来のあなたよりも、少しだけ若々しくて……可愛らしいです」
彼女はくすくすと、鈴を転がすように笑った。
その笑顔に、俺の心臓は完全に撃ち抜かれた。
もうダメだ。降参だ。白旗だ。
俺は、この時が止まるほどに美しい浴衣姿の女神に、身も心も全てを捧げる覚悟を決めた。
「さあ、行きましょう。計画書によれば、まずはリンゴ飴、次に射的、そして金魚すくい、というローテーションでしたね」
彼女はいつもの調子で、完璧な計画を口にする。
だが、その声は明らかに弾んでいた。彼女自身もこの夏祭りを楽しみにしていたのだ。
俺はこくりと頷くと、意を決して右手を差し出した。
「え……?」
驚いて目を丸くする彼女の手を、俺はぎゅっと優しく握った。
「……はぐれたら、大変だろ」
俺が照れ隠しにそう言うと、彼女の顔がぽっと提灯の色よりも赤く染まった。
そして俯きがちに、しかし力強く、俺の手を握り返してくる。
「……はい」
その小さな、小さな声。
俺たちの間には、もうたくさんの言葉は必要なかった。
繋がれた手のひらから伝わる、お互いの体温。
それだけで十分だった。
俺たちは言葉を交わすことなく、ゆっくりと夏祭りの喧騒の中へと歩き始めた。
浴衣姿の彼女は、あまりにも美しくて反則だった。
そして、そんな彼女の手を握り隣を歩いている俺は、きっと世界で一番の幸せ者だったに違いない。
この夜が、どうか明けないでほしい。
俺は心の中で、本気でそう願っていた。
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