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第20話 温泉計画と次なる来訪者
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「――完成しました! ユータさん!」
ある晴れた日の午後。俺がソファの上で、腹に乗せたピヨちゃんの体温で惰眠を貪っていると、フィーの興奮しきった声がリビングに響き渡った。
彼女が手にしているのは、羊皮紙の巻物。そこには、彼女の知的好奇心と専門知識、そして俺の怠惰な生活をさらに快適にせんとする情熱が、ぎっしりと詰め込まれていた。
『究極の癒し空間創出計画――源泉かけ流し・古代魔術式温泉郷 設計図』と、やけに大仰なタイトルが書かれている。
「この土地の地脈を徹底的に調査した結果、やはり、家の地下深くには極上の温泉脈が眠っていることが確定しました。泉質は、魔力回復と疲労回復に特化した、極めて希少な『魔導の湯』です!」
フィーは、目を輝かせながら熱弁をふるう。
「この設計図通りに施設を建設すれば、男女別の内湯はもちろん、森の景色を一望できる広大な露天風呂、打たせ湯、サウナ、そして湯上がりの休憩所まで完備した、完璧な温泉施設が誕生します! 温度管理や泉質の維持は、すべてわたくしが考案した魔術回路で全自動化! あなたは、ただ、湯に浸かるだけでいいのです!」
そのプレゼンは、俺の心の、最も怠惰な部分を的確に刺激した。
温泉。
疲れた体を癒し、心身ともにリラックスさせる、文明の極致。
前世では、たまの休日にスーパー銭湯に行くのが、唯一の贅沢だった。あの、手足を思い切り伸ばして湯に浸かる解放感。湯上がりに飲むフルーツ牛乳の美味さ。
それを、この家で、毎日、好きなだけ味わえるだと?
「……採用だ」
俺は、ピヨちゃんをそっと横にどけると、のっそりと体を起こした。
「今すぐ、その温泉郷とやらを、この地に顕現させよう」
「お待ちしておりました、そのお言葉!」
フィーは、してやったりとばかりに笑みを浮かべた。
「まあ! 温泉ですって!?」
「わあ! 大きなお風呂、ご主人様!」
話を聞いていたリリアとモカも、期待に満ちた声を上げる。特に、常に清潔でいたい猫獣人のモカは、尻尾をぶんぶんと振って大喜びだ。
俺たちが、そんな和気藹々とした計画で盛り上がっていた、まさにその時だった。
ピコン。
まただ。
俺の脳内に、無粋な来訪者を告げる警告音が鳴り響いた。
「……ちっ。また客か。今日は定休日だと言っておけ」
「ユータ様、この家には定休日などありませんわ……」
リリアの冷静なツッコミを聞き流し、俺はうんざりしながらディスプレイを起動した。
そこに映っていたのは、一台の古びた馬車だった。牽引している馬は痩せこけ、車体もあちこちが傷んでいる。護衛の姿も見当たらない。
馬車は、例の不可視の壁の手前で、ぴたりと停止した。
やがて、御者台から一人の初老の男性が、おぼつかない足取りで降りてきた。その顔は憔悴しきっており、着ている服は上質そうだが、かなり着古されている。没落した貴族、といった風情だ。
男は、何もない空間に向かって、突然、深々と頭を下げた。
「……どうか、お聞き届けください! この森の奥におわすという、賢者様に、お願いがございます!」
その声は、震えていた。必死に、最後の望みを託すような、悲痛な響きがあった。
「……なんだ、ありゃ」
「商人マルコが広めた噂を聞きつけてきたのでしょう」
フィーが、冷静に分析する。
「彼が持ち帰った『生命の雫』は、どうやら王都でかなりの騒ぎになっているようです。マルコは『賢者の家』とのパイプを独占したいがために、具体的な場所は明かしていないようですが、『森の奥の聖域に行けば、あらゆる奇跡が手に入る』という、漠然とした噂だけが一人歩きしているのですよ」
「迷惑な話だ」
俺が舌打ちすると、ディスプレイの中の男は、さらに言葉を続けた。
「我が娘、アリアが……原因不明の病に侵され、日に日に衰弱していくのです! 王都の名だたる神官も、高名な薬師も、誰一人として、この病を治すことはできなかった! 残された道は、この地に眠るという奇跡にすがるのみ! どうか、どうか、我が娘をお救いください!」
男は、そう叫ぶと、馬車の扉を開けた。
そして、中から、毛布にくるまれた一人の少女を、そっと抱きかかえて降りてきた。
少女は、十歳くらいだろうか。青白い顔で、ぐったりとしている。浅く、苦しそうな呼吸を繰り返しており、その身に宿る生命力が、まるでランプの油が尽きる寸前のように、か細く揺らめいているのが、俺の『神の視点』からは見て取れた。
「……」
リビングに、沈黙が落ちた。
リリアは、唇を噛み締め、苦しそうな表情で少女を見つめている。モカも、心配そうに耳をしょんぼりと垂れていた。
「……ユータさん」
フィーが、俺の顔を窺うように、静かに声をかけた。
俺は、腕を組んで、ディスプレイの映像をただ黙って見つめていた。
面倒だ。
心底、面倒くさい。
病気の治療など、専門外だ。それに、一人を助ければ、次から次へと、同じような連中が押し寄せてくるに決まっている。そうなれば、俺の平穏な引きこもり生活は、完全に崩壊する。
断る。
それが、最も合理的で、賢明な判断だ。
だが。
ディスプレイに映る少女の、苦しげな寝顔が、なぜか、脳裏に焼き付いて離れない。
前世の俺も、最期は、こんな風に苦しみながら死んでいったのだろうか。誰にも助けられず、ただ、静かに、絶望の中で……。
「…………ちっ」
俺は、無意識のうちに舌打ちをしていた。
過去の自分と、見知らぬ少女を重ね合わせるなど、らしくない感傷だ。
だが、一度気になってしまったものは、どうにも、居心地が悪い。このモヤモヤした感情を抱えたまま、この先の怠惰な生活を送るのは、精神衛生上よろしくない。
それに。
「……フィー。あの病気、お前の知識で、何か見当はつくか?」
俺が尋ねると、フィーは待ってましたとばかりに、目を鋭く細めた。
「映像だけでは断定できませんが、通常の病気ではなさそうです。呪いの類、それも、生命力を直接吸い取るタイプの、極めて悪質な寄生型の呪詛の可能性があります。治療は、極めて困難でしょう。原因となる呪いの核を、寸分の狂いもなく摘出しなければ、宿主ごと消滅しかねません」
「……そうか」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、決断する。
「フィー。いつものように、代理人として対応しろ」
「……かしこまりました。条件は?」
「父親は、外で待たせておけ。中に入れるのは、あの娘だけだ。治療費として、男が持っている全財産を要求しろ。払えなければ、即刻帰らせろ」
「……本当に、それだけでよろしいのですか?」
フィーが、少し意外そうな顔で聞き返してきた。
「ああ。どうせ、大した額は持っていないだろう。払えなければ、俺も諦めがつく。そうなれば、後腐れなく追い返せる」
俺は、そう吐き捨てた。それは、俺自身に言い聞かせるための、言い訳でもあった。
もし、男が全財産を差し出せば――その時は、面倒な仕事に手を出す、十分な理由になる。
フィーは、俺の意図を正確に読み取ったようだった。彼女は静かに頷くと、玄関へと向かっていった。
◇
「――主は、こう仰せです。『その娘一人だけなら、診てやらぬこともない。だが、奇跡には相応の対価が必要となる。貴様の持つ全財産を、ここに置いていけ。それができぬなら、速やかに立ち去れ』と」
フィーの、氷のように冷たい言葉が、初老の貴族に突きつけられた。
男は、一瞬、絶望に顔を歪ませた。彼の全財産。それは、この古びた馬車と、わずかばかりの金貨、そして、妻の形見である首飾りだけだった。それを失えば、彼は完全に無一文となる。
だが、彼の迷いは、ほんの一瞬だった。
彼は、震える手で、懐から金貨の入った小袋と、古びた首飾りを取り出した。そして、何のためらいもなく、それをフィーの足元に置いた。
「……これが、私のすべてです。どうか、どうか、アリアを……娘を、お救いください!」
彼は、その場に崩れるように膝をつき、額を地面にこすりつけて、泣きじゃくった。
その姿を、フィーは静かに見下ろしていた。そして、俺にだけ聞こえる念話で、報告してきた。
『ユータさん。彼は、すべてを差し出しました』
『……そうか。なら、仕方ないな』
俺は、リビングで、深いため息をついた。
『……娘だけ、工房へ連れてこい。治療を始める』
フィーは、俺の指示を受けると、男に向かって告げた。
「……主が、あなたの覚悟をお認めになりました。その娘を、こちらへ」
男は、むせび泣きながら、毛布にくるまれた娘を、フィーにそっと手渡した。
フィーは、その小さな体を抱きかかえると、静かに家の中へと消えていく。
男は、ただ、閉ざされたドアを、祈るように見つめ続けることしかできなかった。
錬金工房の、清潔なベッドの上に、アリアと名付けられた少女は静かに横たわっていた。
俺は、リリアとモカにはリビングで待機させ、フィーだけを伴って、工房の中へと入った。
「……ひどい状態だな」
少女の体を『神の視点』でスキャンすると、その病巣がはっきりと見えた。心臓の近くに、黒い靄のような、タチの悪い呪いの塊が根を張っている。そいつが、まるで生き物のように、少女の生命力をじわじわと吸い続けていた。
「フィー。お前なら、どうする?」
「……外科手術に近い方法を取るしかありません。呪いの核だけを、魔術的なメスで寸分の狂いもなく切り離し、摘出する。ですが、成功率は、万に一つもないでしょう。少しでも手元が狂えば……」
「そうだろうな」
俺は、フィーの言葉を肯定した。
だが、俺には、別の方法がある。
「……メスで切り取るから、難しいんだ」
俺はそう言うと、少女の胸の上に、そっと手のひらをかざした。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
俺の脳内に、少女の体の内部構造が、完璧な解像度で再現される。血管の一本一本、神経の一本一本まで、すべてが手に取るように分かる。
そして、その中心に巣食う、黒い呪いの塊。
俺は、その『呪い』という存在そのものに、直接、語りかける。
お前は、ここにいるべき存在じゃない。
お前の居場所は、ここじゃない。
だから――消えろ。
俺がそう念じた瞬間、俺の掌から放たれた温かい光が、少女の体を優しく包み込んだ。
その光は、少女の体を傷つけることなく、内部へと浸透していく。そして、心臓に巣食っていた黒い呪いの塊だけを、まるで太陽の光が闇を霧散させるかのように、跡形もなく、消滅させていった。
「……終わったぞ」
俺が手を離すと、少女の顔から、苦悶の色がすっと消え、穏やかな寝息を立て始めた。その顔には、血の気が戻り、バラ色に染まっている。
「そ……そんな……」
フィーが、信じられないものを見る目で、少女と俺を交互に見つめていた。
「呪いを、消した……? 破壊するでもなく、封じるでもなく、ただ、その存在そのものを『無かったこと』に……? そんな芸当、神々の御業でも、不可能とされています……!」
「俺の家の中では、俺が神様みたいなもんだからな」
俺は、悪びれもせずにそう言うと、ふぁ、と大きなあくびをした。
「さて、と。仕事は終わった。報酬の金貨で、モカに何かうまいものでも作らせるか」
俺は、いつも通りの気怠げな様子で、工房を後にした。
残されたフィーは、ただ、健やかな寝息を立てる少女の姿を、呆然と見つめ続けるだけだった。
この家に渦巻く謎は、彼女の知的好奇心を刺激し、そして同時に、彼女の学者としての常識とプライドを、容赦なく打ち砕いていく。
彼女が、この家の真理にたどり着く日は、まだ、遥か遠い先のことであった。
ある晴れた日の午後。俺がソファの上で、腹に乗せたピヨちゃんの体温で惰眠を貪っていると、フィーの興奮しきった声がリビングに響き渡った。
彼女が手にしているのは、羊皮紙の巻物。そこには、彼女の知的好奇心と専門知識、そして俺の怠惰な生活をさらに快適にせんとする情熱が、ぎっしりと詰め込まれていた。
『究極の癒し空間創出計画――源泉かけ流し・古代魔術式温泉郷 設計図』と、やけに大仰なタイトルが書かれている。
「この土地の地脈を徹底的に調査した結果、やはり、家の地下深くには極上の温泉脈が眠っていることが確定しました。泉質は、魔力回復と疲労回復に特化した、極めて希少な『魔導の湯』です!」
フィーは、目を輝かせながら熱弁をふるう。
「この設計図通りに施設を建設すれば、男女別の内湯はもちろん、森の景色を一望できる広大な露天風呂、打たせ湯、サウナ、そして湯上がりの休憩所まで完備した、完璧な温泉施設が誕生します! 温度管理や泉質の維持は、すべてわたくしが考案した魔術回路で全自動化! あなたは、ただ、湯に浸かるだけでいいのです!」
そのプレゼンは、俺の心の、最も怠惰な部分を的確に刺激した。
温泉。
疲れた体を癒し、心身ともにリラックスさせる、文明の極致。
前世では、たまの休日にスーパー銭湯に行くのが、唯一の贅沢だった。あの、手足を思い切り伸ばして湯に浸かる解放感。湯上がりに飲むフルーツ牛乳の美味さ。
それを、この家で、毎日、好きなだけ味わえるだと?
「……採用だ」
俺は、ピヨちゃんをそっと横にどけると、のっそりと体を起こした。
「今すぐ、その温泉郷とやらを、この地に顕現させよう」
「お待ちしておりました、そのお言葉!」
フィーは、してやったりとばかりに笑みを浮かべた。
「まあ! 温泉ですって!?」
「わあ! 大きなお風呂、ご主人様!」
話を聞いていたリリアとモカも、期待に満ちた声を上げる。特に、常に清潔でいたい猫獣人のモカは、尻尾をぶんぶんと振って大喜びだ。
俺たちが、そんな和気藹々とした計画で盛り上がっていた、まさにその時だった。
ピコン。
まただ。
俺の脳内に、無粋な来訪者を告げる警告音が鳴り響いた。
「……ちっ。また客か。今日は定休日だと言っておけ」
「ユータ様、この家には定休日などありませんわ……」
リリアの冷静なツッコミを聞き流し、俺はうんざりしながらディスプレイを起動した。
そこに映っていたのは、一台の古びた馬車だった。牽引している馬は痩せこけ、車体もあちこちが傷んでいる。護衛の姿も見当たらない。
馬車は、例の不可視の壁の手前で、ぴたりと停止した。
やがて、御者台から一人の初老の男性が、おぼつかない足取りで降りてきた。その顔は憔悴しきっており、着ている服は上質そうだが、かなり着古されている。没落した貴族、といった風情だ。
男は、何もない空間に向かって、突然、深々と頭を下げた。
「……どうか、お聞き届けください! この森の奥におわすという、賢者様に、お願いがございます!」
その声は、震えていた。必死に、最後の望みを託すような、悲痛な響きがあった。
「……なんだ、ありゃ」
「商人マルコが広めた噂を聞きつけてきたのでしょう」
フィーが、冷静に分析する。
「彼が持ち帰った『生命の雫』は、どうやら王都でかなりの騒ぎになっているようです。マルコは『賢者の家』とのパイプを独占したいがために、具体的な場所は明かしていないようですが、『森の奥の聖域に行けば、あらゆる奇跡が手に入る』という、漠然とした噂だけが一人歩きしているのですよ」
「迷惑な話だ」
俺が舌打ちすると、ディスプレイの中の男は、さらに言葉を続けた。
「我が娘、アリアが……原因不明の病に侵され、日に日に衰弱していくのです! 王都の名だたる神官も、高名な薬師も、誰一人として、この病を治すことはできなかった! 残された道は、この地に眠るという奇跡にすがるのみ! どうか、どうか、我が娘をお救いください!」
男は、そう叫ぶと、馬車の扉を開けた。
そして、中から、毛布にくるまれた一人の少女を、そっと抱きかかえて降りてきた。
少女は、十歳くらいだろうか。青白い顔で、ぐったりとしている。浅く、苦しそうな呼吸を繰り返しており、その身に宿る生命力が、まるでランプの油が尽きる寸前のように、か細く揺らめいているのが、俺の『神の視点』からは見て取れた。
「……」
リビングに、沈黙が落ちた。
リリアは、唇を噛み締め、苦しそうな表情で少女を見つめている。モカも、心配そうに耳をしょんぼりと垂れていた。
「……ユータさん」
フィーが、俺の顔を窺うように、静かに声をかけた。
俺は、腕を組んで、ディスプレイの映像をただ黙って見つめていた。
面倒だ。
心底、面倒くさい。
病気の治療など、専門外だ。それに、一人を助ければ、次から次へと、同じような連中が押し寄せてくるに決まっている。そうなれば、俺の平穏な引きこもり生活は、完全に崩壊する。
断る。
それが、最も合理的で、賢明な判断だ。
だが。
ディスプレイに映る少女の、苦しげな寝顔が、なぜか、脳裏に焼き付いて離れない。
前世の俺も、最期は、こんな風に苦しみながら死んでいったのだろうか。誰にも助けられず、ただ、静かに、絶望の中で……。
「…………ちっ」
俺は、無意識のうちに舌打ちをしていた。
過去の自分と、見知らぬ少女を重ね合わせるなど、らしくない感傷だ。
だが、一度気になってしまったものは、どうにも、居心地が悪い。このモヤモヤした感情を抱えたまま、この先の怠惰な生活を送るのは、精神衛生上よろしくない。
それに。
「……フィー。あの病気、お前の知識で、何か見当はつくか?」
俺が尋ねると、フィーは待ってましたとばかりに、目を鋭く細めた。
「映像だけでは断定できませんが、通常の病気ではなさそうです。呪いの類、それも、生命力を直接吸い取るタイプの、極めて悪質な寄生型の呪詛の可能性があります。治療は、極めて困難でしょう。原因となる呪いの核を、寸分の狂いもなく摘出しなければ、宿主ごと消滅しかねません」
「……そうか」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、決断する。
「フィー。いつものように、代理人として対応しろ」
「……かしこまりました。条件は?」
「父親は、外で待たせておけ。中に入れるのは、あの娘だけだ。治療費として、男が持っている全財産を要求しろ。払えなければ、即刻帰らせろ」
「……本当に、それだけでよろしいのですか?」
フィーが、少し意外そうな顔で聞き返してきた。
「ああ。どうせ、大した額は持っていないだろう。払えなければ、俺も諦めがつく。そうなれば、後腐れなく追い返せる」
俺は、そう吐き捨てた。それは、俺自身に言い聞かせるための、言い訳でもあった。
もし、男が全財産を差し出せば――その時は、面倒な仕事に手を出す、十分な理由になる。
フィーは、俺の意図を正確に読み取ったようだった。彼女は静かに頷くと、玄関へと向かっていった。
◇
「――主は、こう仰せです。『その娘一人だけなら、診てやらぬこともない。だが、奇跡には相応の対価が必要となる。貴様の持つ全財産を、ここに置いていけ。それができぬなら、速やかに立ち去れ』と」
フィーの、氷のように冷たい言葉が、初老の貴族に突きつけられた。
男は、一瞬、絶望に顔を歪ませた。彼の全財産。それは、この古びた馬車と、わずかばかりの金貨、そして、妻の形見である首飾りだけだった。それを失えば、彼は完全に無一文となる。
だが、彼の迷いは、ほんの一瞬だった。
彼は、震える手で、懐から金貨の入った小袋と、古びた首飾りを取り出した。そして、何のためらいもなく、それをフィーの足元に置いた。
「……これが、私のすべてです。どうか、どうか、アリアを……娘を、お救いください!」
彼は、その場に崩れるように膝をつき、額を地面にこすりつけて、泣きじゃくった。
その姿を、フィーは静かに見下ろしていた。そして、俺にだけ聞こえる念話で、報告してきた。
『ユータさん。彼は、すべてを差し出しました』
『……そうか。なら、仕方ないな』
俺は、リビングで、深いため息をついた。
『……娘だけ、工房へ連れてこい。治療を始める』
フィーは、俺の指示を受けると、男に向かって告げた。
「……主が、あなたの覚悟をお認めになりました。その娘を、こちらへ」
男は、むせび泣きながら、毛布にくるまれた娘を、フィーにそっと手渡した。
フィーは、その小さな体を抱きかかえると、静かに家の中へと消えていく。
男は、ただ、閉ざされたドアを、祈るように見つめ続けることしかできなかった。
錬金工房の、清潔なベッドの上に、アリアと名付けられた少女は静かに横たわっていた。
俺は、リリアとモカにはリビングで待機させ、フィーだけを伴って、工房の中へと入った。
「……ひどい状態だな」
少女の体を『神の視点』でスキャンすると、その病巣がはっきりと見えた。心臓の近くに、黒い靄のような、タチの悪い呪いの塊が根を張っている。そいつが、まるで生き物のように、少女の生命力をじわじわと吸い続けていた。
「フィー。お前なら、どうする?」
「……外科手術に近い方法を取るしかありません。呪いの核だけを、魔術的なメスで寸分の狂いもなく切り離し、摘出する。ですが、成功率は、万に一つもないでしょう。少しでも手元が狂えば……」
「そうだろうな」
俺は、フィーの言葉を肯定した。
だが、俺には、別の方法がある。
「……メスで切り取るから、難しいんだ」
俺はそう言うと、少女の胸の上に、そっと手のひらをかざした。
そして、目を閉じ、意識を集中させる。
俺の脳内に、少女の体の内部構造が、完璧な解像度で再現される。血管の一本一本、神経の一本一本まで、すべてが手に取るように分かる。
そして、その中心に巣食う、黒い呪いの塊。
俺は、その『呪い』という存在そのものに、直接、語りかける。
お前は、ここにいるべき存在じゃない。
お前の居場所は、ここじゃない。
だから――消えろ。
俺がそう念じた瞬間、俺の掌から放たれた温かい光が、少女の体を優しく包み込んだ。
その光は、少女の体を傷つけることなく、内部へと浸透していく。そして、心臓に巣食っていた黒い呪いの塊だけを、まるで太陽の光が闇を霧散させるかのように、跡形もなく、消滅させていった。
「……終わったぞ」
俺が手を離すと、少女の顔から、苦悶の色がすっと消え、穏やかな寝息を立て始めた。その顔には、血の気が戻り、バラ色に染まっている。
「そ……そんな……」
フィーが、信じられないものを見る目で、少女と俺を交互に見つめていた。
「呪いを、消した……? 破壊するでもなく、封じるでもなく、ただ、その存在そのものを『無かったこと』に……? そんな芸当、神々の御業でも、不可能とされています……!」
「俺の家の中では、俺が神様みたいなもんだからな」
俺は、悪びれもせずにそう言うと、ふぁ、と大きなあくびをした。
「さて、と。仕事は終わった。報酬の金貨で、モカに何かうまいものでも作らせるか」
俺は、いつも通りの気怠げな様子で、工房を後にした。
残されたフィーは、ただ、健やかな寝息を立てる少女の姿を、呆然と見つめ続けるだけだった。
この家に渦巻く謎は、彼女の知的好奇心を刺激し、そして同時に、彼女の学者としての常識とプライドを、容赦なく打ち砕いていく。
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