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第22話 火事と喧嘩は家の外で
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「ピヨ! ピヨ! コッコー!」
朝。俺は、リビングに響き渡る元気な鳴き声で目を覚ました。
声の主は、我が家のマスコット兼、歩く天気予報であるピヨちゃんだ。彼は、窓辺で朝日を浴びながら、高らかに今日の天気を告げていた。晴れのち晴れ、所により昼寝日和、といったところか。
「ご主人様、おはようございます。朝食の準備ができていますよ」
キッチンから、エプロン姿のモカがひょっこりと顔を出す。テーブルの上には、焼きたてのパンと、牧場で採れた新鮮なミルク、そして白銀鶏の卵を使ったふわふわのスクランブルエッグが並んでいる。完璧な朝の食卓だ。
「ああ、おはよう」
俺はソファからむくりと起き上がると、大きなあくびをした。昨夜、完成したばかりの温泉に深夜まで浸かっていたおかげで、体の調子は最高だ。肌はつるつる、肩こりも皆無。もはや、この家は療養施設と言っても過言ではない。
「ユータ様も、ようやく起きられましたか。わたくしは、もう一時間も前から起きて、朝の鍛錬を済ませてきましたわ」
リビングの隅で、リリアが汗を拭いながら剣の手入れをしている。彼女は、エルム村の一件以来、自分の力を過信することなく、日々の鍛錬を欠かさないようになっていた。その真面目さには、頭が下がる。俺には絶対真似できない。
俺たちが、そんな平和な朝のひとときを過ごしていると、工房から、目の下にうっすらと隈を作ったフィーが、一枚の羊皮紙を手に、血相を変えて飛び込んできた。
「大変です! ユータさん!」
そのただならぬ様子に、リビングの空気がぴんと張り詰める。
「どうした、フィー。また実験に失敗して、工房でも爆破したか?」
「そんなわけありません! それどころではないのです! 昨夜、あなたが懸念していた通り、魔王軍の幹部『炎将軍グレンデル』が、王都を発ちました! わたくしが設置した遠隔魔力探知機が、彼の強大な魔力反応を捉えたのです!」
フィーは、羊皮紙に書かれた魔力の波形グラフを、俺の目の前に突きつけた。そこには、異常なまでに巨大で、禍々しいスパイク状の波形が記録されている。
「彼の進路から予測するに、目的地は、十中八九、この家です! おそらく、今日の昼過ぎには、この森に到着するでしょう!」
「魔王軍の、幹部……!」
リリアが、ゴクリと喉を鳴らし、緊張に顔を強張らせる。
「ど、どうしましょう、ご主人様! 怖い人が来ます!」
モカも、不安そうに尻尾を丸めて、俺のエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。
魔王軍四天王の一角、炎将軍の襲来。
普通の人間なら、国を挙げての一大事に、絶望して逃げ出すレベルの非常事態だ。
だが、俺は。
「……へえ、そう」
パンをちぎってスクランブルエッグを乗せながら、気のない返事を一つ。
そして、それを口に運び、よく噛んでから、言った。
「で、そいつは、この家の敷地に入れるのか?」
「……いえ、それは、おそらく不可能かと」
「なら、問題ないな」
俺はそう言うと、朝食の続きを再開した。
「え……えええ!?」
フィーが、信じられないという顔で叫んだ。
「も、問題ないって、あなた! 相手は魔王軍の四天王ですよ!? 一人で小国を滅ぼすほどの力を持つ、災厄の化身です! もっと危機感を……!」
「危機感ねえ。火事が起きても、家の中まで燃え移ってこなきゃ、俺は避難しない主義なんだよ」
俺にとっては、炎将軍だろうが、ゴブリンだろうが、しつこいセールスマンだろうが、大差ない。俺の家の平穏を乱す、『騒音源』。ただ、それだけだ。
「それより、飯が冷めるぞ。お前たちも食え。腹が減っては、戦はできんと言うだろ? まあ、戦うのは俺じゃないが」
俺のあまりにもマイペースな態度に、フィーは力が抜けたように、がっくりと肩を落とした。リリアは、呆れながらも、どこか安心したような、複雑な笑みを浮かべている。
結局、我が家の朝は、いつも通りの、のんびりとした朝食風景と共に、過ぎていったのだった。
◇
一方、その頃。
炎将軍グレンデルは、絶対的な自信と共に、馬を駆っていた。
彼の進む道には、草木一本残らない。その身から放たれる灼熱のオーラが、周囲のすべてを焼き払い、彼の通り道を、黒く焦げた一本の直線に変えていく。森の獣たちは、その圧倒的な存在感を前にして、悲鳴を上げる間もなく炭化していくか、あるいは、本能的な恐怖に駆られて逃げ惑うだけだった。
「フン、下等な生き物どもめ」
グレンデルは、鼻で笑った。
彼は、魔王軍の中でも、特に戦闘と破壊に特化した武人だ。その力は、炎そのもの。彼の前では、あらゆるものは燃え尽き、灰燼に帰す。
『奇跡を生み出す聖域』だか何だか知らないが、所詮は人間どものお遊びだ。この俺の炎で、聖域ごと、そこに住む愚か者どもを焼き尽くしてやれば、すぐにでも正体を現すだろう。
グレンデルは、残忍な笑みを浮かべ、さらに馬の速度を上げた。
やがて、彼の視界に、森の中に不自然に佇む、一軒の家が見えてきた。
「……ほう。ここか」
彼は馬から降り立つと、値踏みするように、その家を眺めた。
何の変哲もない、ただの木造家屋だ。魔法的な防壁の気配も、強力な使い手が潜んでいる気配も、全く感じられない。
だが、彼の本能が、警鐘を鳴らしていた。
おかしい。
この家を中心とした一帯だけ、空気が違う。静かすぎるのだ。鳥の声も、虫の音も、風の音すらも、まるで別の法則に支配されているかのように、不自然なほどに穏やかだ。
「……面白い。見えぬ壁、か」
グレンデルは、試しに、足元の小石を家に向かって蹴りつけた。
キィン、という澄んだ音。
小石は、家の数メートル手前の空間で、見えない何かに弾かれ、力なく地面に落ちた。
「やはりな。結界の類か。だが、これほどの規模と強度を持ちながら、魔力の流れを完全に遮断しているとは……。一体、どんな術式だ?」
彼は、初めて、興味をそそられた。
だが、彼の仕事は、謎を解明することではない。破壊し、蹂躙することだ。
「どんな小細工を弄していようと、この俺の『獄炎』の前では、すべて無意味!」
グレンデルは、両手を前方に突き出した。その掌に、周囲の空気が歪むほどの、高密度の魔力が収束していく。
「――消し飛べ! 『プロミネンス・バースト』!」
彼が叫ぶと同時に、その掌から、太陽の表面爆発(プロミネンス)を凝縮したかのような、巨大な灼熱の火球が放たれた。
ゴウッ、という轟音と共に、火球は家に向かって突き進む。通過した地面は瞬時にガラス化し、木々は発火する間もなく蒸発していく。森そのものを消滅させかねない、まさに必殺の一撃。
それが、結界に、触れた。
瞬間。
しゅん。
あまりにも、あっけない、小さな音。
あれほど巨大で、破壊の限りを尽くしていた火球が、まるでシャボン玉が弾けるように、音もなく、熱も残さず、綺麗さっぱり、消滅した。
「…………は?」
グレンデルは、自分の目を疑った。
何が起きた? 今、目の前で、何が。
自分の最強魔法が、完全に『無かったこと』にされた。その事実が、彼のプライドを、ミシリ、と軋ませた。
「ま、間違いだ……。何かの、間違いだ……!」
彼は、今度は物理的な攻撃を試みる。自慢の剛腕に魔力を込めて、地面を殴りつけた。大地が裂け、巨大な岩盤が家に向かって飛んでいく。
だが、結果は同じだった。
岩盤は、見えない壁にぶつかった瞬間、砂のようにさらさらと崩れ落ち、跡形もなく消えた。
「……ありえない……。こんなこと……あってたまるかあああ!」
グレンデルは、ついに理性の箍を外し、獣のような咆哮を上げた。彼は、何度も、何度も、魔法を放ち、拳を振るい、結界に攻撃を叩きつけた。
だが、すべては、無駄だった。
彼の攻撃は、ただ、虚空に吸い込まれていくだけ。家は、傷一つなく、静かにそこに佇み続けている。
それは、絶対的な力を持つ彼が、生まれて初めて味わう、完璧な『無力』という名の絶望だった。
◇
「……なんか、外で花火大会でもやってるのか?」
俺は、昼食のカルボナーラをフォークに巻きつけながら、ディスプレイに映る光景を眺めていた。
画面の中では、真っ赤な鎧の男が、一人で火の玉を投げたり、地面を殴ったりして、大暴れしている。時折、こちらのカメラが揺れるほどの衝撃波が来るが、家の中は、至って平和だ。
「火事になったら、温泉が煙臭くなるから嫌だな」
「ユータ様、あれは花火などではありません! グレンデルの全力攻撃です! 一撃で城壁を吹き飛ばすほどの威力が……」
リリアが、青い顔で解説してくれるが、俺にはピンとこない。城壁が吹き飛ぼうが、山が消し飛ぼうが、俺の家には関係ないのだから。
「ユータさん。彼の攻撃、すべて、結界に触れた瞬間に、エネルギーが異次元に放出、あるいは熱量ゼロの状態で相殺されています。この防御性能、理論上、無限です。素晴らしい……!」
フィーは、目を輝かせながら、一心不乱にデータを取っている。
「ご主人様、あの人、うるさいです」
モカが、ぴくぴくと耳を動かしながら、不快そうに眉をひそめた。
俺も、同感だった。
ドッカン、ドッカン、と外で騒がれるのは、正直言って、昼寝の邪魔だ。
「……燃えてるなら、水でもかけときゃ静かになるだろ」
俺は、心底面倒くさそうに、そう呟いた。
そして、念じる。
『庭の散水システム、起動。目標、家の前の燃えてる奴。放水モード、最大出力』
その瞬間。
家の庭の芝生から、ニョキニョキと、見慣れたスプリンクラーのノズルが数十本、姿を現した。
そして、次の瞬間。
すべてのノズルから、消防車の放水もかくやというほどの、凄まじい水圧の水が、一斉に、炎将軍グレンデルに向かって噴射された。
「なっ……!?」
絶望に打ちひしがれていたグレンデルは、突然の水の奔流に、反応することすらできなかった。
「ジュオオオオオオオオオ!」
凄まじい音と共に、彼の誇る炎の鎧が、大量の水によって、一瞬で鎮火された。真っ赤に焼けていた鎧が、黒く変色し、大量の蒸気を噴き上げる。
「ぐ……ぎゃあああああああ!?」
熱せられた鎧に、冷水。その急激な温度変化が、彼に耐え難い苦痛を与えた。
だが、彼の悲劇は、それだけでは終わらない。
水の勢いは、彼の巨体をいとも簡単に吹き飛ばし、まるで洗濯機の中の洗濯物のように、ぐるぐると回転させながら、森の奥へと押し流していく。
彼は、何が起きているのか全く理解できないまま、泥水と木の葉にまみれ、無様に転がりながら、あっという間に森の彼方へと消えていった。
やがて、水の噴射が止まると、後には、嘘のような静寂だけが残った。
スプリンクラーのノズルは、何事もなかったかのように、地面へと収納されていく。
俺は、カルボナーラの最後の一口を味わうと、満足げに頷いた。
「よし。これで、静かになった。昼寝の続きでもするか」
俺は、そう言うと、ソファにごろんと寝転がった。
残されたヒロインたちは、ただ、あっけにとられた顔で、俺と、ディスプレイに映る平和な森の光景を、見比べるだけだった。
魔王軍四天王の一角は、こうして、我が家の家庭用スプリンクラーによって、完璧に、そして、あまりにもあっけなく、撃退されたのだった。
朝。俺は、リビングに響き渡る元気な鳴き声で目を覚ました。
声の主は、我が家のマスコット兼、歩く天気予報であるピヨちゃんだ。彼は、窓辺で朝日を浴びながら、高らかに今日の天気を告げていた。晴れのち晴れ、所により昼寝日和、といったところか。
「ご主人様、おはようございます。朝食の準備ができていますよ」
キッチンから、エプロン姿のモカがひょっこりと顔を出す。テーブルの上には、焼きたてのパンと、牧場で採れた新鮮なミルク、そして白銀鶏の卵を使ったふわふわのスクランブルエッグが並んでいる。完璧な朝の食卓だ。
「ああ、おはよう」
俺はソファからむくりと起き上がると、大きなあくびをした。昨夜、完成したばかりの温泉に深夜まで浸かっていたおかげで、体の調子は最高だ。肌はつるつる、肩こりも皆無。もはや、この家は療養施設と言っても過言ではない。
「ユータ様も、ようやく起きられましたか。わたくしは、もう一時間も前から起きて、朝の鍛錬を済ませてきましたわ」
リビングの隅で、リリアが汗を拭いながら剣の手入れをしている。彼女は、エルム村の一件以来、自分の力を過信することなく、日々の鍛錬を欠かさないようになっていた。その真面目さには、頭が下がる。俺には絶対真似できない。
俺たちが、そんな平和な朝のひとときを過ごしていると、工房から、目の下にうっすらと隈を作ったフィーが、一枚の羊皮紙を手に、血相を変えて飛び込んできた。
「大変です! ユータさん!」
そのただならぬ様子に、リビングの空気がぴんと張り詰める。
「どうした、フィー。また実験に失敗して、工房でも爆破したか?」
「そんなわけありません! それどころではないのです! 昨夜、あなたが懸念していた通り、魔王軍の幹部『炎将軍グレンデル』が、王都を発ちました! わたくしが設置した遠隔魔力探知機が、彼の強大な魔力反応を捉えたのです!」
フィーは、羊皮紙に書かれた魔力の波形グラフを、俺の目の前に突きつけた。そこには、異常なまでに巨大で、禍々しいスパイク状の波形が記録されている。
「彼の進路から予測するに、目的地は、十中八九、この家です! おそらく、今日の昼過ぎには、この森に到着するでしょう!」
「魔王軍の、幹部……!」
リリアが、ゴクリと喉を鳴らし、緊張に顔を強張らせる。
「ど、どうしましょう、ご主人様! 怖い人が来ます!」
モカも、不安そうに尻尾を丸めて、俺のエプロンの裾をぎゅっと掴んだ。
魔王軍四天王の一角、炎将軍の襲来。
普通の人間なら、国を挙げての一大事に、絶望して逃げ出すレベルの非常事態だ。
だが、俺は。
「……へえ、そう」
パンをちぎってスクランブルエッグを乗せながら、気のない返事を一つ。
そして、それを口に運び、よく噛んでから、言った。
「で、そいつは、この家の敷地に入れるのか?」
「……いえ、それは、おそらく不可能かと」
「なら、問題ないな」
俺はそう言うと、朝食の続きを再開した。
「え……えええ!?」
フィーが、信じられないという顔で叫んだ。
「も、問題ないって、あなた! 相手は魔王軍の四天王ですよ!? 一人で小国を滅ぼすほどの力を持つ、災厄の化身です! もっと危機感を……!」
「危機感ねえ。火事が起きても、家の中まで燃え移ってこなきゃ、俺は避難しない主義なんだよ」
俺にとっては、炎将軍だろうが、ゴブリンだろうが、しつこいセールスマンだろうが、大差ない。俺の家の平穏を乱す、『騒音源』。ただ、それだけだ。
「それより、飯が冷めるぞ。お前たちも食え。腹が減っては、戦はできんと言うだろ? まあ、戦うのは俺じゃないが」
俺のあまりにもマイペースな態度に、フィーは力が抜けたように、がっくりと肩を落とした。リリアは、呆れながらも、どこか安心したような、複雑な笑みを浮かべている。
結局、我が家の朝は、いつも通りの、のんびりとした朝食風景と共に、過ぎていったのだった。
◇
一方、その頃。
炎将軍グレンデルは、絶対的な自信と共に、馬を駆っていた。
彼の進む道には、草木一本残らない。その身から放たれる灼熱のオーラが、周囲のすべてを焼き払い、彼の通り道を、黒く焦げた一本の直線に変えていく。森の獣たちは、その圧倒的な存在感を前にして、悲鳴を上げる間もなく炭化していくか、あるいは、本能的な恐怖に駆られて逃げ惑うだけだった。
「フン、下等な生き物どもめ」
グレンデルは、鼻で笑った。
彼は、魔王軍の中でも、特に戦闘と破壊に特化した武人だ。その力は、炎そのもの。彼の前では、あらゆるものは燃え尽き、灰燼に帰す。
『奇跡を生み出す聖域』だか何だか知らないが、所詮は人間どものお遊びだ。この俺の炎で、聖域ごと、そこに住む愚か者どもを焼き尽くしてやれば、すぐにでも正体を現すだろう。
グレンデルは、残忍な笑みを浮かべ、さらに馬の速度を上げた。
やがて、彼の視界に、森の中に不自然に佇む、一軒の家が見えてきた。
「……ほう。ここか」
彼は馬から降り立つと、値踏みするように、その家を眺めた。
何の変哲もない、ただの木造家屋だ。魔法的な防壁の気配も、強力な使い手が潜んでいる気配も、全く感じられない。
だが、彼の本能が、警鐘を鳴らしていた。
おかしい。
この家を中心とした一帯だけ、空気が違う。静かすぎるのだ。鳥の声も、虫の音も、風の音すらも、まるで別の法則に支配されているかのように、不自然なほどに穏やかだ。
「……面白い。見えぬ壁、か」
グレンデルは、試しに、足元の小石を家に向かって蹴りつけた。
キィン、という澄んだ音。
小石は、家の数メートル手前の空間で、見えない何かに弾かれ、力なく地面に落ちた。
「やはりな。結界の類か。だが、これほどの規模と強度を持ちながら、魔力の流れを完全に遮断しているとは……。一体、どんな術式だ?」
彼は、初めて、興味をそそられた。
だが、彼の仕事は、謎を解明することではない。破壊し、蹂躙することだ。
「どんな小細工を弄していようと、この俺の『獄炎』の前では、すべて無意味!」
グレンデルは、両手を前方に突き出した。その掌に、周囲の空気が歪むほどの、高密度の魔力が収束していく。
「――消し飛べ! 『プロミネンス・バースト』!」
彼が叫ぶと同時に、その掌から、太陽の表面爆発(プロミネンス)を凝縮したかのような、巨大な灼熱の火球が放たれた。
ゴウッ、という轟音と共に、火球は家に向かって突き進む。通過した地面は瞬時にガラス化し、木々は発火する間もなく蒸発していく。森そのものを消滅させかねない、まさに必殺の一撃。
それが、結界に、触れた。
瞬間。
しゅん。
あまりにも、あっけない、小さな音。
あれほど巨大で、破壊の限りを尽くしていた火球が、まるでシャボン玉が弾けるように、音もなく、熱も残さず、綺麗さっぱり、消滅した。
「…………は?」
グレンデルは、自分の目を疑った。
何が起きた? 今、目の前で、何が。
自分の最強魔法が、完全に『無かったこと』にされた。その事実が、彼のプライドを、ミシリ、と軋ませた。
「ま、間違いだ……。何かの、間違いだ……!」
彼は、今度は物理的な攻撃を試みる。自慢の剛腕に魔力を込めて、地面を殴りつけた。大地が裂け、巨大な岩盤が家に向かって飛んでいく。
だが、結果は同じだった。
岩盤は、見えない壁にぶつかった瞬間、砂のようにさらさらと崩れ落ち、跡形もなく消えた。
「……ありえない……。こんなこと……あってたまるかあああ!」
グレンデルは、ついに理性の箍を外し、獣のような咆哮を上げた。彼は、何度も、何度も、魔法を放ち、拳を振るい、結界に攻撃を叩きつけた。
だが、すべては、無駄だった。
彼の攻撃は、ただ、虚空に吸い込まれていくだけ。家は、傷一つなく、静かにそこに佇み続けている。
それは、絶対的な力を持つ彼が、生まれて初めて味わう、完璧な『無力』という名の絶望だった。
◇
「……なんか、外で花火大会でもやってるのか?」
俺は、昼食のカルボナーラをフォークに巻きつけながら、ディスプレイに映る光景を眺めていた。
画面の中では、真っ赤な鎧の男が、一人で火の玉を投げたり、地面を殴ったりして、大暴れしている。時折、こちらのカメラが揺れるほどの衝撃波が来るが、家の中は、至って平和だ。
「火事になったら、温泉が煙臭くなるから嫌だな」
「ユータ様、あれは花火などではありません! グレンデルの全力攻撃です! 一撃で城壁を吹き飛ばすほどの威力が……」
リリアが、青い顔で解説してくれるが、俺にはピンとこない。城壁が吹き飛ぼうが、山が消し飛ぼうが、俺の家には関係ないのだから。
「ユータさん。彼の攻撃、すべて、結界に触れた瞬間に、エネルギーが異次元に放出、あるいは熱量ゼロの状態で相殺されています。この防御性能、理論上、無限です。素晴らしい……!」
フィーは、目を輝かせながら、一心不乱にデータを取っている。
「ご主人様、あの人、うるさいです」
モカが、ぴくぴくと耳を動かしながら、不快そうに眉をひそめた。
俺も、同感だった。
ドッカン、ドッカン、と外で騒がれるのは、正直言って、昼寝の邪魔だ。
「……燃えてるなら、水でもかけときゃ静かになるだろ」
俺は、心底面倒くさそうに、そう呟いた。
そして、念じる。
『庭の散水システム、起動。目標、家の前の燃えてる奴。放水モード、最大出力』
その瞬間。
家の庭の芝生から、ニョキニョキと、見慣れたスプリンクラーのノズルが数十本、姿を現した。
そして、次の瞬間。
すべてのノズルから、消防車の放水もかくやというほどの、凄まじい水圧の水が、一斉に、炎将軍グレンデルに向かって噴射された。
「なっ……!?」
絶望に打ちひしがれていたグレンデルは、突然の水の奔流に、反応することすらできなかった。
「ジュオオオオオオオオオ!」
凄まじい音と共に、彼の誇る炎の鎧が、大量の水によって、一瞬で鎮火された。真っ赤に焼けていた鎧が、黒く変色し、大量の蒸気を噴き上げる。
「ぐ……ぎゃあああああああ!?」
熱せられた鎧に、冷水。その急激な温度変化が、彼に耐え難い苦痛を与えた。
だが、彼の悲劇は、それだけでは終わらない。
水の勢いは、彼の巨体をいとも簡単に吹き飛ばし、まるで洗濯機の中の洗濯物のように、ぐるぐると回転させながら、森の奥へと押し流していく。
彼は、何が起きているのか全く理解できないまま、泥水と木の葉にまみれ、無様に転がりながら、あっという間に森の彼方へと消えていった。
やがて、水の噴射が止まると、後には、嘘のような静寂だけが残った。
スプリンクラーのノズルは、何事もなかったかのように、地面へと収納されていく。
俺は、カルボナーラの最後の一口を味わうと、満足げに頷いた。
「よし。これで、静かになった。昼寝の続きでもするか」
俺は、そう言うと、ソファにごろんと寝転がった。
残されたヒロインたちは、ただ、あっけにとられた顔で、俺と、ディスプレイに映る平和な森の光景を、見比べるだけだった。
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