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第二話 怠惰の神、降臨
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どれくらい意識を失っていたのか。次に俺が目を覚ました時、腹の虫は静かになっていた。餓死寸前の苦しみは消え、代わりに奇妙な浮遊感が全身を包んでいる。死んだのだろうか。それならそれで、もう働かなくていいのだから万々歳だ。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
そこは俺の薄汚い寝室ではなかった。見渡す限り、何もない。白とも黒ともつかない、ただ曖昧な色が広がる無限の空間。俺はその中心に、なぜか仰向けのまま浮かんでいた。
「……」
状況を理解しようとする思考が、すぐに面倒になった。どうせ夢か何かだろう。そうでなければ死後の世界か。どちらにせよ、俺にできることは何もない。それなら、このまま流れに身を任せるだけだ。
俺が再び目を閉じようとした、その時だった。
「やあ、目が覚めたかい」
頭の上から、声が降ってきた。気だるげで、性別も年齢も分からない、不思議な響きを持つ声。
俺は億劫さに耐えながら、ゆっくりと視線を声の主へと向けた。
そこには、誰かがいた。
いや、いる、という表現が正しいのかどうか。その人影は輪郭がぼんやりとしていて、まるで陽炎のようだ。長く流れる髪も、ゆったりとした衣も、全てが半透明で、向こう側の景色が透けて見える。顔立ちは中性的で整っているが、表情は読み取れない。ただ、宙に座るような姿勢で足を組み、こちらを面白そうに見下ろしていることだけは分かった。
「……誰だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「我はイナーシア。怠惰を司る神さ」
その存在は、こともなげにそう名乗った。
神。その単語を聞いても、俺の心は驚くほど静かだった。前世の記憶があるせいか、今さら神がいただのという話に驚きはない。それに、空腹と面倒くささが全ての感情に勝っていた。
「……用件は」
「つれないね。君の祈りに応えて、わざわざ顕現してあげたというのに」
イナーシアと名乗る神は、くすくすと笑った。その笑い声もまた、現実味のない不思議な響きをしていた。
「祈り、か。そんな大層なものじゃない。ただの愚痴だ」
「いいや、あれは祈りだった。純粋で、混じりけがなく、そして何より強欲な。『働きたくない』という一点において、君の祈りは歴代のどんな聖職者の祈りよりも強く、そして美しかった」
美しい。俺の醜い欲望を、この神はそう評した。頭がおかしいんじゃないか。
「君は面白いね、レイジ・ノマド。人は皆、何かを成し遂げたいと願う。富、名声、力。あるいは愛する者との平穏な暮らし。だが、その全てを手に入れるためには行動が、つまり労働が必要不可-欠だ。だからこそ、人は働く」
イナーシアは、まるで子供に語り聞かせるように言葉を続ける。
「だが君は違う。何も求めない。何も成したくない。ただ、何もしないことを願う。そのために、富も名声も力も、全てを切り捨てた。果てには自らの命すら厭わない。ここまで徹底した『無為』への渇望は、怠惰を司る我にとっても最高のエンターテイメントさ」
心底楽しそうに語る神を、俺は無言で見上げた。つまり、俺のどうしようもない怠けっぷりが、この神のツボにハマったということか。迷惑な話だ。
「それで、俺をどうするつもりだ。天罰でも下すのか? 怠け者は地獄行き、とか」
「まさか。なぜ我がお気に入りの信徒に罰など与えようか。むしろ逆だよ。祝福を授けに来たんだ」
「祝福?」
いよいよ話が見えなくなってきた。神の祝福といえば、聖なる力だとか、勇気や希望だとか、そういう面倒くさいもの相場が決まっている。
「いらない。そういうのは、もっとやる気のあるやつにやってくれ」
俺は即答した。これ以上、面倒ごとが増えるのはごめんだ。
「まあ、そう言わずに。君のための祝福だよ。君が、その素晴らしい怠惰をもっと効率的に、もっと完璧に追求するための力を与えよう」
効率的な、怠惰。
その言葉に、俺の心の何かがピクリと動いた。これまでどんな言葉にも反応しなかった感情の沼に、小さな石が投げ込まれたような感覚。
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味さ。今の君の怠惰は、まだ不完全だ。生きるためには、いずれ何か行動を起こさなければならない。食料を探す、水を飲む、寝床を整える。それらは全て、君の理想とする完璧な『無為』を阻害するノイズだと思わないかい?」
図星だった。まさにその通りだ。生きるということは、それ自体が労働の連続なのだ。呼吸をするのさえ、面倒に感じる時があるくらいだ。
俺が黙っていると、イナーシアは満足そうに続けた。
「我の与える力は、そんな君の悩みを解決する。君が一度行った行動、あるいは頭の中で完璧に設計した手順を、魔力がある限り永続的に自動で実行させることができる。それが君に与える祝福、ユニークスキル【全自動化(フルオート)】さ」
ぜんじどうか。
その単語が、俺の脳髄に直接響いた。
一度行った行動を、自動で実行する?
つまり、一度だけ飯を食えば、あとは自動で食事が口に運ばれてくるということか? 一度だけ水を汲めば、あとは勝手に水が湧き出てくるということか?
掃除も、洗濯も、火の管理も。全て、一度やってしまえば、あとは何もしなくてもいい?
「……本当か」
俺の口から、自分でも信じられないほど真剣な声が出た。
「無論さ。我は神だ。嘘はつかないよ」
イナーシアは優雅に頷いた。
「どうだい? この力、欲しくなったんじゃないか?」
欲しいか、欲しくないか。そんなの、決まっている。
それは、俺が心の底から求め続けたものそのものだった。働くことなく、生きるための一切の雑事から解放され、ただ存在することができる。そんな夢のような生活を可能にする力。
俺は生まれて初めて、何かを本気で欲しいと思った。
「……その力を手に入れるのに、何か条件はあるのか。魂を差し出せとか、死ぬまで働き続けろとか」
「何もないよ。我はただ、君がその力を使ってどこまで怠惰を極められるのか見たいだけだ。君の怠惰な生活が、我にとっては何よりの娯楽になる。だから、これは君への投資みたいなものさ」
娯楽。投資。神の考えることはよく分からない。だが、俺にとってこれ以上ない好条件であることは確かだった。
「……分かった。その力、貰おう」
俺がそう告げると、イナーシアは初めて心の底から嬉しそうな気配を漂わせた。ぼんやりとした輪郭が、少しだけ鮮明になった気がする。
「素晴らしい決断だ。では、早速授けよう。受け取るがいい、レイジ・ノマド。君だけの、君のための力を」
イナーシアが、すっとこちらへ指先を向けた。その瞬間、空間全体が眩い光に満たされる。俺は思わず目を閉じた。
温かい何かが、体の芯に流れ込んでくる。それは魔力とは違う、もっと根源的な力の奔流。俺という存在そのものが、新しく定義され、書き換えられていくような感覚。苦痛はなかった。むしろ、言いようのない万能感と、それ以上に深い安堵感が俺を満たしていく。
ああ、これで、もう何もしなくていいんだ。
光がゆっくりと収まっていく。俺の意識もまた、穏やかな眠りへと誘われていた。遠ざかる意識の中、イナーシアの最後の言葉が耳に残った。
「さあ、見せておくれ。君の究極の怠惰を。きっと、世界はもっと面白くなる」
その言葉の意味を、俺はまだ理解していなかった。ただ、これから始まる完璧な引きこもり生活への期待だけが、胸の中で膨らんでいた。
俺はゆっくりと瞼を開いた。
そこは俺の薄汚い寝室ではなかった。見渡す限り、何もない。白とも黒ともつかない、ただ曖昧な色が広がる無限の空間。俺はその中心に、なぜか仰向けのまま浮かんでいた。
「……」
状況を理解しようとする思考が、すぐに面倒になった。どうせ夢か何かだろう。そうでなければ死後の世界か。どちらにせよ、俺にできることは何もない。それなら、このまま流れに身を任せるだけだ。
俺が再び目を閉じようとした、その時だった。
「やあ、目が覚めたかい」
頭の上から、声が降ってきた。気だるげで、性別も年齢も分からない、不思議な響きを持つ声。
俺は億劫さに耐えながら、ゆっくりと視線を声の主へと向けた。
そこには、誰かがいた。
いや、いる、という表現が正しいのかどうか。その人影は輪郭がぼんやりとしていて、まるで陽炎のようだ。長く流れる髪も、ゆったりとした衣も、全てが半透明で、向こう側の景色が透けて見える。顔立ちは中性的で整っているが、表情は読み取れない。ただ、宙に座るような姿勢で足を組み、こちらを面白そうに見下ろしていることだけは分かった。
「……誰だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「我はイナーシア。怠惰を司る神さ」
その存在は、こともなげにそう名乗った。
神。その単語を聞いても、俺の心は驚くほど静かだった。前世の記憶があるせいか、今さら神がいただのという話に驚きはない。それに、空腹と面倒くささが全ての感情に勝っていた。
「……用件は」
「つれないね。君の祈りに応えて、わざわざ顕現してあげたというのに」
イナーシアと名乗る神は、くすくすと笑った。その笑い声もまた、現実味のない不思議な響きをしていた。
「祈り、か。そんな大層なものじゃない。ただの愚痴だ」
「いいや、あれは祈りだった。純粋で、混じりけがなく、そして何より強欲な。『働きたくない』という一点において、君の祈りは歴代のどんな聖職者の祈りよりも強く、そして美しかった」
美しい。俺の醜い欲望を、この神はそう評した。頭がおかしいんじゃないか。
「君は面白いね、レイジ・ノマド。人は皆、何かを成し遂げたいと願う。富、名声、力。あるいは愛する者との平穏な暮らし。だが、その全てを手に入れるためには行動が、つまり労働が必要不可-欠だ。だからこそ、人は働く」
イナーシアは、まるで子供に語り聞かせるように言葉を続ける。
「だが君は違う。何も求めない。何も成したくない。ただ、何もしないことを願う。そのために、富も名声も力も、全てを切り捨てた。果てには自らの命すら厭わない。ここまで徹底した『無為』への渇望は、怠惰を司る我にとっても最高のエンターテイメントさ」
心底楽しそうに語る神を、俺は無言で見上げた。つまり、俺のどうしようもない怠けっぷりが、この神のツボにハマったということか。迷惑な話だ。
「それで、俺をどうするつもりだ。天罰でも下すのか? 怠け者は地獄行き、とか」
「まさか。なぜ我がお気に入りの信徒に罰など与えようか。むしろ逆だよ。祝福を授けに来たんだ」
「祝福?」
いよいよ話が見えなくなってきた。神の祝福といえば、聖なる力だとか、勇気や希望だとか、そういう面倒くさいもの相場が決まっている。
「いらない。そういうのは、もっとやる気のあるやつにやってくれ」
俺は即答した。これ以上、面倒ごとが増えるのはごめんだ。
「まあ、そう言わずに。君のための祝福だよ。君が、その素晴らしい怠惰をもっと効率的に、もっと完璧に追求するための力を与えよう」
効率的な、怠惰。
その言葉に、俺の心の何かがピクリと動いた。これまでどんな言葉にも反応しなかった感情の沼に、小さな石が投げ込まれたような感覚。
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味さ。今の君の怠惰は、まだ不完全だ。生きるためには、いずれ何か行動を起こさなければならない。食料を探す、水を飲む、寝床を整える。それらは全て、君の理想とする完璧な『無為』を阻害するノイズだと思わないかい?」
図星だった。まさにその通りだ。生きるということは、それ自体が労働の連続なのだ。呼吸をするのさえ、面倒に感じる時があるくらいだ。
俺が黙っていると、イナーシアは満足そうに続けた。
「我の与える力は、そんな君の悩みを解決する。君が一度行った行動、あるいは頭の中で完璧に設計した手順を、魔力がある限り永続的に自動で実行させることができる。それが君に与える祝福、ユニークスキル【全自動化(フルオート)】さ」
ぜんじどうか。
その単語が、俺の脳髄に直接響いた。
一度行った行動を、自動で実行する?
つまり、一度だけ飯を食えば、あとは自動で食事が口に運ばれてくるということか? 一度だけ水を汲めば、あとは勝手に水が湧き出てくるということか?
掃除も、洗濯も、火の管理も。全て、一度やってしまえば、あとは何もしなくてもいい?
「……本当か」
俺の口から、自分でも信じられないほど真剣な声が出た。
「無論さ。我は神だ。嘘はつかないよ」
イナーシアは優雅に頷いた。
「どうだい? この力、欲しくなったんじゃないか?」
欲しいか、欲しくないか。そんなの、決まっている。
それは、俺が心の底から求め続けたものそのものだった。働くことなく、生きるための一切の雑事から解放され、ただ存在することができる。そんな夢のような生活を可能にする力。
俺は生まれて初めて、何かを本気で欲しいと思った。
「……その力を手に入れるのに、何か条件はあるのか。魂を差し出せとか、死ぬまで働き続けろとか」
「何もないよ。我はただ、君がその力を使ってどこまで怠惰を極められるのか見たいだけだ。君の怠惰な生活が、我にとっては何よりの娯楽になる。だから、これは君への投資みたいなものさ」
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「……分かった。その力、貰おう」
俺がそう告げると、イナーシアは初めて心の底から嬉しそうな気配を漂わせた。ぼんやりとした輪郭が、少しだけ鮮明になった気がする。
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イナーシアが、すっとこちらへ指先を向けた。その瞬間、空間全体が眩い光に満たされる。俺は思わず目を閉じた。
温かい何かが、体の芯に流れ込んでくる。それは魔力とは違う、もっと根源的な力の奔流。俺という存在そのものが、新しく定義され、書き換えられていくような感覚。苦痛はなかった。むしろ、言いようのない万能感と、それ以上に深い安堵感が俺を満たしていく。
ああ、これで、もう何もしなくていいんだ。
光がゆっくりと収まっていく。俺の意識もまた、穏やかな眠りへと誘われていた。遠ざかる意識の中、イナーシアの最後の言葉が耳に残った。
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