「働きたくない…」と本気で祈ったら怠惰の神が降臨。【フルオート】で身の回りを快適にしていたら、インフラを整備した救国の英雄になっていた

夏見ナイ

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第三十一話 王都の調味料と劣悪な道

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俺の日常は、静かではあったが、もはや平穏とは言えなかった。

朝、目を覚ませば寝室の扉の前に天才エルフが正座している。食事をすれば、その一挙手一投足を研究者の目で観察される。家の外では、王女騎士率いる私設騎士団が、俺の安眠を守るという名目で鉄壁の警備網を敷いていた。

俺は、もはや囚人のようなものだった。いや、動物園の珍獣か。怠惰に暮らすという目的は達成されている。だが、その怠惰を常に監視されているという奇妙な閉塞感が、俺の周りにはあった。

「マスター、本日の『一日一問』です!」

今日も始まった。俺がリビングに顔を出すなり、リノがキラキラした目で駆け寄ってくる。彼女のその呼び名を、俺はもう訂正するのを諦めた。

「あの野菜畑の聖域結界ですが、益虫と害虫を識別するロジックがどうしても解明できません。個体ごとの魔力パターンをデータベース化しているのですか? それとも、集合的無意識にアクセスして……」

「……雰囲気だ」

俺は一言だけ答えると、自動で運ばれてきた朝食のパンを口に放り込んだ。背後でリノが「雰囲気! なんというアナログな! だが、それこそがデジタルでは到達できない究極の解! マスターは量子的な……!」とまた悶絶している。

食事は、相変わらず最高だった。俺の農園で採れた新鮮な野菜、村人からの供物である上質なパンとチーズ。栄養バランスも完璧だ。だが、何か物足りない。人間とは、どこまでも贅沢な生き物らしい。

その日の昼食時、事件は起きた。

珍しく、リノが厨房に立ったのだ。彼女は「マスターの生態をより深く理解するためには、食性の変化を観測する必要がある」などと、もっともらしい理由をつけていた。

そして、テーブルに運ばれてきたのは、シンプルな鶏肉のソテーだった。だが、そこから立ち上る香りは、俺が今まで嗅いだことのない、複雑で、食欲を猛烈に刺激するものだった。

「……なんだ、これは」

俺は訝しげに肉を口に運んだ。

瞬間、俺の脳天を衝撃が貫いた。

うまい。

うますぎる。

鶏肉のジューシーな旨味を、今まで味わったことのない風味が何倍にも増幅させている。ぴりりとした刺激、爽やかな香り、そして舌の上に残る深いコク。これは、塩や胡椒だけでは絶対に出せない味だ。

俺は夢中で肉を頬張り、あっという間に皿を空にした。そして、皿を舐めたい衝動を必死に抑えながら、目の前のエルフを睨みつけた。

「……何をした」

「ふふふ。お口に合ったようで何よりです、マスター」

リノは得意げに、小さな小瓶を取り出して見せた。中には、キラキラと輝く結晶のようなものが入っている。

「これは『星降りの塩』。私の故郷である王都の、とある専門店でしか手に入らない特別な岩塩です。魔力を帯びた岩盤の奥深くから採れるもので、あらゆる食材の味を極限まで引き出すのですよ」

星降りの塩。その名の通り、まるで味覚の世界に星が降ってきたかのような衝撃だった。

「……これを、もっと手に入れたい」

俺は、心の底からそう思った。この調味料があれば、俺の食生活は、完璧から『神の領域』へと昇華するだろう。

「残念ですが、私の手持ちもこれが最後です。王都に行けば買えますが……」

リノは言いながら、俺の顔を窺うように見た。

王都。その単語を聞いた瞬間、俺の脳裏に『面倒くさい』という五文字が警報のように鳴り響いた。

だが、あの味の衝撃は、それほどまでに強烈だった。食欲という人間の根源的な欲求が、俺の鋼鉄の怠惰の意志を、わずかに揺さぶり始めていた。

(……一度だけだ。一度だけ、王都へ行けばいい)

俺は、自分にそう言い聞かせた。

(一度、王都の店でこの塩を買う。その行動プロセスを【全自動化】に登録すれば、あとは【お使いゴーレム】でも作って、自動で買ってこさせればいい。未来永劫、最高の食生活を手に入れるための、たった一度きりの投資だ)

俺は、ついに決断した。あの薬草採取の時以来の、重大な決断だ。

俺は、ベッドから半身を起こした。リノが、信じられないものを見たかのように目を見開いている。

「……リノ。王都までの道を教えろ。俺は、その塩を買いに行く」

その言葉に、リノは一瞬呆然とし、やがて腹を抱えて笑い出した。

「ふ、ふふ……あははは! マスターが、自らの意思で、ベッドから! これは歴史的瞬間ですね!」

「うるさい。いいから、教えろ。馬車でも借りれば、一日で行けるだろう」

俺の言葉に、リノは笑うのをやめ、憐れむような目で俺を見た。

「マスター。あなた、この村から出たことがないでしょう」

「……まあな」

「王都まで、馬車で揺られて片道五日はかかりますよ」

「……は?」

俺の思考が、一瞬停止した。五日? この村から、王都まで?

「道が、道になっていないのです。舗装などという概念はありません。ただの獣道を踏み固めただけの、轍の跡です。雨が降れば、そこは底なしの泥沼と化し、馬車ごと立ち往生するのも日常茶飯事です」

リノは、淡々と、しかし恐ろしい現実を語り続ける。

「もちろん、街道沿いに盗賊が出ることも珍しくありません。彼らは、ぬかるみに嵌った獲物を狙うハイエナのようなものです。途中に宿場町はありますが、清潔とは言い難いノミの温床。食事は、カビの生えたパンと味のないスープが関の山でしょう」

彼女は、ふう、と一息ついた。

「まあ、そんな劣悪な環境も、私にとっては良いフィールドワークの機会でしたが。あなたのような、完璧な環境で暮らす方には、地獄そのものでしょうね」

俺は、ベッドの上で完全に固まっていた。

片道、五日。
泥沼の道。
盗賊。
不潔な宿。

その単語の一つ一つが、巨大な鉄槌となって俺のやる気を粉々に打ち砕いていく。

俺は、ゆっくりと、そして静かに、起き上がらせた半身をベッドへと戻した。そして、羽毛布団を頭の先まで深くかぶった。

「……無理だ」

か細い声が、布団の中から漏れた。

「絶対、無理だ」

俺の王都行き計画は、開始からわずか十分で、あまりにも無残な終わりを告げた。

だが。

布団の暗闇の中で、俺の脳裏には、あの『星降りの塩』の味が、鮮明に蘇っていた。あの、神がかった風味。あれを、もう二度と味わえないのか。

(なんでだ……。なんで、道が悪いんだ。まともな道さえあれば、馬車なら半日もかからずに行ける距離じゃないか。そうすれば、いつでもあの塩が……)

悔しさが、じわじわと込み上げてくる。

そして、その悔しさは、やがて俺の中で、いつもの感情へと変換されていった。

怠惰を守るための、創造的な怒りへと。

俺は、布団の中で、ゆっくりと目を開いた。その瞳の奥に、新たなプロジェクトの、とてつもなく壮大な計画の光が、静かに灯り始めていた。

(……道が悪い、か)

そうだ。問題は、そこだ。

(ならば、話は簡単じゃないか)

俺は、布団の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。

「作ればいい。俺が、この手で。王都までの、完璧な道を」
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