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第四十五話 「行くのが面倒」
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王国最強の騎士、グレイグ・フォン・ヴァレンシュタインの荘厳な声が、静かな村の空気を震わせ続けていた。その一言一句は国王の絶対的な権威を乗せ、有無を言わさぬ圧力を伴っていた。家の前に立つ近衛騎士たちは、まるで鋼の彫像のように微動だにせず、その視線はただ一点、古びた家の扉に注がれている。
尋常ならざる緊張感が、その場を支配していた。
アリアは、祈るような気持ちでその光景を見守っていた。彼女の心臓は、不安と畏怖で激しく鼓動している。
(どうか、賢者様。ご機嫌を損ねないでください。この者たちは、ただ己の任務に忠実なだけなのです。その深遠なるお心で、どうか……)
彼女の隣では、リノが目を爛々と輝かせていた。彼女にとって、この状況は最高のエンターテイメントであり、最高の研究対象だった。
(面白い! 王という俗世の最高権力と、マスターという世界の理を超越した存在。この二つが衝突した時、一体何が起きるのか! 歴史の転換点に立ち会えるとは!)
それぞれの思惑が交錯する中、グレイグの口上がついに終わった。
「……以上である! 返答を聞こう、レイジ・ノマド殿!」
最後の言葉が、力強く響き渡る。
そして、静寂が訪れた。
風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。家の中からは何の物音もしない。扉は固く閉ざされたままだ。
一分、二分と気まずい時間が流れていく。
近衛騎士たちの間に、わずかな動揺が走った。村人たちも、遠巻きに見ていた者たちが不安そうに顔を見合わせている。
グレイグの眉間に深い皺が刻まれた。王命を伝え、これほどの静寂で返された経験は、彼の長い騎士人生で一度もなかった。
「……聞こえなかったとでも言うのか」
グレイグは自尊心を傷つけられ、再び大声を張り上げようとした。その時、アリアが慌てて前に出た。
「お、お待ちください、団長! 賢者様は、おそらく今、深い瞑想に入っておられるのです! 我々の声は届いていても、俗世への返答にはしばしの時間が必要なのかと……」
それは苦し紛れの言い訳だった。だが、グレイグはそんなもので納得する男ではなかった。
「瞑想だと? 王命の前でか! ふざけるな!」
グレイグはアリアの制止を振り払った。そして、全身全霊の気を込めて再び叫んだ。
「返答せよ、レイジ・ノマド! 王命である! これ以上の沈黙は、王国への反逆と見なすぞ!」
その声は、もはや轟音だった。家の窓ガラスが、ビリビリと微かに震える。
その、瞬間だった。
家の中から、一つの声が響き渡った。
それは扉を通してくぐもってはいたが、その場にいる全員の耳に、はっきりと届いた。
『……面倒だ』
たった一言。
何の感情も込められていない、ただ心底うんざりしたような呟き。
時が、止まった。
グレイグは自分が何を聞いたのか、すぐには理解できなかった。彼の脳が、そのありえない言葉の意味を処理するのに数秒を要した。
王命に対して、「面倒だ」。
彼の顔が、みるみるうちに怒りで赤く染まっていく。血管が、こめかみに浮き上がった。
「……き、貴様……」
彼の体から、殺気と見紛うほどの凄まじい圧力が放たれた。
「今、何と言った……! 王命を、国王陛下の勅命を……『面倒』だと、言ったのか!」
グレイグの手がゆっくりと、しかし確実に、腰の剣の柄にかかる。彼の騎士としての誇り、王国への忠誠心、その全てが今、目の前で踏みにじられたのだ。
だが、その絶対的な侮辱の言葉を全く違う意味で受け取った者たちがいた。
アリアの脳内に、雷が落ちた。
(『面倒だ』……!)
そうだ。そうだったのだ。彼女は、この偉大なる存在の思考の、ほんの表層しか理解していなかった。
(この御方にとって、国王に会う、王都へ行く、という行為そのものが『面倒』なのではない。国家という枠組み、王という制度、謁見という儀礼……それら、人間が作り出した矮小なシステムに従うこと自体が、この世界の真理に触れた御方にとっては、あまりに些末で、退屈で、そして心底『面倒』なのだ!)
アリアは、身震いした。
(なんと、なんと傲岸で、そしてなんと純粋な在り方なのだろう! この御方は、神々や世界の理としか対話されない。人間の王など、その対話の相手にすら値しないと、そうおっしゃっているのだ!)
勘違いは、天元を突破した。
隣のリノもまた、恍惚とした表情で打ち震えていた。
「出た……! 出ましたよ、アリア様! マスターの、マスターの真骨頂! 『面倒だ』! あらゆる行動原理の頂点に立つ、究極の哲学! 己の信念を貫くためなら、王の権威すら一蹴する! なんという鋼の意志! なんという美学! 素晴らしい! 素晴らしすぎます!」
二人の異常な反応を、グレイグは訝しげに見た。だが、彼の怒りは収まらない。
「アリア様! お聞きになりましたか! これが、貴女様が庇っておられた男の本性です! これ以上、弁解の余地はありません! 王命への侮辱は、死罪に値します!」
グレイグがついに剣を抜き放とうとした、その時。
「お待ちください、団長!」
アリアが彼の前に立ちはだかった。その翡翠色の瞳は、真剣そのものだった。
「賢者様のお言葉を、文字通りに受け取ってはなりません! その言葉の裏には、我々には計り知れぬ、深い、深い意味が隠されているのです!」
「意味だと!? 『面倒だ』という言葉に、どんな意味があるというのですか!」
「あります!」
アリアは必死で、自らの脳内で再構築された壮大な解釈を、グレイグに説き始めた。
「この御方は、王を、我が父上を敬っていないのではありません! むしろ、その逆です! 王ですら動かすことのできぬ、より高次の理に基づいて行動されているのです! この御方が今、この地で成し遂げようとしている偉業は、王との謁見という些事よりも遥かに優先されるべき国家的、いや、世界的命題なのです!」
アリアの熱弁は支離滅裂に聞こえたかもしれない。だが、その瞳に宿る絶対的な確信の光が、グレイグをわずかに躊躇させた。
彼は、混乱していた。
王命を、反逆ともとれる一言で拒否した男。
その男を、王女自らが身を挺して庇っている。
隣のエルフは、感動のあまり打ち震えている。
この状況は、異常だ。
彼の長い騎士人生で培われた常識が、目の前の現実によってぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「……アリア様。いかに王女殿下といえど、王命に背く者を庇うことは……」
「私は、父上の御心を、そしてこの国の未来を誰よりも案じております。だからこそ、断言できるのです。今、この御方のご機嫌を損ねることこそが、最大の国益を損なう行為であると!」
アリアは一歩も引かなかった。
グレイグは、苦々しい表情で固く閉ざされた扉を睨みつけた。
中から聞こえてきたのはただ一言。だが、その一言は、王国最強の騎士団長を完全に手詰まりにさせていた。
やがて、彼は重々しく剣を鞘に納めた。
「……承知いたしました」
その声には、深い疲労と割り切れない困惑が滲んでいた。
「この件、ありのまま、陛下にご報告いたします。賢者レイジ・ノマドが、王命を『面倒』の一言で拒否したこと。そして、アリア様が彼を庇われたという事実も、全て」
それだけを言い残し、グレイグは踵を返した。近衛騎士たちも、戸惑いの表情を浮かべながら団長に続いていく。
王国最強の騎士団は、その任務を果たすことなく、一人の怠惰な男のたった一言の呟きの前に、完全な敗北を喫したのだった。
彼らが去っていくのを、アリアは安堵のため息と共に見送った。
リノは、「歴史的瞬間を目撃した」と、羊皮紙に今日の出来事を詳細に記録し始めた。
そして、家の中。
ようやく静寂を取り戻した空間で。
俺は、ベッドに倒れ込み、至福のため息をついた。
「……やれやれ。これで、ようやく静かになった」
外の世界で、自分の評価が「王ですら動かせぬ、超越した大物」として確立されつつあることなど、もちろん知る由もない。
俺はただひたすらに、中断された昼寝の続きを心ゆくまで堪能するだけだった。
尋常ならざる緊張感が、その場を支配していた。
アリアは、祈るような気持ちでその光景を見守っていた。彼女の心臓は、不安と畏怖で激しく鼓動している。
(どうか、賢者様。ご機嫌を損ねないでください。この者たちは、ただ己の任務に忠実なだけなのです。その深遠なるお心で、どうか……)
彼女の隣では、リノが目を爛々と輝かせていた。彼女にとって、この状況は最高のエンターテイメントであり、最高の研究対象だった。
(面白い! 王という俗世の最高権力と、マスターという世界の理を超越した存在。この二つが衝突した時、一体何が起きるのか! 歴史の転換点に立ち会えるとは!)
それぞれの思惑が交錯する中、グレイグの口上がついに終わった。
「……以上である! 返答を聞こう、レイジ・ノマド殿!」
最後の言葉が、力強く響き渡る。
そして、静寂が訪れた。
風が木々の葉を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえる。家の中からは何の物音もしない。扉は固く閉ざされたままだ。
一分、二分と気まずい時間が流れていく。
近衛騎士たちの間に、わずかな動揺が走った。村人たちも、遠巻きに見ていた者たちが不安そうに顔を見合わせている。
グレイグの眉間に深い皺が刻まれた。王命を伝え、これほどの静寂で返された経験は、彼の長い騎士人生で一度もなかった。
「……聞こえなかったとでも言うのか」
グレイグは自尊心を傷つけられ、再び大声を張り上げようとした。その時、アリアが慌てて前に出た。
「お、お待ちください、団長! 賢者様は、おそらく今、深い瞑想に入っておられるのです! 我々の声は届いていても、俗世への返答にはしばしの時間が必要なのかと……」
それは苦し紛れの言い訳だった。だが、グレイグはそんなもので納得する男ではなかった。
「瞑想だと? 王命の前でか! ふざけるな!」
グレイグはアリアの制止を振り払った。そして、全身全霊の気を込めて再び叫んだ。
「返答せよ、レイジ・ノマド! 王命である! これ以上の沈黙は、王国への反逆と見なすぞ!」
その声は、もはや轟音だった。家の窓ガラスが、ビリビリと微かに震える。
その、瞬間だった。
家の中から、一つの声が響き渡った。
それは扉を通してくぐもってはいたが、その場にいる全員の耳に、はっきりと届いた。
『……面倒だ』
たった一言。
何の感情も込められていない、ただ心底うんざりしたような呟き。
時が、止まった。
グレイグは自分が何を聞いたのか、すぐには理解できなかった。彼の脳が、そのありえない言葉の意味を処理するのに数秒を要した。
王命に対して、「面倒だ」。
彼の顔が、みるみるうちに怒りで赤く染まっていく。血管が、こめかみに浮き上がった。
「……き、貴様……」
彼の体から、殺気と見紛うほどの凄まじい圧力が放たれた。
「今、何と言った……! 王命を、国王陛下の勅命を……『面倒』だと、言ったのか!」
グレイグの手がゆっくりと、しかし確実に、腰の剣の柄にかかる。彼の騎士としての誇り、王国への忠誠心、その全てが今、目の前で踏みにじられたのだ。
だが、その絶対的な侮辱の言葉を全く違う意味で受け取った者たちがいた。
アリアの脳内に、雷が落ちた。
(『面倒だ』……!)
そうだ。そうだったのだ。彼女は、この偉大なる存在の思考の、ほんの表層しか理解していなかった。
(この御方にとって、国王に会う、王都へ行く、という行為そのものが『面倒』なのではない。国家という枠組み、王という制度、謁見という儀礼……それら、人間が作り出した矮小なシステムに従うこと自体が、この世界の真理に触れた御方にとっては、あまりに些末で、退屈で、そして心底『面倒』なのだ!)
アリアは、身震いした。
(なんと、なんと傲岸で、そしてなんと純粋な在り方なのだろう! この御方は、神々や世界の理としか対話されない。人間の王など、その対話の相手にすら値しないと、そうおっしゃっているのだ!)
勘違いは、天元を突破した。
隣のリノもまた、恍惚とした表情で打ち震えていた。
「出た……! 出ましたよ、アリア様! マスターの、マスターの真骨頂! 『面倒だ』! あらゆる行動原理の頂点に立つ、究極の哲学! 己の信念を貫くためなら、王の権威すら一蹴する! なんという鋼の意志! なんという美学! 素晴らしい! 素晴らしすぎます!」
二人の異常な反応を、グレイグは訝しげに見た。だが、彼の怒りは収まらない。
「アリア様! お聞きになりましたか! これが、貴女様が庇っておられた男の本性です! これ以上、弁解の余地はありません! 王命への侮辱は、死罪に値します!」
グレイグがついに剣を抜き放とうとした、その時。
「お待ちください、団長!」
アリアが彼の前に立ちはだかった。その翡翠色の瞳は、真剣そのものだった。
「賢者様のお言葉を、文字通りに受け取ってはなりません! その言葉の裏には、我々には計り知れぬ、深い、深い意味が隠されているのです!」
「意味だと!? 『面倒だ』という言葉に、どんな意味があるというのですか!」
「あります!」
アリアは必死で、自らの脳内で再構築された壮大な解釈を、グレイグに説き始めた。
「この御方は、王を、我が父上を敬っていないのではありません! むしろ、その逆です! 王ですら動かすことのできぬ、より高次の理に基づいて行動されているのです! この御方が今、この地で成し遂げようとしている偉業は、王との謁見という些事よりも遥かに優先されるべき国家的、いや、世界的命題なのです!」
アリアの熱弁は支離滅裂に聞こえたかもしれない。だが、その瞳に宿る絶対的な確信の光が、グレイグをわずかに躊躇させた。
彼は、混乱していた。
王命を、反逆ともとれる一言で拒否した男。
その男を、王女自らが身を挺して庇っている。
隣のエルフは、感動のあまり打ち震えている。
この状況は、異常だ。
彼の長い騎士人生で培われた常識が、目の前の現実によってぐちゃぐちゃにかき乱されていた。
「……アリア様。いかに王女殿下といえど、王命に背く者を庇うことは……」
「私は、父上の御心を、そしてこの国の未来を誰よりも案じております。だからこそ、断言できるのです。今、この御方のご機嫌を損ねることこそが、最大の国益を損なう行為であると!」
アリアは一歩も引かなかった。
グレイグは、苦々しい表情で固く閉ざされた扉を睨みつけた。
中から聞こえてきたのはただ一言。だが、その一言は、王国最強の騎士団長を完全に手詰まりにさせていた。
やがて、彼は重々しく剣を鞘に納めた。
「……承知いたしました」
その声には、深い疲労と割り切れない困惑が滲んでいた。
「この件、ありのまま、陛下にご報告いたします。賢者レイジ・ノマドが、王命を『面倒』の一言で拒否したこと。そして、アリア様が彼を庇われたという事実も、全て」
それだけを言い残し、グレイグは踵を返した。近衛騎士たちも、戸惑いの表情を浮かべながら団長に続いていく。
王国最強の騎士団は、その任務を果たすことなく、一人の怠惰な男のたった一言の呟きの前に、完全な敗北を喫したのだった。
彼らが去っていくのを、アリアは安堵のため息と共に見送った。
リノは、「歴史的瞬間を目撃した」と、羊皮紙に今日の出来事を詳細に記録し始めた。
そして、家の中。
ようやく静寂を取り戻した空間で。
俺は、ベッドに倒れ込み、至福のため息をついた。
「……やれやれ。これで、ようやく静かになった」
外の世界で、自分の評価が「王ですら動かせぬ、超越した大物」として確立されつつあることなど、もちろん知る由もない。
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