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第四十六話 雨季の到来と新たな懸念
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国王の勅使が去ってから、俺の家には奇妙な平穏が訪れた。いや、静寂と言った方が正しいかもしれない。
あれ以来、村人たちが俺の家の前に現れることはなくなった。アリアが率いる騎士団が、家の周囲を完全に封鎖したからだ。供物は村長のバルガスが代表して、一日に一度決められた時間に静かに置いていくだけ。それ以外の人間は、俺の家の敷地に一歩たりとも近づけない。
その結果、俺の日常から外部の騒音はほぼ完全にシャットアウトされた。
朝は鳥のさえずりで目覚め、ベッドの上で最高の食事をとる。昼はリノの奇妙な質問に適当に答え、あとはひたすら惰眠を貪る。夜は完璧な湯加減の風呂に浸かり、羽毛布団の温もりに包まれて眠りに落ちる。
完璧だ。
ついに俺は完成された怠惰を手に入れたのだ。俺の小さな世界は、俺の望む通りに静かで、満ち足りていた。
その完璧な日常に、最初の変化の兆しが現れたのは、それから数週間が過ぎた頃だった。
空模様が変わった。
今まで突き抜けるように青かった空に、いつからか薄灰色の雲が広がり始めた。風は湿り気を帯び、土や草いきれの匂いを運んでくる。雨の匂いだ。
引きこもりの俺にとって、天気など本来どうでもいい。雨が降ろうが槍が降ろうが、俺はベッドから動かないのだから。
その日も俺は昼食のシチューを味わっていた。リノはテーブルの向かいで、スプーンがひとりでに俺の口までスープを運ぶ様を、飽きることなくスケッチしている。
「……そろそろ、雨季ですね」
リノが窓の外を見ながら、何気なく呟いた。
「この湿った風は、南の海から大量の雨雲を運んでくる兆しです。ここから一月ほどは、毎日雨が続くでしょう」
雨季。その単語が、俺の意識の片隅に小さな棘のように引っかかった。
別に、どうということはない。雨が降れば外は薄暗くなり、雨音が心地よいBGMとなって、さらに睡眠が捗るかもしれない。良いことずくめじゃないか。
俺はそう結論づけ、再びシチューに集中しようとした。
だが、脳裏に前世の記憶が不意に蘇った。
テレビのニュースで見た、濁流。屋根の上で助けを求める人々。泥水に飲み込まれていく家々。
『記録的な豪雨により、〇〇川が氾濫。広範囲で洪水被害が発生しています』
洪水。
その四文字が、俺の背筋をぞっとさせた。
俺は、脳内に構築された完璧な三次元地図を呼び出した。俺の家、そしてこの村の周辺の地形データだ。
そこには、くっきりと一本の川が描かれている。村の西側を流れ、蛇行しながら南へと下っていく、そこそこ大きな川だ。そして俺の家の立地は、その川からそれほど離れていない。標高も、周囲に比べてわずかに低い。
典型的な、洪水のリスクがある土地。
「……おい、エルフ」
俺は無意識のうちに声をかけていた。リノが、スケッチから顔を上げる。
「はい、マスター。何でしょう」
「この辺の川は、よく氾濫するのか」
俺の唐突な質問にリノは少し驚いたようだったが、すぐに彼女の脳内データベースが検索を開始したようだった。
「ええ。王宮の古文書によりますと、この『シオン川』は数年に一度の周期で大規模な洪水を引き起こしてきたと記録されています。特に雨季に雨が集中すると、上流の森林地帯から大量の水が流れ込み、この辺り一帯が水浸しになることがあるようです」
彼女は何かを思い出したように付け加えた。
「そういえば、今年の雨量は例年よりもかなり多くなるという予測が、宮廷の気象魔術師から出されていましたね。下流の農地は大きな被害を覚悟しなければならないかもしれません」
その言葉は、俺の中で鳴り響いていた警報のボリュームを最大まで引き上げた。
最悪の事態を、シミュレーションする。
大規模な洪水が発生した場合、この家はどうなる?
川から溢れた濁流が、この土地に押し寄せる。家の壁は、その水圧に耐えられるか? 無理だろう。木造の古い家だ。あっという間に押し流される。
そうなれば、俺の完璧な怠惰ライフは文字通り水に流される。
この極上のベッドも。
厨房の全自動調理システムも。
風呂の全自動給湯システムも。
地下の食料貯蔵庫も。
そして、家の周囲に張り巡らせた俺の怠惰を守るための全てのシステムが、泥水の中に消える。
そして、俺自身は?
ベッドごと濁流に飲み込まれ、どこかの木に引っかかって惨めに死ぬのが関の山だ。
それは、駄目だ。
絶対に、それだけは、駄目だ。
過労死はもうごめんだが、溺死だって同じくらいごめんだ。俺は、この完璧なベッドの上で老衰で安らかに死ぬと決めているのだ。
俺の中で、新たな、そして極めて強力なモチベーションが燃え上がった。
『俺の家と、俺の怠惰な生活を、絶対に洪水から守り抜く』
それは、国を守るだとか、民を救うだとか、そんな高尚なものではない。ただ自分の快適な引きこもり空間を、自然災害という名の理不尽から守りたい。その、究極に自己中心的な、しかし何よりも強い意志だった。
「……そうか」
俺が静かに呟いた。
その声の響きがいつもと違うことに、リノは即座に気づいた。
彼女は恐る恐る俺の顔を見た。
俺の瞳から、いつもの眠たげな気配は消え失せていた。そこにあるのは、巨大で複雑な問題を前にした、冷徹な『設計者』の光。
「マスター……? また、何か……」
リノが問いかけるより早く俺の体から魔力が溢れ出し始めた。それは、今までのどんな時とも質の違う巨大な奔流だった。道を創った時のような構築の魔力でもなく、ゴーレムを創った時のような創造の魔力でもない。
それは、自然という巨大なシステムを解析し、予測し、そして制御しようとする、神の領域に踏み込むかのような緻密で、そして傲岸な魔力だった。
家の外で警備にあたっていたアリアも、その異変に気づいた。
「……この、魔力は……」
彼女は空を見上げた。どんよりとした灰色の雲が、まるで俺の魔力に呼応するかのように渦を巻き始めている。
「賢者様が、動かれる。天候を、自然そのものを相手にされるというのか……!」
彼女は、これから起きるであろう奇跡のスケールを想像し、身震いした。
俺はベッドの上で目を閉じた。
脳内に、新たなプロジェクトの設計図を広げる。
その名は、【全自動治水・防災プロジェクト】。
俺の家の半径数キロメートル以内を絶対に浸水させない。そのための完璧なシステムを、今から創り出す。
雨季の到来は、俺の怠惰な生活に新たな試練と、そして新たな進化をもたらそうとしていた。
あれ以来、村人たちが俺の家の前に現れることはなくなった。アリアが率いる騎士団が、家の周囲を完全に封鎖したからだ。供物は村長のバルガスが代表して、一日に一度決められた時間に静かに置いていくだけ。それ以外の人間は、俺の家の敷地に一歩たりとも近づけない。
その結果、俺の日常から外部の騒音はほぼ完全にシャットアウトされた。
朝は鳥のさえずりで目覚め、ベッドの上で最高の食事をとる。昼はリノの奇妙な質問に適当に答え、あとはひたすら惰眠を貪る。夜は完璧な湯加減の風呂に浸かり、羽毛布団の温もりに包まれて眠りに落ちる。
完璧だ。
ついに俺は完成された怠惰を手に入れたのだ。俺の小さな世界は、俺の望む通りに静かで、満ち足りていた。
その完璧な日常に、最初の変化の兆しが現れたのは、それから数週間が過ぎた頃だった。
空模様が変わった。
今まで突き抜けるように青かった空に、いつからか薄灰色の雲が広がり始めた。風は湿り気を帯び、土や草いきれの匂いを運んでくる。雨の匂いだ。
引きこもりの俺にとって、天気など本来どうでもいい。雨が降ろうが槍が降ろうが、俺はベッドから動かないのだから。
その日も俺は昼食のシチューを味わっていた。リノはテーブルの向かいで、スプーンがひとりでに俺の口までスープを運ぶ様を、飽きることなくスケッチしている。
「……そろそろ、雨季ですね」
リノが窓の外を見ながら、何気なく呟いた。
「この湿った風は、南の海から大量の雨雲を運んでくる兆しです。ここから一月ほどは、毎日雨が続くでしょう」
雨季。その単語が、俺の意識の片隅に小さな棘のように引っかかった。
別に、どうということはない。雨が降れば外は薄暗くなり、雨音が心地よいBGMとなって、さらに睡眠が捗るかもしれない。良いことずくめじゃないか。
俺はそう結論づけ、再びシチューに集中しようとした。
だが、脳裏に前世の記憶が不意に蘇った。
テレビのニュースで見た、濁流。屋根の上で助けを求める人々。泥水に飲み込まれていく家々。
『記録的な豪雨により、〇〇川が氾濫。広範囲で洪水被害が発生しています』
洪水。
その四文字が、俺の背筋をぞっとさせた。
俺は、脳内に構築された完璧な三次元地図を呼び出した。俺の家、そしてこの村の周辺の地形データだ。
そこには、くっきりと一本の川が描かれている。村の西側を流れ、蛇行しながら南へと下っていく、そこそこ大きな川だ。そして俺の家の立地は、その川からそれほど離れていない。標高も、周囲に比べてわずかに低い。
典型的な、洪水のリスクがある土地。
「……おい、エルフ」
俺は無意識のうちに声をかけていた。リノが、スケッチから顔を上げる。
「はい、マスター。何でしょう」
「この辺の川は、よく氾濫するのか」
俺の唐突な質問にリノは少し驚いたようだったが、すぐに彼女の脳内データベースが検索を開始したようだった。
「ええ。王宮の古文書によりますと、この『シオン川』は数年に一度の周期で大規模な洪水を引き起こしてきたと記録されています。特に雨季に雨が集中すると、上流の森林地帯から大量の水が流れ込み、この辺り一帯が水浸しになることがあるようです」
彼女は何かを思い出したように付け加えた。
「そういえば、今年の雨量は例年よりもかなり多くなるという予測が、宮廷の気象魔術師から出されていましたね。下流の農地は大きな被害を覚悟しなければならないかもしれません」
その言葉は、俺の中で鳴り響いていた警報のボリュームを最大まで引き上げた。
最悪の事態を、シミュレーションする。
大規模な洪水が発生した場合、この家はどうなる?
川から溢れた濁流が、この土地に押し寄せる。家の壁は、その水圧に耐えられるか? 無理だろう。木造の古い家だ。あっという間に押し流される。
そうなれば、俺の完璧な怠惰ライフは文字通り水に流される。
この極上のベッドも。
厨房の全自動調理システムも。
風呂の全自動給湯システムも。
地下の食料貯蔵庫も。
そして、家の周囲に張り巡らせた俺の怠惰を守るための全てのシステムが、泥水の中に消える。
そして、俺自身は?
ベッドごと濁流に飲み込まれ、どこかの木に引っかかって惨めに死ぬのが関の山だ。
それは、駄目だ。
絶対に、それだけは、駄目だ。
過労死はもうごめんだが、溺死だって同じくらいごめんだ。俺は、この完璧なベッドの上で老衰で安らかに死ぬと決めているのだ。
俺の中で、新たな、そして極めて強力なモチベーションが燃え上がった。
『俺の家と、俺の怠惰な生活を、絶対に洪水から守り抜く』
それは、国を守るだとか、民を救うだとか、そんな高尚なものではない。ただ自分の快適な引きこもり空間を、自然災害という名の理不尽から守りたい。その、究極に自己中心的な、しかし何よりも強い意志だった。
「……そうか」
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彼女は恐る恐る俺の顔を見た。
俺の瞳から、いつもの眠たげな気配は消え失せていた。そこにあるのは、巨大で複雑な問題を前にした、冷徹な『設計者』の光。
「マスター……? また、何か……」
リノが問いかけるより早く俺の体から魔力が溢れ出し始めた。それは、今までのどんな時とも質の違う巨大な奔流だった。道を創った時のような構築の魔力でもなく、ゴーレムを創った時のような創造の魔力でもない。
それは、自然という巨大なシステムを解析し、予測し、そして制御しようとする、神の領域に踏み込むかのような緻密で、そして傲岸な魔力だった。
家の外で警備にあたっていたアリアも、その異変に気づいた。
「……この、魔力は……」
彼女は空を見上げた。どんよりとした灰色の雲が、まるで俺の魔力に呼応するかのように渦を巻き始めている。
「賢者様が、動かれる。天候を、自然そのものを相手にされるというのか……!」
彼女は、これから起きるであろう奇跡のスケールを想像し、身震いした。
俺はベッドの上で目を閉じた。
脳内に、新たなプロジェクトの設計図を広げる。
その名は、【全自動治水・防災プロジェクト】。
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