「働きたくない…」と本気で祈ったら怠惰の神が降臨。【フルオート】で身の回りを快適にしていたら、インフラを整備した救国の英雄になっていた

夏見ナイ

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第六十一話 平穏という名の水面下

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完璧な安寧を手に入れた俺の日常は、一種の様式美に達していた。

朝、目覚めるとリノが寝室の前に待機している。
「おはようございます、マスター! 本日の『一日一問』です! あなたが創り出した『賢者の恵み』シリーズですが、その味の経年変化を観測したところ熟成によって風味が向上しています! これは製品内部に自己進化型の微細な魔法術式が組み込まれているということですか!?」
「……ただの発酵だ」
俺がパンをかじりながら答えると、彼女は「発酵! 自然の摂理すらも計算された設計! なんという深遠さ!」と悶絶する。これが俺たちの朝の挨拶だった。

昼間はひたすら眠る。時折、窓の外でアリアが率いる『聖騎士団』が号令と共に剣を振るう音が聞こえてくる。俺の安眠を守るための警備訓練らしいが、その訓練の声自体が若干うるさいという本末転倒な事態に、俺はもうツッコむ気力もなかった。

食事はもはや天上の領域に達していた。最高の食材、最高の調味料、そしてリノが時折披露する王都仕込みの調理法。だが、人間とはどこまでも強欲な生き物らしい。最近の俺の悩みは、「食生活が完璧すぎて刺激が足りない」ことだった。

(……そろそろ冷たいデザートが食べたいな。アイスクリームとか作れないだろうか)

俺がそんな極めて個人的で平和な悩みを抱えていた、ある日の午後。

アリアがいつものように俺の家の前にやってきた。彼女はもはや俺に直接話しかけることはない。俺の『静かな思索』を妨害してはならないと固く心に決めているからだ。彼女はラボから顔を出したリノに、静かな声で尋ねた。

「リノ。国父様のご様子は、いかがだろうか」

その声は神殿の巫女が神託を伺うかのように、敬虔な響きを帯びていた。

リノはアリアの問いに、したり顔で頷いてみせた。彼女は俺の怠惰な日常を独自の壮大な解釈でアリアに語って聞かせるのが最近の楽しみになっていた。

「ご安心ください、アリア様。マスターは今、極めて安定した精神状態におられます。おそらくは次なる『世界の理(ことわり)』を再構築するための静かな瞑想期間に入っておられるのでしょう。最近は特に『熱力学第二法則』の魔法的応用について深く思索を巡らされているご様子です」

(ただアイスクリームの作り方を考えていただけなんだが……)

ベッドの中でその会話を聞いていた俺は、もはや訂正するのも面倒だった。熱力学。まあ熱を奪うのだから、あながち間違いではないのかもしれない。

アリアはリノの言葉に深く、そして感動したように頷いた。
「そうか……。熱力学……。我々が天災に怯えている間に、あの方は既にその先にある宇宙の法則にまで思考を及ばせておられるのか。なんという、なんというお方だ」

彼女の瞳には絶対的な信仰の光がますます強く輝いていた。

その時だった。
一人の騎士が慌ただしい足取りでアリアの元へ駆け寄ってきた。その手には王家の紋章が入った封蝋付きの書簡が握られている。

「アリア様! 王都より、陛下からの緊急伝令です!」

アリアは表情を引き締め、その書簡を受け取った。封を切り、中に書かれた内容に目を通す。
次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。

「……なんと」

アリアの声はかすかに震えていた。
リノが心配そうに彼女の顔を覗き込む。

「アリア様? 何かあったのですか」

「……ガルニア帝国が、動いた」

アリアは絞り出すように言った。

「国境付近で大規模な軍事演習を開始した、と。その規模は過去最大。我が国へのあからさまな示威行為だ。父上はこれを事実上の『開戦準備』と見ておられる」

その言葉にその場の空気が凍りついた。
ガルニア帝国。大陸最強の軍事国家。その名を知らぬ者はいない。その帝国が、このアルテア王国に牙を剥こうとしている。

騎士たちの顔に緊張が走る。

だがアリアはすぐに落ち着きを取り戻した。彼女はまるで心の拠り所を確かめるかのように、俺の家を、その古びた扉をじっと見つめた。

そして静かに、しかし力強く言った。

「……だが、恐れることはない」

彼女の声には揺るぎない確信が宿っていた。

「この地には国父様がおられる。帝国がどれほどの軍勢を差し向けようと、あの方の御前では塵芥に等しい。この事態すらもきっと、あの方の深遠なるお考えの内なのだ」

彼女は自分に、そして部下たちに言い聞かせるようにそう断言した。

俺は窓の隙間から、アリアたちが深刻な顔で話し込んでいるのをぼんやりと眺めていた。

(……なんか、また面倒そうな話をしてるな。戦争? 知るか、そんなもん。俺の安眠さえ邪魔しなければ国がどうなろうと関係ない)

俺の関心はただ一つ。

(アイスクリームを作るにはまず牛乳を冷やしながら攪拌する必要があるな。そのための全自動攪拌冷却機を設計するか。フレーバーはやっぱりイチゴがいいな。畑のイチゴ、そろそろ食べ頃だったか……)

俺の頭の中はこれから始まるであろう国家の危機などではなく、甘くて冷たい至福のデザートのことでいっぱいだった。

三者三様の日常が続く。
国の危機を憂いながらも絶対的な信仰に支えられ冷静さを保つ王女。
世界の危機すらも最高の研究テーマとして観察し、記録し続ける天才。
そしてその全ての中心で、ただひたすらに自らの快適さだけを追求する怠惰な男。

彼らの足元で静かに、そして確実に戦争という名の巨大な地殻変動が始まろうとしていた。
そのことに本当に気づいている者はまだ誰もいなかった。
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