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第六十八話 撤退という名の瓦解
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総司令官ドルガンは逃げた。
百戦錬磨の猛将は生まれて初めて、戦うことすらなく、ただ恐怖に駆られて背を向けた。彼の頭の中では、あの無機質な赤い複眼と『タチサレ』という感情のない声が、悪夢のように反響し続けていた。
彼が後方の本隊にたどり着いた時、その姿は見る影もなかった。兜はどこかへ失せ、鎧は泥にまみれ、その顔は恐怖に引きつっていた。
「将軍閣下! ご無事でしたか! 先鋒部隊は、一体……」
副官が駆け寄るが、ドルガンは虚ろな目で彼を見つめるだけだった。
「……虫だ」
「は?」
「蝿の、大群が……。我々は神の巣を、突いてしまったのかもしれん……」
彼の支離滅裂な言葉に、本隊の将校たちは顔を見合わせた。猛将ドルガンがこれほど取り乱すとは。前線で一体何が起きたのか。
彼らの疑問に答えるかのように、地平線の向こうから兵士たちが現れた。いや、それはもはや兵士と呼べる代物ではなかった。
武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、誰もが虚ろな表情で、夢遊病者のようにふらふらと歩いてくる。その数は数千。壊滅したはずの先鋒部隊だった。
「おい! 貴様ら、何があった! 隊列を組め!」
将校の一人が怒鳴るが、兵士たちは何の反応も示さない。ただ、ぶつぶつと何かをうわ言のように繰り返している。
「……虫が」
「……壁が」
「……声が、聞こえる」
彼らの精神は完全に破壊されていた。戦闘能力はゼロ。もはやただの農夫にも劣る、抜け殻の集団だった。
ドルガンは、その光景を見て全てを悟った。
「……駄目だ」
彼の口から乾いた声が漏れた。
「我々は戦ってはいけないものと、戦おうとしている。これは戦争ではない。ただの自殺だ」
彼は副官に、震える声で命じた。
「……全軍、撤退だ。今すぐ、この呪われた土地から離れるのだ」
「て、撤退、でございますか!? 閣下、ご冗談を! 我らはまだ一戦も交えておりませぬぞ!」
副官は信じられないという顔で反論した。十万の軍勢が敵の姿も見ずに撤退する。そんな前代未聞の屈辱が、許されるはずがない。
「やかましい!」
ドルガンは生まれて初めて、部下を前にして恐怖に満ちた怒声を張り上げた。
「これは命令だ! 逆らう者はこの場で斬り捨てる! 我々は帰るのだ! 帝国へ!」
彼のただならぬ気配に、他の将校たちももはや何も言えなかった。
ガルニア帝国軍、史上最大規模の遠征軍は、その進軍を開始してからわずか半日にして、全面撤退という歴史的な大失態を演じることになった。
だが撤退は、彼らが思うほど簡単なものではなかった。
兵士たちの間に「東の地には、神の怒りがある」「そこへ行けば、呪われる」という噂が、燎原の火のごとく広まっていった。精神を病んだ先鋒部隊の兵士たちの姿が、その噂に恐ろしいほどの信憑性を与えていた。
士気は地に落ちた。
軍の統制はもはやあってなきがごとし。
誰もが一刻も早く、この不気味な土地から離れたい一心だった。
撤退は、やがて瓦解へと変わった。
我先にと逃げ出す兵士たち。命令を無視して略奪に走る部隊。兵士同士の、些細なことから始まる殺し合い。
十万の軍勢は、もはや軍隊ではなかった。ただの巨大なパニックの渦だった。
彼らは気づいていなかった。
自分たちのその醜態が、全て空から見られているということに。
俺はベッドの上で、脳内に映し出されるライブ映像をうんざりした顔で眺めていた。
(……なんだ、あいつら。帰るならさっさと帰ればいいものを。仲間割れやら、略奪やら、見ていて気分が悪い)
俺の安眠は、とりあえず守られた。だが俺が創り上げた美しい『賢者の道』の上で、野蛮な連中が騒いでいるのはどうにも我慢がならなかった。
自分の作った庭が、荒らされているような不快感。
(……掃除が必要だな)
俺は面倒くさそうに、思考した。
地下のプラントで静かに待機していた一万体の【量産型戦闘ゴーレム・イレイザー】に、新たな命令を下す。
『これより、害虫駆除を開始する。ただし、殺傷は不要。目的は、帝国軍の、速やかなる『整列退去』である』
その夜。
混乱の極みにあった帝国軍の野営地に、漆黒の悪夢が舞い降りた。
音もなく、気配もなく。
闇の中から現れた、無数の黒豹のような影。
彼らは帝国兵を殺さなかった。
ただ、その両腕の超振動ブレードで、彼らが持つ武器を、鎧を、そして最後まで捨てきれずにいた兵士としてのプライドを、紙のように切り裂いていった。
「ひっ!」
「な、なんだ、こいつらは!」
抵抗しようとした兵士は、背中の魔力キャノンから放たれる非殺傷の衝撃弾で、気絶させられるだけ。
夜が明ける頃には、帝国軍の兵士たちは誰もが丸裸にされ、無力化されていた。
そして彼らの前に、一体の黒いゴーレムが静かに立ち塞がった。
その赤い単眼が不気味に光る。
そして全ての兵士の頭の中に直接、声が響いた。
『整列。シテ。速ヤカニ。退去。セヨ』
それは拒否することなど、到底考えられない絶対的な命令だった。
数時間後。
アルテア王国の国境守備隊は、信じられない光景を目撃することになる。
国境の向こうから、ガルニア帝国軍が、一糸乱れぬ隊列を組んで行進してくるのを。
誰もが武器も鎧も持たず、まるで敗残兵のようだった。
しかしその動きは、恐ろしいほどに統制が取れていた。
彼らは誰一人としてアルテア王国の方を振り返ることなく、ただ黙々と自らの帝国へと帰っていった。
帝国軍十万。
アルテア王国の地を踏んでから、わずか一日。
一人の死者を出すこともなく、しかし兵士としての魂を完全に抜かれた抜け殻となって、その姿を消した。
それは歴史上、最も静かで、最も不可解で、そして最も完璧な『勝利』だった。
その頃、俺は。
ようやく静かになった街道の映像を確認し、満足げに頷いていた。
(よし。これでまた静かになったな。掃除も終わったことだし、二度寝でもするか)
俺がたった一人で、大陸の軍事バランスを根底から覆してしまったことなど、もちろん知る由もなかった。
百戦錬磨の猛将は生まれて初めて、戦うことすらなく、ただ恐怖に駆られて背を向けた。彼の頭の中では、あの無機質な赤い複眼と『タチサレ』という感情のない声が、悪夢のように反響し続けていた。
彼が後方の本隊にたどり着いた時、その姿は見る影もなかった。兜はどこかへ失せ、鎧は泥にまみれ、その顔は恐怖に引きつっていた。
「将軍閣下! ご無事でしたか! 先鋒部隊は、一体……」
副官が駆け寄るが、ドルガンは虚ろな目で彼を見つめるだけだった。
「……虫だ」
「は?」
「蝿の、大群が……。我々は神の巣を、突いてしまったのかもしれん……」
彼の支離滅裂な言葉に、本隊の将校たちは顔を見合わせた。猛将ドルガンがこれほど取り乱すとは。前線で一体何が起きたのか。
彼らの疑問に答えるかのように、地平線の向こうから兵士たちが現れた。いや、それはもはや兵士と呼べる代物ではなかった。
武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、誰もが虚ろな表情で、夢遊病者のようにふらふらと歩いてくる。その数は数千。壊滅したはずの先鋒部隊だった。
「おい! 貴様ら、何があった! 隊列を組め!」
将校の一人が怒鳴るが、兵士たちは何の反応も示さない。ただ、ぶつぶつと何かをうわ言のように繰り返している。
「……虫が」
「……壁が」
「……声が、聞こえる」
彼らの精神は完全に破壊されていた。戦闘能力はゼロ。もはやただの農夫にも劣る、抜け殻の集団だった。
ドルガンは、その光景を見て全てを悟った。
「……駄目だ」
彼の口から乾いた声が漏れた。
「我々は戦ってはいけないものと、戦おうとしている。これは戦争ではない。ただの自殺だ」
彼は副官に、震える声で命じた。
「……全軍、撤退だ。今すぐ、この呪われた土地から離れるのだ」
「て、撤退、でございますか!? 閣下、ご冗談を! 我らはまだ一戦も交えておりませぬぞ!」
副官は信じられないという顔で反論した。十万の軍勢が敵の姿も見ずに撤退する。そんな前代未聞の屈辱が、許されるはずがない。
「やかましい!」
ドルガンは生まれて初めて、部下を前にして恐怖に満ちた怒声を張り上げた。
「これは命令だ! 逆らう者はこの場で斬り捨てる! 我々は帰るのだ! 帝国へ!」
彼のただならぬ気配に、他の将校たちももはや何も言えなかった。
ガルニア帝国軍、史上最大規模の遠征軍は、その進軍を開始してからわずか半日にして、全面撤退という歴史的な大失態を演じることになった。
だが撤退は、彼らが思うほど簡単なものではなかった。
兵士たちの間に「東の地には、神の怒りがある」「そこへ行けば、呪われる」という噂が、燎原の火のごとく広まっていった。精神を病んだ先鋒部隊の兵士たちの姿が、その噂に恐ろしいほどの信憑性を与えていた。
士気は地に落ちた。
軍の統制はもはやあってなきがごとし。
誰もが一刻も早く、この不気味な土地から離れたい一心だった。
撤退は、やがて瓦解へと変わった。
我先にと逃げ出す兵士たち。命令を無視して略奪に走る部隊。兵士同士の、些細なことから始まる殺し合い。
十万の軍勢は、もはや軍隊ではなかった。ただの巨大なパニックの渦だった。
彼らは気づいていなかった。
自分たちのその醜態が、全て空から見られているということに。
俺はベッドの上で、脳内に映し出されるライブ映像をうんざりした顔で眺めていた。
(……なんだ、あいつら。帰るならさっさと帰ればいいものを。仲間割れやら、略奪やら、見ていて気分が悪い)
俺の安眠は、とりあえず守られた。だが俺が創り上げた美しい『賢者の道』の上で、野蛮な連中が騒いでいるのはどうにも我慢がならなかった。
自分の作った庭が、荒らされているような不快感。
(……掃除が必要だな)
俺は面倒くさそうに、思考した。
地下のプラントで静かに待機していた一万体の【量産型戦闘ゴーレム・イレイザー】に、新たな命令を下す。
『これより、害虫駆除を開始する。ただし、殺傷は不要。目的は、帝国軍の、速やかなる『整列退去』である』
その夜。
混乱の極みにあった帝国軍の野営地に、漆黒の悪夢が舞い降りた。
音もなく、気配もなく。
闇の中から現れた、無数の黒豹のような影。
彼らは帝国兵を殺さなかった。
ただ、その両腕の超振動ブレードで、彼らが持つ武器を、鎧を、そして最後まで捨てきれずにいた兵士としてのプライドを、紙のように切り裂いていった。
「ひっ!」
「な、なんだ、こいつらは!」
抵抗しようとした兵士は、背中の魔力キャノンから放たれる非殺傷の衝撃弾で、気絶させられるだけ。
夜が明ける頃には、帝国軍の兵士たちは誰もが丸裸にされ、無力化されていた。
そして彼らの前に、一体の黒いゴーレムが静かに立ち塞がった。
その赤い単眼が不気味に光る。
そして全ての兵士の頭の中に直接、声が響いた。
『整列。シテ。速ヤカニ。退去。セヨ』
それは拒否することなど、到底考えられない絶対的な命令だった。
数時間後。
アルテア王国の国境守備隊は、信じられない光景を目撃することになる。
国境の向こうから、ガルニア帝国軍が、一糸乱れぬ隊列を組んで行進してくるのを。
誰もが武器も鎧も持たず、まるで敗残兵のようだった。
しかしその動きは、恐ろしいほどに統制が取れていた。
彼らは誰一人としてアルテア王国の方を振り返ることなく、ただ黙々と自らの帝国へと帰っていった。
帝国軍十万。
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一人の死者を出すこともなく、しかし兵士としての魂を完全に抜かれた抜け殻となって、その姿を消した。
それは歴史上、最も静かで、最も不可解で、そして最も完璧な『勝利』だった。
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ようやく静かになった街道の映像を確認し、満足げに頷いていた。
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